2011年04月17日(日)
  「どうして下さるか、楽しみだ!!」

Aさんが、大変な、半端でない、目まぐるしい状況
にいる。

多動性のお子さんや、障がいを持ったお子さんの
お世話をしている。

走り回るどころか、走りっぱなしの子供を追いかけ、
又、同時に、勉強を教え、暴言のお子さんに向き
合い、教え、同時進行で、トレイに行く事もできず、
水を飲む間さえない。

大変な、倒れてしまいそうな、目の回るような状況だ。

しかし、そんな嵐のような状況の中で、心が平安
なのが不思議でたまらないと。


“わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは
あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと
は違います”ヨハネ14:27

神様が遣わして下さった、みこころの真ん中にいる
時、どのような状況であろうと、“主の平安”に心が
守られる。


Bさんも、リストラになった息子さんと、就活の娘さんを
同時に抱えていた時、「それが、全然思い煩いが無いん
です!!」と、いつも笑顔(^^)

「神様が、絶対にそれぞれに良くして下さると、最善を
して下さると思えるんです!!」

神様が“主の平安”を与えて、Bさんの心を守って下さった。
周囲が、「すごいー!!」と、大きな励ましとされた。

今の時期、氷河期で、特別に就職が困難だ。
しかし、世界は主の御手の中、その中から一番ふさわ
しい先を主が与えて下さる。 

“神にとって不可能はことは一つもありません”

“信じたとおりになれ”のその通りに、信じるほうを選択
していると、氷河期のまっただ中で、最適の就職先が
与えられた!!神様のみわざだった。


日々の生活の中で、不測の事態が起きる。
予定していたプランが、突如の出来事で、没になったり、
物が壊れたり、「うわっ!不便になる!」

突然なので、事態だけを見ると、心動揺し、暗くなる・・
しかし、ひと呼吸おいて、「そうじゃない!!」

「すべての事について感謝しなさい」

そこで、プランがダメになった事を感謝します。
どうしても必要な物が壊れた事を感謝します。

と、祈ると、不思議だが、心がすーっと平安になる。
思い煩いが消えて、神様がこの事態をどのように
益とし、解決して行って下さるかが「楽しみ」になる。

神様、楽しみに期待します!!(^^)/




2011年04月14日(木)
  「祈りながら、生きて行きたい」

「私も祈りながら生きて行きたいです」


Aさんのこの言葉が、心にぐっと共感、共鳴した。

Bさんのご高齢の親族が天に帰られた。

Aさん「皆さんだんだん、神様のもとへ旅立たれているの
ですね。私の親も高齢になって来ていて、救われて欲しい
です。神様の事を伝えられたらと思います」

年を取ると、親を見送ること、いずれ自分も同じような立場
になることが見えて来る。向き合うようになって来る。

「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21

主に在る葬儀式に出ると、「地上では旅人であり、寄留者」
ヘブル11:13であることが、鮮明にされる。

葬儀後、Cさんも「この世は本当に短い借りの住まいなん
ですね」。実感となって迫る。

「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めて
いることを示しています。

事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷に
あこがれていたのです」ヘブル11:16


では、どのように生きるべきか、が問われて来る。

実家は天であり、この世は、旅先のホテル住まい。

天を見据えて、神様を見据えて、この一日を、この瞬間を
生きて行けるように。

主と絶えず交わりながら、この地上に置ける歩みで、何が
主の御心であり、何が喜ばれることなのか、
絶えず「祈りながら生きて行きたい」。

丁度昨日も、Dさんも同じことを言われた。
死をも真剣に考えたほどの、悩み、苦しみの末に、教会に
導かれたDさん。

「今も状況は同じなんですが、感謝できるんです。
これ、すごい奇跡ですよね。私の心が変えられたんですね。
感謝です」

「昨日も、どう対処して良いかわからない事が起きて、
ああでも無い、こうでも無いと悶々とし、結局わからなくて、
どうにもできなかったんです。

ふと、後になって、あ!どうして祈らなかったんだろう、
その場で、祈れば良かったんだ!と気づきました(^^)」

「いや、気づけて感謝です。次、祈ればいいですよ(^^)」
「ほんとですね」

これまで、日常生活の難問も、祈った時に、目の前で
導かれて行く経験をしているDさん。

「私には、祈れることが、救いです。大きな救いなんです。
これからも、一つ一つ、祈って生きて行きたいです。
嬉しいことです」


祈りながら生きて行ける、何という幸せ。


2011年04月13日(水)
  「死は勝利にのまれた」

教会で、ご高齢のAさんの葬儀式が執り行われた。

連絡を受けて、駆け付けた時には、もうすでに召されて
おられた。
この世での、神様からの使命を全うされ、眠るような、
安らかな〃お顔であられた。

今は、天で、喜びと平安と幸せの中におられること、
また会えること、本当に感謝でならない。

葬儀式で、御言葉を聞きつつ、改めて救われて
いる事の恵みの大きさを思う。

人は死を恐れる。死が怖い。死は何もかもを、決定的
に断ち切り、奪い去ってしまうからだ。
死と共に、何もかもが失せてしまうなら、人生に
意味が無い。すべてが虚しいものになってしまう。

人生に答えが無い。死んだらどうなるのか、
どこへ行くのか、わからないとは、不安と恐怖の
真っ暗闇だ。

主イエス様の十字架によって、人生に解決を、
「死」に、「永遠のいのち」という答えを与えて下さった。

主に在って、永遠に繋がっているので、今している事
に意味が生まれる。

「死」に対して、明確な「答え」があるとは、何という事
だろう。それが、よみがえりであり、いのちそのものであり、
この生けるまことの神様だけに出来る奇跡だ。



ずっと以前に、小さな子供さんが亡くなるという、悲しい、
辛い出来事があった。

その葬儀式で、宣教師の先生が開口一番、大声を
張り上げて言われた。
「リジョイス!!喜ぼうじゃないか!!」

びっくりしたが、「この小さな命は今天国にいる、
その死を通して、父親が救われ、おばあちゃんが
救われた!!その事を喜ぼうではないか!!」
はっきりと信仰に立った葬儀式だった。

その死を通して、父親とおばあちゃんがイエス様を
はっきりと救い主として受け入れられたのだった。

そして「ビクトリィ イン ジーザス」(イエスにある勝利)
の会衆賛美になった。
会堂に、イエスにある勝利の大賛美が響き渡った。

自分の中で、天国が地に降りて来たかのようであった。
涙が溢れて、溢れて、流れ出て、それが悲しみの涙
と共に、恵みの涙だった。
悲しいのだけれど、しかし、ただただ神様への賛美が
心に溢れ出る経験をした。御霊の支配を感じた。

その葬儀を通して、二人の方がイエス様を信じられた。

人間のものではない、神様のいのちの中に、すっぽり
入れられたような、時空間だった。

「死は勝利にのまれた」Jコリント15:54


しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが
不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている
みことばが実現します。

「ですから、堅く立って、動かされることなく、いつも主の
わざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、
主にあってむだでないことを知っているのですから」
Jコリント15:58


2011年04月11日(日)
  「頑張らなくていいんだよ」

孫が、キリスト教の教会附属幼稚園に入園した。

勉強に力を入れていたり、規則でガチガチの
幼稚園で無いところがいいなと。

子供の「心」に目を留め、子供の「気持ち」を大切に
してくれる幼稚園を願っていた。

祈りに答えて、主は、ピッタリの幼稚園に導いて下
さった。


園長先生が、「神様が与えて下さったいのちを
大切にし、いのちを育み、いのちを守って行きます。

人と同じなくて構いません。一人一人その子供を
ありのまま受け入れて行きます。人と違っていて
良いのです。」

「最初は泣くので、泣いた方が良いので、幾らでも、
泣きたいだけ、泣かせて上げて下さい」

「子供にこうなって欲しい、こうあって欲しいという
周囲の思いがあるが、それは親や先生の思いであり、

それより前に、その子供自身の気持ちはどうなのか、
その子供自身の気持ちを、大切にして行きたいです」

「泣いてよいのです。むしろ十分に、思いきり泣かせて
上げて下さい」

牧師先生が、理事挨拶で、「私に与えられている仕事
は祈ることです。日々、皆さんのために祈ります」

ひとつひとつの言葉が、心にしっくり染み入り、響いて
来た。


「頑張らなくていいんだよ」・・しんどい時は泣いたら
いいんだよ。

十分すでに頑張りに、頑張っている子供、
以前、頑張りに、頑張ったから、彼は力尽きたのかな。

泣いて、気持ちを十分出せたら、また、前に進めた。



泣いたらいいんだよ、頑張らなくていいんだよ。
肩の力を抜いて、イエス様の内に、安堵しておれる
とは。

何たる恵み!!






2011年04月04日(月)
  「必要満たされて」

計画停電当初の頃、範囲内に住む、主に在る友から
恵みが届いた。

・・・・・・・
お米が無くなりかけていて、買いに行くと
何と、残っていたのは、1キロ入りの袋1ヶだけ。
皆、早朝から並んで、あっという間に売り切れと。

何よりはましと、袋を手にした時に、
肩をトントンとされ、振り向くと、全く見知らぬ婦人。
「あなた、お米いるんでしょ。私、10キロ買ったんだけど
とても重くて持ち帰れないから半分お譲りします。
持って行って」!!

その婦人から聞いた情報では、お米は棚売りでなく、
特別なコーナーで販売し、早朝から並んで手に入れた
のだそうです。そんなことは全く知らずに・・。
本当に必要なものは主が与えてくださる!主に感謝です。

計画停電に振り回され、買い物に不自由さを
感じてしまうことがありますが、必要な物は必ず与えられ、
不要な物は与えられないと理解していれば
手に入らないことを嘆く必要がなくなります。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば・・・」アーメン!です。

今こそ、本当に大切なもの、必要なものは何であるかを
知るときなのですね。
信仰者であっても物に振り回されてしまいます。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」
主が私に語ってくださいました。

・・・・・・・・・・・

阪神大震災の時のことを思い出す。
両親と妹家族が被災し、家は大丈夫だったが、
電気、水、ガスが止まり、小学校へ避難。

すぐ電話も止まり、連絡取れず。しばらくして公衆電話からは
繋がるとの情報で、何とか連絡がついた。

とにかく食糧が無いとのこと、店はすべて売り切れ、
市からの、冷たいおむすびを、1ヶ食べたきりと。
ガスコンロのカセットがあれば、以前からのインスタント
ラーメンや、レトルト食品があるのだがと。

宅配はストップ、こちらには物が溢れているのに、
送ることもできない。何の方法も無い。

絶対に何とかして下さる!無から有を生じさせることの
できる神様に祈る。
何の方法も無いからこそ、神様を信じることができた。
食糧を与えて下さいと、切に祈る。

すると、すぐ後に、大阪の叔父と叔母が大きなリュック
を背負い、両手に持てるだけの食糧を持ち、電車で
行ける所まで行き、あとは歩きて来てくれたと。
そのリュックの底に、何とコンロのカセットが入っていた!

給水車からの飲み水はあるが、トイレ用水がなく、家に
帰れない。「神様、水を与えて下さい!」と祈る。

すると、家の前の公園から、突然地下水が湧き出たと。
それをバケツに汲み、トイレ用水に用いる事ができ、
家に帰れたと。遠くからも人が来て、皆がバケツを持ち
列をなしたと。

1ヶ月経た頃、父が「風呂に入りたいなあ」。
お風呂を与えて下さいと、御父に切に祈る。なぜか
与えて下さると信じれた。

すると、震災には影響無かった、阪神感から少し北に
住む親族が、最近温泉が湧き、ヘルスランドが出来た
から休息して欲しいと。
寸断された道路を、車で、わき道〃で、何とか辿り着き、
迎えに来てくれた。お湯に入れ、しばらく親戚宅に滞在し、
毎日お風呂に入れた。

神様に感謝した。

その両親も、後に主を信じ、今は天で安らいでいる。







2011年04月01日(金)
  「測り知りがたく、高い」

集会の中で、Aさんが話して下さった。

若い宣教師家族が、神様の示しと導きにより、発展途上の
へき地へ、海外宣教に出ることになった。

若い夫人は、治安面、健康面、あらゆる事を考え、この先、
何があるかわからない、どうなるかわからない。

覚悟を決めた。今、一度自分のすべてを主にお献げしようと
その証しに、献金袋が回って来た時に、結婚指輪をそこに
入れて、主に献げた。

自らの心も、何もかもを主イエス様にお献げした、決心だった。

献金袋に、指輪が入っていて驚き、そして、牧師は主はその
心を受け止めて下さったと、彼女に指輪を持っているように
と返したそうだ。

そして、いよいよ宣教地へと若い家族が、飛び立った。
それも、経済的なものから、普通の飛行機でなく、小さな
セスナだった。

その宣教地へと飛び立ったセスナが、途中で墜落し、
一家は全員亡くなってしまった。
そして、不思議な事があり、彼女の聖書だけが燃えずに
発見されたと。

今から主のために働こうとしていた、若い夫婦がなぜ??

神様のみ思いは深くて、高い。時に、人間には量り知れ
ない。


「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深い
ことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、
その道は、何と測り知りがたいことでしょう」

「なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。
また、だれが主のご計画にあずかったのですか」

神様の思いは、私たちの思いを遙かに越えて高いので、
誰も知ることができない。余りにも深くて、人が
理解できるような単純なものではない。

「また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか」

私たちが神様に何かを与えて、神から何かを貰うことは
無い。すべてが神様のみ思いのままになっている。


「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって
成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光が
とこしえにありますように。アーメン」

頭でなく、心には静かな納得が行って、神様への聖なる
畏れと共に、ひれ伏す思いにさせられる。