2012年04月24日(火)
  「交わりの中で」

Aさん「日常生活をしていて、何だか気力が
無くて、心がどんよりして、虚しくなる時に、
感謝な事に、祈りに持って行けるように、変え
られました。

もがいて、自分で、何とかしようとせずに、
『神様、気力がありません、心がふさいでいて、
虚しいです』と、ありのままを祈るんです。

神様と交わっていると、心の思い煩いやら、
ひっかかっている事やら、心にある事を色々気づ
かせて下さって、悔い改めたり、委ねたりするん
です。

そうやって、交わっていると、段々心が変わっ
て、あったか〜くなって来て、落ち着いて来る
んです。
いつか心がすっかり平安になっていて、感謝
なんです。

心が不安になったり、思い煩ったり、動揺する
時に、神様にありのままの気持ちを告げて交
わると、その不安や恐れが消えて、平安に変えられ、
感謝が溢れて来る。


“わたしが与える水は、その人のうちで泉と
なり、永遠のいのちへの水がわき出ます”
ヨハネ4:14

サマリヤの女性は、この世のもので、心を
満たそうとしたが、決して満たされる事は
なかった。
その渇いた心を、主はご存じで、近づかれた。

“この水を飲む者はだれでも、また渇き
ます”

この世のものには、一時の快楽や歓びは
あるけれど、すぐに又、心が虚しくなる。
この世の何ものをもってしても、心は決して
満たされない。

しかし、イエス様が下さる生ける水は、心の
内で泉となって、永遠のいのちへの水が
わき出る。
虚しくて、虚しくて、どうしようもない心に、
気力が生まれ、平安が心に来て、喜びが与え
られる。心が生き生して来る。


内に、この生ける水が、与えられているから
ですよね。感謝です!嬉しいですよね。
こうやって、イエス様と、どんな時も交わり
ながら、人生歩めることが本当に幸せです」


「不安や、心配、悩みの時に、イエス様と
交わる時に、心があったかくなって、重苦し
さや心の辛さが消えて、平安が心に広がって
来る。
ほんとに交わりによって、心が変えられる。
感謝です。(*^_^*)」


以前、新聞の読者の声覧に、婦人の投稿があった。

「0Lとして会社で働いていたが、毎日〃同じ事
の繰り返し。毎日同じ電車で出勤し、同じ仕事
をし、帰宅する。
心が虚しくてたまらず、結婚に夢を託すように
なった。結婚すれば、幸せで楽しく心満たされ
るに違いない。
結婚し、新婚時代が過ぎれば、時間を持て余し
心に虚しさが忍び寄る。そうだ、子供ができた
なら、幸せで心満たされるに違いない。

やがて、子供ができて、育児に追われる日々。
子供は可愛いが、育児がこんなに大変だとは。
自分の時間など全く持てず、イライラが募る。
心に何かが足らない。心を満たしてくれるもの
が欲しい。
社会から取り残されている自分。心が焦る。

やがて、子供の手が離れた時に、待ちに待った
仕事に出た。しかし、家庭を持ちながらの仕事、
慌ただしい、忙しいばかりの日々となった。
家事のために、帰宅を急ぐ。

夕暮れ、電車の音、家路につく人々・・
その時、ふっと、どこかで見た光景だ、と思う。
そうだ、以前虚しくてたまらず、そこを去った
時の、あの同じ情景ではないか。
そこに再び戻っている。人生とは何なのか?」


生ける水を与えられて、どんな状況、局面に
あっても、愛し、慈しみ、導いて下さるお方
との、交わりの中で生きて行ける、これこそ
が幸せだ。








2012年04月20日(金)
  「行き詰まり」



「神様に叫んだり、すがったりするのは、
よほど追い詰められないと、無いですよね」

「無いですよね。何の問題もなかったら、神様
を求めることなんてないですよね」

「アダムとエバが“神のようになりたい”と、罪を選択
した。
その罪の性質が根深くあって、自分が神でありたいし、
自分の思い通りに生きたいという、ものすごい強烈な
頑なな自我があるから、砕かれない限り、神様なんて
求めない。
自分の好きなように、思い通りに生きたいですよね」

「神様に従っているつもりが、実は、あの自己啓発
の自己実現だったりしますよね」

「する!する!神様に従っているつもりで、神様
を利用して、自己実現、自己満足していて、気づ
かない。自己啓発と同じですよね」

「自分の力で、やっていても、これがなかなか気づ
かないですよねえ」

「やっぱり、ギリギリまで追い詰められた時に、
死ぬか、生きるかまで、追い詰められた時に
初めて変えられた。
初めて、神様を実感できました」

「おんなじ!〃」

「だから、苦しくて、辛くて、進みも戻りもできない
絶体絶命って、ものすごい大きな恵みなんですね。
あれが無かったら、神様わからなかったです。
ほんとに感謝ですよねえ」


「砕かれないと、神様わからないですねえ。
砕かれて、初めて、神様が膚でわかる。
御霊によってわかる」

「結局、人生で一番苦しかったことが、恵みで
感謝なんですよねえ」

「ほんとに、人生で一番苦しかったことが、
一番大きな恵みですね!」

Bさんが、しばし神様を離れていて、帰って来た。
「なんで、神様に帰れたの?」
「行き詰まったからです」

「じゃあ、行き詰まらなかったらは?」
「ええ、そりゃもう行ったきりです」(笑)

「行き詰まって、良かったんだ」
「はい、そうです!感謝です!!」

“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせ
でした。
私はそれであなたのおきてを学びました”
詩篇119:71


2012年04月19日(木)
  「受け止める」

試練の学びをしていた。

Aさん「今日の学び、ピッタリでした。
丁度、先日、出来事があったんです。

仕事での事なんですが、自分の仕事
が相手に受け入れてもらえなくて、

良い、悪いじゃなくて、まあ、それぞれの
考え方があるから、と言われて。
それはよくわかるから、仕方が無いんですが、
何だか悲しくて、辛くて、心が沈んだ。

その相手とも、何だか気まずいし、でも、
仕事は仕事で、自分に出来る精一杯を
しようと思えたんです。

その時、仕事中だったが、心の中で神様
に祈ったんです。
「この事を導いて下さい。ちゃんと対応出来
るように助けて下さい」と。

祈れて、頼れて感謝でした。
普段、順調に行っていて、何も困難が無かったら、
ほんとに、ぼや〜として、なかなか神様頼らないし、
感謝だと思えたんです。

そして、祈った時に、これは試練なんだと、
思えて、受け止めようと思い、受け止めること
ができたんです。

神様が与えて下さってる試練であって、この中
で色々教えて下さるし、自我が砕かれるし、
神様を知れることが感謝だと思えたんです。
そう思えたことが感謝でした。

今日、学びして、まさに試練で、神様がこの辛い
事を通して、いろんな事を教えて下さるんだと
感謝でした」

「すぐにその場で祈ったから、屈折したり、
落ち込んだりせずに、試練だと受け止める
ことができたんだね。神様だよね(^^)」


Bさん「私は、今、自分の環境上、何でもしたい
思いはあっても、距離的な事もあり、自分には
全くどうにも出来ない問題を抱えていて。

どうにも動けず、なすすべなく、すごく思い煩って、
ああでもない、こうでもないと、思いを巡らして
いたんです。

でも、今日、神様がこの状況を与えておられる
のであり、神様から来ていること、神様がこの
状況に置いておられることがわかりました。

神様を認めます。だから、明け渡したらいい
んですよね。神様にお委ねして、自分に出来る
ことを、神様が示して下さったことをして行け
ばいいとわかりました。
心がものすごくすっきりして、楽になりました!」


Cさん「私は、ずっと対人関係の試練があって。
攻撃され、罵りや、嫌がらせがあり、ノイローゼ
になっても、おかしくないほどだった。

苦しくて、辛くて、心臓がドクドクして、もう身体も
おかしくなるほどだった。

それが、環境的に、相手が去ると、同じような
別の相手が出て来る。驚くほど同じような相手だ。

神様は何を教えて下さりたいのか、祈っていて、
良い人に見られたい自分、しかし、その自分に、
全く愛がないことを、とことん教えられた。
痛いが、感謝だった。

痛いことは、逃げて、向き合おうとしないことも
教えられた。それなら、何も学べないので、
逃げないで、受け止めて行きたい。」





2012年04月16日(月)
  「頑張ってしまう」

Aさん「何か、自然の状態というか、肉でいる時は、
どうしても頑張ってしまう。頑張ろうとしてしまう。
最近、すごく気づかされて。

古い性質、根深く培われた性質なんでしょうね。
頑張らないといけない、頑張るのが良いこと
との価値観がある。

あれして、これして、次はあれ、これと、何も
していないと、怠けていると思ってしまう。
何かしていないと、いけない気がして追い立て
られる。
自分で、自分を追い込んでいる。

あれが御心か、こっちが御心かと、何か心が
縛られて、自由が無くなる。そして、心が急いて
焦る。


朝から祈って、神様と交わって、御霊に導かれ
ている時は、心が自由で、楽で、平安そのもので、
頑張ろうとかが無いです。
心急くことも焦ることもない。

ギチギチと、白か黒か、どっちが御心かとか、
そういうものから解放されているのが、御霊の
歩みなんだとわかる。
それが経験できて、嬉しいです。

律法と御霊と、全然領域が違うことがわかる。
御霊の導きから出て、自分で歩み出すと、すぐ
律法の下に入ってしまうんですねえ。

律法の下に入ると、すべてが“ねばならない”
になり、すべてがずっしりと自分の肩にかかる
から、しんどくてたまらない。

しんどくなった時に、気づく。自分の力で、やって
いる。
又、主に立ち返り、御霊の流れの中に身を置くと、
平安になり、楽になって、喜びが来る。

何かすること、頑張ることでなくて、大事なのが
“主にとどまること”だと、教えられる」


「自分の力で、すぐにやってしまうけれど、
でも、祈ると、ほんとに違いますねえ。

御霊が働かれるのがわかる。祈りはすごい
と実感させられる」



「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に
とどまっているなら、

そういう人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすること
ができないからです」ヨハネ15:5



2012年04月14日(土)
  「思い煩ってしまう」

思い煩いの学びをしていた。

「みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世
の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が
熟するまでにならないのです」ルカ8:14

みことばを聞かないのでなく、聞いている。
道ばたに落ちた種は、サタンが来てみことばを取って
行ったので、心に入らなかった。

いばらの中に落ちた種は、心に入ったが、思い煩い
のいばらが、伸びる芽をふさいでしまった。

思い煩いは、みことばをふさいでしまう。


以前、Aさんを訪問した時に、御言葉が全然入らない、
祈れないと、落ち込んでいた。

思い煩いや心配があるのではと、話を聞くと、何や
かやと問題を抱えていて、次から次へと、止まること
なく心配事が出て来る。

紙に書いて、具体的に一つ一つ、一緒に祈ろうと言い、
5時間、話を聞いて、問題をまとめた。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝を
もってささげる祈りと願いによって、あなたがたの
願い事を神に知っていただきなさい」

と言われる神様に、具体的に、一つ一つ祈り、
お委ねして行った。

祈り終わり、一緒にAさんと御言葉を読んだ時
Aさんが「あ!祈れた!あー!御言葉が入って来る!
感謝です!」と、笑顔で叫んだ。

Bさん「何か、最近、神様と遠い気がする。神様を
近くに感じられず、遠くに感じる。
御言葉も読むんだけど、字を追っているだけで、
喜びがない」

Cさん「何か心に思い煩いがあるのでは?」

Bさん「ああ、あります!あの事、この事、思い
煩ってる。思い煩いを、自分が握っていて、
なかなか委ねられない。思い煩いが、ふさいでる
んですねえ。
委ねられませんと、祈って行きます」


Dさん「思い煩うな、と神様が言っておられるから、
思い煩いを、ストップしないとダメですよね。

思い煩うなと、聞いていて、頭でわかっていても、
結局、自分が止めないで、ずうっと思い煩い続けて
いるわけで。自分が思い煩いを選択している。
それだと、神様に従っていないですよね」

「日常生活で、平安に過ごしていたのに、何か
平安が無くなる時、心が暗くなり、重くなる時、
心を探ると、思い煩っている事に、気づかせ
られる。

サタンの火矢を受け入れてしまっていて、
同意して、やられてしまっている。
サタンは、絶えず思い煩いをもって来ますね」

「思い煩いが思い煩いを呼んで、勝手に人生
最悪のシナリオが出来上がる(笑)
絶対にあり得ない最悪なんだけど、それが
絶対にそうなると思えてしまう(笑)」


「思い煩うな」と言われる主のもとへ、
一つ一つ、渡して行けるように。


2012年04月11日(水)
  「桜の季節」

満開に咲き誇る、見事な桜に、心ほっこり見とれるが、
またたく間に、葉桜に。


美しい桜が、心に染み入りつつ、去年の桜が、心に
くっきりと浮かぶ。

去年の今頃、孫たち家族と、花見に行こうと、お弁当の
段取りをして、翌日を楽しみにしていた。
その深夜に、少しづつ衰弱しておられたご高齢のAさんが、
突然、状態悪化され、天に帰られた。

連絡受けて、すぐ駆け付けたが、間に合わず、「連絡した
直後、もう息を引き取られました」と、スタッフの方から
お聞きする。

大変なご高齢で、目に見えて弱って行かれ、覚悟して
いたので、この時が、厳粛な神様の時と、受け取る
ことができた。
主のみもとに、主とともに平安におられることに、
心が慰められた。

葬儀社に連絡、翌日は、すぐにバタバタと、慌ただしく
葬儀の準備になって行った。

お花見を、とても楽しみに〃していた小さな孫たちに、
親が、教会のおばあちゃんが、イエス様のもとに
帰られたこと、お葬式の準備で、出来なくなったこと
を説明した。
小さいながらに、納得し、お弁当を作っていたので、
葬儀の準備をしながら、教会で食べた・・。



Aさんは、私たちに、大きな〃祝福をもたらして下さった。

身寄りが全くなく、独り身で、施設で生活しておられた。
施設から、教会に通って下さっていた。

以前に証しして下さったが、気の強い〃性格でしたと。
気に入らない相手がいると、真正面切って、喧嘩して
いましたと。

神様を信じて、変えてもらいましたと、柔和な、穏やか
な笑顔で、いつも口ぐせだった。
満面の笑みで「嬉しいです」「有難いです」と。

施設では、カーテンで仕切られた4人部屋。
プライバシーが全く無いような状態だった。
以前の自分なら、とてもおれなかったでしょうが、
今は、「変えてもらいました」「幸せです」「嬉しいです」。

Aさんに「もし神様が、どんな願いでも聞いてあげると、
言われたら、Aさんは、何を願いますか?」と
聞いたことがある。

「家族と暮らしたい」「個室が欲しい」「ここへ、あそこへ
行きたい」「あれが、これが欲しい」と、何でもある
だろうに、

Aさんの答えは、「はい、このままでいいです」
「このままで幸せです」と、にっこり笑顔で。

驚いた。信仰によって生きておられる、Aさんに感嘆した。

不平不満、悪口をAさんから聞いたことがなく、

「お陰です」「変えてもらいました」「嬉しいです」
「感謝です」、この言葉がいつも順繰りに、Aさんの口
から出ていた。


Aさんの柔和な、優しい笑顔、信仰とお人柄が、桜の
季節と共に鮮やかによみがえる。



2012年04月06日(金)
  「思い通りではなく」

祈りの学びをしていた。

Aさん「丁度この間のこと、子供のことで、神様
に、助けを求めて祈ったが答えられなかった。

自分のことより、子供のことは痛くて辛いが、でも、
以前だと、祈ったのに、神様は答えて下さらない、
何で??と失望落胆や虚しさになってたが、

今回、心は辛いが、何か神様のみ思いがあって、
別なご計画があるんだと、神様のされること
は良いことなんだと、受け止められた。

以前の反応と違う、自分が嬉しかった。
変えられている自分を知り、感謝だった。」


Bさん「今まで、窮地が何度もあって、祈ると、
必ず100%道が備えられ、門が開かれて来た。

すべての窮地に導きがあって、今がある。
ただ、自分の思いとは違うことを教えられる。
ほんとに自分の思いとは違いますね(笑)

自分の思い通りではないが、一つ一つ道が
備えられ、導かれた。
それはその時はわからないが、結果的に、
ほんとに最善だった。

だから、これからも、様々な困難があると
思うが、神様が必ず導いて下さると信じれる」


Cさん「おんなじ!!
神様は必ず必要を与え、苦しい中をずっと
導いて下さった。
でも、自分の思い通りではなかった。
人生、自分の思い通りにはならないことを
ずっと教えられた気がする(笑)」


「自分の思いが、砕かれて行くんですよね。
自我の強い思いが砕かれないと、神様が
見えないですねえ」


<ある兵士の祈り>
大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった。

より偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに、
より良きことができるようにと、病弱を与えられた。

幸せになろうとして、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人々の称賛を得ようとして、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった。

人生を楽しもうと、たくさんのものを求めたのに、
むしろ人生を味わうようにと、シンプルな生活を与えられた。

求めたものは何一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられていた。

私はあらゆる人の中で、
もっとも豊かに祝福されていたのだ。


心に染み入る・・。



2012年04月04日(水)
  「二期目に出発」

主のみわざを見た。

Aカンボジア宣教師一家が、先月末、第二期目宣教
に出発。車で、関空まで見送る予定にしていた。

ところが出発の前日、私が以前から風邪を引いていたが、
突然39,2度の発熱。
インフルエンザか!!とにかく、今から医療が危うい
先に渡航する一家に、うつしては大変なので、病院へ。

検査をしてもらうと、とりあえずインフルではなく、ほっ!
翌日は出発日。薬をもらい、横になっていた。

いよいよ当日。熱があれば、はなから断念しようと
考えていた。
しかし、何度計っても熱は無い。

身体は重くしんどい感じ。吐き気もする。
う〜ん、行って行けないことはない。
しかし、途中でどうにかなり、迷惑かけることに
なってはいけない。

「主よ、どうしましょうか。行きましょうか。
とどまりましょうか」
ずっと心の中で祈っていた。

その間も、Aたちはまあ忙しい。朝一から、
区役所で書類手続き、ごみ処理場へ処分物を。
幼稚園にも用事が。
最後の最後まで、走り回っている(>_<)

やがて昼過ぎ、出発時間に。

祈りの答えが来て、
「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」
「わたし自身がいっしょに行く」と言われた。

もうこの御言葉にかけて、主に身体あずけますと。
行くことを決めた。

もしとどまるなら、このまま寝ていようぐらいの
体調だったのが、車で出た途端、身体がすっきり、
吐き気が消え、身体の重さも消えた。

行き帰り、守られて、見送れた(*^_^*)
何より、主のみわざにあずかれて、心は喜びに満ちた。


かなり余裕をもって空港に入ったつもりが、春休みの
ためか、チェックインも大変な混雑。
予想以上の時間がかかり、空港で朝食も、時間に追われ、

子供たちに「急いでね。20分で食べて!」(笑)
別れを惜しんで、寂しいなどという、優雅な情緒に
浸る間などなく、バタバタバタと立って行った(笑)


無事現地着で、生活の基盤も整いつつあるようで、
沢山の方々のお祈りに支えられ、本当に感謝ですm(_ _)m



2012年04月02日(月)
  「神様のみわざ」

Dさんがお家を提供してくれて、皆で食事持ち寄り、
学び会をする。
「わあ〜、昼間から豪勢バイキング〜」と、楽しい、
有益な交わりに時を忘れる。


ご両親が次々倒れ、大変な介護まっただ中のAさん。

Bさん「でも、Aさんすごく変わったわ。介護し出してから
変わった」

Aさん「そうですかね?」

Bさん「神様にお委ねしていて、肩の力が抜けていて、
明るくて、ふわっと軽そうで、ああ、ほんとに委ねて、
従ってるんだなあと、すごく恵まれる」

皆で「ほんとに、Aさんの介護通して、皆で神様の奇跡見て
来たよね。
先は全然全く見えないけれど、必ず100%、目の前の
進むべき一歩が示されて、進めて来た。
目の前の一歩は必ず示されて、必ず道が開かれて行く。
神様すごいと思った」

「だから、これから先も何も見えないけれど、大丈夫だと
思える!」


パニック障がいが癒されて、今は、人のお世話をして
いるCさん。
Cさん見ているだけで、神様の素晴らしさを、栄光を見る。
最初の頃は、どうしても死にたくなると、言いつつも、
何があっても、這ってでも、地区集会にだけは来たいと。

御言葉聞くと、慰められ、力づけられ、目が神様に向くと。

苦しみに苦しんだCさん、時間をかけつつ、神様は癒して
下さった。
あの頃の苦しさ、しんどさを見ている皆は、今、人のお世話
をして働いているCさんは、神様の栄光以外のなにものでも
ない。

障がいを持っている人々のために働いていて、大変な中を
ずっと動き回っていて、頭が下がる。

Cさん「今日、学びの中で気づきました。仕事の中での人々
への対応を、常識で判断していたけれど、違うんだ、常識
を当てはめることでなく、その人の心に寄り添うことなんだと。

現状を受け入れられないなら、受け入れるべきというのでなく、
その受け入れられない心に、寄り添うことなんだと」

「うわっ!すごい!!」


Dさん「私、受け入れられないこと、よくわかります。
私も家族がそうなんですが、ずっと全く受け入れられません
でした。
でも、神様に出会って、心が変えられて、受け入れられる
ようになったんです。感謝できるようにされました」

「Dさん奇跡です。神様の御力、神様のすごさを見せ
られます」

皆、人生の中に、神様のみわざが現わされていて
生きておられる主!!!


2012年04月01日(日)
  「幼子のように」

先月末、1年間ファロー帰国していたAカンボジア宣教師
一家が、現地に無事戻った。

帰国前、ファローのために、又、特に子供たちのために、
皆が熱心に祈ってくれた。

小学校入学したBちゃんは、最後まで喜んで通学できた。
良い担任の先生と、和やかな雰囲気のクラスだったようで、
祈りの答え、神様の豊かな祝福に心から感謝した。

幼稚園入園のまだ小さいC君も、最後まで通えた。
神様が、C君のために備えて下さった、とても素晴らしい
幼稚園で、感銘を受けた。

「遊び」が、子供にとっての大切なもの、いのちと捕らえて
いますと。
次々とプログラムはあるが、もし、その子がその遊びに
熱中していて、それを続けたいなら、そのまましていて
構わない。
次のプログラムに移動していて、その子が来たくなれば
来ればよい。

何と良い方針なのだろう。
次々と、プログラムに押し込められ、強いられるのでなく、
どこまでも小さな子供の意志、選択と気持ちが尊重され
ている。

折々に幼稚園行事に参加したが、先生が大声でがなり
立てる声を、一度も聞いたことがない。力で抑え込む様を
見たことがない。
小さな子供たちが、大人のように丁寧に、大切に尊重
されて扱われている。

何かプログラムに、急な変更が生じた時、耳もとで一人
一人の該当子供たちに、先生が、きっちり説明している。
子供たちが、首を縦に振って、にこっとうなずいて、行動
に移って行く。
大人と同じ扱いだ。



「イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、
みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。
『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めては
いけません。神の国は、このような者たちのものです。

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を
受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません』

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて
祝福された」


弟子たちが、子供を「邪魔、邪魔」と叱った。うるさい子どもたち
が主を煩わせないようにと、主のことを思って配慮したのかどうか。

しかし、主は憤られた。
大人と同じように、大切だと。

子供が純真だからでなく、子供も罪人。
子供は親に頼らなくては、絶対に生きて行けない、無力な存在。
自分の徹底無力を認めて、一つ一つを主に頼って生きてゆくこと。


大事に、大事にされている子供たちを見て、色々考えさせ
られた。