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国際交流基金日本文化紹介派遣事業「’01蝦夷太鼓極東ロシア公演」旅行記

「眠れる大地を呼びさませ!」   鈴木 久枝

シア連邦の約3分の2を占める広大な大地シベリア。シベリアとはタタール語でシブ・イル=眠れる大地の意。
ツンドラ(永久凍土)、タイガ(針葉樹林)の大地、極寒が続く厳しい気候は、まさに眠れる大地そのものだった。
白く吐く息がまるでベールのように、大地を、そこに住む人々を覆い隠していた。そのベールを剥ぎ、大地を目覚めさせるべく
蝦夷太鼓の12名は、この地に降り立った。

 北海道くしろ蝦夷太鼓保存会、塚原茂夫指導理事を団長とする12名は、日本の伝統楽器である「和太鼓」を通じて、
沢山の人々に日本の文化を知って頂き、また、交流・親睦を深める為、10月11日〜23日までの13日間、極東ロシアは
ウラジオストク・ユジノサハリンスク・ハバロフスクの3市を訪れた。

 これは外務省の特殊法人である国際交流基金が主催する派遣事業の一環で、私達が極東ロシアを訪ずれるのは、
実は今回が2度目。数多く海外公演を行っているが同じ国を訪問するのは初めて。しかも今回のロシア遠征が蝦夷太鼓に
とって創立35周年・海外公演10回達成記念だというから、なにかしらロシアとの縁を感じずにはいられない。
鈴木宗男代議士のお力添えで実現した極東ロシア初めての訪問は2年前の99年。サハリン州の2市とハバロフスクでの
熱い感動のステージは、まだ私達の記憶に新しい。

 「蝦夷太鼓の演奏から沢山の元気と勇気をもらった」そんなロシアの方々の熱い要請から今回の遠征が決定したのが
8月中旬、忙しい夏祭りを終え、ほっと一息つこうかといった頃。しかし、あまり時間がなく、休む間もなく準備作業に追われた。
連日連夜に及ぶ稽古も、我々を待つ沢山の人達への熱い想いで乗り切った。そして涙あり、笑いありの感動劇は、我々にとって
かけがえのない財産となりました。

11日早朝、釧路駅を出発し新千歳空港へ。今回は13日間という過去にない長期遠征の為、各自仕事上の都合から
10日出発(札幌泊)と11日出発の2組に分かれていた。新千歳空港で先発隊と合流、そこから新潟空港経由でロシアへと向かう。
 新潟空港到着、「さぁ、いよいよロシアだ!」高鳴る胸に、自然と早まる足。一同わき目も振らずにロシア行きカウンターを目指す。
そこにはズラーッと並ぶ太鼓たち。スーツケース同様、太鼓も手荷物扱いの為、検査を受け飛行機に積み込まなくてはならない。
しかし、初めての事でもなく、交流基金とも打ち合わせ済みで、検査の機械を通らない大きな太鼓や箱についても何の問題もないはずだった。

 しかし、事前の準備も空しく、太鼓はカバーを剥がされ、小物等を入れていたBOXも次々と開けられ、中身を全て出され確認される始末。
実は、これには訳があった。信じられないような大事件が世界では起きていたからである。9月11日、ハイジャックされた旅客機が
ニューヨークのシンボルビルに突っ込み沢山の尊い命が失われた「米国多発テロ事件」。それにより、アメリカの報復戦争が
いつ勃発してもおかしくないそんな状況にあった。更にはロシアの旅客機が誤射されるという事件が引き続き起き、
これまたテロの仕業かと騒がれ、我々も出発前日まで本当にロシアに行けるのか?わからなかった。
(おかげで発つ前日まで母は勿論、札幌にいる姉や、友人たちにずいぶん心配されました。)

 当然、この事件の影響から荷物検査が大変厳しくなっていたのである。しかし、ここは日本。と思っていたのも束の間。
予想外というか、思っていた以上の出来事に皆グッタリ。ようやく荷物検査を終えると搭乗までの時間は30分程しかない、
「時間がないので、とにかく早く出来る物を!!」そう言って飛び込んだレストランでの昼食。味わう間もなく済ませ、
出発時刻ギリギリに飛び乗った。しばしの日本との別れをかみしめる間もなく、また、見送りに来てくださり、
お世話になった国際交流基金、MOツーリストの方々との挨拶もそこそこに、何とも慌しい搭乗となった。

行機に乗り込みホッと一息。ようやくロシア行きの感動が沸いてくる。機内では今回初遠征の中門記良くんと増子耕介くんの
二人がロシア語勉強講座を開いていた。少し勉強してきたと言う記良くんが耕介くんに問題を出す。
「ズドラーストヴィチェ=こんにちは」をなかなか覚えられない耕介君。とても勉強熱心な二人の勉強会は、
約1時間半ウラジオストクに到着するまで延々と続いていた。

 ウラジオストークに到着。外は小雨がパラつき、アスファルトを濡らしていた。小走りで空港内へと急ぐ。
中へ入るとそこは厳粛な雰囲気に包まれていた。まるでドラマで見る警察の取調べ室みたいな小さな部屋(BOXに近い)が2つ、
そこで一人ずつ入国審査を受ける。中には大きな体のロシア人が一人座っていて、私の顔をジロリ、パスポートと見比べる。
審査が厳しいと言われるロシア、印象を良くしようと思い微笑んでみると、意外にも微笑み返してくれたので、少し恐怖心は薄れた。
審査を無事終え、軽い足取りで先へと進んだが今度は荷物が出てこない。待つこと約1時間・・・。
日本ではとうてい考えられない事だが、ロシアでは時間を正確に守ろうとする人は少なく、待たせる事に抵抗感がないらしい。
だから怒る人もいないそうで、確かに周りで待つ他の乗客たちは平然としていた。
なんて、いいかげんなロシア人・・・。またしても皆グッタリ。

シア沿海州地方最大の都市ウラジオストク。ロシア語で「東方を征服せよ!」という意味を持つこの町は、
19世紀にロシア帝国の極東地方を確固たる自国領土として固める為の軍港拠点として開かれた。
1992年には長期にわたる「外国人立入禁止制限」が解かれ、日本からも自由に行ける様になった。
また19世紀後半から建設が始められた「シベリア鉄道」の東の拠点としてよく知られている。
金角湾を挟んで南北に広がり、幾つもの丘が連なる坂の町でアップダウンの多い市街は、
帝政ロシア時代の面影を色濃くとどめ「東洋のサンフランシスコ」といった港町情緒が漂う。
人口約70万人、旧ソ連時代同様、現在でも沿海地方の州都として政治・経済・科学・文化の中心として位置付けられている。

 やっとの思いで外に出たときには、期待も空しく景色も見えない程に辺りは真っ暗だった。
ウラジオストク領事館副領事の覚張昌一さん、長嶺鎌弘さんの出迎えを受け、我々一同はバスで宿泊先の
ヒュンダイホテルへと向う。まだ何もしていないというのに、皆、疲れきった表情。ホテル内のレストランでは、
生バンドの演奏が我々を歓迎してくれた。軽快なロシア音楽に包まれながらの食事に、
慌しかった今日一日の疲れが癒されていく。明日はいよいよ公演、沢山の人に見てもらいたい。
感動を伝えたい。再び胸は高まった・・・

12日 朝起きて、ふと窓の外を眺めると、川沿いに何艘もの軍艦が並んでいた。何とも異様な風景に、
改めてここが日本ではない事を実感。朝食を済ませると我々は、公演会場の下見と沿海地方行政府表敬の為、バスに乗り込んだ。
ロシア遠征最初の公演場所は、ロシア近代文学の父と言われる、ロシアで最も有名な詩人プーシキンにちなんでつけられたという
「プーシキン劇場」。2階席もあり、450名が収容可能な劇場。ステージを前にして皆の表情が変わる。
ステージに上がり、手を叩いたり、床を蹴ったりして音響を確かる。「早く太鼓を叩きたい!!」そんな思いで、いっぱいだった。

 下見を済ませた私達は、表敬先のアルセーニェフ博物館へ。そこでは、手作り風のクッキーやチョコレートなどが
テーブルに用意され、温かいもてなしを受ける。文化局長のプリチェンコ氏より、今回の訪問、公演が日露の友好を
深める為に大変良い事だと歓迎を受け、またロシア人の文化に対する意識や芸術センスの高さについてお話があり、
今回の公演における自分達の使命の重大さを認識「頑張らねば・・・」更なる意欲が沸いてきた。
帰りに、お土産の蝦夷太鼓Tシャツと我々が演奏時使用している大漁旗のミニチュア
(田中宏明事務局長のアイデア!!で今回遠征の為に作成)を渡すと大変喜んで頂き、博物館に飾ってくれると約束。
これには思わず皆、拍手!!嘘の様な本当の話。誰かアルセーニェフ博物館へ訪れた時には是非見ていただきたい。
表敬を済ませた我々は再び劇場に戻り、早速準備に取り掛かる。最初の公演なだけに、太鼓の移動、音響、照明といった
打ち合わせにも熱が入る。リハーサルは本番ギリギリまで行われた。

ベルが鳴り、塚原団長が挨拶を終えると幕は開いた。会場は満席。待ってましたと言わんばかりに拍手が沸き起こる。
最初に音を出すのは自分。緊張の中、それを打ち破るかのように私は打ち出した。甲高い締め太鼓の音が鳴り響き、
塚原団長作曲「X〜未来へ」が始まった。太鼓の音色に平和への祈りや情熱、夢を託し、未来へ発信する、というこの曲は、
我々の今回の遠征に、また1曲目には、もってこいの曲だった。

 引き続き、海で働く男達の荒々しさ、勇ましさを表現した「大漁祈願太鼓」が山口良雄幹事長による歌「沖揚げ木遣り」で始まる。
次々と打ち鳴らされる曲、我々の緊張が観客にも伝わっているのだろうか。皆、瞬きひとつない真剣な眼差しでジッと見入っていた。

 若手メンバーによる愉快でエキゾチックな曲「Aーsia」が始まると、場内の雰囲気はガラッと変わった。
この曲は、我々が公演先のインドネシアで感じたリズムを蝦夷太鼓風にアレンジして作った大変リズミカルな曲。
勿論太鼓も和太鼓ではなく、「ジャンベ」という民族楽器を手で打ち鳴らす。客席からは自然と手拍子がなり、
メンバーの奇妙な掛け声や踊りに歓声が沸き起こった。

 更に、次の曲で我々は、皮パンツにマント仕様の長いベスト、全身黒尽くめの怪しげな衣装に着替え登場。
桶胴太鼓の大きな音が春雷の如く響き、「春風」が始まった。最初は重苦しい雰囲気から一変して、
リズミカルで楽しい曲へと変わる、これは冬から春への季節の移り変わりをイメージしている。蝦夷太鼓至上初の全員揃っての
ダンスシーンが見物。我々が踊りだすと、客席からは、さっきよりも遥かに力強い手拍子と歓声が沸き起こり、
顔には笑みがこぼれている。会場は暖かな春の空気に包まれていた。

 小川智久副リーダーの笛の音が流れ、いよいよラストの曲「大太鼓〜屋台ばやし」が始まる。
筋骨隆々の二人(遠藤睦男リーダーと平山智史副リーダー)がふんどし姿で登場すると客席からは
悲鳴とも歓声ともとれる声があがった。大きな太鼓に向かい全身全霊を込め打ち鳴らす「大太鼓」
腹筋運動をする様な体勢で、ひたすら打ち鳴らす「屋台ばやし」。ほとばしる汗に歪む表情。どちらも過酷で激しい曲、
観客は息を呑んで見つめていた。演奏終了と共に割れんばかりの拍手。しかも鳴り止まない。

 それは次第に手拍子・アンコールへと変わっていった。アンコール曲は、世界平和や無病息災を願う「賑わい」
鳴り響く手拍子のなか慶伊大輔くんが太鼓を担ぎ、笑顔で舞台中央へ走りこんでくる。お神楽の軽快なリズムが始まると、
続いて笛の音が加わりお祭り気分を掻き立てる。それに引き寄せられるかの様に集ってくる太鼓や鳴り物群。
「ソーレソーレ」の掛け声も高らかにステージはお祭りと化した。鳴り響く手拍子、微笑む観客の体は我々と一緒に揺れ、
まさにステージと客席が一つに。最後に、日露友好の願いを込め大漁旗が会場を舞うと、観客の興奮は最高潮に達し、
場内には大歓声が沸き起こった。拍手と共に立ち上がる観客。2階席も見渡してみるが、全員総立ちである。
スタンディングオベーションを目のあたりにし、胸には熱いものが込み上げ涙が溢れそうになった。
約2時間の公演は大成功のもと幕を閉じた。

初の公演を大成功に収めた私達は、あるレストランで今日の公演を振り返り、喜びを噛みしめ、酔いしれていた。
「音だけでなく、ビジュアル的にも楽しめた。ウラジオストークに来て2年半になるがロシア人のあんな表情を見たのは初めて。
以前、歌舞伎が来た時も好評でしたが今日の様にサインを求めに行く事なんてなかったです。」と覚張副領事が感想を述べる。
そう。公演終了後、サイン攻めにあった私達。まるで芸能人にでもなったかのような気分でした。

 また我々の太鼓を運ぶポーター達の雇い主で、大学講師をしていたというセルゲイ氏は
「初めはじっくりと聞かせ、段々盛り上げていく。という構成が大変素晴らしかった。」と、
蝦夷太鼓の舞台構成等を考えるのはリーダー・副リーダーで、今回の遠征でも一番頭を悩ませた事だろう。
更に「このコンサートは長い事、人々の心に残る事でしょう。」とも言われ、胸が熱くなる最高の気分でした。
また、この日はメンバー最年少の釧路湖陵高校1年生中村美由紀ちゃんのバースデイパーティが開かれた。
ハッピーバースデイの歌と共にケーキが登場し、生バンド演奏による「アヴェ・マリア」の歌のプレゼント。
突然の出来事に「最高の誕生日です!」と号泣。初の海外遠征、最高の思い出となったにちがいない。
心温かい、素敵な仲間たちに乾杯!!

ラジオストクでの公演は全部で3回、そのうちの2回は屋外だった。ロシアと言えば極寒の地。誰もが「寒い」という印象を持つ。
事実、2年前に訪れた時の寒さは尋常ではなく、外での公演など考えもつかなかった。しかし、我々の想いが通じたのか、
近年まれに見る良い天気(20?度)に恵まれ、野外公演は2日とも大成功を収めた。

13日の「中央広場」は、土日には様々な行事が開催される市民憩いの場で、リハーサル時から沢山の人で賑わった。
演奏が始まると広場は熱気に包まれ、更に暑さを増した。ロシア人(特に女性)は踊るのが大好きだ。レストランでは常に
生バンドの演奏が流れており、必ずといっていい程、人が踊っている。半袖姿の若者が、我々の曲に合わせ踊っていた。
ラストの曲「賑わい」では、大漁旗を持ちステージから飛び降りた中門くんが、群衆に囲まれステージへ戻ってこれなくなっていた。

14日は、公演前に代表6名で国営放送の沿海地方テレビ・ラジオ放送局「ntp」へ出演。最初の打ち合わせ通り、
2曲演奏した後、リーダーのインタビューで終了、のはずだったが、時間が余ったのか「何かもう1曲ノリの良い曲をお願いします!」
と司会者の突然の一言。ハプニングには強い蝦夷太鼓。すかさずリーダーの「ノリの良い曲と言ったらアレしかないよな」との投げかけに
「・・・・アレって何ですか?」無事に終えたもののハラハラ・ドキドキのテレビ出演でした。

 ウラジオストク最後の夜は、高松総領事主催の夕食会に招かれた。立派な公邸内には天皇陛下の写真が飾られ、
沢山のVIPなお客さん達がグラス片手に並んでいた。映画の様な光景に、少々緊張ぎみの私達に対し、地元の名士達は
気軽に声をかけてくれる。我々の公演は大絶賛され、感謝の言葉までも頂き、何とも思い出深い夜となった。

15日は移動日。ようやくウラジオストク市内の視察に回る。まずはメンバーの大半が消防職員という事から
恒例となった消防署見学へ。偶然にも我々のホテルの真向かいだったのだが、日本とは違い、前まで行かないと消防署とは
全くわからなかった。中にある消防車は古く、展示品ならアンティークで素敵だが、あれで消火活動が出来るとは思えなかった。
消防署に限らずロシアの街並みは、建物が画一化されており、どこがオフィスビルでどこがデパートなのか外観からは全くわからない。
街灯は少なく、当然、日本の様なネオンなどない。モノトーンといった感じ。道路は信号がないので渡るのに一苦労。
たとえ渡りだしても車は止まってくれないので、車が来ていないすきにダッシュするしかない。要注意だ。
唯一華やかなのは、道端のあちこちに並ぶ花屋さんと、道行く若い女性たち。短いスカートから出る細く長い足は、
同じ女でも見惚れてしまう美しさ。服装はファッションショーさながらで、経済が低下してもロシア女性のおしゃれは関係ないようだ。

 1912年完成のクリーム色したウラジオストク中央駅は一見、お城か教会の様。さすがシベリア鉄道始発駅というだけあり、
沢山の人で賑わっていた。駅の周辺には屋台が沢山並び、ピロシキや果物などが売られている。ロシアでは、真冬の寒空の下でも
屋台が出ているから驚きだ。駅から跨線橋を渡ると客船ターミナルで港とつながり、港では日本車(中古)が沢山船から降ろされてた。
確かに市内を走る車の大半は日本車で、しかも、すごいオンボロ。なかには「○○ハム」とか「○○幼稚園」など、
日本で使用されていたままに名前が書かれている車もあり、バスの中からそういった日本車を探すのが結構楽しみだったりした。

 市内が一望できる「鷹の巣展望台」では、今日までの4日間を振り返り、また、新たな決意を胸に、ただただ眺めていた。
ウラジオストクを発つ前に、空港近くにある日本人墓地を訪れた。先週、ほとんどが掘り起こされ別の場所に移された事から、
そこには「平和供養無限」と書かれた碑のみがありました。ここシベリアの地で亡くなった方々を偲び、花を捧げ黙祷。
「安らかに眠って下さい。そして、この世に戦争という悲劇が再び起こりませんように・・・」心から、そう願いウラジオストクを後にした。

谷岬からわずか40kmかなたの島サハリン。1905年日露戦争終結と同時に南樺太が日本の統治下になったが、
第二次世界大戦後、再びロシア領になる。日本及び朝鮮半島から強制連行された朝鮮人、韓国人の多くは敗戦後も残留を
余儀なくされ、肉親との連絡も閉ざされたままであった。自由に行き来できるようになったのは冷戦終結後で、
40数年の長い年月を要した。ユジノサハリンスクはサハリン州の州都で、人口約18万人。日本統治時代の名は「豊原」。
日本時代の建物で今も残っているのは郷土博物館(旧樺太博物館)と美術館(旧拓殖銀行)。
ほんの少しだが、かつての日本の面影がそこにあった。

 ユジノサハリンスクに到着。宿泊先であるホテル「サハリン・サッポロ」は当時のままに変わらない。「わぁ〜懐かしい!!」
思わず出た歓喜の声。まるで故郷へ帰ってきた、そんな想いだった。我々にとってここは、とても思い出深い町。
沢山の方との出会いと別れがあった。2年前「あなた達の演奏が、私に勇気と希望を与えてくれた。これで、また1年頑張れる。」
そう言って、沢山の手作り饅頭を差し入れてくれた在留朝鮮人の金さんは、元気でいるだろうか。

 ロシアは治安が悪く、夜出歩くのは危険とされ、ウラジオストクではホテルの部屋に缶詰状態だった私達。
それに比べ、ここユジノの街には居酒屋やカラオケといった日本人向けの娯楽施設が幾つかあり、楽しみのひとつでもあった。
チェックインを済ませた我々を乗せ、バスは「豊原」という日本食レストランへ向った。テーブルに並ぶ日本料理をみて
私達は歓喜の声をあげた。決してロシア料理が口に合わなかった訳ではない。代表的な家庭料理「ボルシチ」
(野菜が沢山入ったスープ)をはじめ、ロシア料理はとても美味しい。しかし、白いご飯とお味噌汁、漬物などといった
普段食卓に並べられる質素な食事こそが、我々にとっては何よりのご馳走だった。ここはレストランの奥が、バーとなっており、
中では日本でいう部長クラスのおじさん達が、若くて綺麗なロシア女性に囲まれ鼻の下を伸ばしていた。

16日、朝からサハリン州行政府を表敬した我々は、最初の公演先「エトナス芸術学校」へ向った。
ここでは、実際に太鼓を叩かせ体験してもらうワークショップが行なわれた。さすが、芸術学校というだけあり
子供達の反応もよく大好評。初めて叩く太鼓に子供達の瞳は輝き、とても楽しそうでした。公演終了後、
今度は子供達から思いがけないプレゼント、ロシアの伝統芸能である歌とダンスが披露された。
先ほどまで、我々の演奏に歓喜の声をあげていたあどけない表情から一変し、踊る少女達の表情は、この国の伝統文化を
こよなく愛する想い「自信と誇り」に満ちていました。ここにロシア文化、芸術の高さを見たような気がしました。
ダンスの途中には、一緒に参加する場面もあり、メンバーの何人かが少女達に手を引かれ、踊りの輪に参加。
心温まる、楽しいひとときでした。「本当にありがとう!」

 午後からの芸術学校では、TV局の取材が入り、団長とリーダーがインタビューを受けた。2年前にも訪れた事のある、
この学校での蝦夷太鼓の人気は今も健在だった。ワークショップでステージに上がった一人の青年が上着を脱ぐと、
何と蝦夷太鼓Tシャツを着ているではないか。我々は驚き、彼に尋ねてみると、2年前ここで同じように太鼓を叩き、
記念にこのTシャツをもらったという。確かにワークショップに参加した人には蝦夷太鼓Tシャツをプレゼントしてきた私達。
「今日あなた達が来る事を知り、家から着てきたんだ!」自慢げに皆にTシャツを見せる彼の表情が、とても嬉しかった。

17日「オクチャブリ映画館」へ到着した我々の目飛び込んできたものは、入り口に掲げられた大きな看板。
そこには太鼓を打つ姿が描かれており、蝦夷太鼓の公演を宣伝したものだった。「おーっ!!」あまりの感激に一同、
声を出さずにはいられなかった。そして開演、最前列には黒田総領事、内田首席領事、そして昨日訪問した「エトナス芸術学校」の
子供達が笑顔で手を振っていた。800人収容の館は満席、「入りきらず観客を帰したのは、映画館始まって以来の出来事!」
と館長さん。公演は大盛況で、終了後のステージには観客が押し寄せ、サイン攻めにあう。もみくちゃにされ、皆、嬉しい悲鳴をあげていました。

 また、この日、楽屋裏に2人の青年(音楽家)が訪れ、あるものを見せてくれた。それは、シベリア地方サハ共和国の口琴「ホムス」。
実は我々の演目の中にも、日本のアイヌ民族の口琴「ムックリ」を使用した「悪魔払いリムセ太鼓」という曲があった。
更に我々は、以前釧路でサハ共和国の方々と共演した際に「ホムス」を頂き、今回の公演では、曲の終了後に「ホムス」と「ムックリ」の
競演を行なっていた。彼等は、その事を知って駆けつけたのだ。楽屋裏では、そんな青年2人と、山口幹事長・遠藤リーダーによる
競演が行なわれたのでした。記念にムックリを渡すと、嬉しそうに「今後、自分たちも、ホムスとムックリで競演して回る」
言っておりました。素直に喜ぶべきなのか、複雑な気分。

 公演終了後の歓迎レセプション、蝦夷太鼓の人気はアイドル並み。身動きがとれない程、沢山の人に囲まれ歓迎を受けた。
1人のおばさんからは「すばらしい!!」と熱い抱擁とキスを受けた。10人近い男性にも囲まれるが
(その光景にメンバーは、ロシアに永住したらと言った)言葉もわからず、ただただ乾杯を繰り返し、
その度にウォッカを一気に飲み干す私でした。

 翌日、結局、金さんとは連絡も取れず、会うことの出来ないままユジノを去る日を迎えた。今朝の新聞に我々の公演の写真が
大きく載っていた。そこには「蝦夷太鼓は芸術家といっても過言ではない」と大絶賛されていた。これには我々も感激。
金さん、どこかでこの記事を見てくれているだろうか。

1649年に、この地を訪れた探検家エロフェイ・ハバロフの名にちなんで付けられたと言うハバロフスク。
新潟から空路2時間の町は、人口約70万人の極東ロシア最大の中心都市。そしてここが、我々最後の公演地である。
日本を発ってから1週間、すっかりロシアでの公演に慣れた私達。日に日に良くなっていくのがわかった。
しかし、そんな皆の表情にも疲れが見え始めたのがこの頃。それもそのはず、移動日以外は全て公演日。
かなりのハードスケージュールだった。しかも我々はアマチュア故に、手を抜くなどと言う事もなく今日まで全力疾走で来てしまったから、
なおさらである。しかし、それもあと2日。何とか気力で乗り切っていた。

19日、この日はハバロフスク地方制定記念日。毎年この日の為にと、記念の教会が建てられたり、
サーカスが開かれるなど、街並みは綺麗に飾られ、活気づいておりました。この日、ハバロフスク地方行政府を表敬、
文化・芸術委員会議長ジュロムスキー氏は、レニングラードの音大出身者で、太鼓にとても興味を持ってり2年前の我々の公演も
見てくれたそうだ。「あなた方はとても人気があり、私を含むハバロフスク市民は、皆、心待ちにしていました。
楽しみにしていますので頑張って下さい。」
と激励の声をかけて下さいました。

 ここでの公演は全部で4回。領事館の方々がデモテープを放映するなど熱心な宣伝活動により、1日目の労働組合会館、
また2日目のミュージカルコメディ劇場での公演も大盛況だった。床は大理石で出来たオペラ仕様の大きく立派なこの劇場に、
2年前、驚きと戸惑いを隠せなかったのは、当時初遠征だった橘清一くん。しかし2年経った今では、すっかり余裕の表情。
初遠征のメンバーを励ますなど、頼もしい限りだった。

20日の夜の合同レセプションでは、大舞台での成功に、興奮冷めやらぬ想いからか、初遠征の2人がウォッカを
3本も開けてしまい澱酔状態に。アルコール度が高く、喉を通れば火がついた様に熱くなる。極寒の地ロシアにおいては、
必要不可欠な飲み物?ほとんどの人が愛飲している。ロシア語で「生命の水」と呼ばれた事から、後に「ヴァダー=水」の
愛称形でウォッカと呼ばれるようになった。その名の通り、水の様に一気に飲むのが習わしだった。とは言っても、
さすがにロシア人でも3本も飲めば(飲む奴はいない!)腰が抜けるそうで、結局メンバーに支えられ2人は会場を後にした。
深夜ホテルでは、うわ言で「すいませ〜ん」と繰り返す、2人の悲痛な叫び声が響いておりました。

21日、お昼に行なった「レーニン広場」での野外公演は5000人もの人が集まり、広場の外の通りまでも溢れていた。
TVカメラは2台入り、リーダーと私の2名が取材をうけた。「太鼓というと、重労働で男の人がするものだ。なのに女性のあなたは何故、
太鼓をできますか?」
ロシアでは、女性が太鼓を叩く行為が信じられなかった様で、幾度かこのような質問を受けた。
何故?と言われても小学生の時からやっていた私にとって太鼓は、生活の一部の様なものだった為、回答に少々戸惑ったが
「勿論、努力は必要です。しかし何よりも大切なのは、誰にも負けない情熱。深く念う気持ちがあればこそ、夢は叶うと思います。」
そして、その夢は決して一人では叶わなかった事。同じ夢、念いを持つ仲間たちがいて、支えられてきたからだという事を告げた。
かっこいいと思うかもしれないが、事実この仲間達だったからこそ続けてこれたのだと思っていた。

 演奏終了後、我々の元に一人の女性が花を持って現れた。彼女は今朝、出掛けにとても嫌な出来事がありブルーに
なっていたのだという。しかし偶然目にした我々の公演で彼女は、「とても温かで幸せな気分になれました、ありがとう。」そう言うと、
そこの通りで買ってきたという花を私達にくれました。我々の演奏が、一人の人を幸せに導いたのであれば、こんな嬉しい事はなかった。
感激だった。この出来事は、疲労がピークに達していた我々に最後の力を与えてくれました。

 18時からのコメディ劇場では、一人でも多くの人に感動を、勇気を与えようと行なってきた蝦夷太鼓ロシア公演も最後を迎えようと
していました。全ての演目を終えた私達に、観客は立ち上がり、割れんばかりの拍手をくれた。感激で胸が熱くなっている我々に対し、
拍手は手拍子に変わり、歓声は、ある掛け声に変わっていった。「マ・ラ・ツィ!マ・ラ・ツィ!」アンコールの催促?
しかし既にアンコールは済ませていたし、何が何だかわからず、一同顔を見合わせた。

 通訳に確認すると、「マラツィ=たいしたものだ、とか、スゴイ!」という事を知り、再び感激した。全10回の公演中、
最高の熱気と興奮に包まれ、最後のステージは幕を閉じた。舞台袖では、今回の公演で常に我々を励まし、見守っていてくれた
通訳兼ガイドの佐藤史郎さんが大きな拍手で迎えてくれた。彼は、ただの通訳ではない。ロシア語の翻訳を始め、日本では劇団の
プロデューサーとしても活躍されている大変な人。そんな凄い人との出会いは2年前のロシア公演。通訳のみならず、舞台においても、
沢山のアドバイスを頂いた。優しくも、厳しい意見を述べてくれる、我々にとっては必要不可欠な人物として、今回の遠征では
蝦夷太鼓の方より逆指名させて頂いた。そんな彼の、硬い握手と、深くうなずき「良かったです」の一言に、思わず涙が溢れた。

々は遠征先で常に沢山の方々と出会い、交流を重ねてきた。特にロシア遠征に関しては、佐藤さんを始め、
我々を囲む沢山のスタッフ達に感謝。領事館職員の方たちは勿論のこと、現地通訳の人達も、自分の事の様に、
我々の公演の成功を喜び、感動を分かち合った。とても一生懸命に働いてくれた。いいかげんで、おおざっぱな性格が特徴と
言われるロシア人など、我々の元には誰一人としていなかった。日本の演歌を得意とするロシア人もいた。愉快で、温かい人達だった。
我々の演奏に、涙して喜んでくれた人達もいた。我々の熱い想いは、このロシアの大地に太鼓を通して伝えられたと思う。
そして、沢山の人達の喜びの声に、我々もまた励まされた。だから、これからも我々は頑張ろうと思う。
どこかで待っている未だ見ぬ大地、そこに住む人々に、熱い想いを届ける為。(終)