2011年10月22日(土) 「御心が成りますように」
自分の思いと神様の思いがしばしば違う。 かなり違い、全く違う。 Aさん、信仰生活する中で、段々、自分の 思いと神様の思いが違っている事に気づ かされた。 でも、自分の思いが強く、どうしても、自分の 思い通りになって欲しい。そうでないと嫌だと 思っている。 神様の思い通りになると、もっと辛い事が起 こり、しんどいばかりじゃないかと思ってしまう。 だから、「御心が成りますように」などと、絶対 に祈れなかった。御心が成ったら困る。 自分の思いと異なるからだ。受け入れられない。 他の方々が、「御心が成りますように」と祈って いて、よく祈れるなあ、自分は絶対に祈れないと 思っていた。 ほんとに自我が強い、肉の思いが強い、どう しようもなく強いと知らされる。 これが自我であり、罪なんだと思う。 自分が神様の上に立って、しまっている。 「へりくだり」や「従う」姿勢など全く無い。 自分の思い通りの人生が欲しいだけ。 アダムとエバが、エデンの園で、「神のように なれる」と誘われ、善悪を知る木の実を 食べた。 神になる=自分の思い通りに生きる、まさに 罪の性質だと、とことん知らされる。 そんな自分の姿を見せられ、少しづつ変えられ て行った。 今、御心成りますようにと、祈るようにされた。 自分の思い通りでなく、神様の御心に従いたい、 神様に従って行きたいと思える。 自我が砕かれるようにと思える。 心が変えられるのは、御霊の働き、奇跡だ。
2011年10月20日(木) 「視点」
ご両親が別々の施設なので、走り回って いるAさん。 身体もかなりの消耗。首に、肩はこって回らず、 足も痛み、疲労度、半端でない。 「いやあ、もう、本当に神様に出会えて感謝でなら ないです。もし、神様知らなかったら、もう、どうなって いたかわからない。 精神的に、真っ暗だったと思います。どんどん ネガティブになり、最悪のシナリオを描き、 どこまでも沈み込んで、落ち込んで行く。 今はしんどいけれど、身体的なもので、心は守られ ているから、ほんとに有難いです。 神様のお陰で、感謝です。 でも、神様視点の時と、状況と自分を見る、肉 にある時と、丁度対極ですね。 神様見ている時は、どんな最悪の状況でも、 『神様がおられるから大丈夫!』と思える から不思議ですよね。 『神様が何とかして下さる』『絶対に良くして 下さる』『これまでもずっと必ず道を備えられ た。だから絶対に大丈夫!』 と思えるんですよね。だから心は平安。 神様から目を離して、状況を見る途端落ち込 みます。どっと心が真っ暗になって、 『どうなって行くんだろう』 『やって行けるのだろうか・・』 あれも、これも、それも・・不安だらけで。 先を見るや、不安と恐れと心配しかない。 又、周囲からも不安材料しか無い。 不思議ですよねえ。全く同じ状況で、見る視点 が違うだけで、ものすごく自分が変わる。 神様をずっと見ていたいです(^^) 嵐の中で、湖の上を歩いたペテロのように。 イエス様だけを見ていたら、波や風の中を 歩けたように。
2011年10月14日(金) 「悪魔の策略に・・」
サタンの学びをする。 「思い」の中に、攻撃が来て、巧妙、狡猾だ。 朝起きた時から、思いの火矢が飛んで来る。 そして、サタンだとは決して気づかず、自分が 思っているとしか、思わない。 神様が言葉をもって、語りかけて来られるのと 同じことをし、サタンも言葉で語りかけて来る。 サタンからの言葉を受け入れると、心が暗くなり、 ネガティブになり、落ち込んで行く。平安が無く なる。 又は、高慢になり、気づかない内に、自我が膨 らんで行く。 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができる ために・・」エペソ6:11 サタンの「策略」なので、ストレートには来ない。 策略なら、罠がしかけられていて、一見わからな ず、気づかない。 Aさん「はっきり声が聞こえて来ますよねえ。 デボーションしようと思うと、「先に犬の散歩 済ませた方が、落ち着いてできるよ」という 声が聞こえて来る。 そうだ、落ち着いてやりたいから、犬の散歩 してしまおうと、で、出てる間に、時間を有効 利用したらいいとの声、そうだとばかりに、 洗濯機を回して出る。 戻ると、洗濯出来上がってるから、とにかくは どうでも干さなくては。 干し終わると、朝食のテーブル片づけてすっき りして、神様と交わろうとの声。 ついでに、掃除機もの声。次々、声、思いが 的確に来て、それに従って行くと、結局デボー ションできずじまい。 サタンは本当に巧妙ですよねえ。祈りや御言葉 を何としても奪いたい。 思いに来て、行動が操られてしまう。でも気づ かない。 サタンて、よく教会学校のお話に黒いマントを 来て、角があってと、出て来るけど、あれじゃ 無いから。 Cさん「私、ついこの間まで、それだと思って ました!」(大笑) 今日も祈りで、サタンを見張れるように。 「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも 御霊によって祈りなさい・・」エペソ6:18
2011年10月13日(木) 「主の山の上に備えあり」
「主の山の上に備えあり」 信仰もたれて、間もないAさんが、小さな事も 一つ一つ祈られる。祈りが次々と答えられて行く。 仕事がハードになり、早朝出勤になり、栄養つけ るためにチーズを食べようと、買い物も祈って 行くと、何とチーズが物凄く安く売っていて、 ハードな仕事の事も、神様の励ましを感じました! 仕事仲間と忙しい中で、ギクシャクし、祈っている と導かれ、栄養ドリンクを差し入れると、とても 喜ばれ、笑顔になり、仕事がスムーズに行きました。 小さな事柄の中に、神様のご配慮がちりばめられて いて、祈りの中に、それに気づけることが感謝で、 また、喜びが増えて行く。 Bさんは、ご両親共に、介護をしていて、ご両親 のそれぞれの施設を駆け回り、自らの家庭もあり 目まぐるしい日々にある。 ご両親共に倒れてからの日々、何をどうすればの 中で、主は良くして下さる、最善の道を備えて 下さっていると、信じて、委ねていると、一つ 一つ、「主の山には備えがある」が実証されて 行った。 目の前の一つ一つを実際に、具体的に、示され 導かれた。状況でなく、神様を見ておれば間違い ないことを、何の心配も無いことを皆で見せられた。 N宣教師家族が、ファローのためカンボジアから 1年帰国中だ。 住まい、家財道具、車をすべて処分して、1年 帰国して来た。 また、現地に戻るが、「主の山に備えあり」と 祈っていると、現地知人より、引っ越すので 家を使わないかとの連絡に、感謝。 「主の山の上には備えがある」創世記22:14 この御言葉に立って、信じて、日々を歩めること の幸いに、しみじみと感謝と喜びが湧き上がる。
2011年10月08日(土) 「精一杯頑張りました」
孫の幼稚園で運動会があった。 パパとの競技、ママとの競技、弟妹のために 未就園児のかけっこ、兄姉のためにリレー パパとママのゲーム、祖父母のゲーム、 色とりどりに配慮がなされ、工夫されていた(^^)/ 園の方針が、「あるがままの子供を、あるがまま に受け入れる」「神様が創られたオンリーワンである、 一人一人を受け入れる」「隣と違っていて良い」 それで、玉入れや、競走や、競技はあるが「勝った」 「負けた」との言葉が一度も無かった。 その子が、精一杯頑張ったので、勝っても負けても 「精一杯やりました」との褒め言葉が、牧師先生や 園長先生から。 確かに、そうだ。負けたとしても、その子は、 精一杯、一生懸命頑張った、それが事実だ。 それが受け止められ、認められているのは、いいな。 勝ちは良し、負けはダメが、世の価値観、培われて 来た価値観にある。 親子の競技も、二チームに分かれてするのだが、 競走というのではなく、焦ったり、急いだりでなく、 親子のスキンシップとして、親子で楽しんで下さい との趣旨。 ゆっ〜くりと親子が楽しんでいるのが、あったかく 微笑ましかった。 勝ち組、負け組、弱肉強食の競争社会で、人を蹴落 として、はい上がるという、せちがらい世の中で、 ほんとに、心ほっこりの空間だった(^^) 神様とは真反対のこの世の価値観の中で、 負けは善、比較は必要無し、神様と自分の関係の 中で、神様に対して御心を行なって行く生涯であり、 世界にたった一人かのように愛し慈しんで下さる 神様の目と御手を意識して生きて行く歩みだ。 子供が小さい時に、神様の価値観があるという ことを知って行けることの幸い。
2011年10月05日(水) 「訪問」
宣教師さんと共に、ボランティアとして被災地を 訪ねたAさん。報告をお聞きした。 女性ながら、がれき処理でも何でもしたいと、祈って 下さいと、祈りによって、行動を起こされた。 津波の被害が一番大きかった場所へ。 テレビ報道で見るのと、実際に自分の目で見るのと では全く違う。衝撃だった。 仮設住宅の方々を訪問した。 相手が泣かれていない時は、決して泣かないように と釘をさされ、できるだろうかと不安に思いながらの 訪問だった。 しかし、被災現状が余りの悲惨さに、涙も出ないほど の衝撃だったと。 被災した方々にとって、写真が大きくて、写真を整理 するお手伝いをし、肩をもんで差し上げた。 慰めになるようで、とても喜ばれた。 一人おご高齢の男性が、穏やかな口調で、色々な事を 話して下さって、その中でボロッと「かあちゃんが流され て」と言われ、今、何を聞いたのだろうと、びっくり して、余りの重さに、どうしてよいかわからず、祈る ばかりと。 宣教師さんと、訪問先の人々との信頼関係ができて いて、その中の若い男性が聖書の学びを始められて いること 一組のご夫婦が礼拝に来られたこと、 被災して、泥まみれになった中を、教会の人々に 助けて貰ったと、後日わざわざ教会にお礼に見え られたご夫婦があったことも聞いた。 Aさんは帰宅してから、毎日泣いていたと。 ニュースで見るのと、現地を見た、身近な人を通して 知り合いを通して、聞くのとは、また違う。 Aさんを通して、直に見せられているように感じた。 永遠の命に至る、十字架の救いを、一人でも多く受け て下さるように、福音が続けて宣べ伝えられるよう、 祈り続けたい。