2012年02月22日(水)
  「良い人だと思いたい」

「最近、教えられたことがある」

「いつもみこころ行なえますようにとは、祈りであり、
そう思うので、従いたいとは思っているので、
みこころを意志で選択しようと思い、やって来た。

でも、ずっと我慢してきた。
例えば、対人関係で、カチン!と来ることが
あると、クリスチャンだから、怒ってはいけない、
恨んではいけないと。

態度や表情には出すまいとし、心に押し込めて、
我慢する。
でも、それは抑え込んでいるだけで、そこに
あるので、容量オーバーになると、必ず爆発する。

容量分だけは、かろうじて抑え込めるけれど、
必ず限度があるので、オーバーになると、
大爆発。
あの時はああで、この時はこうでと、恨みつらみを
結局は、全部きっちり言ってしまう。
根では恨んでるし、腹を立てている」

「それって、時差があるだけなんじゃ」(大笑)

「振り返ってみて考えると、我慢してるのは、自分の
肉を認めたくないからだとわかった。
腹を立てること、憎むこと、恨むことは、いけない事
だと、これはいけないという思いが来ると、
その思いを否定してしまう。

そして、押し殺して、心に押し込めてしまう。
押し込めて、無いことにしたい。
だから、ずっと変わらなかった。

その思いを否定しないで、そのまま神様のところへ
持って行って、これが自分の思いです、このような者
ですと認めた時に、自分が変わった。

すごく自分が楽になって、自由になって、人を赦せる
ようになって、人を受け入れられるようになった。
初めて、平安な気持ちを経験できた。
今まで、なかなか人を受け入れられなかった。

今まで、ずっと聞いて、ずっと学んでいた事なのに
わからなかった。」



「自分の肉の思いを、認めないで、否定していた
ところが違ったんだ。
否定するのは、自分は良い人でいたいし、人よりは
ましだと思っていたい。そんなひどい人間ではない
と思いたい。
人間て、良い人でいたいんだよねえ。ここがサタン
の罠だよねえ」


「わかる、わかる。ものすごく良い人でいたい。
自分でも良い人だと思いたいし、人からもそう
見られたい。
すると、神様から離れてしまう」


「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を
求めないあなたがたは、どうして信じることが
できますか」ヨハネ3:44

自己中心な、醜い自分を認めて、神様に言って
行く時に、赦されていること、あるがまま受け入れ
られ、愛されていることを実感する。


2012年02月18日(土)
  「すべてのことに感謝」

「祈りが変えられました」


「家族が大事だと思うので、家族の団らんを
交わりを大切にしたいと思うんです。

でも、夫は忙しくて、家族のための時間が
取れず、でも、家族が大切というのはみこころ
なので、ずうっと時間が与えられるようにと
祈り続けていたんです。

幾ら祈っても、祈りが答えられず、夫は尚も
忙しい。
つい、もうちょっと何とかならないのかなあ、
との不満な思いが出て来る。

祈りが、全く答えられない事に気づき、どうして
だろうと思いを巡らした。
すべては、神様の御手の中にあるので、時間を
与えようと思われたなら、そうされるはず。

でも、そうではないという事は、何かを教えたいと
思って、おられるのでは。

自分が、自分の思い通りでない状況を、変えよう〃と
していることに思いが至り、状況の問題でなく、
相手の問題でなく、自分の問題であることに行き
着いた。

神様が、今、このようにされているのであれば、その
状況を受け入れ、感謝することがみこころなのでは。

祈りが、『感謝します』に変えられた。
一生懸命働いてくれている夫に感謝し、今の状況も
主のはからいの内であるなら、感謝します。

すると、心が変えられ、全く平安になってしまった。
同じ状況下で、心は喜びと平安、感謝に満たされた。

とにかく、神様のもとへ行き、祈って行くなら、
その祈りを、軌道修正して、正しく導いて行って
下さることを教えられました。」


以前、証しを聞いたことがある。

ある方が、リストラになった。蓄えもそんなに無く、
家族を養わなくてはならない。

とにかく次の仕事を探した。もう必死だった。
探せど、探せど、雇ってくれる所は全く無かった。
祈りに祈り、もう瀬戸際だった。

そんな中で、「御言葉下さい」と、切に祈った。
御言葉によって、生きて行ける。拠って立てる。
従って行きたいと。

祈りに祈って与えられた御言葉が「すべての事に
ついて感謝しなさい」だった。

そして、従いますと、「仕事が無いことを感謝します」と
祈った。

すると、状況は変わらず、仕事は無いのに、心に
平安が臨んだ。
全く同じ状況で、焦りも不安も、思い煩いも消えた。

そして、しばらくすると、あれほど探しても無かった
仕事が与えられた。

神様とそのみわざに心から感謝が溢れた。

2012年02月13日(月)
  「赦せない」


「人を赦すことって、難しい、できないですよねえ。
自我は絶対に赦したくなくて、ずっと恨んで、憎ん
でいたくて。涙が出るほど悔しくて。
『敵を愛しなさい』とあるけど、愛せるどころか、
何倍にしてでも、報復したい。

でも、いつも学ぶように、御言葉によると、相手で
なく、赦さない自分が一番苦しいんですよね。
自分で、牢獄の中に入る。
苦しく、辛く、真っ暗で、重たく、虚しく・・そこに
二四時間中、がんじがらめ。

実は、平安が無くて、全く喜びが無くて、苦しくて
たまらないから、ギブアップする。
絶対に赦したくないけれど、自分が苦しくて苦しくて
たまらない。
だから、『赦したくありません』『でも助けて下さい』と
祈り続ける。

『赦したくありません』『赦したくありません』と祈り
続けていたら、不思議だけど、赦すことができる
ようにされる。
神様の力です。

でも、奇跡というか、感謝で。
神様信じる前は、絶対に赦さなかったし、赦そう
などという発想も無く、思いも無かった。
執念深く、根にもって、恨み続けて。

赦せるなんて、奇跡ですよね」


「私も絶対に赦せない相手がいて、憎み続けて
いた。ものすごいエネルギーが要る。

でも、神様に出会って、愛することや赦すことを
知って、自分には出来ないから、ずうっと祈り
続けていたら、赦すことができて。

すると、カウンセラーがびっくりして「何で、許せたの?」と。


Aさんも、どうしても赦せない相手がいて、
もう、どう頑張っても、どうあがいてもできない。
何度も赦した気になるが、赦したつもりだが、
やっぱりダメで、赦してはいない。

「神様、赦せない私を、赦して下さい」と心底叫んだ時に、
不思議に心が変えられて、解放されたと。
心からの叫びに答えて下さった。


「それは人にはできないことです。しかし、
神にはどんなことでもできます」マタイ19:26


2012年02月10日(金)
  「気づき」

互いの語らいの中で、気づきが与えられる。

日常の出来事を色々話している中で、

Aさん「親から言われて、辛くて、心苦しくなる
ような言葉を、自分が同じ事を子供にしている
事に、今、話していて、気づきました。

自分に余裕が無くなり、イライラして来ると、
子供に当たっていて、トゲのある言葉を投げ
ている。全然気がつかなったが、親に言われた
同じ言葉です。気づけて感謝です」

若いBちゃんが両親から、互いの愚痴を言われて
辛いと言うと、

Cさん「あ!私、つい子供に、夫の愚痴を言って
しまってる!もうちょっとこうしてくれたら、という
のが心にあって、つい、そばにいる子供に言って
しまって。

あー!いけませんね!夫婦は他人だけれど、
ほんと子供は、どちらもが自分だから苦しいです
よね。止めます。でも、気づけて感謝です」

Dさん「家で、手作りでお菓子を作ったんですよぉ。
子供のお友達に上げる分やら、色々分けていて、
私は、よそに上げるのを一番良いもの、身内には
出来損ないをと、取り分けていたんです。

すると、子供が、お父さんに一番良いもの、最高の
ものを上げる、これはお父さんにでなきゃ嫌だ、お
父さんに上げるんだと。

それを聞いて、ものすごく示されて、気づかされて。
自分は、よそ様が先で、夫を後回しにしている。
優先順位が大間違い。気づけて感謝でした。」

Eさん「どうしても愛せない人がいて、自分では
どうもできない。それで、神様、愛したくありません、
嫌ですと、ずっと祈り続けていた。
すると、心が変えられたんです。

神様の言われる事に従いたいと、示された事
をして行くと、嫌だと思う心が薄れて来て、なぜか
相手の良い所が見えて来て。これほんとに神様です」

Fさん「あ!そうだ。愛さなければならない。
愛せませんじゃない。愛したいと思っていない
から、愛したくありませんですね!
そう祈ります!」

Gさん「どうしても嫌な人がいて、幾ら愛そうと
しても愛せないし、自分にはどうにもでき
ません、ギブアップですと、祈り続けていたん
です。
すると、頂き物をした時に、あ、上げようと
思えたんです。不思議でした。
ほんとなら、関わるのも嫌なのに。神様でした。
差し上げたら、とても喜ばれて、祈りに答えて
神様が働いて下さった。


御霊の気づきを与えられながら、神様のみわざ
を、生活の中で体験して行ける。
それが喜びだ。



2012年02月08日(水)
  「御霊によって」

時々、婦人会後、皆でランチに行く。

先日は、ランチで、誕生日を祝ってもらった。
婦人たちとの交わりは、本当に心恵まれるひと時だ。

皆が、何でも自由に喋る、喋る、喋る、喋る・・。
大笑いして、心伸びやかに、何とも楽しい。

「何でも吐き出せる場所があって、嬉しい」

「他では絶対に言えない。一言でもややこしい事になる。
ここは安心して何でも話せて、全部下ろして、すっきり
帰れる」

「何を言っても、裁かれない。責められず、受け止めて
もらえる。弱さに共感してもらえる。だから、何でも言
える。癒される」

皆が、日常生活での悩みや、しんどさや、喜びやら祝福
を次々と話す、というより、どばっ〜と吐き出す。
本音が言える。

人が教えられた事を通して、自分が照らされ、教えられる。
自分の姿が見える。映し出される。
そして、答えが見つかる。御霊の働きだ。

すべての人が、自分の前に置かれている鏡のように
感じる。何かしら自分が照らされ、教えられる。
自分にヒットして来る。

お腹を抱えて大笑いしながら、又、一緒に悩み、問題を
考えながら、いつも心満たされる。幸せを感じる。
自分自身も心癒される。

はっと気づき、話し込み、時に長時間に。皆、夕食準備が
と心配すると、「もう作って来たんじゃ〜」「うちも作って
来たけえ」

帰り道、心があたたかく、喜びに満たされている。


恵みの交わりは、人間のものではない、人が作り出す
ことのできない、御霊によって与えられたもの。

御霊の交わりに感謝(*^_^*)



2012年02月04日(土)
  「自分の問題」

遠方の主にある方から、お便りを受け取った。
主に従っておられる、霊の交わりのある婦人だ。

近況を知らせて下さり、様々な問題が起きている。
出来事やら、対人関係・・。

その一つ一つに「でも、これは私の問題です」
「これは私の問題です」
「問題は私にあります」と書いておられた。

思い煩いや、不安、心配・・「でも、私の問題です」

とても教えられる。
自分の問題として捕らえる時、解決へと導かれる。

でも、自我は、自分の問題でなく、環境が悪い、
人が悪い、自分を正当化して、環境のせい、人の
せいにして行く。
そうしていれば、自分を見なくて済む。


苦しい状況で、いろんな悩みや辛さ、心の内を
話して下さっていたAさん。

晴れやかなな笑顔になり、「今日、御言葉聞いて、
皆と話していて、問題が状況や相手ではなく、自分
の『自我』にある事がわかりました。

自我にぶつかるから、カチン!と来て、状況も、相手
も受け入れられず、平安が無いから、ますますイライラ
ピリピリして、怒りや不満でいっぱいになる。

その思うようにならない不満で、周囲に当たってしまい、
相手を責めると、必ず責めが返って来るんですよね。
相手の責めを引きだしてしまう。
結果、皆でイライラ、トゲトゲし、責め合ってしまう。

でも、自分が自我を砕いて、へりくだる時、相手からも同じ
反応が返り、潤いと温もりが流れ出る。
「ごめんね」と言う時、相手からも「こちらこそごめん」と
返る。

問題は『自我』ですね。自分の問題です。
聖霊様が、ここでこういう言葉をかけなさいと示して
下さり、優しい言葉がはっきりと浮かぶんです。

でも、自我は絶対に言いたくない。優しい言葉をかけたく
ない。かけるものかと思っている。

自我は本当に痛い。でも、祈って行きます!!(*^_^*)」



自分で、自分の姿は見えない、わからない。
御言葉と、皆の証しが、自分の鏡。
御言葉を聞いて、皆の証しを聞く中で、自分の姿が
くっきり、はっきりと照らし出される。
見えるから、祈りにもって行ける。
自分には鏡があることが、本当に感謝だ。

2012年02月02日(木)
  「祈りの答え」

祈りの答えに、祈った事柄の神様からの
答えであるが、別の形である場合がある。

形が違って来るので、見張っていないと
わからずに、見過ごしてしまう。


子供が小学生の頃、登校時に、保護者が横断歩道に
立って、横断を見守る係があった。
新学期の4月に、月日も割り当てられた。その当番
が2月と知り、当番が近づくと祈っていた。

その日が、春のように、この冬一番の暖かい日となり
ますようにと。
というのは、冷えると胃痛腹痛で体調を崩してしまう
ので。1時間ほどは立ったままだ。

そして、その当番の当日になった。
朝のニュースで、「寒波到来で、この冬一番の寒さ
・・」とアナウンサーの声。

「一番暖かい日」をと、祈っていたので、「一番寒
い日」にピンと来た。
形の違った祈りの答えだ!神様を感じた。

それで、祈りに答えて下さって感謝しますと、祈り、
神様の祝福を楽しみにしますと祈った。
すると、神様が共にいて下さるという、神様の臨在
感におおわれ、心に喜びが来て、心暖かくなった。

ホッカイロを持ち、完全武装をし、心温められ、外側
はこの冬一番の寒さであったが、神様は心を暖かくし
て下さった。

見事に祈りが答えられた。


Aさん「私だと、一番暖かい日を祈っていて、一番寒い
日だったら、『神様何でよ!』『祈りに答えてくれ
んかった!』で終わるわ」(笑)


Bさん「いろんな形の答えがあるんですねえ。
ずうっと、小さい時から、人が気になって〃仕方が
無くて、クリスチャンになって、やはり人が気になる
ので、神様に、人が気にならないようにして下さいと、
祈ってたんです。

そんな中、余り知らない人からなんですが、すごく
批判され、周囲に、ある事無い事、悪口を言われ、
中傷され、もう落ち込んで、悩んで、もう人生最大の
悩みほど苦しんだ。この事をことごとく神様に訴えて
祈った。

人一倍人を気にする自分は、もう悩みに悩んだが、
その相手と顔を合わせる機会が無くなり、神様が解決
に導いて下さって、一件落着した。

その後、ふと気づくと、人が気にならなくなっていた。
この苦しみが、実は、祈りの答えだった。」

2012年02月01日(水)
  「わたしにとどまり」

Aさん「もう対人関係で、イライラ〃して仕方が
ない。相手のちょっとした事に、腹が立って、
些細な言葉や態度にイラ立つ。
とにかくイライラして、次から次へと、ずっと腹を
立ててる」

「余裕が無いんだ」
「そう。全然余裕が無い。最近、神様との交わり
が持ててないせいですよね(^_^;)」

「神様と交わりがある日々は、ほんとに余裕
があって、イライラしないんです。笑って流せる。
全然違う。御霊の働きなんですねえ。

交わりが途絶えると、ギスギス、ピリピリ、トゲ
だらけ。
ほんとに対人関係も、結局、相手の問題でなくて、
自分の問題ですねえ。

御霊に導かれて、心に喜びが溢れている時は、
大らかに、好意的に、善意に受け取れる。

それが、心がギスギスすると、悪意に、曲げて
受け取ってしまう。
同じ事柄が、自分次第でこうも違う。

イライラし、そこに思い煩いも生じて来て、マルタ
状態になる。自分を正当化し、人を責めて行く。



「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に
とどまっているなら、そういう人は多くの実を
結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすること
ができないからです」ヨハネ15:5

「主にとどまること」が、最も大事だと教えられる。

主にとどまらないで、自分の思いと自分の力で
した事は、「木、草、わら」で、かの日に燃え尽きて
しまう。

主にとどまらず、主のもとを出て、主に頼らず、自分
でしている時、気づけるように。

主との交わりの中で、歩めるように。そこに喜びと
平安が常にある。