-cinema diary-

2003年9月の映画日記


 

2003.9.12 

「マトリックス・リローデッド」

監督:ラリー&アンディ・ウォシャウスキー
主演:キアヌ・リーヴス、キャリー・アン・モス、ローレンス・フィッシュバーン、他

鑑賞日:2003.6.12

公式サイト:http://www.getthematrix.jp/

※ネタバレ有り※

 モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)によって見出された救世主ネオ(キアヌ・リーヴス)は、マトリックスの支配から逃れ、今はザイオンの戦士としての日々を送っていたが、救世主として自分は何をすべきなのかを日々悩み続けていた。ザイオンには、モーフィアスのように予言を信じている者達ばかりではなく、ネオの存在に懐疑的な者達も多かった。
 その上、ネオは最愛のトリニティ(キャリー・アン・モス)を失う悪夢に毎晩苛まれていた。折しも機械達はマトリックスの外の世界の人間達を根絶やしにすべく、ザイオンに大軍を差し向けつつあり、決戦の時は今まさに迫りつつあった。それと時を同じくして予言者からの伝言を入手したネオ達は、緊迫した状況下のザイオンを離れ、マトリックスへと侵入するが……。


    *    *    *


 うーん。
 まぁ何はともあれ、「マトリックス・リローデッド」であります。「あの」マトリックスが三部作としてシリーズ化、2と3で前後編という形で連続公開と相成ったわけですが……。前作でも「マトリックスとは何か?」という謎が前面に押し出されていたように、続編である本作も、用意周到に謎また謎が張り巡らされているような、そんな内容になっておりました。本作「リローデッド」でもいくつかの衝撃的な事実があきらかになっておりますが、それとは別に幾つかの謎の解明は次回作「レボリューションズ」に持ち越し、という事になりまして……ある意味、大変充実した内容だったんじゃないでしょうかねぇ。
 えーと、一応ネタバレ有りと警告させていただきましたが、この文章を書いている時点でまだ劇場公開中のところもありますし、10月には早々とDVDのリリースも決定しておりますので、そういう謎とか衝撃の真相とかに関しては、とにかく本編を見てやって下さいまし(笑)



 というか。
 確かに、「マトリックス」の謎を巡るあれやこれやの中で、この作品でも衝撃の真相が明らかになったり、非常にいわくありげな新たな謎が提示されたり、そういう方向では確かに充実していましたし……また第一作は香港的なワイヤーワークアクションをトリッキーで精巧なCGと、これまたトリッキーでスタイリッシュなカメラワークとで、実にスタイリッシュに描き出すという……そういう一連のアクション表現、ないしはアクションに限らずスタイリッシュな映像表現全般が、それ以後の作品に様々に影響を与えたわけですが……映画のみならずCMやゲームなんかでも散々にパクられたのではないかと思いますが(苦笑)、そういうアクション描写、映像表現のスタイリッシュさ、奇抜さ、斬新さは本作でも健在でありました。というか、着実にパワーアップしているな、と思わせるものがありましたね。
 ……まぁ一部セルフパロディかと言いたくなるぐらいやりすぎな気もしないこともないですが(苦笑)
(100人組み手とか……(苦笑))
 そういう意味では、そっち方面を大絶賛するような評価をしても構わないんですけどねぇ……。ですが常に作品のイマイチな部分や破綻したり無理があったりする箇所へのチェックを怠らない(爆)ASD的には、色々納得しがたい要素が多々見受けられましたので、その辺を色々つついてみたいと思います。
 えー、まずASD的に多いに気になったのは、この「リローデッド」のストーリーが、基本的にメロドラマというか、痴話喧嘩というか……そういう方向を基準として展開していく、という構成になっていた点でしょうか。これにはさすがに、大いに首を傾げてしまいました(苦笑)
 そもそも今回の「リローデッド」は、「トリニティが死ぬ」という悪夢をネオが見てしまった所から始まります。でもって、ラストに至るお話の中で、「トリニティは結局死んでしまうのかどうか」というのが終盤までのストーリー上の懸案であると同時に、これは主人公であるネオ自身がラストまでずっと抱える懸案でもあるのですね。
 結果として、この「リローデッド」という作品のストーリー自体が、ザイオンの危機がどうのこうのを巡るお話ではなく、「1」のラストでくっついたネオとトリニティというカップルの帰趨を描いたお話に終始してしまっているのですよ。せっかく「ザイオンが敵の大群に襲われて大変だ!ああどうしよう!」というタイムリミットサスペンス的な要素を掲げているのに、ネオが「ザイオンを救う」という救世主としての使命と、「トリニティを死なせない」という恋人としての使命を同列に扱ったり、両天秤にかけるような扱いをしてくれるために、結果として「ザイオンを救う」という使命の重みが相対的にかなり薄れてしまっているのではなかろうか、という気がします(汗)
 い、いいのかな、そんなんで……(汗)
 この辺の問題は、途中で話に絡んでくるパーセフォニーという新キャラとのやり取りにも窺えますねぇ。ネオ達一行はザイオンを救うために、パーセフォニーの協力を得なければいけないのに、見返りにネオに言い寄ってくるパーセフォニーに、トリニティが敵意を剥き出しにするんですよ(苦笑) あのー、気持ちは分かるんですけどザイオン滅びる滅びないって言ってる所にそんな痴話喧嘩してる場合じゃないような気がするんですが(苦笑) トリニティの嫉妬心ひとつでザイオンが滅びてしまう、ってのも何だかなぁという気がします(苦笑)
 ……まぁそういう愛する二人の、その愛の行方がどーのこーのってのはそれはそれで当人達には重大問題ですし、人として軽視すべからざる大事な事柄には違いないのでしょうが、そもそもこの「マトリックス」という作品が提示しているのは「人間をがんじがらめに支配するシステム」VS「その支配を脱し、システムに抵抗しようとする人間」という構図に見られるように、人間を支配するシステム、システムに時に支配され、時に抵抗する人間という対立構造のあり方を問うている(ように見える)、という……ものすごくスケールが大きいというか、大げさに大上段に構えたお話なのですよ。
 そういうスケールの大きな問いかけを前に、恋人達がイチャついてどーのこーの、という要素はやっぱこう何と言いますか、レベルの低い話をしているよなぁ、と思わせてしまう側面はないだろうかと、ASDなどは勝手に心配してしまうのでありました(苦笑)
 うーん……まぁその点に限らず、例えばネオ自身の「救世主としてオレは何をすればいいんだ」という悩みに代表されるように、「ザイオンがピンチ!」という目の前に迫った危機があるにも関わらず、作中でのネオ達の行動が、必ずしもそういう直接の危機を回避するための行動に繋がっているようには見えないのが、何げに問題だったような気がします(爆) ザイオンの帰趨よりも、ネオの救世主としてのアイデンティティの確立の方に比重が置かれているように見えるんですけど……。
 ストーリー自体も複雑……というかいらん感じで煩雑ですしねぇ(爆) ザイオンを救うためにはどこそこの秘密の場所にたどりつけばそこにヒントがある、みたいな予言者の言葉を受けて、そのためにはキーメーカーなる謎の人物の協力が必要で、そのキーメーカーと接触するためには誰それと会わなくちゃいけなくて……とやっているうちに、ネオ達が何を目的として戦っているのか、だんだん分からなくなってくるんですよ……。
 ……まぁそれはASDがアホなだけなんでしょうけど(苦笑)、それでもやっぱり、ネオが「ザイオンを救うために」ではなくて「トリニティを救うために」あるいは「救世主として納得できる自分になるために」戦っている、というニュアンスがある以上、「ザイオンに危機が迫っている」=「人類の抵抗運動が風前の灯火である」という今そこにある危機に具体的な実感が伴わないのは、なんだかなー、といったところであります。



 それから、もう一つ気になったのは……上記のパーセフォニーもそうなのですが、この「リローデッド」から登場する事になった、多数の新キャラの存在です。
 ザイオンVSマトリックス、という対立構図が背景にある以上、登場するキャラは大別してザイオン側の人間か、マトリックス内部の人間か、そのどちらかであるわけですが……1の時のようにちまちまとマトリックスの正体に気付いた人間を一人一人サルベージするのが本作「リローデッド」の主眼ではありませんので、「マトリックス内の人間」というのが一般市民であるはずがありません。彼らはその多くがエージェント・スミスのような、マトリックス内部で一定の働きを示す、何らかのプログラムだったりするわけですね。
 そう、これが本作「リローデッド」で新たに提示された設定……というか、世界観だったりします。「1」の時点では単にネオやモーフィアス達抵抗運動家を取り締まるシステム側の敵として「エージェント」という設定があったわけですが、実はマトリックス内部には他にも多数のプログラムが存在していて、彼らはマトリックスの中では人間の姿をして、そこに生活しているのですよ(苦笑) 機械に接続された人間たちが、意識をプログラム化されてマトリックス内部に住まわされているのだとすれば、プログラムたちはそのまんま擬人化?された存在として、マトリックス内部を闊歩しているのですな。
 これによって、マトリックスという空間は単に囚われの人間達が仮想の生活を送っている場という以上に、彼らプログラムが活躍し生活する場としての側面も持たされているわけで……これによってマトリックスという仮想空間そのものに、ぐっと奥行きが出てきたんじゃないかと思います。これはなかなか面白いな、と思いました。
 ですが。
 こういったパーセフォニーやキーメーカーと言ったプログラム達は、エージェントとは違って単純にネオやモーフィアス達と敵対する存在ではありません。いや、敵対している者もいるにはいるのですが、それは別にネオ達がザイオン側の人間だから敵対しているわけではなしに、彼には彼の事情があって、プログラム単体の判断でネオ達と敵対する行動をとっている、という次第なのですね。
 つまり、このような中では確かに世界観に奥行きはあるものの、その反面、先述した「システムVS人間」という二項対立では事情を割り切ることが出来なくなってしまうのです。
 本来は「システムVS人間」という単純明快な対立構図があればこそ、システムに抵抗する、システムに支配される、という行為・構図に何らかの意味合いが見出せるのであって、利害関係や対立関係が複雑になってくると、個々の対立を元にアクションシーンなどの見せ場を順番に描いていけば確かにエンタテインメントとしては楽しいわけですが、その反面、全体的に「単純に割り切れる」関係にはなっていないために、その対立のウラにどういう意味があるのか、という考察が成り立たなくなってくるんですよねぇ……。これはこれで楽しいからいいじゃん、という感じで落ち着くしかないわけでして。
 なんかそういう辺りのいらんサービス精神が、せっかく「1」で、いわくありげなテーマ性めいたものを打ち出せていたのに、「リローデッド」ではそれをぶち壊しにして、「高尚な思想性を窺わせる作品」から、単に「CGやSFXがすごいだけの娯楽映画」へとシリーズを敢えて格下げしてしまっているんじゃないかと思うんですよ(爆) おおい、そんな事でいいのかっ!(爆)



 うーん。
 なんか映画日記でうーんと唸るのがくせになりつつありますが(苦笑)
 「1」の時は確かに、「マトリックスの正体とは」という謎を全面的に押し出していたために、かなり謎めいた複雑な作品であるような印象があったわけですが、そもそものお話の構図そのものは、非常に単純というか、明快だったのですよ。
 「1」で描かれていた内容というのはつまり、
 1)人間は実は全員巨大コンピュータに接続されていて、仮想現実の夢を見せられている
 2)そこから脱出する方法があるが、当人とコンタクトをとるためには外からマトリックスにアクセスしなければならない
 3)その仮想現実の世界では、やり方を知ってさえいれば物理法則を超越する事が出来る
 4)一人でも多くの人間にマトリックスの真相を知らせ、システムの支配から開放すべき
 という、ただそれだけの事なんですよね。
 では映画本編では何をやっていたのかと言いますと、基本的にはこのマトリックスから救出され新たに「外の世界」へやってきた新参者のネオを対象に、マトリックスを舞台にした人間VSシステムの戦いにおけるあれやこれやのチュートリアルを行っているだけなんですよね。その過程の中で仲間に裏切られたり、モーフィアスが捕らえられて助けにいく羽目になったり、そういうイレギュラーな事柄を通じてネオ=救世主という事が明らかになっていくわけですが、そもそもの「人間VSシステム」という構図には、終始変わりがないわけです。
 勿論、この「システムVS人間」という構図はこの映画に限ったものではなく、社会の歯車としてきりきり働いては何となくくたびれている現代人にも何かと思い当たるフシもあるでしょうし、別にこの映画の中でしかあり得ない特殊な事例を取り上げているわけでもないんですよね。
 さらには、3)の考え方を裏読みすれば、「システムから開放されれば、人間の可能性はより広がる」というような事を言っているようにさえ思えるわけです。映画の世界では、マトリックスから開放された先はワビしいレジスタンス活動が待っているだけで、サイファ君が裏切ってマトリックスに帰りたくなったのもまぁ分からんでもないのですが(爆) それでもシステムから逃れたネオやモーフィアスやトリニティは、いずれも人体の限界を大きく超えたスーパーヒーロー的な戦闘能力を持っているわけですし、何はともあれやたらカッコつけてキメてますし(爆)、システムから開放された人間はそうやって強くカッコよくなれるんだ、というのは、疲れた現代人である我々(勝手に決めつけてしまって申し訳ないですが)の目から見れば、まさにヒーロー的な存在である、と言えるのではないでしょうか。……ともかく、監督の意図なのかそれとも観客が深読みしすぎなのか、前作「マトリックス」はそういう深淵なテーマ考察に耐えうる作品だったからこそ、高い評価を受けたんじゃないか、という風に思います。
 だって、冷静に考えれば香港香港のワイヤーワークはあんな手ぬるいものではないハズですし、斬新とみえたあれやこれやのネタが実はあちこちからパクってきた要素であることが今日では明らかになっているわけですけど(笑)、それでこの「マトリックス」という作品の評価が失墜した、というような話も聞きません。映像やアクションのインパクトだけで、中身がホントに何もなかったのだとしたら、もっと早い段階で人気や評価が失速していたんじゃないかと思いますが……。



 そういう意味では……本作「リローデッド」はかなり勿体ない作品だったようにASD的には思えました。実際には、ラストまで全部見てみれば、「人間VSシステム」という構図に関しても重大な提言がなされているのですが、結局上記で語った諸々のせいで、そういう重要な描写があんまり生きてなかったのが、とても残念なところでありました。
 うーん……何と言いますか、パーセフォニー達プログラムも、彼ら自身非常に個性豊かなのはいいんですけどね。ある意味マトリックスという空間が、人間VSシステムの戦いの場だったり仮想現実、ニセの現実というそういう意味合いよりも、何でもアリのテーマパークのような賑やかな様相を呈していたのが、なんだかなー、と言ったところであります(苦笑)
 まぁそれ以外にも、細々と問題はあるんですけどね(苦笑) 例えば今回初めて描かれた人間達の都市・ザイオンの姿ですが、その描かれ方が実に既視感バリバリで、この映画はホントにマトリックスの続編なのか、と目を疑ったのも事実だったり(苦笑)
 それから、今一つ納得がいかなかったのが、実は「ザイオンに敵の軍勢が〜」云々という下りだったりします。この「ザイオン攻撃」という事実が、本編開始時点ですでに既成事実として描かれているっつう辺り、本編を観た方は何か不自然には思わなかったでしょうか。そういう「ザイオン危うし!」という事実が発覚してええーどうしよう!というような描写が無かったために、結果としてこの辺の脅威が今一つ実感を伴ったものとして描き切れてなかったんじゃないでしょうか。
 実は、この「事実が発覚してどうしよう」の下りというのは、「アニマトリックス」にも収録されている短編CGアニメ「ラスト・フライト・オブ・オシリス」という作品で描かれているんですな。この短編自体はネットでも配信されてたらしいですし、「リローデッド」に先がけて、「ドリームキャッチャー」という映画の併映という形で劇場公開もなされておりますので、「リローデッド」と併せてご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが……。
 内容は、そのザイオン襲撃部隊を発見してしまったオシリス号のクルーが、敵の追撃を逃れつつザイオンに危機を知らせようとする……というような内容なのですが、そもそもこれを「リローデッド」本編冒頭に持ってきた方がなんぼか自然ではなかろうか、という気がするんですけど……。
 うーん。まぁ本編のオープニングは、「トリニティが死ぬ夢」のシーンでしたので、監督の意図としてネオとトリニティのラブストーリーとしての側面を最初から強調したかったのだとしたら、確かにこのエピソードは入る場所が無かったんでしょうけどね(苦笑)
 うーん。穿った見方をすると、このオープニングを短編に切り離してしまったがゆえに、印象的なオープニングを、と企んだ結果恋愛物の構図を採用した……というパターンだったらどうしよう、とも思うのですが(爆)
 ……うーむ。その他、この「リローデッド」の公開に合わせてマトリックスのTVゲーム版というのがPS2やWindows版で発売されているわけですが、これも「リローデッド」本編の内容に触れるような重要なストーリー展開になっているとかいないとか……。ASDは未プレイなんですけどね。
 ……うーん。そこまでメディアミックスしちゃうってのはどうなんでしょうか。「アニマトリックス」のネット配信といい、映画の枠を飛び越えたメディアミックスでもって、「マトリックス」世界を展開させたい、という意向が監督にはあるのかも知れませんが、やっぱ映画のみであれこれ充足されていないのは、観ていてフラストレーションを感じてしまいます。
 オンライン小説の批評でかつて何度か指摘として言った事があるのですが……続編や番外編の存在によって、1つの作品の世界が大きく広がりを見せることはいいことですが、続編や番外編の存在がなければ、1つの作品が補完されることなく不完全なままに終わってしまうのは出来れば避けなくてはいけないと思うのですよ。アマチュアの作品でも、タダで読めたとしても時間や労力は割かなくてはいけないわけですし、ましてやプロの作品だと、相応の対価を支払うことになります(当然ASDも、この映画を実際にお金を払って見た上で感想書いているわけですが)。その観客に対して、「この作品に不満があっても、それは続編や番外編で補完されますよ」というのは、それはちょっと違うだろー、と思うわけですよ(苦笑)
 まぁ最初から前後編や三部作であると分かっているなら話は別ですですけど……観客も納得した上で観るでしょうしね、そういう場合は。ですが今回の「リローデッド」のように、「実は短編がありまして」「実はゲームもあるんですよ」というのは、チトどうなのか、と鋭く問い詰めたいところであります(苦笑) 結果的に、それらがもしかしたら本編の面白さを減退させている可能性もあるわけですからねぇ……。
 うーん。まだ「ブレアウィッチプロジェクト」のように、映画の本編こそがネットや書籍で展開していたあれやこれやを補完するオマケ的な扱いになっている、という程に割り切ってあるんなら別ですが(苦笑)



 ……うーん。
 そんなこんなで、ASD的には、アクションやSFXの部分で確かに満足出来る作品ではあるな、とは思いましたが、全体の評価としてはうーんちょっとどうなんだろう、と言ったところです(苦笑)
 先述の「アニマトリックス」にしても、そこで描かれているマトリックス前史など、ちょっとどーなのこれは、と頭を抱えてしまうシロモノでしたし(苦笑) ここまで大々的にメディアミックスをしかけて、さらに続編「レボリューションズ」まで幾多の謎を引っ張って……というのが果たして成功に終わるのか失敗に終わるのか、果てしなく不安なんですけどね(爆)
 まぁ何と言いますか、「人間VSシステム」というテーマ的な問いかけが薄れ、逆にストーリーの行く末が云々という風に作品の興味がシフトしていくのは、続編を作ってしまった時点で仕方のないことだったのかも知れませんけどね。人間と機械との戦争を、いわゆる「壮大な叙事詩!」的なノリで描こうとしてしまえば、人間がシステムの支配に抵抗して云々、という意味合いの薄れるのは避けられないことでもありますし。
 せめて続編の「レボリューションズ」では、「リローデッド」本編から引っ張っている幾つかの謎にそれなりに納得のいくような回答が用意されていたり、「レボリューションズ」そのもののオチが誰にも文句を言わせないような驚天動地の……とまでは行かないまでもそこそこ納得のいくものになっていて欲しいんですけどね。そうでないと、第一作「マトリックス」で築いた名声が、ヘタをするとどん底まで失墜しかねないなぁ、と不安半分、期待半分で、完結編の公開を待っているASDでありました(苦笑)
 まぁもしかしたら、続編を見ると評価がガラッと一変するかもしれませんけどね(笑) 本作で「どうなんだこれは」と思ったことのすべてに、続編では納得のいく回答が得られる……というようなことになっていれば、それはそれで嬉しいんですけど。
 うーん、どうなるんだろ……。



オススメ度:☆☆☆?(取り敢えずアクション方面の完成度に対して+3。完結しない限りは未知数ということで?を付加(苦笑))



 


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