-cinema diary-

6月の映画日記。


 

2001.6.13 それは未だに、究極の旅


「2001年宇宙の旅」

監督・脚本:スタンリー・キューブリック
原作・脚本:アーサー・C・クラーク
主演:キア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルベスター、ダグラス・レイン(声のみ)、他

鑑賞日:2001.6.1


 上のタイトル、ポスターの挙げ句からまるまる引用しちまいました(笑) だってカッコいいんだもーん(笑)


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 月面で発見された謎の物体「モノリス」。それは、数百万年前に何者かの手で人為的に埋められた物体だった。そのモノリスが放つ磁力線の先にあったのは、木星。人類は初の木星計画を立ち上げ、探査船「ディスカバリー」号を送る。だが、そんな真の目的を知らないままのクルーを、トラブルが襲う……


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 はい、あらすじですがちょいネタバレっぽいですね(笑) 古い映画ですし、まあ有名だと思いますので勘弁してください。というか、あらすじを全部知った上で見たとしてもこの映画は随分分かりづらい作品だと思います(爆)



 実はASDは本作のLDを所有しているのですが、最後まで見た事が一度もありませんでした(爆)
 理由はと言いますと……テレビの小さい画面で見ていてもとにかく退屈なんですよね……(爆) 冒頭15分ほどまったくセリフがありませんし……(有史以前のサルの話ですから当然と言えば当然でしょうけど)、宇宙ステーションと月面を結ぶシャトルの描写も、今から見れば随分退屈なシーンです。
 それが分かってて見に行ったのかお前は! ってなもんですが、大画面だとおそらく印象変わるだろうという予感があったもので……(笑)



 で、実際通しで見ての感想なんですが……これがもう、なんかものすごい映画なんですよ(笑)
 確かに、集中力の持たない作品だという事は認めます(笑) ただし、やはり大画面で見たせいか我慢出来ないレベルではありませんでした。
 むしろ、リニューアルされている(らしい)サウンド……まあ古い映画なんで劇的に質が上がっているわけではないと思いますが、モノリス登場シーンの不協和音とか結構不気味に盛り上がってましたし、なんと言っても要所でかかる「ツァラトウストラかく語りき」がカッコ良すぎです(笑) 見終わったあとも頭の中でリフレインしてましたね(笑)
 さて、肝心の内容はどうなんでしょうか。
 この映画、何がスゴイのかと言いますと、いわゆる劇映画と呼ばれるたぐいの映画と違って「ドラマ」がほとんど描かれていないのですよ(爆)
 例外がないわけではありませんが、ほとんどの場合において物語にはそれを構成する登場人物がいます。人間が二人以上いて、そこに意見の相違・対立が発生する……それが、「ドラマ」と呼ばれるものです。
 芹沢さんがフォーラムで語ってましたが、いわゆる「カタルシス」というのは作中で積み重ねてきたストレスを、一気に解消する行為なのだそうであります。
 ここでのストレスとは、「意見の対立・相違」なわけで、人と人との間で繰り広げられる物語は、ほとんどすべて「ドラマ」が存在すると言っても過言ではありません。物語は、そのストレスの解消……つまりは対立の解消を目指して展開していくわけですね。それが話し合いで解決すればホームドラマですし、暴力沙汰に発展すればアクションものになるわけです。
 ところが、この「2001年」においてはそういうドラマ要素が意図的に排除されているんですよね。例えば本作の場合、モノリスという不可思議な物体を巡って、人類の進化とか、そういう深淵なテーマを問いかけているわけですが……。それに付随する形で本来なら展開されるであろう登場人物達の間のドラマ――モノリスの調査や木星探査を巡って人々が論議したりとか、そういう人間関係の掘り下げがまさに皆無に等しいのです(爆)
 演出がヘタクソで描き切れてないのではなく(笑)、あきらかに意図的に排除されております。
 本作は大まかに3つのパートで構成されていまして……1)猿人がモノリスに出会うお話、2)月面でモノリスが発見されるお話、3)木星行きの探査船内でのお話と木星で遭遇した「何か」に関しての描写……という風に、言ってみれば本作はモノリスを巡る連作短編みたいな構成になっています。「モノリス」を通して相互に関連性はありますし、また時系列的に連続したエピソードになってはいますが、特に共通の登場人物もなく、エピソードとしては完全に独立しています。
 つまり、本作ではそういう「人間」のことなんか、どうでもいいんでしょうね(笑) ヘンに人間同士の信頼関係とか友情とか確執とか、そういう要素を描いてしまうと、物語が人間同士の関係の中で完結してしまう恐れが有ります。それがゆえに、そういう要素を意図的に排除することで、本作の重要なテーマである「人間の進化」とか「人間のあり方」とか、そういうSF的なマジなテーマが強く浮き彫りにされるのでしょう。
 ま、強いて言えば、3)における、ボーマン船長とコンピュータのHALとの間に、確執が見出せるかも知れません。それにした所で、その確執の行く末に関しては映画は明らかに無関心を通しています。その確執が何を意味するのかも不明瞭ですし(解釈は色々あるでしょうが)、結果としてその確執がどう解決されたのかも曖昧です。
 そう、本作にはとにかく謎が多いのです。
 この作品、とにかく意図的に情報が色々と削られているおかげで、ストーリーがまるで理解し難いものになってしまっています。HALの身に起きた異常は何が原因だったのか? 木星でボーマン船長が遭遇したモノは一体なんだったのか? その先のラストで観客が遭遇するアレは一体何を意味するのか?



 そんなこんなで、本作を見ていて思わず連想してしまったのが、「エヴァンゲリオン」の完結篇でした(笑) とにかく意味不明の映像の羅列で観客を圧倒し、大量の疑問を植え付けるだけ植え付けてあとは素知らぬ顔……まったく一緒ではありませんか(笑)


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 さて、この「2001年」ですが、制作されたのは1968年……今からなんと33年も前の映画なんですよね。
 さすがに、特撮部分には古さを隠し切れないものがあります。「スターウォーズ」は1977年、2作を見比べてもかなりの差を感じると思います。
 というか、この作品実際に2001年が舞台なんですよね……それを見ている今がまさに2001年というわけで、未来予測映画としてはまあ確かに的外れなところもあります(笑) 個人的には、無重力空間の描写など、古臭いところもありますし……。
 例えば本作では磁力の靴を履いて無重力の部屋を歩いたりしていますが、「機動戦士ガンダム」では無重力空間の移動は原則として空中遊泳という事になっています。それを見てしまうと、のったり移動している本作の描写はかなりアホ臭く見えるのも事実です(笑)
(もっとも、重力のある地上で撮影している映像ですからねえ……ハリウッド製のSFでは、原則として無重力の事は「考えない」事になっているみたいですけど(笑))
 とは言え、実際は本作の魅力はそういう未来予測的な部分にあるのではない、という事は、作品を見ていただければ分かる事でしょう。退屈な映画だというのは事実だと思いますし、難解な作品であるのも確かですが、どうせ見るなら14インチのちっちゃいテレビで見るより、許す限りの大画面&大音量にて、アナクロな未来世界にどっぷりと浸りつつ宇宙の深淵に触れる……そういうのが、正しい鑑賞方法なのではないかなー、と思いました。


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 ※以下、ネタバレ含みます※
 さて、最後に余談の余談ながら、本作のパンフレットに載っていた押井守のエッセイがかなり興味深かったので、要約して引用しておきたいと思います。



 押井守という人は、とにかくメシにこだわる作家です(笑)
 彼の作品では、登場人物が常に何かしら食っています。原作付きだった攻殻機動隊なんかはともかくとして、最新作の「アヴァロン」でも、「パトレイバー」「うる星やつら」なんかでもとにかくモノを食ってるシーンが多いです。
 しかし、SF映画というのは以外に食事シーンというのが少ないものです。あの「スターウォーズ」でも、食卓を囲んで会話するシーンはそれなりに出てきますが何を食っているのかはイマイチ印象に残りません。
 しかし、振り返ってみるに「2001年」は、とにかくメシを食うシーンが多いのです。
 冒頭、フロイド博士がシャトルで月面基地に向かうシーンで登場する機内食。ストローで液体状の何かを飲むという、いかにもマズそうな食事です。
 彼は続いて月面を船で移動するシーンでも、宇宙食のサンドイッチをもそもそ食しています。これも、お世辞にもうまそうには見えません。
 さらには、木星行きのディスカバリー号の内部の生活描写として、やはり機内食を食べるシーンが出てきます。粘土状のかたまりをヘラで黙々と食しているだけで、やっぱりすごいマズそうです。
 きわめつけは、終盤のシーン。ちょっとネタバレで恐縮ですが、木星でボーマン船長が遭遇した不可思議な「光の洪水」のシーンにおいて、年老いた彼がスクランブルエッグを一人で黙々と食べるイメージ・シーン?があります。これを押井守は、「映画史上もっともマズそうな食事シーン」と評しています(笑)
 では、これらの食事シーンの意味は何なのか? それは冒頭の、有史以前のサルのシーンにその意味が隠されている、と押井守は言うのです。
 冒頭、人になる以前のサル達は、何やら木の実のようなものをぼりぼりと食してましたが、これも押井守いわく「まずそう」との事です。しかし、道具の使い方を覚えた彼らは、狩猟を覚え肉食に転じます。
 この一連のシーンの最後で、サル達は水場を巡って争っていた他の部族?を、武器を持って撃退するのですが……。
 ここに、「2001年」という映画の、ひとつの主張があると押井守は分析します。知性を持ったサルはまず道具を攻撃の手段として覚え、それで同種族の他者を攻撃する事で、サル達の勢力構造が変化します。これはすなわち、サル達が自分たちの社会に働きかけを行ったことであり、武力行使=原初の社会行動である、と映画は主張しているわけです。
 文明の始まりがヴァイオレンスにあり、というのもまた何だかやるせない話ではありますが、押井守はもうひとつ主張として、武器で敵勢力を攻撃……つまり殺してしまったサル達は、この後で殺したサルを食べてしまったはずではないか、と分析するのです。
 つまり、文明化=共食い、というものが本来は描写されていたハズではないか……そう押井守は分析するわけです。もちろん、そんなシーンは存在しないんですけど。



 で、これはASDとしての見解なんですけど、この辺りのサルのエピソードの解釈が、後半HAL9000が暴走するエピソードになんか関係あるんじゃないかなー、という気がします。
 後半部分、HALは人間達が自分を非常停止しようとしている事を知って、反対に人間達を殺して行きます。
 このHALの暴走の原因がモノリスにあるという事はなんとなくほのめかされていますが、何故にこんな風に反乱を起こしたんでしょうか。
 有史以前、モノリスに出会ったサル達がやったことは、「他者を攻撃する」行為でした。しかし、ここで言う他者とは、違う部族ながら同じサル同士であり、つまり彼らの攻撃行動は=共食いという事になります。映画で描かれているのは一方的な攻撃でしたが、彼らも同じサルである以上、道具の使い方を覚えて同じ行動に出ないとも限りませんからね。
 ともすれば、知恵を持って殺し合う事が、イコール進化だ、という事になるのでしょう。
 では、HALはどうでしょうか。
 暴走した彼は、緊急停止という事態からおのれを守るために、人間を殺す事を覚えます。つまり、人間に服従する存在から、自分の主張をする存在に「進化」した、というわけです。
 しかし、HALがコンピュータであるという事を考えると、彼が乗組員を全員殺してしまうと、彼は一体何のために船のコンピュータなんかやっている事になるのでしょうか(爆)
 つまるところは、HALが人間を殺すという行為自体、言ってみれば「共食い」……共存が必要なもの同士でやってはいけない行為、という事なのかも知れません。



 ともすれば、意外にこの作品、人類が進化するという事を、かなりシビアというか、ネガティブに見ていたのかな? という気もするのですが……。




オススメ度:☆☆☆☆(何度も言いますが14インチのテレビで見ちゃダメです(笑))


2001.6.13 主題歌だけ日本語……何故だーっ!(笑)


「VAMPIRE HUNTER D」

監督:川尻善昭
声の出演:アンドリュー・フィルポット、パメラ・シーガル、他

鑑賞日:2001.5.18



 文明崩壊後、地球の支配者となった「貴族」と呼ばれる吸血鬼達。彼らはやがて種としての衰退の道を辿っていき、人間によって狩り出される存在となった。人間にとっての大いなる脅威である吸血鬼を狩るハンター。特に、人間と吸血鬼の混血である「ダンピール」は、優れたバンパイア・ハンターとして知られていた。
 「貴族」マイエル・リンクは、大地主の娘シャーロットを誘拐し、逃亡を図る。奪回のために雇われたのはダンピールのハンター・D。だが、同じ標的を同業のハンター集団・マーカス兄妹が狙っていた。両者は競い合いながらマイエル・リンクを追うが……。

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 まず最初に誰もが面食らうと思うんですけど、本作は何故かセリフが全編英語になっています。
 海外アニメ? いえいえ、制作はマッドハウス。「カードキャプターさくら」とかも作っている、れっきとした日本のアニメスタジオです。
 とは言え、まあハナからアメリカで売ることしか考えていないようなフシのある作品でありました。そもそもセリフだけではなくてサウンドトラックの作曲も向こうの人ですし、5.1chサラウンドもアメリカ側でやっているとの事です。ですから、日米合作と言っても差し支えはないかと。っていうか、むしろ日本公開の方がオマケなんですか? そうなんですか?(確証ナシ)


 菊池秀行の代表作とも言える「吸血鬼ハンターD」ですが、実は今回が2度目のアニメ化となります。前作は1985年……ゲッ、もう16年も前じゃん(笑) この時の作品がまあ何と言いますか、いかにもアニメらしいロリ絵柄での映像化だったため、ファンにはめちゃめちゃ不評だったようですね(笑)
 さて、今回「D」を手掛けたのは川尻善昭監督であります。過去に「妖獣都市」、「魔界都市<新宿>」と菊池作品を2本も手掛けた人ですから、菊池ファンの覚えもなかなかよろしいのではないかと。
 そういう意味では、「D」のアニメ化としてはほぼ理想的な映像化が為されたんじゃないかなと思います。しかし……ここで大きく疑問が残るのは、原作が何故か3巻の「妖殺行」だという事。
 この作品、馬車で逃げる貴族を追いかけるという一種のロードムービー的なニュアンスの作品で、ホラー・SFというよりは、西部劇的なニュアンスを追及したお話だったのでは……と思います。
 まあ、ASDもDは3巻までしか読んでいないんですけど、城に住まう貴族を狩るために、そこへ乗り込んでいく……そういうシリーズの王道的パターンからちょっと外れた作品のように思うのですが……この辺り、菊池ファンの皆様の評価はどんなもんなんでしょうか。
 そういう意味では、Dをよく知らないASDとしましては……16年前にも映像化された第1巻をリメイクして欲しかったなあと思うのです。「D」という作品が「吸血鬼ドラキュラ」へのオマージュ的作品であるという事を考えれば、絶対に外せないエピソードではないかと思うのですが……。



 何せ、アニメで長編映画を一本作るというのは、かなり難しい事なのです。
 まず第一に、アニメは非常にお金がかかります。
 90分の長編作品を作ろうと思えば、相当な人手と手間と予算が必要になります。
 ところが、アニメというのは業の深いメディアで、作っても利益が出るような構造になっていないんですよね(爆)
 テレビアニメであればスポンサーがつきます。しかし、それだけでは制作費が回収出来ないので、キャラクタ商品などの権利商売で儲けるしかないのですが、単発の作品ではそれも期待出来ません。そこで、ビデオを売って制作費(生活費って書きそうになったよ(笑))を回収するしかないのです。
 これが劇場作品の場合、スポンサーではなく劇場の興行収益があるわけですが……。アニメに限らず、劇場公開作品というのは、大体において興行収益のみでは制作費の回収は不可能であると言われています。その後のビデオ化、BS・CS・地上波への放送権、海外での配給・ソフト化……そういう諸々の利益を、最初から当て込んで作られているわけです。
 さて、ソフト化で利益を上げようと思えば肝心なのは販売価格の設定ですが、あまり数が見込めないとなれば一本あたりの価格を高めに設定するしかありません。
 そこで、シリーズもののテレビアニメの場合、ウラ技として1本あたりの収録話数を減らして、ソフトのタイトル数を水増しするというテがあります。全26話のTVシリーズの場合、4話収録5800円×7本とやるよりも2話収録4800円×13本とやった方が利益は大きいわけですね。
 そんな暴利でもお金を注ぎ込むのがアニメファン、という事でこういうあこぎな商売が通用するわけですが、それでもままならないのが単発の劇場作品なのです。
 単発長編の場合、上記の「ウラ技」が使えません。だもんで、結局は販売価格を単純に吊り上げるしかないわけです。また日本で作られる劇場アニメの場合、必ずしもスムーズに海外配給がうまくいくとは限りません。押井守作品のように海外で高い評価を受けているような作品でも、基本的には制作費の回収は国内で行っています。結果として、アニメはビデオの値段が馬鹿みたいに高いという事が常識になってしまっているのです。
 ワーナーがハリウッドの超大作を2500円とかで売っている側で、バンダイビジュアルが自社プロデュース作品を9800円とかで売っているという、奇ッ怪な状況が現実に存在しているわけですね。
 そこで脳裏を過ぎるであろう、ひとつの不安。
 ――もし、そんな高価なビデオソフトまでもがズッコけたら?
 それを考えれば、劇場長編アニメというのがいかにリスキーなシロモノだという事がご理解いただけると思います。そもそもビジネスとして冒険であるがゆえに、劇場公開のアニメ作品というのは割と本数が少ないわけですな。



 そういう事情を鑑みれば、「D」のアニメ化なんてひょっとしたらこれが最後かも知れません。そういうたった一度の機会に、「妖殺行」は何をも優先してアニメ化すべき作品だったのかなー、と素朴な疑問を抱いてしまったASDさんでありました。
 つうか、はっきり言えばかなり物足りなかったんですよね(爆) アニメーションとしてのデキが悪いというわけでもなく、そもそもストーリー自体があんまり劇場用大作アニメに向いてなかったのでは、という疑問を持ったために、そういう風に思ってしまったんですが……どんなもんでしょう、実際のところは。



オススメ度:☆☆☆(デキはそんなに悪くはないです。アニメ好きOR菊池秀行好きの方に)



2001.6.4 同名映画多数?

「スターリングラード」

監督:ジャン・ジャック・アノー
主演:ジュード・ロウ、ジョセフ・ファインズ、エド・ハリス、他

鑑賞日:2001.5.17


 気のせいかなあ……スターリングラードを舞台にした戦争映画は必ず邦題が「スターリングラード」になっているような気が……(爆)


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 第2次世界大戦。ナチスドイツの侵略を前に陥落寸前のスターリングラードの街。指導者スターリンの名を冠したこの街を死守するべく、ソビエト軍は無益な抵抗を続けていた。
 ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)は、その狙撃の腕で若き将校ダニロフ(ジョセフ・ファインズ)を助けた事から、捨て駒同然の歩兵部隊からスナイパー部隊へと転属する。劣勢の中、ダニロフは戦意高揚のためにスターリングラード市内での新聞の発行を再開し、その中でヴァシリは英雄として祭り上げられていく。やがて、そんな彼を倒すためにナチスドイツは、本国からスゴ腕のスナイパー・ケーニッヒ少佐を呼び寄せる。


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 と言うわけで「スターリングラード」であります。今をときめくジュード・ロウ主演……まあこれはいいとして、監督は「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のジャン・ジャック・アノー。ひょっとしたらまた何が言いたいのか微妙に分かりづらい、小難しいヨーロッパ映画風の作品に仕上がっているのではないかという予感がしていたので(って本作はヨーロッパ映画なんですけど……)、実はまったく期待しないで見に行ったASDさんでありました。
 で、実際見てみましたらば、最近流行の第2次大戦物としては非常に分かりやすい、純粋な娯楽映画でありました。なんじゃそりゃあ(笑)


 本編見るまでまったく知らなかったことですが、キャストが意外に豪華なんですよ(笑) ジュード・ロウと仲のいい将校にジョセフ・ファインズ、ロウを付け狙うドイツ軍のスナイパーにエド・ハリス、古参スナイパーにロン・パールマンと、なんかマニアックな品揃えであります(笑)
 予告を見る限り、戦争を舞台にした甘ったるい文芸調のメロドラマみたいな感じかなーと予測していたのですが……これには見事に裏切られてしまいました。
 スターリングラードにおける激戦こそ「プライベートライアン」風にリアルなシロモノですが、緊張感あふれる、手に汗握るスナイパー同士の戦い、女性兵士を巡っての三角関係と、なかなかに娯楽色の強い作品なんですね。
 冒頭の上陸→突撃シーンは確かに「プライベートライアン」的に臨場感あふれるシーンでしたが、実はスピルバーグよりもこっちの方が映画としてお話として、格段に分かりやすい作品に仕上がっております(笑)

 
 ところで本作、一応その「プライベートライアン」や「シン・レッド・ライン」なんかとほぼ同じ時代を描いているハズなんですけどね。ソビエト軍の装備や戦い方が非常に貧弱かつ古風なおかげか、この作品だけ随分古い時代を描いているような錯覚を覚えます。
 同じように爆撃・砲撃でぼろぼろになった廃墟の街を映し出していても、この映画で描かれるスターリングラードの方がまるで文明崩壊後の近未来世界のように絵画的でカッコいいんですよね(笑)
 ま、その辺も含めまして、戦争の悲劇がどうのこうの、というポリティカルなメッセージは皆無の、よく出来た娯楽映画だったと思います。



 どうでもいいんですけど、熱心に新聞記事を執筆しているジョセフ・ファインズの姿が「恋に落ちたシェークスピア」のシェークスピアの姿とダブって見えたのはASDだけでしょうか?(笑) 彼は何を演じてもほとんど変わらないような気が……(爆)



オススメ度:☆☆☆☆(エド・ハリスの渋さもまたオススメ(笑))

 


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