2010年07月18日(日)
  「比較の無い世界」

スマップの「世界で一つだけの花」の歌がある。

「♪花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
人それぞれ 好みはあるけれど
どれもみんな きれいだね♪

僕ら人間は どうして こうも比べたがる?
一人一人違うのに その中で 一番になりたがる?

そうさ 僕らは 世界に一つだけの花

ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン♪」

皆、ナンバーワンでなくてもいい、皆、沢山ある中の
オンリーワン。
ナンバーワンではないが、オンリーワンなのだからいい・・

・・・・・・・・・・・・・・・

「比べる事の出来ない人生」と題してのメッセージがあった。

比べるのが大好きなペテロが、ヨハネ21:18で、殉教する
と言われた時に、いつも主のみそば近くいる気になるヨハネ
の存在に、「この人はどうですか」と聞いた。

その時に、「その事があなたに何の関わりがありますか」
「あなたには関係無い」と言われた。

関係無いとは、何のつながりもいっさい無いということ。

つまり、イエス様が「あなたとわたししかおらず、他の者は
そこにいない」と言われた。
他の人と、誰ともつながっていない。それは夫、妻、友人
誰ともつながりがない。

何のつながりも無いものは、比較のしようがない。
つながりがあり、同じジャンルのものは比較ができる。

「ばらとユリどちらが好きですか?」
「はい、ステーキが好きです」 「は??」
ジャンルが違うものは、比較にならない、出来ない。

「あなたの足は大根のようですね」「色がです」
「あなたの足はごぼうのようですね」
「あなたの足はカモシカのようですね」 
これらは通じる。つながりがあるからだ。

「あなたの足は金目鯛のようですね」と
言われれば、どうだろう?
「は?!」
「ハテナ?ハテナ??わけわからない」
足と金目鯛がつながらないからだ。

そのように、私たちも一人一人、つながりがない。
だから比較が的はずれであり、比較しようにも出来ない。

皆が、全くの別ジャンルの人間であり、オンリーワン。
だから比較が無い。


そして、「♪ナンバーワンにならくてもいい。
もともと特別なオンリーワン♪」

これはおかしい。矛盾する。
オンリーワンなら、ナンバーワンのはず。
オンリーワン=ナンバーワン。
だから、私たちはすべてナンバーワンであり、オンリーワン。

・・・・・・・・・・・・・・・・

と、メッセージの中に出て来たが、
「確かに!!そう言われれば、そうだ!」と思わず納得(^^)/

神様無しの世界では、自分を量るのに、量るすべがない。
人との差異でしか、自分を量れない。量りようがない。

そうやってずっと生きて来たので、無意識に思考パタンの中
に「比較」が組み込まれている。
そして、それは根深く培われた価値観だ。

そこから劣等感と優越感を行き来し、比較の回路から抜け
出られず、人が気になり、人が神となり・・
神の前でなく、人の前を、クリスチャンでも生きてしまう。

古い価値観を、御言葉の価値観に、置き換え、置き換え
置き換え続けて行く人生。

ここのところが、思考パタン、価値観の変換がキイだ。

御言葉に立ち続ける時、本当に自由にされ、解放されて行く
ことを経験する。心がストン!と突き抜けて、喜びが溢れる。
神様の愛を膚で感じるようになる。

2010年07月15日(木)
  「平安が来た!」

Aさんが、長らくある対人関係で、悩み、
苦しんでいた。

気持ちを伝える事はとても大切と学び、初めて
自分の気持ちを言葉にして、相手に伝え始めた。

こういう事は悲しい、この言葉は心が辛い、苦しい・・
これは嬉しい・・
事あるごとに伝え始めた。

辛い悲しい事があるので、同じ事を幾度も伝えたが、
相手に届かないというか、全くわからなかった。

最初は、わからない事に腹が立ったが、段々、
本当に悪気なく、わからないんだという事が
わかって来た。

信じられないけれど、悪気ないんだ。ほんとに
わからないんだ。

その事が、わかった。神様だった。
神様がわからせて下さった。

その事がわかったのも、自分の気持ちをちゃんと
伝え、訴え続けたからだった。

その時、ほんとにわからないんだから、悪気が
無いのだから、言っても仕方が無いと思えたし、
納得が行った。

そして、じゃあ、もうあるがまま受け入れようと、自然
に心が動いた。これも神様からだった。

ついに受け入れることができ、すると、あんなに
苦しくて、辛くて、重くて、拒否反応が出ていた心が
失せた。

もういいやと、前向きに思えて、犠牲を払うことを
して行くと、何と!!心が変えられていた!!

平安が心に来た!あんなに苦しかった心が全
平安になった。

全く、相手が問題でなくなった。相手が変わった
のでなく、自分が変えられたのだ。


それを聞いて、周囲が神様の栄光を見た!!

皆が「ひえー!!すごい!!その相手絶対に
救われるわ!」






2010年07月11日(日)
  「解放される」

Aさんが「今、平安も喜びも無いんですよぉ。対人関係で、
自分にとっては嫌な事をされて、赦せないんですねえ。

相手の行為とか言動なんですが、でも、よく考えると、
自分も、ものすごくひどい事言ってるんですよ。

相手がもろに傷つくだろうなあという事を。でも、自分は
棚上げで、人は赦せないんですよねえ(笑)

まさに、あの借金のたとえ話の、牢獄に入れられる人です。
一万タラント借りのあるしもべが、返済できず、主人に免除
してもらった。
だのに、自分が貸した100デナリを赦せず、牢に投げ入れた。
主人は怒り、彼を投獄した。

神様に罪を全部赦してもらってるのに、人の罪を赦せない。
すると、牢獄に入るんですよねえ」

「自分で自分の首を絞めて、牢獄に入る事になるよね」

「今、その牢獄です。苦しい」

「牢獄は、四六時中、真っ暗。辛い苦しい思いで、がんじ
がらめに拘束される」

「そうです、そう」

「楽しい時が無い。楽しい時も、その事を思うと心重く、
辛く、心暗くなる。日々の生活に平安も喜びも無いよね」

「そう。喜びが全然無い。神様の愛もわからない」

「赦したら、人生バラ色になるよ。楽しくて楽しくてしようが
無い。もう嬉しくて嬉しくてたまらなくなるよ。神様の愛が
わかるし。」

「それが出来ない。ていうか、したくない」

「自我だよね。自我が絶対したくないよね。これぞ自我
という、自我の在りかが、もろにわかる」

「そう、絶対にしたくない。でも、苦しいのが辛くて嫌なん
です。全然平安無いし」

「自我がどうにもならないよね。赦すって、自分に死ぬことで。
自我は絶対嫌だよね」

「Bさんが、絶対に赦せない相手がいて、自分は苦しくて
苦しくてたまらない。でも、もうどうやっても赦せなくて、
もう瀬戸際で、その時に『神様、赦せない私を赦して
下さい』と心の底から叫び祈った。

Bさんは、その時、神様に触れて、赦すことができた
んだって。奇跡だったと。あんなに赦せなかったのに、
心が解放されて、喜びと平安が来たと。
Bさん、叫んだんだね」


「心のありのままを、祈ります」




2010年07月09日(金)
  「いのちの言葉」

「向こう岸へ渡ろう」の御言葉があったから、
イエス様は、大嵐のまっただ中で、熟睡して
おられた。
全き平安と安堵の中で(^^)

途中、嵐が来ようと、何があろうと、絶対に
向こう岸へ渡れるので、何の心配も不安も
恐れもなく、すやすやと眠っておられた。

「向こう岸へ渡ろう」の御言葉がキイだった。

Aさん「神様の一言があれば、どんな中でも
生きて行けますよね」

Bさん「そうそう、あのCさん、神様の一言葉
で、全き平安になられたんですよね」

Cさんは、ご主人を亡くされた時、ご主人の
大きな借金があり、破産宣告された。
無一文になり、裸一貫で、働きに働いて、
生活の糧を得て来られた。

時折り、新聞に入る教会のチラシに、心惹かれ
教会に来たいと思ったが、ずっと日曜も仕事だった。

リストラになった時に、すぐに教会へ来られた。
イエス様を信じられ、ずうっと皆勤で教会へ来ら
れた。
日曜も、平日の学び会も、休まれないでずっと
来られていた。

その間も、仕事を探しておられたが、探せど探せど
全く無かった。
数ヶ月が経ったが、仕事は無く、そんな時に、聖書
を読んでいたら、一つの御言葉が心の芯に入った。

“あなたがたのうちだれが、心配したからといって、
自分のいのちを少しでも延ばすことができますか”
マタイ6:27

心底「そうだ!その通りだ!」と納得し、思えた。
御言葉が真に生きていて、霊であり、いのちと
なって、心に入り、奇跡が起きた。

全く不安も恐れも、思い煩いも心から無くなって
しまったのだ。消えてしまった。

続けて仕事は無く、貯えもなく、生活の糧もない
のに、全く心に不安も思い煩いもなく、平安その
ものだった。

まあ、私が明るいから、家の中も明るいんですよ。
不思議な事に、近所の畑をしている方々が、
野菜を次から次へと下さって、釣りに行ったと
言っては魚を下さって、神様が与えて下さってる
んですねえ。感謝しかないです。

Cさんの口から、一言の不平不満も愚痴も
心配も出た事がなく、いつ会っても感謝に溢れて
おられた。

その後、しばらくして仕事が与えられた。

そして、Cさんはその後も、いつ会っても感謝
しか口から出られない。

ひと言葉の力を、奇跡を、目の当たりに見せられ、
皆で、もう恵まれて、励まされている。




2010年07月07日(水)
  「すべては、上から来る」

パックツアーで、観光巡りがセットされていた。
お寺がその中にあり、一カ所に、様々な神が
集められていた。

健康の神様があり、病気が治る神様、その隣に、
仕事の神様、その裏に、安産の神様、商売繁盛の
神様、お金が儲かる神様・・
人間が、自分に都合の良い神様を選び、お参りする
そうだ。

人間が神を利用する。
まことの神様を知らなければ、違和感すら感じな
かったかも知れない。


Aさんが、どうしても、心の底からの願いがあり、
どうにもならない、強烈な願望であり、祈って祈って
祈り続けていた。

なかなか与えられず、しかし、どうしても欲しい、手に入れ
たい。祈りつつ、ありとあらゆる手段を講じていた。

祈りに祈っていたある時、この強烈な欲、願望、これが
高じて行くなら、与えてくれさえすれば、別にイエス様で
なくても、他の偶像でも、何でもよくなってしまう。

自分の心が、確かにそうだと思った時、何をしているのか
わからなくなり、すべてが本末転倒であり、神を利用して
いるのであり、欲望が神になってしまっている事に気づか
された。

自分が恐ろしくて、恐ろしくて、涙が溢れて止まらず、心の
底から、涙ながらに悔い改めた。
そのものも、願望も、すべてを神に明け渡して、お委ねした。

その時、心が全く平安になり、あれほど欲しくてたまらなか
ったものであったのに、御心なら与えて下さるだろうし、
もし、御心でなければ、もう与えられなくて良いと思えた。
心からそう思えて、心が解き放たれ、賛美が溢れた。

心すっきりし、心全き平安に過ごしていたある時、
その願っていたものが、何と天から与えられたのだ!
一方的な恵みであり、奇跡だった。

自分がもぎ取ったのではなく、与えられたのであった。
Aさんは、心が喜びと賛美と感謝に溢れ、満たしに
満たされた。


決して自分の思い通りにはならず、自我を砕いて
下さる神様、自分を変えて下さる神様、正しく真理に
導いて下さる神様、

まことの神様を知り、まことの神様に知られている
何という測り知れない恵みだろう。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物
は上から来るのであって、光を造られた父から下る
のです」ヤコブ1:17



2010年07月05日(月)
  「大丈夫!!」

小舟のイエス様が、大嵐の中、熟睡しておられた。

「ところが、イエスだけは、とものほうで、枕をして
眠っておられた」マルコ4:38

「向こう岸へ渡ろう」との御言葉があり、御心ゆえ、途中
どうなろうと、天地がひっくり返ろうと、100%向こう岸へ
渡れる。御言葉は完全に成就する。

だから、舟が水でいっぱいになろうと、安堵と全き
平安の中で、熟睡された。

イエス様が乗られている舟が、沈むはずがない。
沈む事のほうが不可能だ。

この大嵐の中、安堵で、平安で、何の心配も恐れもなく、
熟睡しておられるイメージが焼き付いた。

教会で、夏の宣教地訪問の募集がかかり、数名が応募。
旅行社にチケットを取る作業に入るが、アジアは安くて、
大人気と。

参加者で、日にち合わせをし、祈って連絡を入れると、
やはりか?! 「もう満席です」「キャンセル待ちです」。
しかし、イエス様が嵐の中、全き平安で眠っておられる
姿が来る。「大丈夫!取れる!」と。

「他県発はどうですか」「あと数席だけ残っています」
「じゃあ、ちょっと相談して又連絡します」

押さえておかないと、これもすぐ無くなってしまう・・
しかし、祈っていると、平安に眠っておられるイエス様の姿。
「大丈夫!」

祈っていると、アイデアが来た。もう1日仕事休暇を延長
できないか?そして、前日なら広島発はどうか?

参加者に、休み延長案をすぐ連絡し、旅行者に前日から
の便を聞く。広島発、残り7席ですと。
すぐに押さえたほうが・・ しかし、イエス様は安心して
眠っておられる。「大丈夫!」と。

参加者からの返信が、その日の旅行社閉店までに
間に合わなかった。でも、イエス様は眠っておられる。
「大丈夫!」 
そのイエス様に、心は平安にずうっと、守られた。

そして、1日休暇延長の0Kが勤務先から貰えて、
翌日朝一で、申し込みを入れる。あと・・7席だった・・
しかし、イエス様は安堵で眠っておられる。「大丈夫!」

そして、最終連絡が来た。席をお取りできました。
イエス様、有難う!!(^^)/やったあ〜!!

宣教地で、子供達が次々高熱に倒れる。治ったと
思うと、次の高熱。種類の違う菌が色々いるよう。
心が痛い。

しかし、イエス様が、「わたしが同船している。
わたしがいる。大丈夫!!」と。

イエス様をじいーっと見つめていると、心が安堵と平安
に守られる。

そして、子供達の高熱が下がり、回復に向かった。

人生、どんな大嵐の中も、このイエス様が同船しておられ、
「大丈夫!!」「何の心配も無い!!」と。

心に安堵と平安が臨む。