2010年09月11日(土)
「二つの反応」
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Aさん「はっきり、二つの自分の反応がわかり
ます。
心に余裕がある時、心が穏やかで、平安な時は、
例えば、自分に向かって敵対して来る人に対し
ても、神様にお委ねしよう、相手の祝福を祈ろう、
相手にも何かのストレスがあって、自分に当たって
来てるのだろう。
でも、自分には何でも言って行ける神様がいて
下さって、本当に感謝だ・・
などと、思えるんですよ。相手の言葉や態度
も、全然心に突き刺さって来ないんですよ。
神様がガードして下さってる感じで。
それが、何か心がもやもやっとしている時、
そう、心に余裕が無い時、もう神様吹っ飛んで
勿論、外側には出さいですが、心の中で、怒り
で相手を裁いて、攻撃しまくる。
そして、先の事は、思い煩いのどつぼにはまる。
起こっても何もいない事を、最悪のシナリオが
出来上がって、もうそういう結果になってる(笑)
全く同じ状況で、全く別の二つの反応、
ほんとに二人の自分がいます。霊と肉ですよねえ。
心が問題で、神様を見ている時、御言葉が
心にある時、状況を越えて行く。
状況がどうであれ、心には平安があって、潤い
がある。
でも、神様を見ていない時は、状況だけしか
見えない。肉の反応が、どおっと出て来て、
肉の自分になっている。
Bさん「あ!おんなじ!!
神様がある時は、どんな状況でも、大丈夫!神様が
良くして下さるから。神様を信じていたら大丈夫!
と心から思えるし、言える。
でも、神様ぶっ飛んでいる時は、世と調子を合わせて、
そうだ、そうだと、世の価値観で物を考えている。
後で、え!自分は何をしてるんだ!と」(笑)
でも、神様に視点がある時、神様を見上げている時の
心の潤いや、平安や、喜びやら、心の余裕、ほんとに
あるし、わかるよね!!
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2010年09月08日(水)
「赦せた」
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Aさんがずっと苦しんでいた。
ある人が赦せなくて、その所に、サタンが思いを
吹き込む。すると、怒りで、悶々状態になる。
サタンが吹き込むと、頭では、よくわかっているが、
その時は、サタンに気づかない。
だから、思いきりやられてしまっている。
サタンにほんろうされてしまう。
肉にサタンが来てるのが、よくわかる。
乗って行ってしまうと、そちらを選ぶと、神様が
ぶっ飛んでしまう。
怒りと憎しみ悶々となり、どうやって仕返ししようかと、
具体策まで考え始める。
心は真っ暗で、平安や喜びなど全く無い。
後で、サタンにやられていたとわかる。
でも、この自我がどうにもならないと。
ある時、怒り爆発、悶々最悪状態。
しかし、落ち着くと、サタンだとはっきりわかる。
もう苦しくて、このままでは、やって行けない。
心底、神様に何とかして欲しい。
以前の平安が欲しい。どうやってでも平安に
戻りたい。
神様に、解放されたい、自由にされたい、
心の内側をことごとく打ち明け祈る。
赦せない心は、自分から牢獄に入る。
しかし、もうそこから出たい、何としてでも
出たい。
「サタンが来た時、赦せない思いが来た時に、
相手の祝福を祈ったらいいよ」
「そうですよね。そうします」
そして、しばらく振りで、その件の話題になると、
「赦せたんです!」
「えー!!すごい!!奇跡だー!!良かったねー!」
「『祝福して上げて下さい』と祈り続けていたら、
思いが消えたんです!!もう、すっきりで、何も
無くなった」
「平安が戻りました!!もうこの平安は何にも
代えられないです!!」
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2010年09月07日(火)
「祈りが働いて」
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「絶えず祈りなさい」
「祈りの生活の意味を少し教えられています。
生活全般を振り返ってみた時に、普段から、祈っている
分野、領域って、ほんとに神様感じて生活できるんです。
職場での仕事や、家庭やら、一つ一つが導かれている
実感がある。日毎に、様々な対応やら対処があるが、示され
導かれて、神様感じつつ、対処できる。
ふと気づかされたんですが、自分の弱さの領域って、
自分では気づいて無くて、祈っていないので、事態が起きて、
その所に触れる時、いつも心が混乱してしまっている。
自分の思いがグルグル回るばかりで、平安は全然無いし、
でも、肉だとも全く気づかない。
心はどんどん悶々になり、しんどくなる。
そこで、「神様!」とすぐ祈ればよいのに、そこにも思いが
行かなくて、祈る事もせず、思い煩いと不安で、
心がざわざわ状態。
祈っていない領域だと、今日、気づかされました。
感謝です。今日から祈って行きます!
普段から祈っている領域の事は、ああすれば良い、
こうすれば良いと、アイデアがふっと浮かんだり、
状況がひとりでに変わって、負担が無くなったり、
ほんとに、神様が働いて下っているのがよく
わかって、神様感じ、嬉しいです。
祈りって、ほんとに力があるんですね。
祈りに神様が働いて下さってること、実感しながら
生活できること、嬉しいです。感謝です。
生活の、あらゆる面を、祈って行きたいです。
祈りは、本当に力だ。神様は祈りに答えて
働いて下さっている。
いつでも、どこででも、「神様!」と、呼ぶ時に、
本当に、心が変えられて行くのがわかる。
神様に祈りながら、目の前の事態を考えて行く
時に、神様視点に変えられ、不安が平安へ。
思い煩いが消えて、どう受け取れば良いのか
が教えられる。
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2010年09月06日(月)
「どっちを選択?」
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「しかし百人体隊長は、パウロのことばよりも、航海士
や船長のほうを信用した」使徒27:11
パウロがローマ皇帝に上訴したので、パウロは他の囚人達
とイタリヤへ護送されることになった。
シドンからキプロス、サルモネ沖を航行し、「良い港」に
着いた。冬になってきて、もう航海は危険とパウロは警告
した。命にまで危害と大きな損失が及ぶと。
しかし、百人隊長は、パウロの言葉でなく、もう少し先
まで行って冬を過ごそうと言う航海士や船長のほうを
信用した。
その結果、案の定、暴風に巻き込まれ、幾日も翻弄され、
命まで危うくなって来た。
神によって皆助けられることになるが、日常生活の中で
これをしょっ中してしまう。
御言葉でなく、目に見えるところ、自分の価値観、この世
の価値観、考えのほうを信じ、選んでしまう。
すると、平安が無くなり、ギクシャクし、失敗する。
Aさん「自分は人の意見に振り回されてしまう。人がああ
言えば、受け入れてしまうし、こう言えば、受け入れて、
自分が混乱してしまう。人の間で、波風立てずうまくや
って行きたいばかりで、結局、うまく行かない。
自分にとっては、周囲の人の言葉が航海士、船長だ」
Bさん「私もそう。この世の付き合いで、噂話やこの
世の考え方に、うん、うんと聞いていると、いつしか
あっちからも、こっちからも入ると、混然となり、
ごちゃごちゃになって、神様がわからなくなる。
ちゃんとわきまえて、自分は違う、自分はその考え方
とは違うと、しっかり神様と御言葉に立っていないと
世の価値観に流されてしまう。自分の中で、一緒くた
になってしまう。
よくわきまえて、御言葉に立つことを、意識したい」
Cさん「この世の価値観、考え、肉の思いを選択すると
心に全く平安が無くなる。心がもやもやして来て、
喜びと平安が消えて、思い煩いや不安で、心が重苦しく
なる。
ああ、そうなんだ。航海士や船長のほうを選択してたん
だと、今、わかりました」
御言葉によらない、自分の思い、人の意見、世の価値観
のほうを受け入れて行く時、御霊が平安を取り去って、
気づきを与えて下さる。
御言葉以外の価値観を、心の底に受け入れ、行動して行く
時、心に平安が失せる。何かが違う。
御霊が気づきを与えて下さることが感謝だ。
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2010年09月03日(金)
「赦し」
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赦すことは人には出来なくて、神様の奇跡のみわざだと
経験する。
赦せない心は、自分から進んで牢獄に入るような
ものだ。手かせ、足かせで、がんじがらめで、
苦しくてたまらない。相手でなく、自分が苦しい。
それも、四六時中、まさに牢獄だ。
Aさん「自分はアダルトチルドレンで、親の事、恨んだり
あれやこれや思ったけれど、ある時、思えたんよ。
親はわからなかったのであり、そうしかできなかったので
あり、彼らは、彼らなりの最善を尽くしたんだって。
その時、赦せたよ。」
それを聞いたBさんが、「自分もアダルトチルドレンで、
Aさんの言葉を聞いて、救われた。
そうなんだと思えた。親はわからずに、そうしかでき
なかった。親なりに、良かれとやって来たんだと。
自分も、赦せた。
カウンセラーがびっくりした。『どうして赦せたの?』と」
神様のみわざだ。
Cさん「クリスチャンのラジオ番組で、父親に虐待を受けて
た人が、父親の死後、2年後、初めて、赦せた証しをしていた。
そこで、彼が、人を赦すことは、自分が受けた痛みを越えて、
自分にその痛みを与えた人の痛みを解かってあげる事
だって・・
その時、あー私は、自分の痛みの中にどっぷりとつかり、
その先が、見えてないというのを神様に見せられたよう
だった・・」
自分の受けた痛みを越えて、自分にその痛みを
与えた人の痛みをわかって上げる・・
神様の世界、御霊の世界だ。
肉、自我とは何の関係も無い。
Dさん「どうしてもある人が赦せなくて、苦しくてたまら
なくて、赦そうとするが、赦せない。もう限界になって、
『神様、赦せない私を赦して下さい』と祈った
んです。すると、赦せた。
あんなに苦しかった苦しみが、嘘のように思い
が消えて、解放されたんです」
Eさん「どうしても赦せない人がいて、心苦しいし、
悶々状態。どうにもできなくて、『神様、赦すこと
ができません』と祈っていたら、それが、赦す
心が上から与えられた。
心が解放されて、自由にされて、本当に牢獄から
出ました」
人には出来ないことが、神にはできる。
赦すことができません、と祈って行く時、
神様が赦す心を与えて下さる。
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2010年09月01日(水)
「カンボジア訪問」
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カンボジアに、宣教地訪問に行って来た。
「求めなさい。そうすれば、与えられます」の御言葉
に乗っ取り、素直に、率直に、「神様、行きたい、行き
たい」との祈りを常としていたら、6度目の訪問が
与えられた(^^)/
不思議に、門が開かれ、天から与えられる。
神様、有難う!!
チケット購入の時点から、神様のみわざを見る。
申し込み時期が遅くて、格安チケットはもう埋まって
いて、残り数席との事。
「出来るだけ早い方が良いですよ。すぐ無くなります
ので」と旅行社の係員。
同行のAさんの、休暇日程がまだ確認取れない。
しかし、天を見上げ、すべてを主にお委ねした。
主の御手に渡した。
「すべてのことが、神から発し、神によって成り・・」
自分でどうこうの、自力や心配や焦りが全く
無くなり、全く平安になった。
主が与えて下さる。主が与えて下さるものに
あずかろう。
Aさんの確認取れるや、連絡を入れると、
ギリギリセーフで、席が取れた!!
やはり神様だ!神様有難う!
神様によって与えられ、神様と共に行ける事が嬉しい。
今回は、Aさんと二人で出かけた。
台湾から4時間後、カンボジアが眼下に広がる。
緑一色だ。平原とスコールの後か、赤茶色の川がとうとう
と流れる。街らしきものが見えて来て、プノンペンだ。
プノンペン空港に着陸。
「広島空港より小さいですねえ」
出迎えてもらい、街中へ。
Aさんは、初めてのカンボジアだ。まず、バイク、車、自転車、
人、リヤカー、トゥクトゥクが、ガチャガチャと混在の街に
びっくり!!警笛音がビービー、ブーブーとけたたましい。
逆走してくる、横から入り込む、突然人が横切る、強引に
追い抜きをかけて来る、横も前後も間隔が無い。
「よくまあ、交通事故が起きませんねえ!」とAさん唖然。
いつもながらの活気と熱気に満ちた街、プノンペン。
N宣教師一家がここで守られて3年。
来年にはファローのため、帰国する。
ポルポトの大虐殺の悲しい悲惨な歴史がある。
今の中年、壮年、熟年は、全員、ポルポト地獄を
通って、生き残った人々だ。
その現地で救われ、忠実な教会生活を送り、
宣教師の片腕となり、教会の皆に慕われていた
おじいちゃんが、先日、天に召されたと聞いた。
ポルポトを通られたおじいちゃんが救われて、
天に帰られた。今、安らぎと最高の幸せの中に
おられる。
イエス様の救いが、カンボジアの地に宣べ伝え
られている事に、心からの感動を覚える。
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