-cinema diary-

8月の映画日記


 

2001.8.9 アイ

「A.I.」

監督・脚本:スティーブン・スピルバーグ
主演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、ジュード・ロウ

鑑賞日:2001.8.1


 ※ネタバレを含みます。未見の方は注意!※


 精巧な人間型ロボットが一般に普及している未来社会。ハリーとモニカの夫婦は、昏睡状態の息子の代わりに子供型ロボットを家族として招き入れる。持たされた機能に基づいて無償の愛を両親に捧げるデイヴィッドだったが、ロボットであるがゆえに彼の愛情は両親には受け入れられる事はなかった。デイヴィッドは、自分が本物の人間になれば愛されるようになると信じ、「人間になるための」長い長い旅に出る……。



 一月ぶりの映画日記です。寂れっぱなしのASDN、唯一の目玉コンテンツだというのに……ううむ、もっとガンガン映画を見ないと駄目ですね(笑)
 そんなこんなで、「A.I.」です。2001年を待たずして死んでしまったキューブリックが10年近く温めていた企画を、スピルバーグが撮ったという、何だか不思議な取り合わせの映画であります。
 原作はSF作家のブライアン・オールディズ。それはともかく完成した映画のクレジットは脚本・スピルバーグとなっておりまして、キューブリックの名前はどこにもクレジットされておりません。わずかにキューブリック・プロダクションが制作に加わっているっつう事と、映画自体が亡きキューブリックに捧げられている、という2点だけでしょうか。
 うーむ、それじゃ一体、どの辺がキューブリックだったんでしょうか……というような考察は多分ネット上のあちこちでやられているような気がしますが(笑)



 で、まあ見ての感想ですが……なんかコメントの難しい映画です(笑)
 160分という上映時間は充分短く感じられますし、スピルバーグらしくSFっぽい画づくりは結構悪くはないです。だのにこの映画、何故か物語が進展するにつれ、それを見ているASDの感動は醒めていくのでありました。割と駄作でも結構簡単に映画の世界に入り込むASDなのに、この映画のラストシーンでは、ASDはすっかり素に戻ってしまいましたよ(爆)
 うーむ……どうなんでしょう? ネット上で色々と検索かけてみましたが、確かに評価は見事に割れておりますね(笑) 「やぱ富士」関連でも、たまきさんは泣けたと申しておりましたが……うーむ、分からん!
 まあ、そう騒いでいても仕方ないので、ASDの所見をつらつらと述べていきます。
 まずASDの個人的印象として、ハーレイ少年演じるデイヴィッドが、果てしなくかわいくないです(笑) まあ、彼の愛くるしさがウリなんだろうなーという理屈は分かるのですが、それにしても、彼のスマイルが愛くるしいどころかかなり不気味に見えるのはASDだけなんでしょうか? てゆうかハーレイ君、キミちょっと前より顔が太ってない……?
 うーむ、どうなんでしょう? ASDがひねくれているんでしょうか。でも、意図的にそうしてあるのかも……という風にも思えるんですよねえ。何てったってキューブリックですから、単純に少年のけなげな姿で涙を誘うような、そんな作品を撮ろうとしていたとは、ちょっとねえ……?
 そもそも根本的な部分で、彼の存在、というか彼が両親(つうか母親限定ですけどね)に抱く愛情というのには、どこか嘘くささが漂います。
 というのは、彼自身が母親に抱いている愛情というのは、そもそも人間の手で意図的にインプットされた情報に過ぎないわけです。彼自身の持つ感情は本物かも知れませんが、そのきっかけからして他者に植え付けられたものでしかないわけですから、それを元にした彼の言動・行動の全てが、かなりウソくさく見えてしまうわけです。
 ひねくれもののASDさん、そういう醒めた目でこの作品を鑑賞していたわけですね(爆) そういうヒネた目でみると、彼の持つ「愛」という感情はなんともリアリティに乏しい、根拠の無いシロモノにしか見えないわけです。そんな「愛」ゆえに、いくら彼がけなげにも大冒険を繰り広げても、その一挙一同にちっとも胸が踊る事がないわけです。
 ですので、見ている方としてもどこで感動すればいいのか分からない、ちょっとハズし気味の作品だったなあ、というのがASDさんの率直な印象なのでした。



 ……とまあ、そこで終わると単なるケナシですよね(笑) もちろんハーレイ君の健気な姿にに胸を打たれた方も、おそらくいると思います。そういう方にしてみれば、上の文章は感動に水を差す、何と無粋なものに見えている事でしょうか(爆)
 さすがにそれではアレなので(どれ?)、も少しウンチク的考察を重ねてみたいと思います。
 本作の重要なキーワード……それは「ピノキオ」です。
 ピノキオに関しては、大体皆さんご存じでしょう。ウソをつくと鼻の伸びるアレですね。ゼペットじいさんのつくった木彫りの人形ピノキオが、妖精の魔法で本物の人間になるというアレでございます。
 この「A.I.」という映画、ある意味そのまんま、「ロボット版のピノキオ」ともいうべきお話になっています。実際作中でもその物語を引用し、実際に「妖精を探す」という旅を、物語はデイヴィッド少年に強いているわけです。
 しかし、だからと言ってこの映画が、単なるピノキオの翻案かと言えば、それはノーです。



 ……ときに、皆さんは「ピノキオ」というお話の詳細を、どこまでご存じでしょうか。
 ASDは一応ディズニーアニメの「ピノキオ」を過去に鑑賞した事があるんですけど、実はこのピノキオ、とんでもない悪ガキなんですよね(笑)
 嘘をつくと鼻が伸びる、というのは有名ですが、ナンデそうなっているのかと言いますと、実は彼があんまりにもでたらめな嘘ばっかりつくので、妖精がそういう魔法をかけて嘘つくんじゃないよ!と指導をしたわけです。
 そもそも、妖精との約束も「いい子になったら人間にしてあげる」というような約束で(すんません、ちょっとうろおぼえなんで、違っているかも……)、木彫りの人形としてぽっと生まれ落ちたピノキオ少年は善悪の判断がうまくつかずに、悪辣ないたずらばかり繰り返しては、妖精に諌められるという事のくり返しなのですね(爆) 相棒であるノミのジミニー・クリケットも、ピノキオが悪さしないように、と妖精から言いつけられたお目付役ですし……。
 例えば、作中にこんなエピソードがあります。ピノキオ少年、お目付役のジミニー・クリケットの目を逃れて、子供達だけの楽園である、とある遊園地に連れていかれます。その遊園地というのは実は悪徳商人の陰謀でして……いたずらの限りをつくして、堕落してブタになった子供たちを家畜として売り捌こうという、とんでもない(いろんな意味でとんでもないッスけど、まあファンタジーですから(笑))策略だったわけです。しかもピノキオ、まんまとこれにはまってブタになりかけ、すんでの所をジミニー・クリケットに助けられるというありさま。
 つまり、ピノキオってそういう悪ガキなんですよ、実は(笑)
 そういう事を踏まえた上で、現代のピノキオ・ストーリーである「A.I.」を見てみますと……。
 親許を離れて旅に出たデイヴィッド少年は、右も左も分からないうちに、ロボットを憎む人間に捕まってしまいます。彼はここで、ロボットを見せしめのために破壊するショーに連れていかれ、危うくそこで最後を迎える所でした。
 そのジャンク・ショーのシーンも、なんか演出として典型的なまでに、悪意たっぷりに描かれているのですね。一応、ロボットを破壊して人間の尊厳を取り戻すとかいう戯言をほざいてますが、人間そっくりのデイヴィッド少年が泣き叫ぶところを目の当たりにして「可哀想だー」とブーイングが起こる短絡ぶり。確たる思想の無いさまを思いっきり露呈しておりました。
 デイヴィッド少年はそこでジゴロ・ロボットのジョー(ジュード・ロウ)と出会い、彼に連れられて今度は歓楽の街ルージュ・シティに連れていかれます。あんまりと言えばあんまりな街のケバケバしい外観。直接的にエッチな描写があるわけではありませんが、それが無いことが余計に、この街の存在をギャグに見せてます(笑) そもそも、ジョーの存在もほとんどギャグなんですけど(爆)
 デイヴィッドはこの街で情報を得て、その後水没したマンハッタンにたどり着きます。そこで彼は自分を造った、ホビー教授という人物に遭遇するのですが……。彼がそこで見たのは、商品として大量生産される「デイヴィッド」達。彼はそこで、自分が単なる、売り物のロボットでしない事を知るのでした。
 こうやって見てみると、デイヴィッド少年の旅というのは、なんと過酷な旅なのでしょう。彼は最初に人間達の破壊衝動に遭遇し、次に歓楽という名の堕落に遭遇し、最後に彼を売って儲けようという強欲に遭遇するわけです。
 考えてみりゃ、何ともせつない旅ではないですか。「人間になりたい」と願い続けて旅をする少年が行く先々で出会うもの、それは人間に対して絶望を覚えても無理のない、人間のネガティブな側面ばかりなのですね。
 そこには、人間をポジティブに見る視線は見られません。デイヴィッド少年がそれを自覚していたかどうかはともかく、彼の人間になるための旅は同時に、人間に絶望する旅でもあったわけです。
 そう、「愛」を求めて旅をしていたはずなのに、彼が直面するのは何とも愛のない光景ばかりなのです。ジャンクショーでは愛のないままにロボット達は破壊され、ルージュシティでは「愛」はかりそめの享楽にしか過ぎません。そして作り主は彼に「愛」をもつどころか、単なる「物」としてしか扱おうとはしませんでした。
 デイヴィッドはその旅の最後に、水没した都市のその海の底に、ようやく探していた「妖精」を見出します。それは遊園地の、「ピノキオ」のアトラクション……って、思いっきりニセモノじゃないですか(爆)
 そういう意味ではこのシーンは、純朴な少年が目指すモノを発見したと同時に、実は絶望した人間からの逃避場所を見つけたという事だったのではないか、というウラの解釈も成り立つような気がします。
 人間になりたいピノキオ少年の旅は、誘惑に満ちた旅でした。彼は何度もその誘惑に負け、自分を見失いそうになります。
 対照的に、人間になりたいデイヴィッド少年の旅は、絶望に満ちた旅でした。しかし彼は最後までその絶望に屈する事なく、人間を信じてみずからも人間になりたいと願うのです。ピノキオ少年と違って、なんと一途、なんとけなげ! なんともせつない旅の、その最後に彼がすがったものが、造り物の妖精の像……なんともまあ、やるせない結末ではないですか。



 しかも、そこでやめとけばいいのに、物語はどうにも解釈に戸惑う、よく分からない方向へと収束していきます。
 妖精と共に水没したデイヴィッド少年は、2000年後の未来に、人間ではない存在(宇宙人か何か?)によって発見されます。彼が眠っている間に地球は氷河期を迎え、そして人間は当然のように絶滅してしまっているのでした。
 「人間」に関する情報、という彼らにとってかけがえの無い情報を持っていたデイヴィッド。彼らはそのデイヴィッドへの恩返し?として、彼の母親をクローン技術で再生するのです。それが、1日という期限付きなのもまたせつないのですが……。
 考えて見れば、元々デイヴィッド少年の存在自体、両親の心の空白を埋めるために造り出された「偽りの愛情」でしかないわけです。そのデイヴィッド少年もまた両親の愛を求め……その彼のために彼らが用意した母親のクローン、考えてみりゃこれもまた、デイヴィッドの心の空白を埋めるための、「偽りの愛情」、偽りの存在でしかないのではないでしょうか。
 考えてみれば……彼が旅に出たその発端からして母親からの「拒絶」だった事を考えれば、デイヴィッド少年が求めてやまなかった「愛」なるものは、求めても決して手に入れられるものではない、という解釈が、恐ろしい事に成り立ってしまうのでありました……。  ……。



 うーん、こんな解釈をしてしまうASDがとんでもないひねくれものなのだと言ってしまえばそれまでなんでしょうけど、さすがにこの結論はちょっとヒドいなあ、と思わずにはいられないASDでありました(爆)
 もちろん、そんなダークでひねくれた解釈などせずに、普通に「けなげなデイヴィッド少年大冒険!」として、彼に感情移入して感激する、そういう見方もアリでしょう。
 また、例のラストシーンですが、もう一つ別の解釈も存在します。最後に母親が復活した例のシーンは、言ってみればヴァーチャルリアリティみたいな、架空の、仮想の世界の中のシーンで、そこでデイヴィッド少年は母親と一緒に有機体のボディを与えられた、という見方も実は可能なのですね。
 その証拠に、本編中ではただの一度も瞬きしなかったデイヴィッド少年が、このラストの母親とのシーンでだけ、瞬きをしたり涙を流したりしているわけです。つまり、ここで彼の「本物の人間になりたい」という夢は実現しているので、これをある意味ハッピーエンドと解釈する事も実は可能です。
 ただその場合でも、母親の方に一日分しか寿命が無かったように、彼自身にも一日分しか寿命は無いのかも知れません。だとしたらそれまたせつないなあ。哀しいなあ。しかもその場合でも、先述した「偽りの愛」説が適合しないかと言えばそうでも無かったりします。うーむ。



 そんなこんなで、本作はスピルバーグの作品としてはかなり解釈の難しい作品に仕上がっておりました。前作「プライベートライアン」なんかも何が言いたいのか微妙に分かりづらかったりしたのですが、あちらは一応戦争映画らしい迫力と感動の押し売りで取り敢えず何が何だか分からないままにも盛り上がれるのに、本作はそれとは見事に対照的だったと思います。
 もし……この作品を実際にキューブリックが撮っていたとしたら、その辺りどうなっていたのでしょうかね。泣けばいいのか、首をひねればいいのか、素直に楽しめばいいのか……も少しその辺りストレートに伝わっていたかも知れませんし、あるいは「2001年〜」のように、もっともっと超難解な作品に仕上がっていたかも知れません。
 そういう意味では、実はテーマに対しての分かりやすさ、解釈のしやすさは、これでもかなり「しやすい」方なんじゃないのかな、という気もしないでもないです。この映画を面白いと思うかつまらないと思うかはともあれ、何らか自分なりに解釈しようと思えば、それなりに答えは用意されているように思います。
 そう考えると、最初に感じたよりは、実は親切なつくりの映画だったのかも知れません(笑) 画一的な解釈、というのはキューブリック自身が嫌っていた要素だったはずですし、ある意味では多様な解釈はあらかじめ盛り込まれたものである、と言えるかも知れません。
 観客が戸惑う事を承知の上でそういう風につくられた本作、ある意味では「分かりやすさ」を信条とするスピルバーグが「キューブリックっぽい映画」を、敢えて狙った作品だった、という事なんでしょうなあ。それで娯楽映画として成功しているかどうかは、また別問題だとは思いますが。



オススメ度:
娯楽を求めたいあなたには……☆
色々と考察を巡らせたいあなたには……☆☆☆☆



 


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