(2016年10月)

『ハンセン病は1897年(明治30年)に、ベルリンで開かれた第一回国際らい会議で伝染病であると正式に認められるまで遺伝病であると認識されていた。日本でも遺伝病、または仏罰としての天刑病であるという認識が一般的であった』というような記述をネットで見かけ、それ以来伝説の信ぴょう性が気になっていた。

伝染病であるという認識が無いのなら塚の案内板や三瓶町誌で紹介されている『 ・・・陸地に着くと、その土地の人々に舟を押し出され、陸に上がることが出来ませんでした。ついに白石の浦に着きましたが、そこでも追い払われ・・・』という記述が少しオーバーなものに思えたからだ。実際、四国遍路をする人の中にはハンセン病の患者が大勢いたといわれていて前々から引っかかるものを感じていた。必ずしも遍路を歓迎する人ばかりではなかった四国で、伝染病の罹患者がそうやすやすと受け入れられたとは考えられず、四国への上陸を拒まれてしまっては、ハンセン病患者が遍路することなど不可能だったはずだから。

姫や王子など高貴な血筋にあたる人物が何らかの事情で家を追われ、苦難を伴った放浪の旅を経て成長し帰郷。家を追われるきっかけとなった問題を解決し、しかるべき地位に着く。あるいは人々を幸せに導くという形態の物語を貴種流離譚という。この伝説もその一類型にあたるわけだが、それにしても話が出来過ぎているような気がしていた。もしかしたら案内板や三瓶町誌で紹介されている伝説は意外と新しいものなのではないかという疑問を抱き、それを解くため調べてみることにした。伝説を現在の形にテキスト化したのは誰か、また伝説の現存している最古の記録はどこにあるのか、の二点を重点的に。

三瓶に出かけ文化会館の職員の方に質問し、図書室で資料にあたりたどり着いたのが『鴫山物語』曾我教道 編という1977年(昭和52年)に発行された私家版の書籍。この本、松山市堀の内の愛媛県立図書館に収蔵されていて、手続きさえ踏めば誰でも簡単に閲覧、借り出しできる。

鴫山物語は編者の曾我教道氏(鍜氏の甥)が、曽我 鍜(そが きとう)氏の書いた双岩村誌と随筆を中心に、菊池武美氏(鴫山出身で鍜氏の遠縁)が古老より聞き取った謡や話を追加し、まとめたものである。姫塚のある鴫山は現在は三瓶町の一部であるが、以前は双岩村に属していた。その双岩村も現在は八幡浜市の一部となっている。

鴫山物語によると、曽我 鍜氏は1879年(明治12年)鴫山(当時は布喜川村、のちに双岩村や三瓶町に属し現在は西予市の一部)に生まれ、1905年早稲田大学を卒業。短期間の帝国大学史料編纂係や三井家史料編纂嘱託勤務を経て病気療養のため帰郷。村の依頼で双岩村誌を編纂した(1918年発行)のち、伊予日々新聞主筆や大阪毎日新聞松山通信部初代主任など多くの新聞雑誌の編集発行に携わり、1937年初めから1940年までの四年半、愛媛日曜新聞(後に愛媛新聞に紙名変更、ただし現在の愛媛新聞とは無関係)に「ふる郷もの語」のタイトルで鴫山や双岩村のことを随筆として寄稿した。

姫塚については、鴫山物語のP.123に「お姫様の墓」と題して次のように記されている。

『口碑によるに「むかし京都の或る公卿さまのお姫さまがらい病にかかられたのでうつろ船に乗せられて流されなされたそうである。そうして陸地に着いて上ろうとなさるとその辺のものが押し出し押し出すのでどうしてもお上りなさることが出来なかった。それでとうとう白石浦に漂着されてお上りになったが、ここでも多くのものから嫌われて追払われなさって終に鴫山に来て落ちつきなさることになった。鴫山ではこれに同情して小屋まで立てて村養いにしたのでお姫様は非常に喜ばれてこの村へは永久にらい病の者の出来ないように守ってやるといってそれから数年後の六月二十八日に死なれたそうだ。死なれるまで毎日法華経を石に写されたそうである。云々(双岩村誌)』

多少端折られていたり仮名遣いが違っていたりするが、内容は案内板や三瓶町誌の伝説とほぼ一致する。このことから現存している伝説の最も古い記録は双岩村誌であり、伝説を現在の形にテキスト化したのは曽我氏であると推測する。双岩村誌が発行された1918年(大正7年)は、1907年に「法律第十一号」癩予防ニ関スル件が公布され、1916年に療養所長に懲戒検束権が与えられるよう改正され、ハンセン病患者に対する社会の差別が苛烈さを増していった後のことで時期的にも符合する。

驚いたことに鴫山物語の姫塚についての記述には続きがあった。

「姫塚の由来  菊池わい夫人の話」
 一人のお姫様が流されて白石浦にお着きになった。らい病にかかられたので流されたものらしい。白石にお着きになってからは毎日海岸にある青平石を拾って一つ一つに丹念に法華経を筆写された。村人たちはお姫様がらいを病んでいられるので汚いといってつれなく当り始めた。お姫様は陸地に辿り着いても安住の地が得られず杖をひいてトボトボと険しい山道を上って行かれた。辿り着かれたのは鴫山であった。
 村人たちはあわれに思って今「下中」という屋敷の土蔵の近くに小舎を建てて上げた。そして皆でいたわって上げた。漸く鴫山に落着かれてから安住の地を得て安堵なさった。数年の間平穏に過された。お姫様は白石でなさったように写経したいから平青石を白石から持って帰って下さいと頼まれた。村人たちは負子を背負って平青石を持って帰った。お姫様は照る日も曇る日も写経に営しまれた。数年後急に病が改ったらしく村人たちに集って貰って「皆様には本当に親切にして誠に有難うございました。何かお礼のしるしでも残したいのですが何もありません。ただこれだけをお約束します。鴫山の村にはわたしのようならい病やみの出ないようお守りします。」これが遺言だったのです。数日後眠るように静かに逝くなられました。村人たちは丁重に葬りました。そして今も尚「下中」のひのるわに残っている小さな詞を立てて悼みました。それから後暫くして村人たちはお姫様の筆写された経文石を集めて石詞を作ろうと決議しました。村人たちは負子を背負い牛も伴れて白石へ行きお姫様の経文石を持って帰りました。そして鴫山のものと一緒に全部岡の鼻に運びました。皆が総掛りでこれ等平青石を積重ねました。これが今も尚残っている石詞です。
 鴫山では子供の遊び場が少いのでよく姫塚へ遊びに行きました。そこの石をよく見ると平青石の平面に筆黒々時には朱書きの文字がハッキリ見取れました。石詞の側には大きな蘇鉄の古木がありましたが今でも元気に大きく育っている筈です。
 十年程前まで命日の六月二十八日には村人たちが「下中」に集まりお姫様を祭るお篭りをしました。酒と重箱一杯のご馳走を持寄りお互睦み合いました。「下中」の娘(わい夫人の長女)が三瓶へ引越して後は村の老婦人たちが後を引継ぎ祭日を四月二十八日に変えて毎年お姫様を祭っています。村人たちは今も尚お姫様を親しく慕い詞の周囲の清掃を怠らず花と香とが毎時も供えられているそうです。
 六、七十年前九州の炭鉱帰りの村人が友人と語り合ってこの石詞を取崩したそうです。詞の下に金か宝物が埋められているかも知れぬというので調べたのです。だが下部は岩石で何も見付からず疲れ儲けだったそうです。そして元通りに石を積重ねたそうです。

菊池わい夫人は菊池氏が聞き取りを行ったとき(1976年頃と思われる)八十才。そうすると1892年(明治25年)前後の生まれか。曽我氏より13才ほど年下になるが、外部からもたらされる新しい情報が少ない田舎で暮らしていたわい夫人の語る伝説の方が、より原型に近いと考えられる。過剰な差別描写が無いのもハンセン病を巡る史実と整合する。

原型に近いというだけでなく、わい夫人版伝説でいくつか気になったことがある。まず数百年前の出来事をこのように生き生きと語れるものだろうか。『・・・村人たちは負子を背負い牛も伴れて白石へ行きお姫様の経文石を持って帰りました・・・』このくだりなどまるで見ていたかのよう。もしかしたら姫が流されたのは、戦国時代末期か豊臣氏が国を治めていた時期のことかもしれない。

姫は、「下中」という屋敷の土蔵近くの小舎に住んでいたこと。姫は朱墨を持っていたこと。現在も続いている四月二十八日に行われる命日のお祭りは後年動かされたもので、本当の命日は六月二十八日であること。塚の下に遺骨などは埋まっていないこと。これらもわい夫人版伝説で新たにわかったことである。 なお鴫山物語には巻頭に集落の地図が添えられていて、地名や居住者が詳しく記されているが「下中」という地名は見当たらない。

また奈良製墨組合のサイトによると朱墨が一般的に使われるようになったのは明治以降のことで、それまでは高価で貴重なものだったそう。これは貴族の娘という伝説の内容を裏付ける事実だ。流されて無一物で辿り着いたのではなく、ある程度の荷物を持っていたことも想像される。朱は漢方薬や化粧用品としても使われていたので、その用途として持っていたのかもしれない。

他に鴫山物語で気になった記述をまとめておこう。
鴫山最古の住民定住の記録は1345年であること(P.13)。
鴫山集落の檀家寺は八幡浜市川舞の宝厳寺であったが後に穴井の福高寺に変わったこと、両寺とも禅宗に属すること(P.14)。
次の記述から、鴫山集落にとって姫と姫塚が特別な存在であったことがわかる。「昔は死者を葬るに一定の墓地というものなくその時時の方角により任意の地にこれを埋めその追善供養の如きも又極めて単純にして四十九日を過ぎればその位牌の如きはこれを川に流し捨てたという。・・・藩政時代より以前の位牌石塔などは殆ど存在せるものはない」(P.36)。
鴫山の南西2キロの位置に飯野山古城跡があり、西園寺氏との関係をうかがわせる証言もあるが菊池氏は信ぴょう性についての判断を保留している。「飯野山古城址に関しては宇和旧記に「飯野山とて山城あり。城主不知。一説に曰く城主井上備後守、嫡子治部太夫、後穴井庄屋とある。末葉に井上五介あり。」とある外所見なし」(P.119)。
穴井に薬師神伝次氏という方がいて、飯野山城主の末裔だと言っているとのこと。そして伝次氏は、先祖が「西園寺十五将」の一人であって、もと京都の公卿であったと言うが、伝次氏の主張を裏付けるような証拠は残ってないとのことである(P.120)。

菊池武美家に伝わっていた古文書『重山文書』に、姫塚についての記述があるかもしれないという指摘があり調べてみたが、そういう記述は無かった。『重山文書』は現在、西予市の愛媛県歴史文化博物館に収蔵されており、翻刻された『鴫山菊池文書・皆田宇都宮家文書目録』は図書室で閲覧できる。

曾我 鍛(きとう)氏の孫で曾我 健氏より連絡を頂き、このページの記述内容に誤りがあることが分かったので訂正します。
曽我 鍜(そが きたう)氏→曽我 鍜(そが きとう)氏
『鴫山物語』菊池武美 編→『鴫山物語』菊池 武美/編,曽我 教道/編集・校正 -- 菊池武美 --
愛媛日曜新聞と愛媛新聞に「ふる郷もの語」のタイトルで→愛媛日曜新聞(後に愛媛新聞に紙名変更、ただし現在の愛媛新聞とは無関係)に「ふる郷もの語」のタイトルで
菊池武美氏は、やはり鴫山出身で曽我氏の義理の息子にあたられる。→削除

訂正前)鴫山物語は曽我 鍜(そが きとう)氏が書いた双岩村誌と随筆を中心に、菊池氏が古老より聞き取った謡や話を追加してまとめたものである。

訂正後)鴫山物語は曽我 鍜(そが きとう)氏の書いた双岩村誌と随筆を中心に、菊池武美氏(鴫山出身で鍜氏の遠縁)が古老より聞き取った謡や話を追加し、まとめたものである。

姫塚伝説関連年表
   
1236年(嘉禎2年) 宇和地方が西園寺公経(さいおんじ きんつね)により西園寺家荘園とされる(1)
1345年(康永4年) 古文書「重山文書」に、鴫山に住民が居たことが記されている
1376年(永和2年) 庶流の西園寺公良が宇和郡に下向、在地の土豪を支配下に入れ領国支配を開始(2)
1584年(天正12年) 当主が西園寺公広(さいおんじ きんひろ)の時代に長宗我部元親の侵攻に遭い降伏(3)
1585年(天正13年) 豊臣秀吉配下の小早川隆景に降伏(3)
1587年(天正15年) 秀吉により転封された戸田勝隆が公広を殺害、伊予西園寺氏は滅亡(3)


 
1879年(明治12年) 曽我 鍜氏、鴫山で誕生
1892年(明治25年)頃 菊池わい夫人、誕生
1897年(明治30年) 第一回国際らい会議においてハンセン病が感染症であると確認される(4)
1907年(明治40年) 「法律第十一号」癩予防ニ関スル件が公布(4)
1918年(大正7年) 曽我 鍜氏編纂の双岩村誌が発行
1937年(昭和12年) 曽我 鍜氏、1940年まで愛媛の地方紙に「ふる郷もの語」を寄稿
1976年(昭和51年)頃 菊池武美氏により菊池わい夫人版姫塚伝説の聞き取りが行われる
1977年(昭和52年) 菊池武美 編 『鴫山物語』が発行
   
注(1) サイト、愛媛県生涯学習センター『二 西園寺氏と宇和郡』
注(2) サイト、scoophandsのブログ『瀬戸内の西園寺』
注(3) サイト、ウィキペディア『西園寺公広』
注(4) サイト、ウィキペディア『日本のハンセン病問題』
注記の無いものは、菊池武美 編『鴫山物語』による
リンクマーク Home