2012年05月28日(月)
  「はい」は「はい」

「先日、神様に示されて、教えられたことが
あるんです。

とにかく物事を穏便に済ませたい、波風
立てずに、丸く収めたいという思いが常に
強くて。

余り、物事に深入りしたくない、できるだけ
関わらずに、すり抜けていたいと、ずるい思
いがあって、
又、今まで、特に環境的に、余り深く関わる
必要もなくて、過ごして来たんです。

でも、ここが自分の弱さで、神様の御手が
伸びて取り扱おうとされているのが、すごく
わかって。

意見が正反対の人々に、どっちにも、はい
はいの態度で接していて、それが明らかに
なってしまって、もう恥ずかしくて、どうしよう
かと。心が動揺し、騒いで、もう平安無くなっ
てしまって。

ほんとに自分の罪で、自分の責任で、
神様の御前に、心から悔い改めて、この
結果がどうであれ、責任を取ります、謝る
よう導かれるなら謝りますと祈りました。

すると、心がすうっーと平安になって。
平安と喜びが戻って、感謝でした!

祈らないで、自分の思いで発言してしまう
からなんだと。
あっちにも、こっちにも良いように言って
しまう。自分の弱さを示されました。

それで、問題が起きているので、この事に
ついて御心は?神様はどう思われるのか?
まず、よく祈ってから、意見を言おうと思い
ます。
そして、自分の行った事に責任を取ろう
と思います」


「わかります!私も責任取りたくないから、
はっきりした態度を取らずに、何となくうや
むやにして、逃げています。

自分が無いですよね。風当たりが強くなる
かも知れないけれど、自分がこうだと思う
事をちゃんと発言して、責任を取るべきで
すよね。

今回、神様に出会って、きちんと生きて行き
たいと思うんです」



「だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、
『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。
それ以上のことは悪いことです」マタイ5:37





2012年05月21日(月)
  「委ねて平安に」

「自分には、あれをしよう、これをしよう、
あれはああして〜、これはこうして〜、と様々
な自分の思いがある。
だけど、絶対に自分の思い通りにはならない
じゃないですか。

けれど、今まで、ずっと歩んで来て、自分の
思い通りではないが、結果的に、ほんとに
良い道が与えられた。
神様は、最善のことをして下さっているんです。
本当に感謝なんです。

両親が次々と倒れて、えっー!一度にどう
しよう!と、もうパニックになりかけたが、でも、
神様の御手の内で、神様のご計画だと
思うと、二人一緒で良かったんだと思えて。

介護することを思うと、返って、二人一緒
に見れて、感謝なんだと。

自分の思いとは全く違ったが、施設や、自宅
介護やそのつど一番良い形を与えられた。
ちゃんと目の前に、一つ一つ進むべき道が開かれた。

本当に、今、施設に入るのも、もう大変なのに、
入れる施設が与えられて来た。

いつも自分の思いがあって、この施設がいい、
自宅に帰すのがいい・・、色々考え、思いを巡ら
せるが、それが祈っていると、必ず、自分の思い
とは違うように展開して行く(笑)

自分の思いとは違うが、ほんとに最善なんです。
神様はすごい。

だから、思ったんです。それなら、もう、あれこれ
思わずに、神様がして下さることが一番良いのだから、
待っていて、神様が下さるものを受け取ろうと。

明け渡して、委ねていたらいいんだと。
すると、ものすごく平安なんです!思い煩わなくなって。

最初は違ったんですよ。
もう思い煩いと不安、どうなるのだろう、施設
など無いだろうし、どうしたらいいのだろうと、
不安で不安で、祈るんですが、思い煩って
しまって。

でも、目の前に必ず道が備えられていて、
何度も何度も経験して、もう考えても、思い
通りにはならないから、委ねていようと(*^_^*)」


「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる」詩篇37:5

2012年05月20日(日)
  「渇き」

最近、出会った方々。

Aさん、色々な大変なところを通られ、
どうにもできない状況もあり、不安や
思い煩い、恐れで心はいっぱいだった。

そんな時、子供の頃に行った教会学校
を思い出した。聖書のお話を聞いたこと、
賛美の歌を歌ったこと、うっすら覚えて
いる記憶で、教会へ行きたいと思った。

何かの支えが欲しい、聖書に何かあるの
では、思いが募って、教会へ来ることが
できた。

聖書の言葉に触れた時に、涙が溢れて
泣いておられた。
御言葉を、乾いたスポンジが水を吸い込
むように、心に聞かれているのがわかった。

イエス様の十字架の救いを、伝えた時に、
涙が溢れて、「本当に信じるだけでいいの
ですか?」。

御言葉から、信じるだけでよいことを、一緒
に見て行くと、

「勿体ないです。勿体ない。有難いです」
「信じます」と言われた。

「嬉しいです。有難いです」


続いて、Bさんが来られた。

Bさんも、十数年も、辛い、苦しい歩みを頑張って、
頑張って来られた。
耐えられない試練は無い、きっと乗り越えられる
と頑張って、ひたすら頑張って来ましたと。

最近、親族の死を経験し、心が喪失感で、沈み
込み、心の揺るぎない拠り所が欲しい、支えが
欲しいと思った。

幼稚園の頃、聖書の幼稚園で、学生時代にも
賛美歌聞いたりしていて、教会へ行きたいと
思った。

集会で、賛美歌を歌うと同時に、涙が溢れて
おられた。
「寂しいとか悲しいとかじゃないです。でも、
涙が溢れるんです」

わかります。恵みの涙です(^^)

Bさんに、同じくイエス様の十字架の救いをお話
すると、Aさんと全く同じ言葉を言われ、驚いた。

涙と共に「勿体ないです。勿体ない。有難いです」

心に、御言葉がびんびん触れておられるのが
わかった。御霊様だ。

「信じたいです。嬉しいです!!」

「神様がBさんを呼んで下さったんですね。
生まれる前から、選んで、ずっと見守って下さって
いたんですね。イエス様に出会うために、生きて
来られたのですね」


聖書にありますよと、Tコリント10:13を読むと、

「あなたがたの会った試練はみな人の知らない
ようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えること
のできないような試練に会わせるようなことは
なさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、
脱出の道を備えてくださいます」

Bさんびっくり飛び上がられ、「私、この聖書を
全く知らなかったのに、この事がずっと心に
あって、乗り越えて来られたんです!!!」

「今日、心がすっきりして、心があったかくなって、
嬉しくてたまりません」


でも、お二人ともが言われた 「勿体ないです」。
福音伝えて、そういう方、余り見たことがない。

カラカラのスポンジが、水をぐいぐい吸い込む
ように、渇いた心に、イエス様が溢れるばかり
に満たして下さることを、目の当たりに見せら
れた。

渇きがすべてだなあ。


「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て
飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奧底から、生ける水の川が流れ
出るようになる」ヨハネ7:17


2012年05月08日(火)
  「無力」

「介護がものすごく大変なんですが、この事を
通して、自分が変えられている事を知れて
感謝です。

体力的にも、あちこちにガタが来て、膝がやら
れて、痛みが取れず、ずっと湿布です。
肩はずっしり重く、身体はガタガタです。」

「休む時間が無いから、蓄積疲労ですよねえ。
疲れが取れない内に、次々と動かないといけ
ない。油が切れて、金属疲労みたいになります
ねえ」

「そう!そんな感じ。身体の油が切れてる(笑)」

「精神的にも、最初は親のネガティブな言葉が
どうしても嫌で、聞けなくて。
“面白い事が何もない”“つまらん”“死んだ方
がまし”“食事が美味しくない”“来る回数が少
ない”・・

つい、『まだこうやって食べられること、歩ける
こと、身体が守られていることが感謝なんだ
から!感謝したら!』と言ってしまって。
自分を押しつけただけで、自己嫌悪になり、
帰りが暗たんたる気持ちになって、行かなきゃ
良かったと。

そんなところを通りながら、でも、変えられました。
身体もガタガタだけど、神様の御手の内だから、
もうすべて委ねているので、今の身体の状態
もご存じで、神様が一番良いようにして下さると。

だから、思い煩いが無いです。自分の身体も、
介護のもろもろも、明日がどうなるか、全然自分
には見えないし、わからない。
だから、あれこれ考えても、神様の御心が成る
わけじゃないですか。それが私のために最善で。

親のネガティブな言葉も、脳の衰えで、仕方
が無いと受け止められるようになって。
それで帰りも心が明るいです(^^)

最初、倒れて介護が始まった時には、もう
心が重くておおいかぶさって来るようだったが、
今は、感謝です。
もう高齢で、見送るまでに、こうやって精一杯
思い残すことなく、世話できる機会が感謝だと。
何だかほんとに変えられました。婦人方にいつも
聞いてもらい、祈ってもらっていて、やって行けます。

根本的には『自我』ですねえ。自我が強くて
強くて、神様はこの自我を砕きたかったんだと。

あの強い自我のままで、介護していたら、
神様を知らなかったら、もうどうなっていたか
わかりません。
本当に心底、神様を知っていて良かったと(*^_^*)
この事があったから、自分の内側を知れて、
感謝しかないです。

心底の無力を知れたことが良かった。まだ余力が
あれば、神様に頼れないし、祈りながら、自分で
走り回っていたと思います」

ほんとに委ねて、明け渡しているAさんを通して
明け渡すということがどんな事かを見せられている。


2012年05月06日(日)
  「願望」

Aさんが証ししてくれた。

「どうしても欲しい願い事があり、どんな事があっても
欲しい。
必死に祈り、祈りに祈り、祈り倒す勢いで祈った。
でも、与えられなかった。
どんなに祈っても、どれだけ祈っても、与えられなかった。
欲しくて、欲しくて、願望がどうにもならない。
どんな手段を使ってでも欲しい、余りにも強い欲求・・。

その時に、聖霊様に示された。
自分の強烈な願望があるばかりで、神様のみ思いなど
全く眼中にない。発想もない。

自分、自分、自分・・これなら、願望を満たしてくれるなら
別にイエス様でなくても、何でも良いことになってしまう。
偶像だって構わないことになる。

神様にへりくだって、従うのでなく、神様から、恵みを
もぎ取ろうとしている自分の姿を見せられ、本当に
恐ろしかった。
恐くて、恐くて、心底悔い改めた。号泣だった。

その時、あれほど、どうにもならなかった、強烈な願望
が消えた。無くなってしまった。
もう、持っても持たなくても、どうでも良くなった。
心底、いいやと思えた。
不思議だった。心が解かれて、自由にされた。
そして、喜びと平安が心に満ちた。」

それが、驚くべき事に、その願望が、その後見事に叶えら
れた。
神様の大きな恵みであり、プレゼントであり、奇跡であった。


Bさんが「あ、私も、神様の恵みをもぎ取ろうとしている。
自分の強い思いがあって、自分の思い通りに叶えて
欲しい。
自分の強い思いがあって、それに固執する。

それって、神様に従っているのでなくて、神様を自分の
思い通りに動かそうとしていることですよね。
気づけて感謝です」

Cさん「おんなじです。すごくわかる。
どこまでも、自分の思い通りであって欲しい。神様に
そのように動いて欲しい。そうでないと嫌だ。

自分が納得する範囲で従うなら、本当の意味で、
全然従ってないですよねえ。
この自分の思いが砕かれて、従って行けますように」




2012年05月02日(水)
  「人が主に向くなら」

「試練の時は、必死で神様に祈りに祈って、御言葉
求めて、御心を求めに、求めるんですが・・、

問題が解決してしまい、平穏な日々になると、
ポワ〜ン、ポワ〜ンで、神様から離れてしまいます・・

神様に頼ることが無くなってしまうんですよねえ。
自分で歩んでしまってて、だから、特に問題もなく、
平穏無事なんですが、御霊の喜びが無いです。

苦しい時の神頼みなんですよねえ。
毎日のデボーションが助けられて、イエス様と
地道に交わって行きたいです」


「あ、おんなじだ。私もなんですよぉ。
何か問題があると、試練だと、真剣に必死で
祈って、神様に向かうから、御声がわかる。
求めに求めているから、答えが来るんです。
御心が示されて、なすべき事がわかる。

でも、問題が無くなると、ぼおっ〜として、
祈らなかったり、頼らなかったりして生活
している。
だから、何か心満たされない。
おなじで、問題なく平穏無事なのに、喜びが無い。
自分も苦しい時の神頼みです。

原因がよくわかりました。心の目が神様に向いて
いないです。

私も、主と交わりの生活を祈ります。
エマオ途上の弟子たちが、イエス様とはわからなか
ったが、御言葉に耳を傾けて行った時に、

“道々お話になっている間も、聖書を説明して
くださった間も、私たちの心はうちに燃えていた
ではないか”ルカ24:22

御言葉聞く時に、心がうちに赤々と燃えた、
そのような交わりが欲しいです。祈ります。」

Cさん「う〜ん。よくわかる。苦しい時は真剣に
祈って祈って祈るが、苦しみが去ると、求めが
無くなってしまって。
これだとずっと試練がないと、求めないですよ
ねえ。

もっと、環境の平穏でなく、イエス様を求めて
行きたいです。」



“しかし、人が主に向くなら、そのおおいは
取り除かれるのです”Uコリント3:16