タックス・イロージョンについて
 
1.はじめに:
 租税は「政府の課税権の行使による強制獲得」と定義することができる。このため、税制は課税上の原則を必要とする。その最も重要な原則が、「公平と効率性」(equity and efficiency)である。課税は政府により強制的に行われるものであるので、その負担は公平に分配されなければならない。その公平の中にも2つの概念がある。一つは等しい状況にある人々は課税上等しく取り扱われべきであるという、水平的公平である。もう一つは、異なる状況にある人々は異なった取り扱いを受けるべきであるという、垂直的公平である。所得税はほかの租税に比べ課税ベースが広く、所得構成が異なっても同額の所得者は同じ税率を用いられることになり水平的公平を維持でき、また累進税率を用いることにより、垂直的公平も維持できる。これらの点で、所得税は逆進的な構造を持っているとされる消費税や、転嫁・帰着が曖昧とされる法人税といったほかの税目よりも比較的公平な税制であるといえる。
 課税の「効率性」の原則もまた重視されるべきである。市場における資源配分がパレート最適であるとき、課税することによってその資源配分が歪められ厚生の損失といった形で実質所得の減少をもたらす超過負担を招くことが多い。市場機能によって経済の効率性が確保されるなら、課税は私的経済活動にできるだけ中立的なほうがよい。したがって、課税の「効率性」は「中立性」におきかえることができる。中立的な課税は一般的に課税ベースの広い租税ほど実現しやすい。この点所得税は他の租税に比べ課税ベースが広いので、一般に中立的であると考えられる。
 現行の所得税は包括的所得税をもとにして作られている。その包括的所得税というのは、課税所得を「一定期間における消費額と、富の純増加(減少)分の和」と定義し、未実現キャピタルゲインや現物所得、帰属所得をも課税所得に含める。これによって課税ベースの広い、累進税率を適用する税体系を実現している。
 しかし、支出税論や、最適課税論の主張では、包括的所得税に対する批判もある。
 支出税は、「公平性」に関して経済力を表す指標としては、短期間ではなく長期的にはかった方が本来の経済力を的確に反映するという立場から、所得ではなく消費支出を課税ベースにとる方が水平的公平を実現できる、と主張している。
 また、最適課税論は所得構成の異質性を重視することで、所得税とは違った見解を主張する。所得に対する課税は、課税後の収益率を低下させ労働供給や貯蓄意欲に何らかの悪影響を与える。しかし、その悪影響も所得の種類によって異なるため所得の種類により異なる課税方式を採用するのが望ましいと主張している。
 
2.現行所得税と包括的所得税の課税ベース
 個人所得税が上記のような課税の「公平と効率性」の側面において持つ長所を有効に発揮するためには、課税上の所得概念を決めるにあったて、所得の大きさを適切に示すことが重要である。課税上の所得概念を理論的に規定したもっとも代表的な見解は、ヘイグ及びサイモンズによるものである。前述のように、この考え方は「包括的所得税」(Comprehensive Income Tax;CIT)と呼ばれ、課税所得は「一定期間における消費額と富の純増加(減少)分の和」として定義される。この考え方は、税法上では課税の対象とならない未実現キャピタル・ゲインや、現物所得、帰属所得をも課税所得に含め、可能な限り広い範囲で課税所得を規定しようというものである。
 包括的所得の概念と税法上の所得概念の違いは、前者は発生主義の立場から所得を捉えようとするのに対し、後者は原則として実現主義の立場から所得を規定しようとする。
 現行の日本の所得税制は、さまざまな控除制度を用いて、納税者の個々の事情に応じて担税力を調整し、累進課税により税収を決定している。そのため課税ベースが包括的所得に比べて狭くなり、税率が高くなっている。同額の税収を課税ベースを広くし税率を低くすることで得ることができるのなら、税率が低いほうがよい。なぜなら課税ベースが狭くなると、課税上の不公平を生じさせやすく、また税率を高くすると労働意欲・納税意欲を阻害するといったような超過負担を課すことになるからである。現行の所得税制はありうべき課税ベースから、かなりの部分の所得を脱落させ、徴収されるべき税収を実際に徴収していない。その徴収されない税収は不公平を生み出してるのではなかろうか?徴収されない税収(税収のイロージョン)を計測することによって、現行の所得税制の問題点をとらえ、今後のあり方を考える。
 
3.分析の手法
 石(1979)の分析方法を踏襲し、階層別所得税負担を計測する。具体的には、税務統計(石(1979)の手法では、『国税庁統計年報書』『民間給与の実態』『申告所得税の実態』『申告税標本調査』が用いられている。)の最近のデータを使って情報を得るのであるが、この資料の中で得られるデータは限られており、多くの推計が必要となる。        
 まず、理論的に拡大しうる課税ベースの推計手順は、所得控除前の課税所得@を出発点とし、税法で定められた各種の所得控除の額を差し引きA、現実の課税ベースBを得る。
一方で、包括的課税ベースDは、所得控除前の課税所得@に除外項目(利子配当所得の非課税分・譲渡所得の優遇措置・各種の特別控除など)Cを加えることにより求められる。
 こうして得られた包括的課税ベースDから現実の課税ベースBを差し引くことにより、課税ベースからのイロージョンを求めることが出来る。
 次に現行の所得税制を所与として税収のイロージョンの程度を測定する。これを言い換えると、徴収可能な最大限の水準から実際にどの程度の税収が種々の制度的要因(例えば分離課税など)によって徴収されていないかということである。これを所得階層別にみると、現行税制の公平の程度を検討する尺度として利用できる。
 実際の測定は、
(1) 現実の所得税収入を、所得階層別に配分する。
(2) 徴税上のいくつかの優遇措置および税額控除による脱落分を計算する。
 具体的には分離課税に関する部分と、税額控除に関する部分がある。
分離課税の例としては、利子・配当・退職・分離譲渡所得の四つがある。この四種類の所得から、分離課税によって脱落した税収を推計する。推計方法は次の2つの税収の差として求める。
(ア)現行の税制による税収
(イ)この四つの課税所得に法定累進課税率が適用されたと仮定した場合の総合課税方式の税収。
 税額控除の例としては、配当、特定設備の廃棄・試験研究費、住宅取得等の各控除である。これらのデータは税務統計から得ることができる。
(3) 先の課税ベースからのイロージョンに対応する税収を算定する。
分離課税のケースで用いた所得税の平均実効税率を、所得控除、除外項目の課税ベースに適用してそれに対応する税収を算定する。
 
 以上のように掲げた課税ベースのイロージョン、税収のイロージョンの大きさを推計し、そのデータの分析をすることで現行の所得税制の現状を認識する。
 
 
参考文献
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藤田 晴 (1987)『税制改革―その軌跡と展望』税務経理協会
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石 弘光 (1984)『財政理論』有斐閣
石 弘光(1986)『現代財政学研究』春秋社
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貝塚啓明「所得税制のタックス・ベース」林健久・貝塚啓明編(1973)『日本の財政』東京大学出版社
貝塚啓明他編(1990)『税制改革の潮流』有斐閣
小林威「包括的所得課税標準の検討」『経営と経済』(長崎大学)第53巻4号
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