-cinema diary-

11月の映画日記


 

2001.11.6 Knockin' on your door

「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」

監督:渡辺信一郎
脚本:信本敬子
キャラクターデザイン:川元利浩
音楽:菅野よう子
アニメーション制作:サンライズ/ボンズ

鑑賞日:2001.9.21

公式サイト:http://www.cowboybebop.com/


 21世紀。位相差空間ゲートによって人類は太陽系への進出を果たしたが、同時にゲート事故という未曾有の危機によって太陽系社会は混乱を極めていた。多種多様化する犯罪、広大な宇宙に散ってしまった犯罪者・犯罪組織……。彼らには個人や司法機関によって多額の賞金がかけられ、「賞金稼ぎ」という商売が浸透していった。人々は、そんな賞金稼ぎたちを、「カウボーイ」と呼んだ。
 2071年、火星。ハロウィンを目前にしたクレーター都市アルバシティー。高速道路で発生した爆発事故は、500人以上の死傷者を出す大惨事となった。火星政府は犯人に対し、3億ウーロンという巨額の懸賞金をかける。
 スパイク、ジェット、フェイ、エドのおなじみビバップ号一行も、この多額の賞金に注目する。しかも別の賞金首を追っていたフェイは、この現場に折りしも遭遇し、犯人とおぼしき人間を目撃していたのだ。最初は乗り気ではなかったスパイクやジェットたちも、それぞれに犯人を捜し始めるが……。


    *    *    *


 完全にTVシリーズの番外編という事で、あらすじ書きにくいですね(笑)
 そんなこんなで本作は、TVアニメ「カウボーイ・ビバップ」の、待望の劇場用オリジナル最新作、という事になっております。
 一応元のシリーズに関して言及しておきますと……TV版は98年にテレビ東京系にて13話分が放送されたのち、98〜99年にWOWOWにて完全版・全26話が放送され、その後ビデオ・DVD化されたというちょっとややこしい経緯があります(笑)
 これに関しては、諸般の事情で13話分の放映枠しか取れなかったのだとか、一時期のポケモン騒動やら少年凶悪犯罪やらの影響で、テレビ東京サイドから半分以上のエピソードがNGを食らったのだとか、まあ色々と壮絶な事情が噂されているんですけども(笑)
 結果的に、最終的にビデオリリースを睨んでクオリティを追い込んでいったこのシリーズは、TVアニメの常識をはるかに逸脱した、超絶的にハイクオリティなシロモノに仕上がっておりました。内容的にはありがちなSFモノなんですけども、それだけクオリティの高い作画や、映画っぽさを意識した演出、ハードボイルドな大人の雰囲気といった部分で、何げに高い評価を得ている作品です。
 その、待望の劇場版ということで……これはASDさんも随分期待していたんですけどねえ。
 まずガッカリだったのは、TV版のそんなハイクオリティが裏目に出てしまったのか、別に劇場版だからといって、劇的にグレードアップしているということが全くなかったのですよ(笑) TV版自体が劇場アニメに匹敵するくらいのハイクオリティだったわけですが、劇場版に関して言えばクオリティ的にはほとんど同一か、むしろ尺が長い分アラが目立ってたくらいです。
 そう考えれば、「劇場版」という気合の入った名称とは関係なく、単に尺が長いだけの「スペシャル版」の域を出るものではありませんでした。まあ、これが「ビバップ」でなければ、むしろ「うわーすごいなー」と素直に誉められるたぐいのクオリティではあったんですけどね。
 そしてもう一つガッカリだったのが、内容の方までも、割とヒネリのないスペシャル版らしい内容だったという点です。
 劇場版という事で、TV版のレギュラーキャラはもちろん全員登場しています。主人公であるビバップ号の面々ほか、意味不明の助言をくれるインディアンのオッサンとか、たまに裏情報をくれる昔の同僚とか、そういう準レギュラーキャラもしっかり押えてあります。TV版でおなじみのあまり役に立たない賞金稼ぎ向け情報番組もちゃんとやってますし、何故かどこの星のどこの街にもいるジジイ三人組も今回もきちんと登場します(笑) とにかく、テレビシリーズを知っている人ならそういうのを一つ一つ見ては、ニヤリと出来る事確実です。
 また、ストーリーもTV版自体がかなり映画を意識した作りでしたが、本作はそのまんま映画らしい長尺を生かした、凝ったプロットが用意されています。ゲストキャラも、カッコいい悪役にカッコいいヒロインがばっちり用意されていますし、銃撃戦に格闘戦にカーチェイスに、戦闘機によるドッグファイトと、とにかくサービス満点なのですなあ。
 ……が、しかし。
 結局、お話としてはTVシリーズの基本パターンであるところの「賞金首を追う」展開を、ストレートになぞっているだけなんですよ。別に同じプロットで、TVの方で前後編くらいでやってたとしても、さほど違和感の無いエピソードだったと思います。
 まあ、TV版の最終回を踏まえれば続編は作りようがないですから(なんでかは見ていただければ分かりますが)、TV版の展開を逸脱した、驚愕の新展開!とかは望むべくも無いのでしょうが……。



 基本的に、この「ビバップ」という作品はキャラクタがメインのお話です。
 活躍するのは主人公達、というのは当然なんですけども、描かれるのは決して彼ら自身の物語ではありません。毎回違うゲストキャラが出てきて、ストーリー的には彼らのドラマに焦点が当てられ、そこに絡んでくるレギュラーキャラ達の活躍にクローズアップする……まあ、長期シリーズなら当たり前の手法ですよね。
 キャラクタが、自分のドラマではなく他人のドラマに介入し、活躍する……キャラメインのお話では基本的なパターンではないかと思います。「他人」に相当するゲストキャラを際限無く用意して、そのキャラの数だけメインキャラの活躍が描けるわけですね。「ルパン三世」などのエンドレスに続く作品はほぼこのパターンを踏襲しているはずです。ってゆうか、「他人」のドラマではなく「自分」のドラマに焦点を当ててしまうと、そこに解決が見出せた時点で作品は完結してしまいますからね(笑)
 逆に言えば、最終回なんかは敢えて「自分」のお話に焦点を当てることで、特別な盛り上がりを見せるのではないかと思います。「他人」へ焦点を当てるのと「自分」に焦点を当てるのとでは、当たり前の話ですが「自分」の方が格段に盛り上がります。「他人」の話はあくまでも他人事でしかないですからね。
 で、この劇場版はテレビシリーズの他のエピソードと同じく、「他人」の話が描かれています。それこそ、いつも通りのノリなんですよね。テレビシリーズならルーチンワークですから「いつも通り」でもいっこうに構わないのですが、さすがにスペシャル版で「いつも通り」というのはちょっと困ってしまいます。
 ふと振り返ってみれば、「ルパン三世」なんかの場合スペシャル版やちょっと特別なエピソードの場合、ルパンや次元の過去に触れたりするわけです(笑) ただ彼らの場合、「○年前にこんな盗みをやって……その時の因縁が……」というパターンでやっぱり際限なくそういうエピソードは作れるわけですが(笑)、「ビバップ」の場合主人公スパイク・スピーゲルのドラマはテレビ版の最終回で壮絶な銃撃戦の末すっぱりと解決?してしまいましたので、それ以上触れるべき過去もないんですよ、実は(笑)
 彼に限らず、主人公サイドのお話に関してはTVシリーズ26話分でそれなりに語り終えてるんですよね。もし語れるとすればそれはTVシリーズの「その後」ですが、それが無理なのは先述の通りです。
 そういう意味では、せっかくの劇場版なのに、敢えて「他人」のお話に徹するしかないわけです。どれだけゲストキャラのエピソードとして掘り下げていっても、主人公キャラの掘り下げにはならないわけですから、ドラマ的なツッコミの甘さは回避出来ないわけでして……。
 これが尺が30分しかないのならそんなものかと思うのですが、2時間もあるわけですから、何してんだ一体、という風には思いますよね(笑)
そうです。一番困るのは、結局テレビシリーズ最終回のテンションにはっきりと負けている、という事なんですよ(爆)
 前述のように、主人公にとっての「自分」のドラマとしては、最大級の盛り上がりをすでにTV版の最終回で見せてしまっているわけで、「他人」のドラマでそれに勝る盛り上がりを見せるのは極めて困難ではないかと思います。
 しかるに……ストレートに「いつも通り」のパターンを追求したこの劇場版は、「他人」のドラマとして、結局「シリーズの中の一話」的なエピソードの中に埋没してしまっているんですよね。そういう意味で、劇場版を単体で評価しようと思うと、確かにちょっとツライです(笑)
 結局は、「劇場版」というスペシャルな括りの中で、それに相応しくお祭り騒ぎ的に盛り上がるしかない、という事なのでしょうか。結果的に、シリーズ中のレギュラーキャラ総出演、のような「ファンならニヤリ」的要素を追い込むことで、スペシャルな雰囲気を演出しようというのでしょうが……。
 なんかねえ……そういうどんくさい盛り上がり方が、「ビバップ」らしいカッコよさを体現しているかというと、それは決して違うんじゃないか、という気がするんですよ。こんなのビバップじゃなーい!てなものでして。



 実は、思い起こせば似たようなことを、TV版の最終回でも思ったものでした。
 前述の通り、主人公スパイク自身の「自分」のお話として、ドラマ的に最大級の盛り上がりを見せるエピソードです。
 だのに……クールでスタイリッシュでハードボイルドな、シブイ最終回を期待していたASDさんはここで見事に裏切られてしまったのです。「ハイクオリティなアニメ」という看板を背負ってしまった本作は、そのクオリティの高さを実証するかのように、作画スタッフがそれこそ死んでいるんじゃないかという頑張りを見せてくれました。ジョン・ウーも真っ青のあの激しい銃撃戦……。アニメ史に残る、と言うと大げさですが、語り草になる程度にはすんごい最終回でした。
 でもなあ……「ハイクオリティ=画がいっぱい動く」という単純な図式が、ASD的にはやっぱりクールでスタイリッシュでハードボイルドな「ビバップ」らしさに、そぐわないような気がするのです。デキがいいのがひしひしと伝わってくるだけに、ホント惜しいなあ、と思ってみたりして。
 で、おんなじような事を、この「劇場版」で繰り返しているんですよね。
 最終回が、いかにも皆が思い描くような最終回だったように、この劇場版もまた、皆が思い描く、皆がそこそこ満足できる、そういう優等生的な劇場版だったわけです。ここまでテレビシリーズにおもねるような作りなら、もっともっとベタなシロモノでもよかったような気がします。おなじみのテーマ曲「Tank!」が劇場でかかる、という意味でのせこい感動も、否定するものではありませんしね(笑)
 それが嫌だというのなら、やはりせっかくの「劇場版」ですから、ブーイング覚悟でアッと驚く事をやって欲しかったと思います。それこそTV版の結末をひっくり返すような……(笑)
 もしくは、レギュラーキャラ総出演みたいなお祭り騒ぎみたいな事は止めて、主人公一人しか出てこない、みたいな内容でも良かったんじゃないでしょうか。TVシリーズが目指していた「映画的」という方向性にもっと自覚的になって、「映画」としていっちょクールでスタイリッシュでハードボイルドなシロモノをみせて欲しかったなあ……というふうに思うんですけども、どうなんでしょうかね。



 ……とまあ、色々苦言を申してきたわけですが。
 実際のところ、「アニメを見た」という意味では「千尋」よりも何十倍も楽しめる作品だったのではないかという気もします(笑)
 「千尋」では希薄だった、アニメーターの意地や根性や気合といったものを充分に感じる、「技あり」な感じの作画も多く見られましたし……文句も言ってきましたが、ジブリがディズニーまがいのヘンなブランド権威をちらつかせるものになってしまった今、こういう形でリミテッドアニメの一種の到達点をみせてくれる作品がちゃんと存在しているという事に、いちアニメファンとしては感謝しなくてはいけないのかも知れません。それとはまた別の話ですが、いわゆる「巨匠」みたいに監督のネームバリューが先行しない、作品本位の劇場アニメというのも貴重な存在ですし……。
 そうやって見ていくと、内容が「ビバップ」ファンへのご祝儀みたいなものではなければ、もっともっと高い評価を下したいところなんですけどね……。



おすすめ度:☆☆☆(贅沢いわなきゃいいんですけどね(笑))




2001.11.4 3匹目のドジョウ

「ジュラシックパーク3」

監督:ジョー・ジョンストン
製作総指揮:スティーブン・スピルバーグ
主演:サム・ニール、ウィリアム・H・メイシー、ティア・レオーニ、他

鑑賞日:2001.9.28


公式サイト:http://e.goo.ne.jp/JP3/



 恐竜達の暴走により崩壊した「ジュラシックパーク」。そこから生還を果たした古生物学者のグランド博士はその後も恐竜の研究を続けていたが、慢性的な資金の枯渇から行き詰まりを見せていた。
 そんな彼の前に現われたのは、冒険を趣味とする大富豪のカーヴァー夫妻なる人物。彼らはコスタリカ沖に今も残る恐竜の島「サイトB」ことソルナ島の遊覧飛行を計画し、グラント博士にガイドを依頼してきたのだった。パークでの経験から二度と島には近づかないと誓ったはずのグラント博士だったが、資金提供の誘惑には勝てずに、彼らに同行する事になる。だが、夫妻には遊覧とは違う目的があった……。


    *    *    *


 うーむ、「ジュラシックパーク」(以下JP)もこれで3作目。93年公開の1作目からすでに8年が経過しております。その間にハリウッド版「ゴジラ」やらディズニーの「ダイナソー」やらを挟んで、もう恐竜がCGで動いたくらいでは誰も驚かなくなってしまいましたね(笑)
 思い起こせば、1作目は単にCGで恐竜を動かしたのみならず、フルCGで動かしたキャラを実在の俳優と「共演」させるという意味で、「ターミネーター2」と並ぶ革新的な作品だったのではなかったかなあ、と思います。
 ただ「T2」の場合、液体金属という設定の敵ターミネーターの通常の姿は、結局人間の俳優が演じていたわけですが……。この「JP」に関しても、1作目ではメインで活躍していたのは実際はアニマトロニクスの恐竜だったわけです。
 そもそも1作目では、恐竜はストップモーションアニメで作る予定でした。途中でCGに切り替えたわけですが、これが存外にイイ感じだったので、調子に乗ってCGをもっと増やして作ったのが「JP2」だったわけで……そういう流れから言えば、今回の「3」は「CGで恐竜を描く」という意味においては、シリーズの総決算みたいな作品だったと思います。
 ただ、「恐竜」もはや技術的にはすでにやりつくされた感のあるネタですし、ストーリー的にも意外性もなんもあったものではありません。映像にしろお話にしろ、インパクトがまるでないのですよ(笑)
 作る方もそれが最初から分かっているのか、1や2を越えよう!という熱意みたいなものはひとつもなくて、単に1、2のヒットにあやかって手堅く儲けようという、続編としては実に志の低い作品だったと思います(爆) 内容はもう、過去作の焼き直しもいいところで……。
 ストーリー的にJP2は数学者マルコム博士を主役にした番外編っぽいお話でしたけど、今回は1の主人公グラント博士が主役ということで、割とストレートに続編らしい映画だったのではないかと思います。いかにも続編、という感じのどうでもいいような小ネタが色々出てきますし(笑)
 そもそも尺自体90分と短いですし(1も2も2時間超えてたんですけど)、吹き替え版が同時上映だったり、流血なんかのエグいシーンが大幅に減ってたり、まあいろんな意味で「子供向け」というニュアンスが非常に強い作品でありました。そういう意味でも、手堅い造りだなあ……と感心してみたりして(笑)
 映像を見ていきますと……CGの恐竜は質感も確実にアップしていますし、CGの使用比率も確かに増えているように見えました。また1の時に技術的な理由で断念されていた翼竜の登場が今回ついに実現したということで……ちょっとだけ感慨深かったかも知れません(笑)
 そんなこんなで、見た人の満足度は意外に高そうな感じでしたが、全体的には見る前の予想を良い意味でも悪い意味でもまったく裏切らない、実に手堅い作風の作品だったなあ……というのが鑑賞後の印象です。
 ある意味では、CGを担当したILMの技術をデモンストレーションするような、そんな作品だったのかも知れません。……って、よく考えりゃ「ハムナプトラ2」の感想にも似たような事を書いた記憶が……(笑)
 そうそう、その「ハムナプトラ2」も、本作と同じくユニヴァーサル映画の作品なんですよ。大作目白押しの今夏を、安易なCG映画で乗りきろうとしたユニヴァーサル映画ですが……うわ、なんかよく考えたらILMにおんぶにだっこ、ではないですか!(笑)
 ま、手堅いって言えば手堅いんでしょうけどねぇ……。



おすすめ度:☆☆☆(期待しなければ良、といったところです)




2001.11.4 スンマセン

「千と千尋の神隠し」

監督・脚本:宮崎駿
アニメーション制作:スタジオジブリ

鑑賞日:2001.9.4


スタジオジブリ公式サイト:http://www.ntv.co.jp/ghibli/



 と、いきなりタイトルで謝っているASDです(笑)
 ……うーむ、ホントは書くのやめようかと思ったんですけどね(笑)
 あちこちで評価の高い作品ですので、ここであれこれ言ってもいろんな人を敵に回しそうな気もしますし(笑)
 それに、ASD的にはジブリアニメは2度以上見ると評価が完全に変わっちゃいますので(「もののけ姫」がそうでした)今暴言吐くとあとで恥をかくだけのような気がしますが(笑) もうすでにあちこちで「ツマンナイ」と言い切ってしまった関係上、どうツマンなかったのか書いとかないと示しがつかないという事情もありますので、敢えてけなしてみたいと思います(爆)
 そういうわけで、この映画にハマってすでに劇場で4回も5回も見ているような人は、ここから先を絶対に読まないで下さい(笑) ホントですよ! 約束ですよ! 読んでも何の責任も取りませんよ!(笑)



 ……まあ前置きはそのくらいにしておいて。
 何がツマンなかったかといえば、やはり「宮崎駿は年をとってしまったんだ」という、その一言につきます。
 宮崎監督ももう60歳です。そもそも「風の谷のナウシカ」を作った時点でもう40近いオッサンだったわけですが(笑) 実際、宮崎監督は常に「子供向けの作品」を作ってきたといいますし、若さの暴走にまかせて、好き勝手な映画を作ってきたわけでもないでしょう。
 ただ、「子供向けの映画」といってもそれにはひとつ意味があります。確かにアニメ=子供向けというのが一般的な見方ですけども、例えば同じように子供向けとして作られているディズニーなんかは、正確には「親が安心して子供に見せられる」アニメなんですよね。確かにメインの観客は子供ですが、その実は子供を劇場に連れてくる、親の満足度を睨んだ作品づくりをしている(していた)のがディズニーだったわけです。
 宮崎監督はこれに異を唱え、本当の意味での「子供向け」……親の顔色を窺わない、本当に子供が見て楽しめる作品を作ろう、というような創作をずっと行ってきたわけです。
 それを反映して、過去の宮崎アニメは、活劇として理屈抜きに面白い作品ばかりです。時には、銃をハデにぶっぱなしたり、子供の主人公が煙草をふかしたり、血こそ流れませんがバタバタと人が死んだり、そういう毒のある描写もふんだんに取り入れられているわけです。
 そういう、表面上だけ「教育」に配慮したお上品な作りを否定した、という事も含めて、宮崎アニメはとにかく「面白さ」を追求していた、と言えるでしょう(余談ですが、そういう観点から見ていけばディズニーも意外とえげつなかったりするんですけどね(笑))。活劇として完成度が高いがゆえに、大人が見ても面白かったわけです。そういう意味で、特に子供の観客に限定しない、大人から子供まで広く楽しめる、普遍的な娯楽映画になっていたわけです。
 しかし、宮崎駿はこういう創作行為に、果たして満足していたのでしょうか。
 「理屈抜きの活劇」を繰り返し描き続ける一方で、彼の作品は例えばエコロジーに関する提言など、テーマ性を持った作品としても高い評価を受けています。事実、「ナウシカ」や「トトロ」や「もののけ姫」という作品で、宮崎監督は彼なりのメッセージを作品に込めて来ました。
 とは言え、そういう説教くさい作品づくりは、「理屈抜きの冒険活劇」とはある意味で矛盾するやり方です。説教が入った時点で「理屈抜き」では無くなってしまいますからね(笑)
 テーマ性を追求していけば娯楽映画からは逸脱し、娯楽映画である事に徹底すれば、充分なメッセージは込められない……宮崎駿というクリエイターは、そういうジレンマを内包した人物だったのです。
 娯楽性が圧倒的に強かった70年代。「ナウシカ」や「トトロ」という作品で両者が絶妙なバランスをとっていた80年代……。それらに比べると、90年代の宮崎作品には「悩み」が顕著に見えていたように思います。
 「エコロジー」と「楽しい活劇」が高度に融合していたのが88年の「となりのトトロ」でしたが、その後89年の「魔女の宅急便」では何故か「少女の成長」という慣れないテーマに挑み、ちょっと危なっかしいデキになっていました(笑)
 92年の「紅の豚」は戦争ドンパチアクションという直球な娯楽映画でありながら、ノスタルジィをふんだんに振りまく事で、娯楽に徹する事への後ろめたさが見え隠れする作品になっていました。
 その後、97年の「もののけ姫」においてこのジレンマがついに大爆発してしまうわけです(笑) この作品で彼は、娯楽映画である事を捨て、自分の中のエコロジーに関する問題にがっぷりと取り組んだわけですね。映画としては支離滅裂な失敗作でしたが、ちょっと異様なエネルギーに満ちた怪作に仕上がっていました(それが何故日本映画史上に残るヒットになったのかは未だに謎ですが(笑))
 この作品で、宮崎監督はそれまでの作品にあった、いくつかの要素を捨てました。
 まずこの作品、過去の作品で顕著だった、いかにもアニメらしい誇張表現やディフォルメ表現を避けて、汚いものや残酷表現などを、あるがままに描き出していました。ジブリ作品の特色であった、動きの軽やかさや絵の清潔感(これはアニメなら何でもという気もしますが)を敢えて捨ててしまったわけです。
 そういう「重い」表現にて、「重い」テーマを扱っていたのが「もののけ姫」だったわけですが、この手法は実は「千尋」においても継承されているのです。……まあ、ASDにはそういう風に見えました、というだけの話かも知れませんが(笑)
 例えばこの映画、カオナシの暴れっぷりはまるっきり「もののけ」のダイダラボッチ風で、生きている人間を丸呑みにしたりしてそうとう怖い感じですし(笑)、泥神はホントにどろどろとバッチイ感じですし(笑)、負傷した白龍は血まみれでホント痛々しい感じです。「誇張やディフォルメをせずに、あるがままを描写」しているわけですね。
 それは単純に作画の問題だけではなく、シナリオや演出の面でもそう言えるのでは、と思います。
 例えばこの映画、「少女の成長物語」という側面を持っていながら、主人公である千尋の視点にはさほど立っていません。彼女の心情などにはあまり深く触れずに、彼女が体験・遭遇したすべての事象を、さほど主観を交えずにありのままに描写している……そういう風にも見えます。
 もちろん、お話自体は千尋が見たものだけを追っかけていってますので、一見彼女の視点に立っているように見えない事もないですし……その他、湯婆婆がいかにもな悪役だったり、両親が豚になるシーンとかもかなり怖かったり、そういう部分で千尋の心情を反映していない事もないのですが……。両親の振る舞いは豚になってもさほどおかしくないように描かれてますし(物語の動機づけとしては確信犯的に失敗しています)、湯婆婆だって千尋を希望どおり働かせてましたし、色々ずっこいこともやってましたが純粋に悪役かというと、憎めない一面もあったかと思います。
 また、作品のテーマという面でも、かなり焦点の合わない感じに仕上がってます。千尋をお湯屋で働かせて、頑張るけなげな姿を見せたかと思えば、突然泥神がやってきてエコロジー的なニュアンスを漂わせたり、思わせぶりにカオナシを登場させたり、ハクを助けるべく千尋を奮闘させたりして少年少女の物語を描いたりしているわけです。地道な成長物語であったり、エコロジーな主張を試みたり、突如として冒険物語に転向したりしているわけですなあ。
 そこでは単に起こっている出来事を右から左に順番に流しているだけで、そこにどういう意味があって、こういう風に観客に思って欲しいという、演出としての情報操作がほとんどなされていないのです。ストーリーに盛り込まれている情報が、かなり未整理なままに観客の前に提示されてしまっているんですよね。
 結果的に、観客はただ目の前で起きる事を右から左に眺めていくだけで、あとの事は観客自身が判断しなければいけないのです。結局映画が何を言おうとしていたのかも、解釈は観客に委ねられています。明確にテーマを定め、それに沿って、いるシーン、いらないシーン、強調するシーン、さらっと流すシーン……とメリハリをつけていけば、尺が微妙に2時間を越えるほど長くもならなかったのではないでしょうか(尺に関しては、3時間くらい必要なのではという意見もありますが……)
 実は「もののけ姫」でも、こういう「右から左」という事をやっていました。しかし「もののけ」の場合、作品自体がまさに答えの出ないテーマを考察していましたので、むしろ観客の思考を促すために、必要な手法だったと思います。
 ところが「千尋」はそうではなくて、本来的には純粋な娯楽映画のはずですから、観客がどう解釈するのかは演出の側でもっと積極的に誘導するべきなのではないかと思うんですよ。それを「いらぬ親切」と言ってしまえばそれまでですけども、本来は「このストーリーはこういう風に解釈して下さい」という押し付けこそが、一般には作品の「テーマ」として観客に認識されるんじゃないでしょうか。
 そういう風に見ていけば、この作品は完全に「失敗作」です。まあ世の中売れたもの勝ちなのは確かですし、面白ければ未完成だろうが粗削りだろうがどうでもいいんですけど、「劇映画として完成しているかどうか」と言う観点に立てば、本作は明らかに「失敗作」と言って差し支えないと思います。



 ……無論、失敗作であるがゆえに、必ずしもつまらなくなるとは限らないんですけどね。印象に残る作品というのは、完璧なまでの完成度を誇っている場合よりも、いい意味で多少の破綻のある場合の方が多かったりするものなんですけどね。
 ですから、そういう破綻が気になって映画に入り込めなかった、というのはまったくのASDの個人的事情なんですけども……少なくともASD的には、こういう失敗作に業界最大規模の人員や予算を投入するのは明らかにムダだと思いますし(爆)、そういうオーバークオリティなのが非常に勿体無いというか、何というか……。
 例えばこの作品、ヒロインである千尋が壮絶なまでに不細工だったり、宮崎監督が本来大好きなはずの銃火器のドンパチなんかが皆無だったり、とにかく映画としてあまりにも「毒」も「華」も無さ過ぎるのはやっぱりどうかと思います(笑)
 というと、白龍が血まみれだったりばっちい泥神や怖いカオナシは「毒」ではないのか、という意見が出そうですけどね。そういう「毒」に、主人公の千尋は遭遇するわけですけども、彼女には「両親を助けて元の世界に戻る」「自分を助けてくれたハクを助ける」という目的があって、その達成のために彼女は活躍しているわけですよね。
 彼女がそういう「毒」に遭遇するという事……それは、そういうイタイ目に会わなければ目的というのは達成できないんだよ、という作品の主張なのではないかと思うのです。つまり、「主人公が目的を達成する」という冒険活劇なら当然のプロセスの成功を、作者自らが楽観視出来ていないことを意味しているのではないかと思うのですよ。
 千尋も大変な目に会っていますが、考えてみればあの「ラピュタ」や「ナウシカ」でも、戦争状況下において多数の死者が出ているわけで、実際「ラピュタ」では悪役ムスカが「人がごみのように死んでいく」と高笑いしているわけで、そういう「痛み」に関しては当時の宮崎駿はさほど自覚的ではなかったわけです。そういう痛みを、主人公が通過儀礼として体験する必要がなかったがゆえに描かれなかったわけで、むしろ千尋やアシタカやサンがそういうイタイ目に遭遇するのは、現在の宮崎駿自身が、物語を非常に悲観視している事の現われなのではないかと思うのです。
 つまり、そういう作者の悲観的視点を反映しての「毒」であって、これは物語のスパイスとしての「毒」とは全く別のベクトルを向いていると思うのです。「明るく楽しい冒険活劇」の語り手が、「明るく楽しく」活劇を語ることを否定したがゆえの「毒」というわけで……そこに、クリエイターとして宮崎駿は昔のままの人ではなくなってしまったのだ、という寂しさをASDは感じているわけです。
 その上で、彼は活劇の「華」をも否定してしまっています。千尋は絶世の美少女ではなく、地道にお湯屋で勤労して、地道にチャンスを伺うという大変地味なヒロインでありました。余談ながら「もののけ」においても、ドンパチやチャンバラがふんだんに盛り込まれているのに少しも心踊ることがありませんし、サンやエボシ、あるいはアシタカといったキャラも、ヒロインとして、ヒーローとしてやや物足りない印象は拭いきれません。
 その上で、シナリオ・演出の面でのメリハリ付けがなされていないという事実もあります。そういう意味では、むしろ「活劇作家」である宮崎駿が、実は活劇を語ることさえ否定してしまった……あるいは、語ろうと思ったが出来なかった……そういう事実を如実に反映していたのが、この「千と千尋の神隠し」という映画だったのではないかな、と思うのです。
 むしろ問題なのは……この作品、宮崎監督的に、そういう「毒」や「華」を語れない事に何かしら忸怩たるものがあるとかそういう事はなくて、むしろこういう「毒」も「華」もないものこそ、子供にとってためになる、見るべき作品なんだ、こういうものをオレは作りたかったんだ、とマジに信じて疑っていないところが、非常になんだかなー、なわけですよ(爆) さらには、血や汚濁といった「イタさ」まで、観客である子供たちに必要な通過儀礼として押し付けているわけですから……ねえ(笑)
 無論、この作品の場合うっかりそういうふうになってしまったのか、それともクリエイターとしてその辺りは確信犯的に盛り込んだものなのか、解釈次第でまた評価も変わってくるんじゃないかと思いますが。もし前者であるとすれば例え大ヒット作になったとは言っても、大きな予算のかかったビッグなプロジェクトを担う監督としては不適切であるといえるでしょう。また後者であるならば……それってこれ以上はない、壮絶な自己満足映画なんじゃないかなー、という気がするのですが……(爆)



 まあそんなこんなで「劇映画」としては確かに散々な感じでしたが(爆)、「アニメーション」としてハイクオリティなのは確かです。さすがに「もののけ姫」の大ヒットの後ですから、「トトロ」みたいに小ぢんまりとまとまった完成度だけはやたら高い佳作みたいな作品を持ってきても誰も納得しなかったかも知れませんし(笑)
 それに、ドンパチ無し、「イタさ」有り、という部分も含めて、「スタジオジブリ」というブランドに求められているだけの内容には仕上がっていたと思います。何はなくとも、「もののけ」ですっかりそういうイメージが定着してしまいましたしねえ……。
 そういう意味では、「こういうものだ」と満足してしまえば、それでいいのかも知れません。「質の高いアニメーション映像のオンパレード」という見方をすれば、デザイン面での豊かなイマジネーションと合わせて、かなり高いレベルでの映像体験が出来る事は間違いありませんし。
 何せここまで文句を言っておいてナンですが、「劇映画」として鑑賞できるレベルのアニメ作品なんて、世の中には数えるほどしかないんですからねっ!(核爆)
 そんなこんなで、あまり色々とうるさく要求しない人には、安心してオススメ出来る作品である、と言えるでしょう。ASDがケナしているからと言って気にする事無く、遠慮なく見に行ってくださいまし(爆)



 ……以上、これでも穏当にまとめてみたつもりです(笑)
 本当は「ジブリアニメはリミテッドアニメを否定した!」とか、「イデオロギー側面から見るジブリアニメ!」とか、そういう切り口もやろうかと思ったんですけど……それこそ誰もついてこないだろうな、と思ったのでやめました(笑)
 要望があれば、どこかにこっそりまとめますけど……無いですよね、ンな要望(笑)



おすすめ度:測定不能(爆)



余談:
 それはそれとして、ずっと上の方に書きましたように、ASDのことですからおそらく2度目を見ると評価がガラリと変わるんじゃないかという気がします(爆)
 そのときに、ASDさんは何をほざいてくれるのか……ちょっと楽しみだったりして(爆)



 


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