-cinema diary-

3月の映画日記


2月はお休みで申し訳なかったッス。

2001.3.8 リアルワールドへようこそ

アヴァロン

監督:押井守
脚本:伊藤和典
出演:マウゴジャータ・フォレムニャック、イエジ・グデイコ、ダリュシュ・ビスクプスキ、他

鑑賞日:2001.1.26


※ネタバレを含みます。注意!※


 近未来。若者達は「アヴァロン」と呼ばれる、非合法の仮想現実ゲームに没頭していた。そして中には、ディープに関わり過ぎて還ってこれない者も……。
 主人公アッシュはこの「アヴァロン」のスゴ腕スタープレイヤー。そんな彼女はある日、「アヴァロン」に隠されている謎のスペシャルステージの存在を知る。挑戦したものは、誰も帰って来ないと言われる謎の隠しステージ……アッシュはやがて、それに挑んでいくのだった……。



 というお話。「マトリックス」ばりの映像的な衝撃ばかりがクローズアップされる本作ですが、仮想現実云々という方向ではわりと正攻法のお話だったんじゃないかなー、と思います。前作「GHOST IN THE SHELL」が「マトリックス」にパクられた事、「マトリックス」以上の映像的なインパクトばかり取り沙汰されるあまり、つい「マトリックス」と比較しちゃうんですけど……。



 とは言え、この映画で語られているような「現実」と「仮想現実」(非現実)の関係って、昔から押井守が何かにつけ追及してきたテーマでもあるんですよね。「マトリックス」の場合、「我々が生きているこの現実は実は仮想現実だった!」と言っているわけですが、実際の所作品を見ていくと、「実はコンピュータが支配している30世紀」という現実と、「人間サマをだまくらかすためにコンピュータが作り上げている仮想の20世紀末」という、二つの世界が「現実として」存在し、そこを行ったり来たりしているだけなんですよね。片方の世界が、ヴァーチャルリアリティの手法の元に成立しているというだけで、その存在そのものは「仮想」でもなんでもないわけです。どちらの世界にしても、中に住んでいる人、あるいは外で戦っている人、そのどちらにとっても、二つともが強固たる「現実」なわけです。
 つまり「マトリックス」の場合、「仮想現実」による「現実」の揺らぎを描写しているように見えて、実は単なる異世界ファンタジィ(笑)に過ぎないわけです。



 ところが、「マトリックス」ではかるく受け流していたこの『「仮想現実」による「現実」の揺らぎ』というテーマを、押井守はこのアヴァロンにおいて真っ正面から描いています。……そもそも、目指している部分が違うんでしょうね、やっぱ。
 そもそも、この映画で描写される「現実」にしてからが、どこか非現実的です。ポーランドロケによる見慣れぬ異国の風景。聞き慣れぬ言語。PCやIDカードなど、いかにもSF的な小道具はやっぱり現実的ではありませんし、そもそも作中で食事シーン、料理シーンが頻出するのに主人公は一切の食事をしてません。セピアカラーのモノトーン&光の強弱が強調された、ソフトフォーカスぎみの映像は、どこか夢の世界のようではありませんか。よくよく見てみれば、路面電車の乗客や街行く人々など、マネキンで表現されていたりもします。これらを見れば分かるように、押井守は作中の「現実」を、あえて非現実的に描いているんですね。
 こういった、現実を非現実として扱う手法は、押井実写作品ではたびたび見られる手法です。初の実写作品「紅い眼鏡」では、やはり本作と同じようにセピアカラーのモノトーンの映像でしたし、主人公が迷路のような街を逃げ惑う堂々巡りの様子は、ディストピア的というか、カフカ的悪夢というか……とにかく異次元のような絵づくりでした。
 また「トーキングヘッド」では、アニメ制作スタジオを舞台としておきながら、現実にフィルムに写し出されているのは古い劇場(映画館?)でした。劇場の舞台や楽屋を、アニメスタジオに見立てていたのですね。
 見事なまでの、リアリティの欠落。それを同じ事を、押井守は「アヴァロン」でも繰り返しています。むしろ、仮想現実世界の方がリアルに描かれているような気もします。戦車や銃火器といったものへの強いこだわり。生々しくリアルな戦場の雰囲気が描写されています。しかしながら、爆風や爆発などは明らかにCGIによるエフェクトですし、死んだキャラクタはガラス細工のように消滅していきます。この世界では、「破壊」や「死」が希薄な存在なのです。そして、画面上に堂々と浮かび上がる「ミッション・コンプリート」の文字……。そう、それらの映像は「現実」としてはリアルでなくとも、「ゲーム画面」としては恐ろしく納得の行く映像ではないでしょうか。
 つまりこの映画では、その映像そのものの描写において、仮想現実の方がリアルに描写されているのです。
 そしてダメ押しは、隠されたスペシャルステージ。ここでは、それまで一貫して使われていたモノトーンのエフェクトがついに取り払われ、現実の風景をそのまんま、何のヒネリもなく拾い出した、つまらないカラー画像になってしまうのです。近未来の物々しい街並みも、生気のない異質なマネキンの群れもなく、ただ現実の、現代の街並みが当たり前に描写されているわけですね。そう、この隠しステージこそ、作中でもっとも「リアル」に見えるシークエンスなのではないでしょうか。
 ここに来て、観客はひとつの疑いを持つでしょう。この隠しステージこそ、現実なのではないかと……。彼女が暮らしていた現実世界こそ、実は仮想現実なのではないか、と……(そもそも、犬はどこへ消えたのでしょうか)。しかし結局ラストにおいて、主人公が仕止めた「ターゲット」はリアルに血を流しつつもガラス細工のように消滅していくのです。そう、この隠しステージはやはり、あくまでもゲームなんですね。
 さて。そうなると、この映画における「現実」って一体何なんでしょう?



 そう……「マトリックス」の場合はマトリックスの内も外も、どちらも人々にとっては強烈な「現実」として君臨していたのに、「アヴァロン」にはラストに至って、ついに「現実」が奇麗さっぱり無くなってしまっているのです。内容的に類似点の少なくない両作品ですが、実はテーマ的にはまったく逆の問いかけをしているんですよねー。娯楽作品としてどっちがいいのか、面白いのかと問われれば「アヴァロン」はやや分が悪くなってしまいますが、文学的なテーマに対して実に映画的なアプローチをしているではありませんか。全世界大期待の中、こんな難解な作品を持ち出してくるあたり、押井守ってスゴイなあ、と思ってしまいました(笑)




 オススメ度:☆☆☆☆(でも、フツーの人が見てもワケ分かんないだろうなあ……)

 



2001.3.8 かつてそこにあった危機

13デイズ

監督:ロジャー・ドナルドソン
主演:ケビン・コスナー、ブルース・グリーンウッド、スティーブン・カルプ

鑑賞日:2001.1.25



 1962年。アメリカ軍の偵察機が捉えた一枚の写真。それは、キューバ国内に建造中のミサイル基地だった……。その基地が完成すれば、アメリカ合衆国はソ連の核ミサイルの制空圏内にすっぽりと収まることになる。すぐそこまで来ていた第三次世界大戦……核戦争の恐怖が、今や目の前に存在しているのだ。
 ミサイルが配備される前に、空爆によって基地を破壊すべきと主張する軍部。だがそれをやってしまえば、ソ連は報復の軍事行動を起こすだろう。それによってアメリカ人が犠牲になれば、合衆国も黙っているわけにはいかない……キューバのミサイル基地ひとつが、世界大戦の引き金になりかねないのだ。世界大戦=核戦争……ケネディ大統領は、声高に武力侵攻を唱える軍部を抑え、何とか危機回避をと画策するが……。



 というお話。まあ一口に言えば、「よく分かるキューバ危機」です。こうやってあらすじを書いていると何かの政治サスペンス映画のようなノリですが、忘れちゃいけないのはこれらはすべて事実なのだ、という事でしょう。
 何せ原作がすごいです。キューバ危機に関して、ケネディ大統領本人が録音した2週間の会議のテープ……直接の原作となっているのはこれなんだそうであります。まさにホンモノには勝てない、と言った所でしょうか。その他、ロバート・ケネディ司法長官自身の回想録。ケネス・オドネル大統領補佐官自身への100時間に及ぶインタヴュー……つまり、すべて実際に関わった人物の言葉を元にしているのだから恐れ入ります。ここまで来ると、「実話に基づく〜」みたいな曖昧な実話モノとは一線を画する、まるっきりドキュメンタリーのような映画でした……(笑)
 ただ、何もそれだけで終わっているわけではありません。映画はドキュメンタリーのような緻密さを求めながら、最低限の映画としての娯楽性を実は捨ててはいないのです。
 第1に、本作は友情ドラマです。主人公となるのはケネディ大統領、その弟の司法長官、その二人の大学時代からの親友である補佐官。このこの3人はいずれも30代後半〜40代前半と、政治家としては異様な若手なんですね。この3人が、国家の威信とかいう実に曖昧なものを根拠に後先省みず戦争を始めたがっている年寄り政治家やタカ派の軍人達を前にして、何とか戦争を回避しようと躍起になるのです。
 そう、この映画はアメリカVSソ連の冷戦を描いた作品ではなく、若き力とガンコ老人たちの、世代間の対立ドラマなんですね。それと並行してオドネル補佐官の家族のエピソードも結構マメに描かれています。彼は大統領にもっとも近いところにいる政治家というばかりではなく、核戦争の影に脅える一般家族の持つ不安をも代弁しているのですなあ。
 つまり、この映画で描かれているのはそういった人々の不安や、恐れといったものなのでしょう。自国の鼻先に敵国のミサイル基地があるという不安。対立している大国同士だが、だからと言って戦争が望ましいわけではない。核戦争になれば世界が滅びてしまうから……ひとつの判断ミスで、世界が滅びるという恐怖。
 しかも、ここまで史実通りを狙いながら、実はソ連側の描写がほとんどありません。アメリカ側ほどに資料が豊富ではないという事情もあるかも知れませんが……。ソ連やキューバといった敵国の動向も、あくまでもアメリカから見て「彼らはこう動いている」という情報でしか描かれていないのですね。本心の全く知れない隣人の行動。どういうつもりなのか窺い知れないゆえに、不安はいっそうあおられて……。そして、その不安ゆえに軽率な行動に出れば、それは即核戦争に繋がるのです。どういう行動をとっても戦争は避けられないのでは、という緊張感。不安がまた不安を呼び……。そういう意味では、核戦争の恐怖を描いた、一種の恐怖映画であるとも言えるかも知れません。
 主演はケビン・コスナーですけど、後の役者が無名なのもいい感じです。ケネディ大統領が、誰か別の有名俳優ではなくて紛れもなくケネディ本人にしか見えない……その事が、ヘンな演技合戦に観客の目を逸らされることなく、ストーリーそのものの緊迫感自体に目がいくようになっているのです。映画としての作為的な楽しさ……迫真の演技やトリッキーな演出を楽しむ映画でこそありませんが、この強烈な緊迫感はまさに映画ならではの体験と言えるでしょう。



 余談ながら、本作を見ていて何となく思い出してしまったのは「クリムゾン・タイド」でありました。まあ本来なら、「博士の異常な愛情」とかを挙げておくべきなんでしょうけど……(笑)
 「クリムゾン〜」で描かれるのは、中国での軍事的緊張。これに備え出動したアメリカの原子力潜水艦が舞台です。アジア近海を航行中の潜水艦「アラバマ」に下った核ミサイルの発射指令……しかし、第2報の指令を傍受中に敵の攻撃を受け、通信が途絶してしまいます。
 海の中で孤立する「アラバマ」。途絶した第2報は、ミサイル発射を取りやめにするものだったのか? それとも、発射を督促するものだったのか? もし戦況が好転し事態が収束しているのであれば、核ミサイルの発射は大変な事です。しかし、戦況が悪転して、敵が核ミサイルを発射しようとしているのなら……これを制止しなければ、大変なことになります。
 ミサイルは発射すべきか否か? ジーン・ハックマン演じる艦長と、デンゼル・ワシントン率いる副長が真っ向から対立、艦内は真っ二つに割れて……。というお話。核がらみの緊張感という意味では、こちらもオススメの一作です。




オススメ度:☆☆☆☆(実話モノとしてはヒネリのない作品ですが……)




2001.3.8 彼方より来るもの

オーロラの彼方へ

監督:グレゴリー・ホブリット
脚本:トビー・エメリッヒ
主演:デニス・クエイド、ジム・カヴィーゼル

鑑賞日:2001.1.11



 予告編にすっかりダマされました〜(笑) 「父と子の人情ドラマ」かと思って見たら確実に裏切られます。



 1999年10月。ニューヨークでは30年振りにオーロラが発生。生まれ故郷の下町に暮らす若き刑事ジョン・サリバンはその晩、父親の遺品である無線機を何気なしにいじっていた。消防士だった父の趣味のひとつがアマチュア無線だったのだ。ところが、スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、なんとすでに死んだ父の声……1969年現在の、フランク・サリバンその人だったのだ。
 1969年10月。ジョンはまだ少年で、フランクはまだ健在。この数日後に彼は火災現場で事故死する運命だった。ジョンがついその事実を話してしまい、結果フランクがその運命を回避する事に成功したことから、そこから先の時間の流れがまったく予期せぬ方向に変わっていって……。



 というあらすじからお分かりいただけるように、父の子の絆もテーマとして重要ではあるんですけど、ずばり「歴史改変」という実にストレートなネタが展開されているのでありました。歴史改変というとタイムトラベル、タイムスリップが付きものですが、この作品で面白いのは無線機を介して、過去と現在が並行して描写されている点でしょう。
 変わってしまった歴史を修正するために奔走するというシチュエーションは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なんかと一緒なんですけど、違うのは結局のところ無線で「指示を下す」事しか出来ないってところ。直接行動が出来るのは過去の人間のみ、なんですよね。変えてしまった歴史の帳尻を合わせるために、未来のジョンが過去の父にアドバイスし、父が動く。その結果またしても厄介な事態が(未来で)発生し、またしても対処するために過去の父に……という風に物語が転がっていくんですね。ころころ事態が変化するので、見ていて飽きません(笑)
 またこういう構造だと、事態が好転したりうまく行かなかったりするのには指示を下す側と動く側の関係が影響しているわけで……つまりこの構造はそのまんま、支え合う両者の人間関係、信頼関係を描き出すことになるんですね。そんなこんなでこの映画、親子ドラマとしても、時間SFとしてもじつに秀逸な一作に仕上がっております。



 ただ、時間SFものとしてはちょっとおかしな部分も無いわけではないです(笑)
 本作では、ジョンの生きる1999年10月と、フランクの生きる1969年10月とが、別個の時間軸として並行に流れているんですね。もちろん、過去に起こった事は未来に反映しているわけですが……その反映の仕方が、特殊と言うかなんというか。
 例えば、過去のある日の午前2時の時点で、何かをやったとします。実際には時間軸は1本に繋がっているのですから、変更を加えた次の瞬間には未来は変わっているハズなのに、実際に未来に影響が出るのは、同じ日付の2時になってからなのです。これはつまり、1999年のジョンの世界と、1969年のフランクの世界とが、1本の線上にあるのではなくて並行に流れてシンクロしているという事です。
 確かに、物語の上ではジョンの視点とフランクの視点が並行に描かれているわけですから、その方が物語の流れから言えば自然なんでしょうけど……過去の変更に伴う「結果」が、目の前にぽんと現れてくるというのは実はちょっとおかしいわけです(笑) 何だかんだ言ってジョンの暮らす1999年は、フランクによって改変された未来であるわけですから、本来的にはジョンにしてみれば、変化は変化ではなく「最初からそうだった」という事でなければおかしいハズ……しかしまあ、そこには目をつぶっておきましょう(笑)
 で、いかにも「バック・トゥ〜」だなあ、と思うのは、結局の所主人公たちの努力が「より良い未来」に結収する、という事。マズい方向に行ったから直さないと、というのは分かるんですけど、帳尻を合わせて元通りにしよう、とは誰も考えないんですよね。「修復」には目もくれず、アンハッピーからハッピーに転じたからそれはそれでいいや、みたいな……それをポジティブと捉えるか、横暴・身勝手と捉えるかは観客の自由だと思いますが、割と自分勝手に歴史を改変してしまうアバウトさは、いかにもハリウッド・エンタテインメントだなあ、と思ってみたりなんかして……(笑)




オススメ度:☆☆☆☆(結構拾い物でした……)




2001.3.8 フツーの映画?

バトル・ロワイアル

監督:深作欣二
主演:藤原竜也、前田亜季、山本太郎、ビートたけし

鑑賞日:2001.1.7



 話題の「バトロワ」です。感想ですが、一言で言えば「フツー」でした。以上!(笑)



 ……ではお話にならないのでも少し語ってみましょう。あ、例によって原作は読んでませんのでそのつもりで。
 内容の過激さが話題を呼んだ本作ですが、実際そんなヒドい問題作かと言えば、別にそんな事はないと思いますが……。R15指定をくらっちゃいましたけど、アメリカあたりの年齢規制に照らし合わせれば、血糊の量とかから言ってそのくらいにはなるのかなー、と言ったところです。血糊が多くてうんざりする程度で、そんなに過剰にバイオレンスって事はないです。ASDさんの小説の方がよっぽどヒサンです(比べるなよ)。
 1クラス43人の中学生による、壮絶な殺し合い……まあアイデアとして非常に不謹慎だとは思いますが、ごく普通にアクション映画として捉えれば、何でもない作品だったように思います。舞台を限定した、ゲーム感覚のアクション物……そう捉えれば、結構面白い作品かもしれません。
 舞台は無人島。43人の中学生にはそれぞれ1つずつ武器が持たされています。しかし、それらの武器は必ずしも使えるものばかりではありません。ナベのフタのようなハズレも存在すれば、毒薬やスタンガンのような扱いの難しいものもあります。他の人間を探知出来る探知機のように、使い方次第では強力な武器になるものもあります(まあ、さしたる使われ方はしませんでしたけど……)。
 そんなこんなで、中学生達の取る行動は様々です。武器の威力に任せて一人で殺しまくるヤツ、複数人で手を組んでうまく立ち回ろうとするするヤツ。行く末をはかなんで自決するヤツもいれば、単なるやられ役も存在します。
 そんなわけで、「ルール」が自然と面白い展開を生み出しているんですね。徒党を組んで武器を供出し合う連中もいますし、ひたすら殺しまくって、武器を奪うのもアリでしょう。中には、私物や島にあるものをうまく利用するヤツもいます。……しかも、あれこれ手を尽くした所で最後に生き残るのは一人ですから、どこかで仲間を出し抜かなければいけません。その事実が、ゲームに対して気の抜けない危うさを醸し出しているのです。実に秀逸な設定じゃあないですか。
 そんなこんなで、アクション映画としては割と優秀な方だと思いました。キャラが43人もいて描き分けられるのか、という心配はありましたが、およそ半分は自殺したりザコキャラとして死んでいきますし、あとの連中も大まかに分ければ女子弱小連合、男子知能犯グループのようにいくつかに分かれ、あとは数名ほど単独で殺しまくっている。そういう勢力図の中、主人公たちが立ち回っていく……という展開。いやあ、なかなか巧い構成です。
 ま、欠点が無いわけでもないです。上記のようにアクション映画としては設定・ストーリーともに優秀ですが、結局主人公たちと絡みのないまま死んでいくキャラが結構多いんですよね。一人一人、それなりにドラマが描かれているのに、それらのお話が各自でてんでばらばらに進行していく……いわゆるグランドホテル形式に近いために、ドラマ的な盛り上がりに欠けるような気もします。
 それは学生達だけではなく、キーパーソンである教師キタノにも当てはまるのではないでしょうか。彼の狂気が、具体的な理由の元に特定個人に結び付いているわけではない(というか、結び付いてはいるんだけれども理由が語られない)ために、せっかくのビートたけしの怪演もやや空回りかな? という気がしました。



 というわけで……まあ単なる「アクション映画」として捉えれば良作ではあるんですけど、やはり色々気になることはあります。
 とにかく、あの血糊の量は何とかならんもんでしょうか(笑) 先述のように、難しく考えなければこの映画は単なるアクション映画なのですが、中学生という設定といい血糊の量といい、「良識ある」人間なら「不謹慎だ!」と受け止めてしまうんじゃないかなー、という気がしてなりません。
 いや、むしろそういう拒絶反応を引き出すために、敢えて血糊を増やしてあるのかも知れません。普通に「ゲーム」に徹していれば結構いい線いきそうな作品なのに、取って付けたような「テーマ」がやたら説教臭く見えるのは明らかに減点な気がします。「日本はダメになりました」とか「子供が大人を信用していない」とか、あれやこれや言ってますけど、言っているだけでまるで現実感がないというか、説得力がないというか……言葉にして言っている時点で完結しているような気がします。
 そもそも作中では、この殺戮ゲームの原因である、肝心の「BR法」の存在主旨みたいなものが結局一切語られていません。「バトルランナー」のように娯楽目的なのか、それとも何らかの深遠な目的があるのか? 「なぜ殺し合うのか」というその理由が、一切明らかになっていないのです。
 そういう意味ではこの映画、「限定空間での理由なき殺戮ゲーム」という、一種の不条理劇と捉えるのが正しいのかも知れません。そう捉えれば、一種ブラックユーモア的なニュアンスが出てくると思うのですが、実際映画では敢えて語らなかったその「なぜ」に対する反論を、取って付けたテーマでもってくそ真面目に展開しているように見えるんですよね。
 ある意味、「中学生皆殺し」という扇情的な唄い文句に、当の深作欣二本人が躍らされてしまったような印象さえ受けます。血糊が必要以上に多いのも、結局は「ヤバさ」を無意味にあおるための小道具に過ぎないのでは、という気さえしてくるのですが……。



 ……と、そういう事を書いてふと思い出してしまったのが、オリバー・ストーンの「ナチュラル・ボーン・キラーズ」という作品です。
 旅をしながら、行きずりの人々をこれと言った理由も無く殺して回るカップル。非道な連続殺人犯である彼らは、メディアに取り上げられる事で一躍ヒーローになってしまいます。
 「パルプフィクション」で有名なクエンティン・タランティーノが無名時代に手掛けたこのシナリオ、一種のブラックコメディとして描かれていたにも関わらず、監督であるオリバー・ストーンの手でまるっきり改変されてしまいました。衝動的暴力にとらわれたカップル、メディアを通じてその暴力に惹きつけられる民衆……「暴力」の意味を鋭く問う、問題提起作品になってしまったのです(タランティーノが激怒したのは言うまでもありません)。
 ま、「バトル・ロワイアル」にしても原作を読んでもいないのにアレコレ言える事ではないのは承知で言わせていただきますと、意外に本作における映画と原作の関係って、この「ナチュラル〜」におけるシナリオと出来上がった映画の関係に、結構近いものがあるのではないか、なんて思ってみたりもするんですが……。




オススメ度:☆☆☆(邦画ではガンバっている方なんじゃないかと……)

 


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