2012年09月20日(木)
  「出来事を通して」

「ちょっと職場の対人関係で、ズバリ!
グサリ!!と、直球で、もろに言われる事が
あって、

一瞬、何を言われたのか!?と思うぐらい
ストレートで、グサッと傷つくんですよねえ。
自分は自分なりに、一生懸命しているのに、
何でそんなに言われるのかと。

ある日も、かなり傷ついて、帰宅したんですが、
何で、そんな事を言われないといけないと、
怒りが湧いて。

帰宅して、神様の前に静まって、祈ったんです。

御言葉読んでいる中で、自分は、一生懸命
頑張って、努力して、結果を出して、それが
自分の義となっていることに、気づかされて。

頭では、信仰による義とわかってるんですが、
日常生活では、どうしても自分の努力による
義になっていて。
そこが自分の弱い所と以前から教えられて
いたのが、また教えられて。感謝でした。

悔い改めて、その時に、ああ、イエス様の
十字架によって、自分はすでに義とされて
いるということに、ほんとに安堵が来て。
すごく恵まれました。

そして、その傷ついた状況を考えていた時
に、自分の内に、相手に好かれたい、よく
思われたいとの思いがある事に気づかされて。

自分の気持ちや態度やらを、神様の御心へと
教えられ、変えられて本当に感謝でした。

それを言われる事が必要で、それでないと
気づけなかった、すべてが神様の配剤、
取り扱いだと、心から感謝しました。

言われたことへの怒りも、全く消えていて、
主の御名を誉めたためました。

日常生活で、起こる出来事を通して、自分自身
の内側や、霊のことを教えて下さることが
本当に感謝です。」

2012年09月15日(月)
  「感謝」

「祈りって、不思議で、ほんとに聞かれますね。
神様が、祈りに働いて下さること、ほんと実感
させられます。

介護に行く時に、祈って、出かけると、良い介護
ができるんです。
不思議にトラブルもなく、良い雰囲気で、言葉も
助けられ、守られ、何だか良い関係で、気持ち
良く終わるんです。
帰り道も、ほんわか気分で、行って良かったと、
感謝でいっぱいになる。


それが、朝、バタバタして、祈らないで行くと、
ギクシャクギクシャクして、かみ合わず、良かれ
と思うことが、裏目に出て。
相手も愚痴三昧になって、聞くのが嫌になり、
正そうとしてしまう。
そこで、又、間違いに気づき、自己嫌悪にな
って、帰りは暗たんたる気持ちで、行かなけ
ればよかったと。

こんな繰り返しを通して、私に、神様が生きて
おられること、共におられること、神様に頼ること、
祈ることを、教えて下さってるんですね(^^)」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

種蒔きのたとえで、「道ばたに落ちた種」、
道ばたは固くて、種が土中に植わらない。

固い心に、種である御言葉は入らない。
はじき返してしまう。

「私、長い間、それでした。心が固くて固くて、
カチカチでした。
教会来るのはいいし、御言葉聞くのも嫌で
ないから、聞くのですが、全然入ってない。
自分が入れないんですよね。

ほんと映画のスクリーンを観てるようで、全くの
傍観者なんですよ。他人事で。
物語を聞いてるような感じで。
自分のこととして、というのが見事に無い。

コンクリートみたいに、カチカチ、コンコンと
音がするぐらい。

自我がものすごく強くて、時間が必要だったん
ですよねえ。長かったですよねえ(笑)
自分が救われたことが奇跡です。
皆さんが祈って下さったからですよねえ。

神様知らなかったら、どうなっていただろうと
もう感謝、感謝で、感謝しかないです!!」





2012年09月12日(水)
  「霊の敵から」

サタンの学びをしていた。

「思い」に働いて来ること。思いを絶えず吹き込んで
来ること。
巧妙に、狡猾に働いて来て、ストレートになど来ない。

Aさん「あ!ずうっと思いがぐるぐるしているんです。
ネガティブな思いにずうっと支配されている。
朝から晩まで、思いが来る。これがサタンなんですね!

わかりました!サタンです!言葉ですよね!言葉が
ずっと思いに来る。サタンが語りかけて来てるんですね。

心が重苦しくなって、うっとうしくなって、気持ちが
ふさいでくる。まさにサタンで、神様から離すためなん
ですね。

その、ある言葉が入ると、恵みが消えて、感謝が無くなり、
気持ちが滅入って来る。そして、ずうっとその思いに支配
されてしまう。

あ、サタンにやられてます。その言葉が一人一人違って、
その人の弱い所に、的確に来るんですよね。

来てます。来てます。今日はっきりわかった!
悩んでいたんです。嫌な思いがずっと来て、言葉で
来るんです。それに引きこまれて、どんどん気持ち
が暗くなって。サタンなんですね。

拒否すればいいんですよね。同意しない。受け入れない。
でも、すっきりしました」


「私も、サタンがわかります。以前に、神様が祈りの
中で、自分の賜物をはっきりと示して下さったんです。

それで、その賜物を用いて行きたいと祈っていると、
あれよあれよと、どんどん目の前に道が開かれて、
賜物の仕事に就けたんです。

神様から与えられた賜物で、喜びがあって、
どんどん生かして行かないとと思うと、そっちに
心が行ってしまって、心が奪われてしまって。

いつしか方向性が違って来ていることに
気づかせられて。

神様の栄光のためじゃなくて、自分の栄光の
ためにすり替わってしまっていて。
自分が認められ、評価され、自分の充足感得る
ために、自己実現に変わってしまっていた。

サタンは、神様から与えられたものを、神様の
ためでなく、自分のためにさせたらよいわけです
よね。
サタンの攻撃で、誘惑ですよね。

今一度、神様に立ち返って、明け渡して、
神様の栄光のために用いて頂きたいです」




2012年09月10日(日)
  「思い煩い・・人の目」

Aさん「日常生活で、『思い煩い』が来る時のことを
色々考えていたんです。

問題が来た途端、神様は飛んで、まず、「どうしよう!」と、
あれこれ、自分で考える。ああでもない、こうでもないと(^^;)

でも、平安が全く無くて、不安といら立ちで、心が悶々になる。

神様が飛んでいることにはは、気づかない。
「ああ、どうしよう!」で、パニックになってるので(^^;)

しばらくして、あ、神様が吹っ飛んでたと気づき、
そうすると、自分が変わって行き、『そうだ!御言葉だ!』
と、『あ!この間与えられたあの御言葉、この御言葉』と
思いが至る。

そして、御言葉を開いて、もう一度そこに立った時、
心が、すうっーと平安になるんです(^^)
御言葉はすごい力があります」


イエス様が「さあ、向こう岸に渡ろう」(マルコ4:35)
と言われて、弟子たちは舟に乗って、イエス様のお伴をした。

途中で大嵐に会い、舟は波をかぶって水でいっぱいになり、
このままなら転覆だ。弟子たちはパニックになった。

イエス様がともに、しっかりおられるのに、右往左往。
目の前の大嵐の状況に、「向こう岸へ渡ろう」との御言葉が
吹っ飛んでいた。
主の御言葉は100%成就するのに、御言葉がどこかへ
行っていた。

御言葉を忘れる時、御言葉が心に無い時、思い煩いや
不安、パニックになる。


「落ち着いて、よく考えると、やっぱり自分を立てて
いる時に、思い煩いが来ることを見せられます。

自分がよく思われたい、よく見られたい、認められたい、
そんな自分がいることに気づかせられます。
自分を守ろうとするから、思い煩いでいっぱいに
なるんですね」


「あ、同じ!人にどう思われるか、人によく見られたい、
評価されたい、それがある時、思い煩いが来ること、
教えられます。
それがあるから、思い煩うんですよねえ。

人にどう思われてもいいと思っていたら、思い煩いが
無くなりますよねえ。」


“人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は
守られる”箴言29:25





2012年09月06日(木)
  「試練が祝福」

Aさんに、非常に厳しい試練が臨んだ。

重大な事態に、なすすべなく、何もどうにもできない。
不安で、心配で、心が張り裂けそうで、いても立って
もおれない。

眠ることができず、食事も咽を通らない。
自分でどうすることもできない状況に、ただただ
祈るばかりだった。

祈るほかに、何も出来ることが無かった。
主に拠り頼み、すがる思いで、祈っていた。

すると・・

事態が突然の好転。真っ暗闇のどん底から、
光の中へ入れられたような喜び、安堵。

不安がきれいに取り除かれ、心底の安心が臨んだ。


Aさん「今回、本当に苦しい所を通りましたが、
主が弱い私を側で支え、導いてくださったことが
確信できました。
これからも、様々な事が待ち受けているでしょうが、
一人じゃないと、わかりました。実感できました」

厳しく、辛く、苦しい試練に遭遇するが、実は
その瀬戸際を通されることにより、主がまことに共に
おられる実際を、現して下さりたい。

ギリギリの瀬戸際でないと、拠りすがることが
無いので、神様の実際がわからない。

苦しみは痛くて嫌だけれど、大きな恵みと祝福で
あること、また見せられた。


「いじめに会って、辛い苦しい試練だったけれど、
神様が、乗り越えさせて下さった。
神様がおられなかったら、どうなっていたかわからない。

苦しい中を通ったけれど、その時のことを思えば、
今、少々辛いことなど、どうもないんです。
神様によって、忍耐できるんです。
自分でなく、神様が強めて下さってるんだと
感謝でならない」

「試練の時は、『神様何でよ!これが愛だと言われても!
何が益だ!』と怒りでいっぱいで、なかなか受け止められ
なかった。

でも、日が経た今、少しづつパズルが繋がって、
その事ゆえの大きな益や祝福を見せられています。
その事でなければならなかったと、垣間見せられて
います。感謝できます。
もっともっと更に益を見せて下さるんだと思います」

2012年09月03日(月)
  「主にある交わり」

婦人会で学びと祈りの後、ランチに繰り出した。

「何やらかんやら、何でも、悩みも、思い煩いも、
重荷も話す。人に言えない事も話せる。

外では言えない。外で話すと巡りに巡って、
又、又、ややこしい、大変な事になる。
絶対に言えない。

でも、ここでは何でも話せる。ここから外に
いっさい出ないから安心して話せる。

ここだと誰にも裁かれず、皆に、受容して聞いて
もらえる。

聞いてもらうと、心がすっきりし、聞いてもらって
いる中で、自分の心を整理できる。
自分で自分の気持ちがわかって来る。
光が見えて、答えが自分で見えて来たりする。

聞いてもらえる場があることが、本当に嬉しい。
ここがあるから、又、帰って、大変な中も、
新たに仕えて行ける」

「こんな場を、長い間、求めに求めていました。
長い間、欲しかったが、どこにも無かったです。

いつも神様にあって交われて、何でも話せて、
聞いて貰えて、御言葉を心に、来た時と全然
変えられて新たに帰れるんです。
私にも避け所ができました。嬉しいです」

「自分の悩みが話せるし、又、皆が、日常生活で
教えられたこと、学びの御言葉で教えられた
ことを語り合う中で、すごく教えられて、自分
に適用できる。楽しいし、恵まれる。」


お腹を抱えて大笑いしながら、失敗談を語り合い、
又、深刻な辛い話を、皆で聞いて、祈りで共有
できる。
交わりに、御霊が働いて下さっていることを
感じ、いつも心恵まれ、楽しく帰れる。

どこにも無い、神様の与えて下さった
癒やしの場に感謝。




2012年09月01日(土)
  「嬉しくて、嬉しくて」

Aさん「日常生活で、些細な事なんですけど、
祈りながら生活していると、あ、神様だ、と。
すごく嬉しくなります。

スケジュールを立てる時も、あれこれ考え
ると、これをここに、あれをここに、いや、
逆にと、どれがいいのか、全くわからなく
なる。

そこで祈って、神様に委ねて、立てて行くと、
これはここ以外に時間は取れない、あれは
ここしかダメと、不思議に、ピッタリと、はま
って行くんです。

そして結果的に、見事にすべてが完璧にはま
っていて、神様の素晴らしさを見せられて、
嬉しいです!祈ると全然違います。

時間が無くて、でも、祈って買物に行ったんです。
すると、その時でしか買えない物が手に入って
時間も無い中で、欲しかった物が、すべて購入
できてほんとに驚きでした。
祈りの祝福感じて嬉しかったです。

ほんとに些細な事に、神様を知れて嬉しいです。
生活の中に、生きて働いて下さっていることが、
すごく嬉しい。
神様と一緒に生きていることの実感が来ます」



Bさん「この間、夫に不満が爆発してしまって。
ああして欲しい、こうして欲しいがあって。
色々、言葉も腹が立つことがあり、ちょっと
した事がきっかけで、もう大爆発。

普段から不満に思っていること、傷ついた
あの言葉、この言葉、過去の嫌な事、
もう出て来る、出て来る、ぶちまけてしまって。

夫はびっくりして、何も言わず、ただ唖然と聞いて
いて。

普段、神様に従いたいと思っていて、自分は
自制しているつもりが、自分の力で我慢して
いたと思う。
御霊の自制や忍耐でなく、ただ抑え込んで
我慢している。

抑え込んでいるだけで、鬱積、不満、腹立ち
があるので、許容量オーバーになると絶対に
爆発する。
これは御霊による歩みでなく、自分の力で歩んで
いると思った。自分の力で神様に従っている」


Hさんが「我慢」は「自我の“我”」と「高慢の“慢”」
神様に頼らず、神様を横において自分がしている
と言っていたが、その通りだね。

「でも、神様はあわれみ深くて、大失敗を益として
下さって。夫は変わり、何か気を遣ってくれている
のがわかり、愛情も感じ、今、夫婦とてもいい感じ
なんです(*^_^*)

二人の時間を持って、とても楽しんでいます。
本当はいつも夫婦の学びで学んでいるように、
コミュニケーションとして、普段から率直に気持ちを
伝えたら良かったんですよね。

でも、夫と心と心を通い合わせ、絆深めて行き
たいです。夫婦の間を大切にして行きたいです。

“雨降って地固まる”みたいに、ほんとに神様は
益として下さることに、感謝で感謝で。

今とても嬉しくて、嬉しくて、喜びがあります」

神様が生きて働いて下さっている。その神様に
触れると、喜びが湧き上がる。