2011年09月15日(木)
  「罪の性質」

Aさんが、いじめに会った。
子供のいじめがどうのと、取り沙汰されているが、
大人もいじめの社会だ。


以前、Bさんの子供のクラスでいじめがあり、問題と
なり、保護者も招集がかかり、対応を何やかやと話し
合いが持たれた。でも、良い対応策も出なかった。

Bさんが自分の子供に様子を聞くと、「先生は『皆で
仲良くしなさい』と言うが、それが出来んから悩んど
るんじゃ」と。

CさんがPTA役員の時、やはりいじめが多くて、
役員会で話し合いが持たれ、いじめについての講演会を
開こうという事にまとまり、役員で主催。

保護者に聞いて貰う事になった。地元の教育の専門家
に依頼し、講演をしてもらった。
そのお話の結論が「いじめ問題に解決はありません」
だった。

「ええっー!何だそりゃ、と思ったが、でもそうですよね。
人間は罪人であり、罪の性質があり、いじめは罪から来て
いるから、神様が無ければ、解決ありませんよね」

子供も大人もいじめをする。自分の鬱屈が、満たされ
ないものが、自分より弱い者に向かって吐き出される。


Aさん、苦しく、辛い年月、帰宅しては涙していた。
悶々とした苦しくてたまらない日々を過ごしていたが、

しかし、心は渇き、神様に親しく近づき、御声に耳を
傾けようと決心した。
心の内をことごとく、神様に告げて、御言葉の学びを
心して聞き、メッセージの御言葉に真剣に耳を傾けた。
神様を求めた。

神様はその求めに答えて下さり、渇く心に、御言葉が
どんどん心に入って来た。
御言葉によって、心に平安が来て、癒されて行った。


「今は、心が全く平安なんです。もうどうもなくなり
ました。
時間がたち、冷静になれて、振り返って考えることが
できました。

自分にも問題があったんです。もろに反応していて、
それでいっぱいいっぱいになって、相手への怒りや、
敵対心に支配されて、自分も罪を犯していたことに
気づかされました。

相手も満たされないものがあるんでしょうね。気の毒
に思えて来ました。

神様が平安を与えて下さって、今、もう嬉しくて嬉しくて、
感謝でいっぱいです」


2011年09月10日(土)
  「そのまま受け止める」

人って、受け止めて欲しいことを、又、再確認させられる。

Aさんの年老いた親御さんが、どうしてもネガティブな愚痴三昧
になる。
身体は高齢としては元気だが、でも若い時のように、思うよう
に動くわけではない。

何かにつけて思うようにならない状況に、「つまらん、楽しゅう
ない。生きていて何になろう。早うお迎えが来て欲しい」

あれが無い、これが無い、面白うない、周囲の対応にも
不満続出になる。

それでなくてもハードで疲れているAさん「聞くのが辛くて、
しんどくて、どおっと心が暗くなって、つい、腹が立って、
ムッと来て、言葉と態度に出てしまうんですよねぇ。

もっと大変な状況にあるお年寄りもおってなのに、ものすごく
有難い環境なんですよぉ。
それを何を不平不満ばかりと思ってしまって、つい、これも、
あれも、感謝なことじゃない。感謝せんと、と言うと、
もっとひどくなって、頑なになる。

自分も言葉がきつくなってしまって、帰途ものすごく心が暗く
なって、自己嫌悪になって落ち込む。心が苦しくなる」


皆が「ああ、親御さんは、ただ受け止めて欲しいんじゃね。
つまらん、面白う無いという、それが気持なんだから、
『ああ、ほうじゃね、そうなんじゃね』と受け止められたら、
それで済む。

感謝せんと、と言われると、気持を否定されてしまうし、
正そうとされると、更に心が固くなるんじゃわ。

『いたらんで、ごめんね』と言ったら、親御さん癒される。」

と、話していたら、Aさん瞬間的にパッと顔が明るくなり、
「あ、そうですよね!わかりました!方向違いですよね」

「神様に満たされている時は、余裕があって、受け止められる
が、自分に余裕がないと、受け止められない。

やっぱり結局は、神様と自分の関係ですよね、祈って、
頼って、自分を神様にまず受け入れて頂いて、
看て行くことですよね!

でも、いつもいつも皆の祈りが感謝です。祈りによって
支えられています。」







2011年09月06日(火)
  「何も思い煩わないで」

一家の大黒柱が長い病気治療にあったCさん。
皆の祈りの中で、感謝に事に、少しづつ回復
与えられ、これからというところ。

今まで導いて、助けて下さった神様がすべて
ご存じだから、大丈夫と思うのであるが、

サタンからの思い煩いの火矢が飛んで来る。
一日に何回も、繰り返し〃。
「また、再発したら・・」
「このまま仕事が無かったら・・」

不安、思い煩いが来た瞬間、そのつど神様に渡す。
「これはもう神様に渡した!」

今までずっと奇跡を見て来たのに、その中で
生かされて来たのに、目の前の状況を見て
つぶやくなら、
奇跡を見ても信じない、イスラエルと自分だって
同じですよね。

本当に、発病の頃を思うと、今の回復はまさに
奇跡そのものだ。
そして、更に、その厳しい苦境の中を、ずうっと
感謝を数えながら、乗り越えて来れた。
それこそ、更なる主のみわざだった。

「だれが心配したからといって、自分のいのち
を少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27

ご主人亡くし、高齢で、経済的必要のため、
ずっと働いておられるAさん。
そのAさんの信仰の証しに励まされる。

「神様に、渡して、渡して行きます!」

Dさんも、ご両親が倒れて、病院や施設やら、
心配と思い煩いに支配されそうなところだが、

「神様が何とかして下さる!と思えて、皆が
祈って下さってて、本当に、目の前に道無き
所に、道が造られて行って、一歩一歩、歩め
るんです!」

全部の先は見えないが、本当に目の前の
一歩は必ず道が開かれて、備えられていて、
神様の真実を、皆で見せられている。

思い煩う必要が無いことを、目の当たりに
見せられている。



2011年09月04日(日)
  「今日一日だけ」

「あすのための心配は無用です」
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」

現在74才のAさん、ご主人を20年前に亡くされ、
莫大な借金残され、どうにも出来ずに破産宣告。
全くお金無く、身を粉にして、ひたすら働きに働かれ
定年の時期にリストラに。

以前から教会のチラシを見て、来たかったが、
仕事で来れなくて、その時に、教会へ来られ、
イエス様を信じられた。

リストラ後、年齢の事もあり、仕事を探せど、探せど、
全く無い。当然、収入は無い。数ヶ月経るが無い。
教会の皆も、必死に祈る。
Aさんも祈りに祈られ、聖書を読んでいた時に
「心配したからといって、自分のいのちを少しでも
延ばすことができますか」が心に臨んだ。
ほんとに心底そうだ!その通りだ!!と思えて、
心配を止めたと。
その霊でありいのちである御言葉がまさに、
いのちとされた。

「わたしがあなたがたに話したことばは、
霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63

主の口から出る一言の御言葉で、真に人が生か
されることを見せられた。
Aさんもそれを受け取ること、信じることを選択された。

Aさんは、その日から全く思い煩いが無くなった!
完全に無くなったと。
そうすると、少なくとも、「今日」食べる物がある。
飢えていない。身体が守られている、生かされている
と思うと感謝が溢れて来て、感謝と喜びの日々に
なったと。

「まあ、私が仕事が無いのに、収入全く無いのに、こう
やって喜んでいるので、家の中、明るいんですよ!

それがまあ、近所の方が家庭菜園の野菜を、次から
次へと下さったり、魚釣りに行くおじさんが、持って
来てくれたり、次々、不思議に食べる物も与えられる
んですよ。これ、神様ですよねえ!!」

「あすのための心配は無用」
つまり一生の間、今日一日だけ生きたら良いわけだ。

なぜなら、明日が明日になった時には、「今日」に
なってるわけだから。

だから、今日食べ物があり、飢えてはいない!今日
身体が守られている!
それを感謝して、感謝して歩めば、一生の間、
ずうっと感謝して歩める(^^)
何と幸いだろう。




2011年09月02日(金)
  「苦しみにあったことは」

半端でない、苦しい、辛い試練に会った
方々の口から、聞いた御言葉。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせ
でした。私はそれであなたのおきてを学び
ました」詩編119:71

夫が出て行ってしまったAさん、泣いて泣いて
涙がよくこれだけあるんだと思うほど、泣いた
と。辛くて、苦しくて。涙、涙にくれたと。
夜になると、号泣し、祈りに祈る日々だった。

1日終わる仕事からの帰り、涙が溢れては、
車を止めて、心にピッタリと来る、慰められる
賛美歌を賛美しては祈ったと。

祈りに祈り、必ず神様が夫を返して下さると
信じ、賛美しては、祈り続けた。

心が裂かれるような辛さの中で、もう一歩も
進めなくなった時も、しゃがみ込んだ時も、
主は様々な方法をもって、慰め励まし、
信じさせて下さった。

そして、信じた通りに、祈り願った通りに、
主は回復させて下さった、

「この事があって良かった。自分自身の
高ぶった姿を見せられ、この事が無かったら
自分はどうなっていたかわからない。
砕かれたと思う。心底、神様が嬉しくて、
感謝しかない。
苦しみに会ったことは、幸せだった」


離婚を通ったBさん、ひと息、ひと息、息を
吸うことがやっとだった日々。
泣いて、泣いて、泣き暮らした日々・・

しかし、時を経て、はっきりと言えた「苦しみに
会ったことは、私にとってしあわせでした」。
神様は真実であられた。

そして、その後も、大きな厳しい試練が臨んだ。
辛さ、悲しみ、怒り、様々な感情で、心が荒れ
狂い、苦しんだ。

でも、今、又、言えると。かつての時と同じように
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせ
でした。あなたのおきてを学びました」と。

自我を、自分の姿を見せられ、神様を深く
教えるために、この事が与えられたとわかると。


様々な事態を通るけれど、「苦しみに会ったこと
は、私にとってしあわせでした」と、言えるように
して下さる、主がどんな時も共におられることが
本当にしあわせだ。