2025年12月06日(土)
  「みことばの聞き方」

一年の祝福を語り合っていた。

Cさん
「神様を信じて救われたのだが、神様のことが
よくわからなかった。

ずっとわからない感じだった。御言葉を聞くこと
は抵抗なく、拒否感もなかった。

聞くことは嫌でなく、喜んで聞けた。
それで、御言葉は教会に来ては聞いていた。


しかし、幾ら聞いても、よくわからなかった。
神様が漠然とした感じだった。


そんな状態が、かなり長く続いていたが、御言葉
に拒否感は無いので、聞いていた。

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かなり経た時に、気づきが与えられた。


御言葉を聞く時に、同時に、自分の思い、肉の
思いが来る。

「神に従うように」との御言葉を聞くと、同時に
「そんな事、無理」との思いが来る。
「この世の中で、やって行けない」と。

「〜しなさい」との御言葉を聞くと、「とても無理」
「自分にはできない」と思う。


どの御言葉を聞いても、「無理、無理」「出来ない」
と思う。


そして、その自分の思いの方を選択して、結局
御言葉を捨てていたと。
長い間、ずっと、そのようにしていて、気づかなかった。

ずっと自分の肉の思いの方を選択していたので、
御言葉が心に入らず、結局、聞かなかった事と
同じになっていた。


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御言葉の聞き方を、少しづつ変えて下さった。

肉の思いが出て来ることに気づき、自分の思いを
捨てて、御言葉の方を選択する練習ができて
行った。

すると、変えられて、初めて神様に従うことが
できるようになった。

特に、自分の弱さの箇所を、よく示され、そのところ
で、従って行った。

失敗しながら、しかし従って行った時に、自分が
変えられて行った。

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気づくと、従ったゆえに、実も見えて来た。

主に従い、従い続ける時、結実が与えられる。

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今年も、見える形で、自分が変えられたと。



2025年12月03日(水)
  「祈りの力」

師走になり、今年の祝福を語り合っていた。

Aさん
「今年、厳しい試練があり、辛くて、苦しくて。
涙、涙で、涙があふれ、泣きながら、叫び祈った。

祈りが、叫びとなった。何のすべも無く、
祈るばかりだった。

こんなに苦しい事は無かった。何も、どう
しようもなく、何の方法も無かった。
祈りに、祈った。

ただただ、祈り続けた。

神様に、すがりついた。

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そして、

今、見事に祈りが答えられた。

あれほど辛かった状況が、改善に向かい、

すっかり、解決が与えられた。

平安で、平安で、

ただただ、感謝でならない。

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♪人生の海の嵐に、もまれ来し、この身も

不思議なる 神の手により 命拾いしぬ

いと静けき港に着き、我は 今 安ろう

救い主イエスの手にある 身はいとも安し〜♪

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Bさん
異国の地で、女手一つで、子どもたちを育てて
いたCさんを思い出す。

現地では、車が贅沢品でなく、必需品。車が無け
れば、生活が成り立たない。

教会も少し遠く、ハイウェイを走る。車無しでは
どうにもならない。

その車が故障してしまった。

修理するための費用が無い。

どうする事もできず、助けを求めて祈り、涙が止
まらず、泣いていた。

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「 窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りを
ないがしろにされなかったからです」
詩篇102:17

すると、車のメーカーから報道が出て、
車の欠陥が見つかり、近くの修理できる先に
行けば、無料で修理すると。

まさに、その車種だった。

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修理先に持って行き、すべて無料で、きれいに
修理された。


主に心から感謝し、主の御名を崇めた。




2025年12月01日(月)
  「一番初めのクリスマス」

★クリスマスの季節になった。


教会では、クリスマス特別集会やキャンドルサー
ビスの準備に忙しい。

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救われて、一番最初のクリスマスをよく思い出す。

初めて、本当のクリスマスのお祝いになった。

それまでは、友人たちとクリスマスパーティをし、
ケーキや軽食、飲み物を用意し、昔はまだレコード
で、ワイワイガヤガヤと楽しんだが。

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イエス様が来て下さった意味を知った。

私の罪のために、御子を殺された、御父の愛を
知った。

一年の違いで、全く天と地ほどに違うクリスマスに
なった。

生きる意味を知り、心に平安を与えられ、イエス
様が大好きになり、喜びが与えられた。

その前には、無いものだった。
友人たちとの交流は楽しいのだが、心の奥を満
たす者では無かった。

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ある方が、とにかく一生懸命に、真面目に行きたい
と願い、町内会の行事にも、懸命にお世話し、

お祭りの時には、子どもたちや大人のためにも、
多大な時間、労力を使い、走り回り、本番を終えた
時、皆に喜ばれ、感謝される。

しかし、その後、どっと虚しさが来たと。懸命に労し、
人にも喜ばれ、しかし、虚しくてたまらない。


それでは満たされなかったのでしょうね。イエス様
を信じた時に、初めて心が満たされましたと。

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宣教師の教会だったが、子どもたちも一緒の、
夕から夜にかけての、クリスマス特別集会を終え
た後、暗いので、子どもたちを送りながら、

キャロリングをした。電灯を持ち、讃美歌を歌って
町内会を歩く。


心が満ちていた。


子どもたちを送り届けると、親御さんたちが笑顔
で、挨拶して下さった。

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先日、友人に、「あのクリスマス、キャロリングは
忘れられない」と言うと、


「私も!!」と。

すごく幸せな、満ち足りた、初めてのクリスマス
だった。


★★★


“きょうダビデの町で、あなたがたのために、

救い主がお生まれになりました。

この方こそ主キリストです。”ルカ 2:11