2012年01月23日(月)
  「委ねることができた」

Aさんが、恵みを証ししてくれた。

「日々の忙しさで余裕が無い中、又、これはこれ
こうしたいという強い自分の思いが相まって、何
でも無い事で、イライラしてしまい、止まらず、
おさまらない。自分の思い通りにならないので、
イラだっている。

家族に当たってしまった。家族は忙しいから
大変なのだろうと、気を遣ってくれた。
更に気遣い、あれこれしてくれるが、それが
また素直に受け止められず、更にイライラが
募る自分。

翌朝も、尚も気持がおさまらない。
そんな中、やっと一人になれる静かな時間が持
てて、主の御前に静まって、祈りの時を持った。

冷静になり、前日の事が思い起こされ、反省させ
られ、ほんとに、家族に申し訳ない気持でいっぱ
いになった。自我から来ている。

その時、聖霊様から、光のように言葉が臨んで示
された。「まだ、何が足らないのか?」

愛する家族がいる。幸せな家庭が与えられている。
不自由無い暮らしが与えられ、仕事が与えられ、
教会に行けて、こうして神様と交わる恵みが与え
られている。

すべての必要が与えられて、何の不足があろう。
感謝しか無いではないか。ほんとに何と感謝だろう。

そう思ったその時、心が御霊の喜びと平安で満た
された。感謝に溢れ、喜びが満ちた。

そして、その時に、ずっとどうしても欲しくて、
欲しくて、祈って祈って来た強烈な願望があった
事柄が、どうでもよくなったのだ。

無くてもいいと心底思えた。今で、このままで
もう十分で、満足だと。もし、御心で神様が与えて
下さるのなら、感謝だし、一生無くても、構わない、
それが御心ならOKだと心から思えた。

不思議だった。あんなにどうしても、絶対に欲しい
という強い願望があったのに、消えてしまった。

すべての事を益として、委ねさせて下さったのだ
った。絶対に今まで、頭ではわかっているのに、
明け渡す事が出来なかった。

それが、気がつくと明け渡せていた。主のみわざだ。
主がして下さらなければ、自分では明け渡すことも
できないと知る。

委ねることが出来た、その主のみわざに感謝で
ならない。

2012年01月20日(金)
  「言葉」

「心で思うことを、口が語る。
心が大事だと、すごくわかります。

神様から離れて、肉で歩んでいる時は、
心に平安が無いから、口から言葉がバンバン
飛び出してしまう。

とにかくいらん言葉が、次から次へと出る。
まさに、肉の言葉ですよねえ。
それは言い訳や弁解だったり、相手への攻撃
だったり、責める言葉だったり、自分を正当化
する言葉だったり。
とにかく、言葉が出まくる。

でも、心に平安がある時は、そういう肉の言葉
が全く口から出ない。心も口も落ち着いてる(笑)

ほんとに、心が口に出るんだと実感です(笑)」


「自分が思ってもない事を言うことがありますよねえ。
人を喜ばせようとする言葉だったり、へつらい
だったり・・、
御言葉に、心で思っていることを口が語るとあるが、
自分は心に思っていない事を、口が語る。
つまりは、心が真実でないという事で、
すごく示され、教えられました」


「言葉と言えば、夫婦喧嘩をしたんですよぉ。
もう神様ぶっ飛んで、自我が出まくり。
自分は棚上げで、相手を責めて、怒り沸騰。

一息つくと、もう平安が全く無くなって。落ち込んで。
心の中で祈っていると、御霊が『謝りなさい』と。

相手がどうであれ、自分の悪い態度と悪い言葉
は罪だと示された。

その通りだと思わせられていると、こう言えば良い
と言われているんだろうなと思う、御霊の言葉が、
一言一句全部浮かんだ。

謝罪すべき言葉が全部わかった。
でもその時、サタンに、腹の立つことを思い起こさせ
られ、それを言いたくない頑なな肉が出て来て。

でも、平安無く、心がしんどくて、結局、御霊に
従えて感謝でした!平安が戻って、夫婦関係も
元に戻されました」

2012年01月17日(火)
  「平安のありか」

若いAちゃんの職場で。

Bさんの係であり、Bさんが責任もって対応すべき仕事
だったが、Bさんに、指示された通りに対処した。
事情も何もわからないままだった。

すると、相手客から対応についてクレームが来た。
それは本来Bさんの仕事であり、対応もBさんが
すべきものであった。

しかし、Bさんは知らん顔だった。
若いAちゃんは、事実をすべて、言おうかと思ったが、
でも「きちんと確認しなかった自分が悪い。ごめんなさい」
と謝った。

その場が良いようにおさまった。

親のCさんが「正しいか、正しくないかで判断しなかった
事がえらいね」と言った。


同じく若いCちゃん

職場で、先輩がミスをした。
しかし、それがDちゃんのミスだと、皆に勘違いされた。
責められるわけではないが、「まあ、そそかっしいん
だから」と、皆に笑われた。

その場に、その先輩もいたが、何も言ってくれなかった。
先輩だし、自分が言うわけにも行かず、心は悶々とし、
不満と怒りで、いっぱいになった。

家に帰って、自分は悪くないのに、悔しくて、悔しくて
たまらず、我慢できない怒りを、神様にぶつけて祈った。

その時に、御霊はイエス様の十字架を思い起こさせて
下さった。
自分は悪くないと言うが、イエス様は全く悪くないのに、
何の罪も無いのに十字架にかかられた。


「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を
卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも
従われたのです」ピリピ2:8

イエス様の十字架を前にすると、自分は何なのかと
思った。
自分は悪くない、自分は正しいと主張している自分。

イエス様が自分は悪くない、正しいと主張されたなら、
十字架はあり得ず、私たちの救いは無かった。

自分の正しさを主張することでなく、イエス様に従う
ことが御心であり、そう思った時に、心がすっかり
平安になった。




2012年01月15日(日)
  「気づきに感謝」

Aさん「新年を目標もって歩みたいと、祈っていて。
その事を祈る中で、いろんな事を教えられ、いろんな面で
『献げること』を示された。
そして、一つ一つ具体的に示される小さな事を、行なって
行くと、祝福にあずかった。

その関連で、『あなたの隣人をあなた自身のように
愛せよ』が、すごく心に臨んで来て『愛しなさい』と言わ
れていることがわかった。

具体的に、愛して行こうとすると、自我にぶつかって
愛せない。出来ない、出来ないというところを通らされ、
そんな中で、結局、愛しているのは自分で、
自分が一番大事なんだと、わかった。

『愛せません』と、自分の姿を認めて、祈って行った時に、
自分の思いを超えた、思いもよらない嬉しい事があり、
ありのままの姿を素直に認めて、祈って行くことを
教えられた」


Bさん「外側、親切な、良い行ないをしているが、動機が
肉で、自分のため。良くみられたいのもあるし、自分の
満足感、自己満足のため、神様への思いが全く無い。

最初は神様のために、で始めた事も、神様が飛んで
しまっていて、自分が、自分の力で、自分の満足の
ためにしている。肉だとわかる。

それも目の前の事柄に流されて生活していると、肉に
歩んでいて、気づかないけれど、祈りの生活をすると、
気づかされる」

「そうそう、肉の充足感に、騙されてしまう」


Cさん「神様が飛んでしまって、目の前の事、状況
だけになると、自分しか無くなってしまう。

神様視点が無い。自分が認められること、自分が
評価されることを求めてて、人との比較に陥って
しまうから、人が羨ましくなるし、又、人を裁くし、
優越感で人を見下したり、劣等感に陥ったり、

神様から目を離すと、すぐに人との比較に陥って
しまう。根深い培われたものがある。
気づけて感謝です。祈って行きます!」

「優越感の肉の喜びと、御霊の喜びを勘違い
したりする(^_^;)」

『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名に
よってお遣わしになる聖霊は、あなたがたに
すべてのことを教え・・』ヨハネ14:26

御霊が気づきを与えて、導いて下さる。




2012年01月11日(水)
  「妨げるもの」

デボーションの話をしていると、皆が、祈る時に、
サタンの妨害が来ると言う。

Aさん、「朝、時間を決めて、祈ろうとすると、
ものすごくしんどい思いが来て、祈りたくなくなる。
何かわからないが、気力が無くなる。祈れなくなる。

サタンだと思い、意志を向けて祈り始めると、
そのしんどさが消えて、祈れるようになる。
ほんとにサタンが妨害して来てるんですねえ」

Bさん「私は、とにかく眠気が来るんです。
聖書読もうとすると、眠くなって、寝てしまう。
祈ろうとすると、睡魔が来て、寝てしまう(笑)

ああ、サタンなんですねえ。
バイトの間に、ちょっと間があって、近いから
家に一旦帰るんです。
半時間ほどあって、デボーションしたらいいな
との思いがあり、丁度神様がデボーションの
ために与えて下さってるんだと思うんです。

だのに、その時間、眠ってしまうんです。
睡眠不足とかは全然無いんですよぉ。
十分寝てるのに、また眠ってしまう。
サタンにデボl−しょんを取られてるんですねえ。

わかりました!この時間、やっぱり神様から
祈りのために与えられてる!祈ります!」

Cさん「でも、サタンを認識していなかったら、ずうっと
祈りを取られたままですよねえ。
祈る気がしないから、祈らないまま、ずるずると。
聖書を読もうとすると、ほんとに電話がかかるし、
宅急便は来るし(笑)」

Dさん「あれをして、これをして・・の思いがずうっと来る。
あれしなくちゃと思うと、もう身体が動いていて、すると
次に、これも・・と、どんどん思いが来て、祈りも聖書読む
ことも全くできないまま、夕方になる」

Eさん「わかる、わかる。ほんとに次々思いが来る
からすごいですよね。ほんとに何かに、引っ張られて
行く感じですよね。
私は落ち込みやら、問題が来ると、全然祈れなく
なる。目が、神様から離れてしまうせいだと思う。

そんな時、『祈れません、〃、祈りたくありません』と
神様に言い続けていると、祈れるようになる」

「神様の御心行なう時って、必ずサタンが来る。
気力が萎えて、したくなくなったり、面倒になったり、
『しなくてもいいんじゃない』との思いが来る」

神様に従おうとすると、必ずサタンが妨害して来る
ことを踏まえていよう。


2012年01月09日(月)
  「希望がある」

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」
Tコリント13:13

義母が昨年のクリスマスの朝に、天に召された。

一連の出来事に神様の栄光と奇跡を拝した。

突然、訪問先で、心筋梗塞で倒れ、意識不明に。
そのまま心肺停止になり、身体も冷たくなって行く中、
たまたますぐそばに、何と良い心臓専門病院が。

緊急処置で蘇生。意識回復し、奇跡だった。
私たち家族が駆け付けた時は、元気で、驚かされ
た。

イエス様の救いの明確な確認ができて、死線を
通った義母は心底安堵した表情になり、素晴らしい
笑顔になり「先に天国に行って待ってるからね」
との言葉が。

私達が戻った後、又、昏睡状態のように、眠った
ままに。それが子供が駆け付けると、意識はっきりし、
話せて。又、昏睡に。仕事の都合つき、別の子供
が行くと、又持ち直し、意識はっきりし・・
順番に、結局、全員意識鮮明に会えた。
神様のみわざだった。

「又、会えるからね」「ずっと一緒だよ」その言葉を
御霊の働きの中で、御霊によって受け取った義母
は「幸せ」「感謝!!」と満面の笑みに。

今から死んで行く人が、「幸せ」と、神様のみわざ
だった。
それを見て、周囲にいる未信者の皆も、安心と
幸福感が心に。

葬儀も、平安と霊の祝福に溢れて、未信者の
親族も平安に包まれた。御霊が力強く働いておら
れることが感じられた、

心に聖さと、明るさと、希望を感じる、悲しみでなく、
幸福感に包まれた、不思議な〃神様のおられた
葬儀式だった。

「また、会える」
死を超越した、何という喜びであり、希望だろう。



自分自身がジュニアの頃、死が怖くてたまらなかった。
心底恐怖だった。なぜか独りになると浮かんで来る
光景があった。
真っ暗闇の底無しの、果てしない宇宙のような空間で、
自分独りだけが存在していて、誰も人はおらず、身体は
無いが、意識ははっきり存在していて、無くならず、
それが永遠に続く・・

意識が無くなれば良いが、自分が消えるなら良いが、
永遠に無くならない。意識する自分が存在する・・。
後に、信じた聖書とかぶった。罪を持ったままなら、
火と硫黄の燃える池の中に、報いがあり、永遠の死がある。

イエス様を信じて、その事は全く意識しなかったが、
ある日、ふと気づいた。死の恐怖がきれいに失せて
消えていた。真に「救い」を実感した。
心底の安堵、平安を経験した。

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、
今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方
のもとに帰ったのです」Tペテロ2:25

永遠の滅びから救われ、永遠のいのちが与えられた。
何という恵みだろう。


主のもとにのみ、死に対する答えがあり、解決がある。


2012年01月07日(土)
  「待つこと」

信仰人生、時に、非常に厳しい試練が臨む。

「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を
精練するように、私たちを練られました。

私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。

しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出され
ました」詩編66:12

火の中、水の中を通る。

そんな厳しい試練の中にあるAさん
「ただ、神様を待とうと思います。自分からは何
もせず、神様を待っていようと思います」

身体にも、多大な影響が来るほどの限界ギリ
ギリのストレスを通ったBさん

「ただただ、神様に御言葉を求めました。
神様からの答えは、『待ち望め。主を。雄々しくあれ。
心を強くせよ。待ち望め。主を』でした」
主を待ち望みますと。

神様を「待つ」ことを教えられる。

願いが、すぐに答えられたない事も、感謝に思える。
自動販売機のように、お金を入れると、欲しいものが
何でもすぐにチャッチャと出て来たなら、どこで信仰が
培われるんだろう。

「神様は必ず良くして下さる!」「愛していて下さるから
絶対に最善をして下さる!」信じて行く、忍耐が養われ
ようがない。

祈りがなかなか答えられない中で、約束を待ち望む
中で、心が整えられて行く。
この期間があるからこそ、目には何一つ見えない中
で、神様を信じて行く信仰が練られている。

そして、神様が愛であること、愛していて下さること、
この目に見えない事実が、確かなものとされて行く。

この「待つ」こと、主を待ち望むことが、目に見えない
ものを、目に見えない領域を、堅く強くして行って
くれることを感じさせられる。

神様を待つこと、今年も、御霊様に助けられて、
励まされて、全く目に見えない中で、待ちたい。


『主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、
主はあなたを高く上げて、地を受け継がせて
くださる』詩編37:34

「その道を守れ」・・待ち望む道を、右にも左にも
それず守って行けますように。


『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。

あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを
手に入れるために必要なのは忍耐です。
もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなる
ことはない』ヘブル10:35




2012年01月06日(金)
  「明け渡す」

遠方の親友と、久し振りの電話での交わり。

双方、バタバタしていて、しばらく電話の交わり
もできずにいた。

それが、近況の長い手紙をくれて、身辺大変
な状況になっている事を知り、即、電話した。

子供に、仕事面、対人関係面、日常の出来事、
深刻な厳しい試練が次々と臨んだ。

余りのストレスに、許容量オーバーになり、子供
自身がパニック状態になり、後で思えば、心を
保ち、ストレスやプレッシャーを発散するために、
切れた状態になり、わけのわからない、思わぬ
行動を取り、本当に大変だったと。

それをそばで、何とか押さえ込んだり、受け止め
たり、道をつけようとしたり、良かれと思うありと
あらゆる事をするが、事態は改善せず、
もう、なすすべなく途方に暮れたと。

自分自身の体力も、心も限界に来た時に、
いつも聞いて学んでいる、「神様にお委ね
する」ということが、初めて出来たと。

ああでもない、こうでもないと、やはり自分の
思いがあり、自分の良いと思うことをすべて
やってみるが、もうどうしようもなく、どうにも
出来なかった。

神様にお委ねせざるを得ず、何もかも、
もう明け渡し、どのようにでもして下さいと、

一旦自分の道を模索し、神様を離れて、自分で
生きて行くことを選ぶならそれももういいと、思え、
何もかも、神様に渡した。

すると、その時から、思いもしなかったが、事態が
好転。奇跡のようだと。
環境を通して、本人の志を通して、どんどん道が
開かれ導かれて行った。
思いを遙かに越えて、主が導かれたと。

友と話していて、本当に神様に「明け渡す」「委ねる」
ことがすべてだと、改めて見せられ、教えられる。
それ以外に無い。


この明け渡すことが、人間の力ではできない。
どこまでも握って、握りしめて、頭ではわかって
いるが、放せない。
放したら良いとわかっているが、放せないというより、
頑固な自我が、放さない。放したくない。

この「明け渡す」ことも、聖霊によらなれば、不可能だ。
聖霊に励まされて、前進できますように。



2012年01月04日(水)
  「うしろのものを忘れ」

年頭に一緒にみことばを見た。

「この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを
忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を
得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」
ピリピ3:14

「うしろのものを忘れ」・・「主の良くして下さったことは何
一つ忘れるな」恵みは忘れてはならないが、古いものは
忘れよと。

失敗や過失、過去の赦された罪を、絶えず掘り起こしては、
うじうじ、くよくよ、「あの時のあれが・・」「この時、こうしてい
たなら・・」どうにもできない過去に、落ち込む。

又、自分にされた、後ろの事を、いつまでも、思い出しては
恨み、つらみで、心が悶々となる。

過去の栄光にしがみついていても、前に進めない。

後ろを振り返りながら、前に走れない。自分にとって、前に
進もうとする時に、足もとにからまりついて、阻むものは
何だろうと、皆で考えた。

Aさん「全く今まで気がつかなかった。後ろのものって
何だろうと、考えた時に初めて、自分の思いに気づ
かされた。
自分は、赦せない人がいて、赦していないと。
思いも及ばなかった。普段全く意識せず、クリスチャン
だから、赦すべきであり、そうなのだから、赦している
つもりになっていた。

赦していないと、御霊様が気づかせて下さった。
そう思うと、日常の自分の思いや感情、態度や、言動の
はしばしに出ていることに、初めて気づいた。

自分の心の内って、ほんとに自分ではわからないもの
なんですねえ。

“人の内側のものと心とは、深いものです”

これが、丁度、礼拝メッセージが「聖霊による前進」
だったのですが、前進させないものだと、わかりました。
ずっと、何か、霊的に堂々巡りで、前に進めないと感じて
いたんです。

御霊が示して下さったことが、何より嬉しいです」

Bさん「自分は気づかなかったが、ずうっと無意識の
内に、後ろを振り返って、後ろのもので生きている
と気づきました。
あの時ああだった、こうだった、ああしなければ、
こうでなければ、こうならなかったのに・・と。
だから、今、こうなのだと、ネガティブに捕らえて、
神様でなく、後ろのものを見ている。」

「人間にとって、先は全然見えないから、神様見て
いなければ、必然的に、後ろを見るんだろうね」


自分の足にからみついて、前進を阻むものに、
続けて御霊様が気づきを与えて下さいます
ように。
新年、御霊に励まされて、前に進めますように。