2011年12月15日(木) 「主の御名はほむべきかな」
運転免許証を紛失してしまった。 懸命に、あれこれ行動を思い巡らす・・しかし、どこで 無くしたかがわからない。だから紛失なのだが。 家の中か、外出中なのかもわからない。 とりあえず、一応、家の中のありとあらゆる場所を捜す。 祈りながら、置きそうな所を、何度も何度も念を入れて。 祈りつつ、どれだけ捜しても、家の中には無い。 外で、落としたのだろうか。 不思議な感じで、「でも、神様はどこにあるか、ご存じ ですよね」と、祈りながら。 そんな中、ふっと何度か、御言葉が脳裏に来る。 「主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21 主が取られたのだと、わかった。 主が取られたのなら、もう出て来ないから、 再交付に行こうと。 時間と労力が要って、面倒臭いと思う。 「その時に、主の御名はほむべきかな」と聞こえ て来る。 そうなんだ。主の御名はほむべきかな。 その事を思う時、心の不満は吹っ飛び、消えて 喜びが出て来る。 心が守られ、平安の中で、新しい免許証を手にした。 Aさんが、ある大変嬉しい喜び事があった。 良かった、感謝と、喜んでいたら、突然、それが キャンセルになった。 Aさん「何で?益となると、思えるんだけど、ダメなん だったら、何で、一旦、有頂天になるほど喜ばせられ のでしょうか」 やはり「主は与え、主は取られる。主の御名はほむ べきかな」 主の御名をほめよと、言っておられるんだろうね。 「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべき かな」 御言葉に立つ時、不思議に不満がすうっーと消えて、 心が平安に満たされる。
2011年12月09日(金) 「良いもので満たされる」
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」 詩編103:2 今年も、神様の大きなみわざを見た。 丁度去年の今頃、Aさんは発覚した癌の抗癌剤治療 をしていた。 見つかった癌は、手術不可能な場所。それで手術せず に治療しておられた。 そんな中、病院に訪問し、イエス様の事をお伝えすると、 受け入れられ、信じられた。 後でお聞きすると「自分の罪を示され、イエス様の十字 架の事を聞いた時に、涙が出て、涙が出て仕方が無か ったです。 牧師先生が語られる言葉が、すうっーと心に染み入り、 響いて来ました。信じたいと思い、イエス様を受け入れ ました。 するとその後、癌の恐れと不安が消えたんです。あれ ほどの不安と恐れがすうーっと消えてしまいました。 平安というものを経験して、神様を感じました。 その後の抗癌剤治療も、ものすごく大変で、副作用も あり、しんどい治療でしたが、神様の力によって、助け られたから、できたと実感しました」と。 退院後、教会へ来られ、毎週欠かさずご夫妻で集って おられ、平日の御言葉の学び会にも欠かさず来て下さ っている。 半年後、全身の検査で、癌がきれいに消えていたこと がわかった。 「神様です。神様を感じます。この事があったから、神様 に出会えました。感謝です」 今、とても神様を喜んで感謝しておられる。 神様がまことに生きておられること、愛して下さっている こと、いつも目を留めて、心配していて下さること、 Aさんを通して、見せられている。 丁度去年の今頃、Bさんにも大きな神様のみわざ。 ご主人が原因不明の40度の高熱で苦しまれた。 ウィルスによるものだが、幾ら検査しても特定できない。 腰痛や全身の痛みや、あちこちと部署を回り検査して 貰っても、原因不明。 結果的に、入院は半年以上かかり、身体的苦しみと、 精神的しんどさ、どんなにか苦しい日々であられた。 Bさんは娘のCちゃんと、日々、夜遅く病院からの帰り、 夜空を見上げては、神様を見上げ、その日の感謝を 数えて行った。 「今日は少し起きることができました」「今日はベッド の際に立つことができました」具体的な一つ一つを 感謝して行った。 娘のCちゃんはしみじみと感謝し「この家族で幸せ」と 言った。「お父さんがお父さんで、お母さんがお母さん で良かった。この両親に生まれて、私は幸せ」と。 普段元気だと、各々が自分の事で忙しい。自分の事 に走り回っている。しかし、家族の一人が病気で倒れ た時、家族が一つにされる。 病気を通して、家族の絆が強められ、家族の愛が深 められ、家族がひとつにされました、と。 もう、ただただ感謝です。すべての事、感謝です。 家族である事の幸せを、噛みしめていますと。 大きな大きな神様からの祝福だった。 今、ご主人はお身体回復され、働いておられる。 Aさんも、Bさんも、去年の今頃には、今年のこの姿 がとても想像できなかった。 神様のみわざであり、本当に神様は素晴らしい。 これからも、色々な事があるだろうけれど、 色々な形で「神様が良くして下さる」!! 「あなたの一生を良いもので満たされる」 詩編103:5
2011年12月07日(水) 「無力の中でこそ」
Aさん「対人関係で、こじれて、自分も傷ついて いて、もう心がいっぱいいっぱいで、どうにも ならない。 相手は悪気が無いのがわかる。でも、こちら はもうしんどくて、許容量オーバーで、ここで 優しい言葉を一言かければいいと、わかる んだけど、出来ない。というより、したくない。 どうしてもしたくない。自我ですよねえ。 頑なだとわかります。でも、したくない。 こちらに余裕があれば、どうもなく受け止め られるのに、余裕が全くない。 頭では、何もかもよくわかるんですが、 心がだめです。 でも、教会だと、婦人方みなに受け止めて もらえて、祈ってもらえて、祈りで支えられ ています。 どんなにひどい自分でも、弱さだらけでも、 誰にも決して責められないし、さばかれない。 だから、いつもありのままの自分を出せて、 聞いてもらえる。 そんなのではダメだと言われないし、もっと 頑張れとも言われない。 いつも皆が、受け止めて、受け入れて、 しんどいねと、共感してくれる。 心が癒されて、楽になって、御言葉与えられて、 又、頑張ろうと思える。 世の中ではそうじゃない。 そんな事でどうする、もっと頑張らんと、と 叱咤激励。もうこれ以上頑張れない。 祈りがすごい力です。皆の祈りで本当に 支えられています」 そして、もう許容量オーバーな中、祈り続けて いると、主が直接環境に働かれた。 状況が変えられ、平安与えられ、導かれて 行った。 「神様はやっぱり土壇場で、手を差しのばされ ますね。どうにも出来ない、無力の中で、もう何 も出来ない中で、神様の働きを見、経験します。 無力の中でこそ、神様を知ることができるのですね。 慈しみ深い、あわれみ深い神様を知れて、感謝です」 いつも、神様は道なき所に、道を造られ、歩み の一歩〃を導かれる。 自分の力が尽きた時に、神様の力が現される。
2011年12月05日(月) 「離れては、何もできない」
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に とどまっているなら、そういう人は多くの実を 結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすること ができないからです」ヨハネ15:5 Aさん「以前は全然わからなかったんですが、 この頃、神様から離れていると、平安が無い ことがわかるんです。 人を裁いてしまったり、怒ったり、悪い態度 をしてしまったり、言葉を発してしまったり、 以前は、そのまま突き進んでたのに、 平安が無くなって。 でも、平安が無くなるから、神様に帰れて感謝 です。 嫌な人がいると、何とかしなくてはと、良い対応 しようとするが、どうしても出来ず、どんどん落 ち込んで。 自分を責めるし、心は暗くなるし、神様遠くなって 行くし、ますます神様と逆の方向へ行ってしまう。 でも、自分で何とかしようとするのは、神様を 離れてしている事で、 『わたしを離れては、あなたがたは何もすること ができない』という事なんだと教えられて。 そうじゃなくて、『神様、出来ません』と、神様 のもとへ行って、助けを求めることなんだと。 それが、『わたしにとどまりなさい』と、とどまる 事なんだと。 それで、『できません』『できません』『どうしても できません』と、ずうっと祈り続けていたら、自分 の心が変えられたんです。 そして、神様の言われる事に、具体的に一つ一つ 従って行くと、心に喜びが来て、平安になって、 それが、仲良くできるようになったんです。 ほんとに自分の力は何もなく、出来なかったの ですから、神様の力で、神様のみわざです。 これからも、『できません』『できません』と祈っ て行ったらいいんですよね。 ほんとに自分の力で、何も出来ないです。 でも、すぐに忘れて、まず自分でやってしまう んですよね。 「わたしを離れては、あなたがたは 何もすることができない」 絶えず〃頼って、頼って、行けますように。
2011年12月02日(金) 「万事益」
教会で、一つのある事に関して、皆で、 神様の御心を求めた。 一定期間、その事で、御言葉与えられたり、 祈っていて、心に示されることを、紙に書き 出し、皆で提出した。 これは、12年前の新会堂建設以来だった。 それ以前にも大きな決断の時には、全員で祈り、 皆で御言葉を求めて、やって来た。 新会堂建設の時も、非常に大きな決断なので、 かなりの時間を取り、御心を教えて下さるよう、 祈り求め、皆で、祈った結果を書き出した。 すると、与えられた御言葉の箇所は皆違うが、 皆で一致して、主が「建てるよう」に言っておられる 事がわかった。 皆で一致して、前進し、新会堂建設という大きな 主のわざにあずかる事ができた。 今回も、皆で、いろんな方面から示されるが、 神様の御心はひとつであり、その事を皆で 確認できて、経験できた。 幸いな時とされた。 Aさん「今回、目標があって、御心求めること ができて良かったです。 いつもデボーションしてるけど、漠然として て、明確な目標があると、ほんとによく祈れ て、聖書もしっかり読めて、デボーション自体 がものすごく祝福されました。 御心示されたことも嬉しかったです。 今後も、このまま、祝福のデボーション続け たいです」 Bさん「はっきりした課題を持って、御言葉を 聞いて行く事ができて、いつも御言葉読んで も、ぼや〜っと、漠然と読んでいたので、 ものすごく祝福でした。 求めると、ほんとに御言葉が心に示されて 御心わかって、嬉しかったです。 信仰生活長いんですが、こんな経験初めて です」 Cさん「今回の事で、真剣に祈らされて、 自分の信仰生活全般の態度や、心の動機が 示されて、自分の内側に気づきが与えられ て感謝でした。 悔い改めて、心新たにされて、これすごい 祝福ですよね」 Dさん「神様のお心求める中で、やはり、自分 の内側が照らされて、御心示されると同時に、 自分の状態を気づかされ、軌道修正できる ことが、何より感謝でした」 対応が必要な緊急事態だが、その事を起こ されたのも神様、そして、その事で、心の内 も皆が照らし出され、また、新たに主を知り、 ひとつになって前進できる。 本当にすべては主にあって「万事益」、緊急 事態があって良かったと心から思えるので感謝。