2025年12月20日(土)
  「今、知った」

エリヤがケリテ川の後、ツァレファテの
やもめ女性のもとに導かれた。
主により養うと。

しかし、その女性は飢饉の中、食べ物
は無くなり、一握りの粉と少しの油が残
っていただけだった。

子どもと一緒に、その最後の食事をして
死のうとしていると。

どんな資産家と思うと、貧しさの極みの
人物だった。しかし、エリヤは、それで
まず私に小さなパンを作り、後にあなた
方のためにと。

そうするなら、主が雨を降らせる日まで
は、粉と油は尽きる事がないと。

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その女性は、言われる通りに従った。

すると、エリヤの言葉の通りに、奇跡が
起きた。飢饉の間中、粉と油は尽きず、
母子は養われた。

大きな奇跡を目の当たりに見た!

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その後、その女性の男児が重病で死んで
しまった。

エリヤは、その子が生き返るように祈りに
祈った。

すると、主は祈りを聞かれ、その子は生き
返った。

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彼女は、その時に、主の言葉が真実である
ことを、

「今、知った」と言った。

少し前に、あれほどの奇跡を見たのに、それ
では無く、息子が生き返った時だった。

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人は、自分の大切なもの、自分の命である
ものに、関わる時、主と向き合い、出会う。

Aさんが、癌で余命3ケ月の宣告を受けた。

長い間、他の宗教を信じ、勉強も懸命にして
いた。

しかし、その宗教は死を前にした時に、何の
力にもならなかったと。

恐怖で、恐怖でたまらず、夜寝る時が一番恐
かったと。

明朝、目が覚めないのではないかと。
あれほどの恐怖は無かったと。

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それで、ご主人がクリスチャンだったので、
「夫の神様」と初めて祈った。

「夫の神様、助けて下さい」と。

結果的に、Aさんは主イエスを信じ、救われた。

今まで食事が砂をかむようだった、無理やり
飲み込んでいたが、信じたその日の夕食が
何と美味しかったかと。

神様からの人知で測り知ることのできない
平安を持たれた。

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以前も癌になり、それは初期だった。それなら
危機感が無かった。

余命3ケ月の宣告を受け、初めて死と向き
合った。

そして、神様を「今、知った」と。


やはり人間は、追い詰められなけrば、ダメ
なのですねと。









2025年12月11日(木)
  「心の温もり」

主に在る友から、クリスマスカードが届いた。
嬉しく受け取る。


今日も、外に出ると寒い。

ふっと「寒さ」と「友」の関連で、


冬の寒さの中も、友と二人で、教会から遠方
の公園へ、毎週、子ども伝道に行ったことが
思い出された。

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子どもたちは、教会へも遠いと来れないので、
教会の無い地域の公園へ、こちらから出向き、
子どもたちに、イエス様を伝えた。


当時は、まだ子どもたちが、沢山、公園で遊
んでいて、子どもたちに声をかける。

子どもたちが、集まって来る。

そして、一緒に子ども讃美歌を歌い、ゲーム
をし、聖書の紙芝居をする。カードのプレゼント。

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子どもたちは、珍しいのか、いつも大喜びで
集まってくれた。

子どもたちと遊び、「また、来週来るからね」と。

冬は、すぐ夕暮れに。

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少し距離があり、教会へ戻る頃は、すっかり暗く、

寒さの中も、友と、語り合いながら、徒歩での
帰路、心は、いつも温かく。

主からの喜びと平安に満ちていた。

徒歩の行き帰りは、少し疲れるが、それは
快い疲れだった。


そんな、こんなが思い出された(*^^*)

心に灯がともるような、とても温かい感触 ^^) _旦~~


楽しく、主の祝福だった(*^^*)

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心一つに、一緒に、主のために働くことの
喜びと、祝福と、感謝を経験し、味わった(^_^)




2025年12月09日(火)
  「変えることのできないものを、受け入れる」

<ラインホールド・ニーバーの祈り>


「 神よ

変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。」

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信仰生活において、「変えることのできないもの」
を、受け入れることが非常に難しい。

なかなか受け入れられない。

受け入れることが出来たら、問題解決したような
ものだ。

受け入れられないので、悶々の中に沈み、葛藤し、
落ち込み、思い煩い、不安、恐れでいっぱいになる。

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ある女性が、子どもに難病が発覚した。

辛くて、苦しくて、悲しくて、悩み、不安や恐れで、
いっぱいになった。

同じ年ごろの子どもを見ると、涙が出た。

一人になると、涙が溢れ、涙、涙、だった。

「なぜ、どうして」「この子が」

ぐるぐる回るばかりで、心は辛いばかりだった。

数ケ月が経過して行く中で、祈りに持って行き、

思いの丈を主にぶつけ、ただただ祈っていた。

そんな主との交わりの中で、いつしか受け入れ
られるように導かれた。

受け入れた時に、あんなに嵐のように波風逆巻
いていた心が、すうーっと平安にされた。


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Bさんは、親御さんが、二人共、突然倒れ、続くよう
に二人共入院に。

パニックになった。どちらもみなければならず、別
の病院に、交代に足を運んだ。

病院は3ケ月しかおれず、どちらも次の病院を
探すようにと。

初めてのことで、全く何もわからず、右往左往し、
心労やら身体の疲労やらで、暗い、思い表情だった。

突然、大変な重荷が降りかかってきた。

Aさんが忙しく、バタバタ、バタバタ、動き回っていた
中、皆で、Aさんのために祈っていた。

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しばらくした時、ずっとしんどそうで、重荷に表情が
暗かったBさんが、突然、別人のように笑顔になり、
明るい顔になった。

気持ちが軽くなったと。

余りの重圧に、神様に祈り、おゆだねしたと。

その結果、荷が取れて、平安に。

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まるで、使用前・使用後のような、突然の変化に
周囲はびっくり!!!


しかし、確かに、主が重荷を受け取って下さった。


そして、目の前の状況を、受け入れられるように
して下さった。





2025年12月06日(土)
  「みことばの聞き方」

一年の祝福を語り合っていた。

Cさん
「神様を信じて救われたのだが、神様のことが
よくわからなかった。

ずっとわからない感じだった。御言葉を聞くこと
は抵抗なく、拒否感もなかった。

聞くことは嫌でなく、喜んで聞けた。
それで、御言葉は教会に来ては聞いていた。


しかし、幾ら聞いても、よくわからなかった。
神様が漠然とした感じだった。


そんな状態が、かなり長く続いていたが、御言葉
に拒否感は無いので、聞いていた。

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かなり経た時に、気づきが与えられた。


御言葉を聞く時に、同時に、自分の思い、肉の
思いが来る。

「神に従うように」との御言葉を聞くと、同時に
「そんな事、無理」との思いが来る。
「この世の中で、やって行けない」と。

「〜しなさい」との御言葉を聞くと、「とても無理」
「自分にはできない」と思う。


どの御言葉を聞いても、「無理、無理」「出来ない」
と思う。


そして、その自分の思いの方を選択して、結局
御言葉を捨てていたと。
長い間、ずっと、そのようにしていて、気づかなかった。

ずっと自分の肉の思いの方を選択していたので、
御言葉が心に入らず、結局、聞かなかった事と
同じになっていた。


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御言葉の聞き方を、少しづつ変えて下さった。

肉の思いが出て来ることに気づき、自分の思いを
捨てて、御言葉の方を選択する練習ができて
行った。

すると、変えられて、初めて神様に従うことが
できるようになった。

特に、自分の弱さの箇所を、よく示され、そのところ
で、従って行った。

失敗しながら、しかし従って行った時に、自分が
変えられて行った。

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気づくと、従ったゆえに、実も見えて来た。

主に従い、従い続ける時、結実が与えられる。

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今年も、見える形で、自分が変えられたと。



2025年12月03日(水)
  「祈りの力」

師走になり、今年の祝福を語り合っていた。

Aさん
「今年、厳しい試練があり、辛くて、苦しくて。
涙、涙で、涙があふれ、泣きながら、叫び祈った。

祈りが、叫びとなった。何のすべも無く、
祈るばかりだった。

こんなに苦しい事は無かった。何も、どう
しようもなく、何の方法も無かった。
祈りに、祈った。

ただただ、祈り続けた。

神様に、すがりついた。

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そして、

今、見事に祈りが答えられた。

あれほど辛かった状況が、改善に向かい、

すっかり、解決が与えられた。

平安で、平安で、

ただただ、感謝でならない。

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♪人生の海の嵐に、もまれ来し、この身も

不思議なる 神の手により 命拾いしぬ

いと静けき港に着き、我は 今 安ろう

救い主イエスの手にある 身はいとも安し〜♪

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Bさん
異国の地で、女手一つで、子どもたちを育てて
いたCさんを思い出す。

現地では、車が贅沢品でなく、必需品。車が無け
れば、生活が成り立たない。

教会も少し遠く、ハイウェイを走る。車無しでは
どうにもならない。

その車が故障してしまった。

修理するための費用が無い。

どうする事もできず、助けを求めて祈り、涙が止
まらず、泣いていた。

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「 窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りを
ないがしろにされなかったからです」
詩篇102:17

すると、車のメーカーから報道が出て、
車の欠陥が見つかり、近くの修理できる先に
行けば、無料で修理すると。

まさに、その車種だった。

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修理先に持って行き、すべて無料で、きれいに
修理された。


主に心から感謝し、主の御名を崇めた。




2025年12月01日(月)
  「一番初めのクリスマス」

★クリスマスの季節になった。


教会では、クリスマス特別集会やキャンドルサー
ビスの準備に忙しい。

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救われて、一番最初のクリスマスをよく思い出す。

初めて、本当のクリスマスのお祝いになった。

それまでは、友人たちとクリスマスパーティをし、
ケーキや軽食、飲み物を用意し、昔はまだレコード
で、ワイワイガヤガヤと楽しんだが。

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イエス様が来て下さった意味を知った。

私の罪のために、御子を殺された、御父の愛を
知った。

一年の違いで、全く天と地ほどに違うクリスマスに
なった。

生きる意味を知り、心に平安を与えられ、イエス
様が大好きになり、喜びが与えられた。

その前には、無いものだった。
友人たちとの交流は楽しいのだが、心の奥を満
たす者では無かった。

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ある方が、とにかく一生懸命に、真面目に行きたい
と願い、町内会の行事にも、懸命にお世話し、

お祭りの時には、子どもたちや大人のためにも、
多大な時間、労力を使い、走り回り、本番を終えた
時、皆に喜ばれ、感謝される。

しかし、その後、どっと虚しさが来たと。懸命に労し、
人にも喜ばれ、しかし、虚しくてたまらない。


それでは満たされなかったのでしょうね。イエス様
を信じた時に、初めて心が満たされましたと。

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宣教師の教会だったが、子どもたちも一緒の、
夕から夜にかけての、クリスマス特別集会を終え
た後、暗いので、子どもたちを送りながら、

キャロリングをした。電灯を持ち、讃美歌を歌って
町内会を歩く。


心が満ちていた。


子どもたちを送り届けると、親御さんたちが笑顔
で、挨拶して下さった。

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先日、友人に、「あのクリスマス、キャロリングは
忘れられない」と言うと、


「私も!!」と。

すごく幸せな、満ち足りた、初めてのクリスマス
だった。


★★★


“きょうダビデの町で、あなたがたのために、

救い主がお生まれになりました。

この方こそ主キリストです。”ルカ 2:11