-cinema diary-

映画日記:特別編


 

2001.4.19 リアルヒーロー

「アンブレイカブル」

監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
主演:ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクソン

鑑賞日:2001.3.30


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「シックスセンス」

監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
主演:ブルース・ウィリス、ハーレイ・ジョエル・オスメント



※注意! 両作品とも思いっきりネタバレしております!※



 というわけで、こちらはネタバレありの感想であります。本編を見る前にここを読んでしまっても、ASDは何の責任も持ちませんよ(笑)


 ……さて、「アンブレイカブル」です。この種の話を見た後では、どうしても人に話してしまいたい衝動と、いやいや話すと楽しみが半減する! 何も聞かずに見てくれ! という沈黙とが、いいカンジでせめぎあってしまいますね(笑) というか、久々にそういう「せめぎあい」を覚えさせてくれる快作でありました。
 とは言え……とんでもない話でしたよね(笑) このラスト、事前にはまず想像つかないんじゃないでしょうか。
 前作「シックスセンス」は、ぶっちゃけた話ネタさえ割れてしまえば普通の幽霊ものに過ぎず、ドラマの方も日本人受けする「チョット泣けるイイ話」の枠を出ないシロモノでした。
 しかし、本作は……。唖然とした人も多いでしょう。大事故から奇跡の生還を果たした我らがブルース・ウィリス。普通の中年男が、この偶然の事故をきっかけに、アメリカンコミックス的なヒーローとしての覚醒を果たすという……「X‐MEN」もビックリの、驚愕の展開でありました(笑) 「シックスセンス」のシャマラン監督ゆえに、幽霊とか超能力とかの超自然的な要素が絡んでくるというのは大体予測の範囲内なんですけど……本作はあくまでも一人のヒーローの覚醒を巡るドラマであり、サスペンスタッチではあってもサスペンスでも何でもないんですよね(笑) ごく普通にサスペンスの範囲内で驚かされるつもりでいた観客があんなもの見せられたら、やっぱり唖然としますがな(笑)


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 さて、「アンブレイカブル」の前に、ここでは前作「シックスセンス」についてちょっと語ってみたいと思います。
 ブルース・ウィリスの正体を巡るドンデン返しが注目される同作品ですが……いや、もちろん泣ける感動映画っていう評価もあるでしょうけど(笑) 「アンブレイカブル」の内容を踏まえた上で考え直してみると、実際の見所は別のところにあったんじゃないかなと思います。
 ハーレイ・ジョエル・オスメント演じるコール少年は、「霊が見える」という特殊な能力を持っているがゆえに、普通の生活には適合出来ないという問題を抱えていました。死者が見える、という事を周囲が受け入れてくれないがゆえに、彼もまた周囲に対して心を閉ざしていたわけです。
 しかし、彼はブルース・ウィリス演じる小児精神科医マルコムに出会う事で、その能力を受け入れました。言ってみれば、彼はその死者を見、その声を聞く事の出来る能力で持って、死者と生者の橋渡しをするという彼にしか出来ない行為でもって人々の役に立つ事が出来るわけです。
 直接それを現しているのが中盤、少女の葬儀でのエピソードでしょう。ハーレイ少年の活躍で一本のビデオテープが発見されたことにより、少女の死の真相が明らかになったわけで……言ってみればこの行動も実に「正義の味方」的ではないですか。これはちょうど「アンブレイカブル」における、ブルース・ウィリス演じるデイヴィドのヒーロー的活躍と符号するわけです。
 つまり、二人はともに、持って生まれた能力を生かしきれずにいるところを、とある助言者との出会いによって、その助けを借りて真の自分の使命に……自分の存在意義に目覚めていくわけです。
 つまり、両作品は違ったネタを題材にしているように見えて、コール/デイヴィッドの成長物語としてはほぼ同じパターンをなぞっているとは言えないでしょうか。



 そして、ポイントになるのが二人を導く「助言者」の存在です。両者を使命へと導く彼らもまた、実は問題を抱えた存在なんですよね。
 精神科医マルコムは、死者との対面を少年に示しておきながら、実は彼自身が死者であり、生者に対して執着を示す存在でした。そして、イライジャ・プライスはデイヴィッドを悪を倒すヒーローへと導いておきながら、実は彼自身、倒されるべき悪役だったわけです。
 彼らはお互い、導いた相手のようにはなり切れなかったという「負い目」を背負っています。
 マルコムはかつてヴィンセントという子供のセラピーに失敗したという負い目を持ち、それがゆえに現世に執着を示し、成仏出来ずにいたわけです。またイライジャは、不死身性をとっかかりにヒーローを捜し求める結果、自らそれを試す形でテロを働いていたわけです。
 そして彼らはやはりお互いに、自らが導いた存在によっておのれの存在を淘汰されているのです。マルコムはコール少年との対話の中で、ヴィンセントのトラウマを解決する事で、現世への執着を解決するわけです。またイライジャは自ら育てた?正義の味方を前に、悪であることを告白し警察に告発されているのです。
 そして、彼らを淘汰するその行為こそ、コール少年やデイヴィッドの使命そのものなのですね。コール少年は、マルコムのトラウマを解決することで、デイヴィッドは悪のテロリストであるイライジャを告発する事で、それぞれの使命を充足させているわけです。むしろその行為の結果として、コール少年は霊視者として、デイヴィットは正義のヒーローとして、完全に自己のアイデンティティを確立することが出来たのだ、という風に見えはしないでしょうか。


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 つまるところ、「アンブレイカブル」でシャマランが描いているのは、デイヴィッドやイライジャの正体の示すセンセーショナルな部分ではなく、あくまでも彼らの内面的な事情……ヒーローとして、あるいは悪役としてのアイデンティティを模索する過程であったり、そんな彼らと周囲の人々との関係を綴った物語なのではないかと思います。
 この映画のユニークなところはそこなのだ、とASDは考えます。



 近年のアメコミヒーローものにおいて面白いのは、ヒーローの圧倒的な活躍ぶりではなく、実はその裏側に垣間見える彼らの苦悩だったりします。
 ティム・バートン監督の映画「バットマン」では、悪役はただの悪役ではなく、社会からつまはじきにされ、悪に手を染める事でしか自己を表現できない哀れな人間として描写されていました。
 そしてその中では、ヒーローであるバットマンすら、自己満足的にそんな彼らを倒して正義を主張する事でしか自らを表現できない、不器用な人間として描かれているのです。そういう「自己表現の不器用さ」において、バットマンも悪役も同列な存在として描れているのです。
 この「自己表現の帰結としてのヒーロー化」というのは、「Xメン」あたりでもテーマとして言える事だと思います。特殊能力を持つミュータントである彼らは、正義の味方として、あるいは悪役として、その能力を生かす事でしか自己のアイデンティティを確立する事が出来ない存在です。
 彼らは一方でその能力を悪事に使って人間達にその存在を知らしめようとし、また一方ではそんな人々を能力を持って制しようとしているわけです。両者に共通しているのは、自らの能力を使って自分たちの正しさをアピールしていこうという事。そんな、意見を違わせている二つの勢力の抗争を描いた物語が、「Xメン」だったわけです。
 そういう意味では……生まれつきの能力(障害)のおかげで社会からはみ出した人間が、その能力を生かす形で、あるいはその能力を持つがゆえにやむを得ず、人助けをしたり逆に悪事を働いたり……そういう手段でもって自己のアイデンティティを確立しようとする人間達のドラマ……それが、いわゆる「アメコミ」の世界で展開されているドラマだ、と言えるわけです。
 そういう風に見ていけば、この「アンブレイカブル」という作品、この「アメコミらしいドラマ」に、実に忠実なお話であると言えないでしょうか。
 この解釈は一見トンデモな解釈に思えるかも知れませんが、映画ではこの事をかなり直接的に特定の小道具を使用することで主張しています。
 そう、コミックです。
 物語の重要な牽引役であるイライジャは、コミック・アートの画廊という役回りでした。彼の口から、アメコミにおけるヒーローとは何ぞや、という見解が直接的に提示されています。彼はアメコミ・ヒーローの実在を信じて、デイヴィッドのような人間を探していたのです。彼が、アメリカンコミックスは絵空事ではなく、誇張表現された現実である、と語っていたように……デイヴィッドの活躍を描くこの作品は、誇張表現を廃した、ヒーローの真の姿を捉えた作品だった、という風には言えないでしょうか。
 そう考えると、この作品が相当マニアックな作品だというのがよくお分かりいただけると思います(笑) 本作で表現されているものは、アメリカンコミックに止まらず、アニメや特撮など、割とオタク的な作品(爆)の中に普遍的に存在する、一種のヒロイズムを抽出し、描き出した作品と言えるわけです。
 おそらく、そういうヒロイズムにシンパシーを抱くような人種……割とオタクというか、マニアな人には本作はたまらない逸品だったんじゃないかなーと思いのです(笑)
 無論、イライジャ・プライスの存在も、ただ観客にドンデン返しを提供するだけのものではありません。ヒーローと悪が、永遠の好敵手として、光と影のように対をなしている……その構造が、本作の「アメコミらしさ」を完璧なものに仕上げているわけです。彼がヒーロー・デイヴィッドのライバルである事が明らかになった時点で、本作はアメコミ・ヒーローのレジェンドを描く物語として、完璧なものとなるのでありました。



 それにしても……雨の降りしきるニューヨークの街を、レインコート姿でさまようデイヴィッド……その光景はまるっきり、夜のゴッサム・シティを徘徊するバットマンのようではありませんか(笑)
 そういう意味ではシャマラン監督、かなり「狙って」撮ってたんじゃないかなー、という気がします。
 本作は、サム・ライミの「ダークマン」と並んで、原作無きアメコミ・ムービーの傑作と言えるのかも知れません(笑)



オススメ度:☆☆☆☆☆(おすすめ度というより、自己満足度……(笑))

 


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