2013年04月14日(日)
  「自分の力」

「神様を知って、まだ最初の頃は、よくわから
なかったですが、いろんな事に気づかせられ
ます。

もうとにかく自我が強いです。どこまでも、
強い強い自我があります。

世の中では、余り上の方に立つと、目立って
しまうからと、そこそこの所にいて、そして
腰を低くしている自分は謙虚だと思っている、
これ自我ですよねえ。

上座には決して座らず、下座でウロウロし、
譲り合うが、すんなり上座に座る人を見る
や、何という人だと、内心裁く。
自我ですよねえ。

ストレートに、偉ぶっている人の方がまだ
正直ですよねえ。

人を愛せない事はわかるのに、どうしても
頑張る。
自分の力で愛そうとし、何とかしようとし、
もがきに、もがくが、愛せない事がわかる。

でも、頑張れば、自分で何とかできると思って
いる。だからやってみるんですよねえ。
これも自我で、すごい高ぶりですよねえ。

愛せないと頭でわかっても、何度も何度も、
同じ事を繰り返している。

愛そうとし、出来ない。又、愛そうとし、
出来ない。ほんとに出来ないですね。

出来ないのに、自分でやろうとする。
強い自我です。

自分でやって、自分が認められたい、評価
されたい。神様の栄光など、どこにもなく、
自分の栄光、自分の賞賛、すごい肉で、自我
です。

結局、神様に頼ることをせず、自分でしよう
とする、これが肉ですよねえ。

“律法によって義と認められようとしている
あなたがたは、キリストから離れ、恵みから
落ちてしまったのです”ガラテヤ5:4


心に裁く思いや、憎しみやら、怒りが出て
来ると、自分の力で、押し込めたり、
我慢したり、思わないようにしようとする。

それを自分の力でしているので、まずます
泥沼にはまって行く。これも自我ですよねえ。

思いも、どうにも出来ない事がわかります。
自分ではどうにも出来ない。

でも、それを神様の所へ持って行く時に
変えられることを経験します。

自分で、どうにかしようとせず、出来ません
と認めて、神様に持って行く時、変えられる
ことがわかります。





2013年04月12日(金)
  「自分が変えられる」

「しばらく病にあった夫が回復して、
治った途端、もう出払ってしまって、ほと
んど家にいない。

取り残されたようで、寂しい思いがあり、
いいよね〜なんて、ぐじぐじ思ってたん
ですが、

それが、祈っていると、夫は治って、
よほど嬉しいんだろうな、弾けてるん
だろうなと、喜ぶ者と共に喜びなさいと、
自分の思いが変えられていたんです。

神様を知る以前の自分と、はっきり変えら
れていて、嬉しかったです。神様です。

日常で、ネガティブな思い、思い煩いや
不安や、恐れや、妬みや、羨望や、
そんな肉の思いが、神様を見上げると
変えられて行く。

神様知る以前には、絶対に無かったこと
で、思いが変えられて行くなど、ほんとに
神様のみわざですよね。
感謝で嬉しいです」

「どうしたらよいか全くわからない問題が
あり、どうしようもなく、途方に暮れま
した。
幾ら考えても、解決の方法がなくて。

とにかく祈ろうと、神様のもとに持って
行き、祈り続けていたんです。

すると、不思議です。良い方法が導かれて、
道が開かれ、良い解決が与えられたんです。
もう困り果てていたので、ほんとに神様
です。心から感謝でした。

祈っていると、いつも何とかして下さって、
良きに導かれて、感謝でならないです。
解決を下さるんですねえ」


“立ち返って静かにすれば、あなたがたは
救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなた
がたは力を得る”イザヤ30:15

窮地に陥った時は、とにかく祈れば良い
と、ほんとに神様がおられること感謝です。

日常の中で、神様が働いて下さっている事
が感じれて、とても嬉しいです」


「次々と、試練が来て、胸がふさがれるよう
で、苦しくて、もう飲み尽くされてしまって。

何もできず、動けずに、ただしゃがみ込んで、
頭をおおっているだけの、自分の姿が見せられ
ました。

神様に向いて、一つ一つ願いを告げ、自分の
気持ちを告げて、祈って行くことをしたいと
思います。一つ一つ委ねて行きたいと思い
ます」

“ハンナは立ち上がった。
ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って
激しく泣いた”

苦しみと辛さに打ちのめされていた、ハンナは
祈りのために立ち上がった。
祈りの中で、ハンナ自身が変えられて行った。

祈りに持って行く時、自分自身が変えられて
行く。





2013年04月10日(水)
  「一粒の麦」

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、

それは一つのままです。

しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」

ヨハネ12:24



この箇所を読んでいた時、ふと、かつて出会っ

た、非常に印象深い婦人のことを思い出した。



子供さんを事故で失ったことを話して下さった。

驚いて、「どんなにか悲しかったでしょう」と

言うと、「はい。当初は。でも、主が平安を心

に与えて下さって、心が本当に守られたんです。

感謝でならないです。



子供の補償金が入った時、主に祈りました。

子供の死をむだにしたくなかったので、神様の

ために用いて欲しいと祈り、

願いました。



祈りの中で、子供たちに福音を伝えられるような

集会所を作りたいと思いました。

願いが叶えられて、集会所が出来て、牧師先生に

来て頂いて、子供たちのために御言葉が伝えられ

ています。

次々と多くの子供たちが集ってくれて、子供だけ

でなく、それが大人の方々も、そこで救われたん

です。

神様が豊かな実を結ばせて下さって、本当に慰め

られて。



もうただただ感謝で、本当に感謝でならないんです。

感謝でいっぱいなんです。」



その方と話していて、本当に驚いた。感謝が心から

溢れて出て、心底、感謝しておられること、心底、

平安でおられることが伝わって来た。とても神様を

感じ、もう驚いて、恵まれた。



「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと

は違います」ヨハネ14:27



世には無い「わたしの平安」を下さる時に、どんな

中でも、心が守られることを見せられた。




2013年04月04日(木)
  「自分の問題」

「対人関係で、うまく行かずに、ぎくしゃくして、
ずっと相手を裁いていた。
相手が悪いとしか思えなかった。
相手しか見えなかった。

そのため、ずっと批判的思いが心にあるので、
自分自身の心がしんどくてたまらなかった。

いつも心重く、堂々巡りで、同じ所をぐるぐる
回っているばかりだった。

しかし、そのしんどさは相手が悪いから
来ているとしか思えなかった。
ますます相手を責めて行く。

主のもとに、祈りに持って行った時に、少しづつ
御霊が気づきを与えて下さった。

これは『自分の問題』だと気づかされた。
相手の問題でなく、自分の問題。

そこに思いが至った時に、解決が来た。
相手を裁き、自分が苦しくなり、
又、自分が自分を裁いて、自己嫌悪
にも陥る。

自分で自分を窮屈にし、がんじがらめにし、
締め付けて行く。
その間、平安が全く無い。心重く、暗い。

自分の裁く思い、敵対心を悔い改め、
相手を赦すことを決心した。
赦しは、決意で、選択だ。
赦そうと、御霊に委ねた。

その時、平安が来た。裁く思いが消えた。
心にあれやこれやのネガティブな思いが
無くなった。
心がすっきりし、神様のみわざだった」


2013年04月03日(水)
  「恵みの下」

「できない自分が、神様から愛されていることが、
どうしてもわからない。
信じられない。信じていない。

わかるようされたい。どうしてもそこを知りたい。
御霊様が教えて下さるよう祈ります。

自分は律法で歩んでいて、自分の力でやって
いるから、出来ないと落ち込み、出来ると優越感
に浸る。

そして、しんどいのに自分は頑張っているから、
頑張っていない、していない人を見ると、腹が
立って、必ず裁く。

恵みの下でなく、律法の下にいるんですよねえ。
だから、神様の愛が頭でしか、理屈でしかわからない
祈って行きます」

「祈り始めて、同じパタンで落ち込んだ時に、
自分がダメ人間で、真っ暗で、すべてがネガティブ
にしか捕らえられなくなった中で、
『いやそうじゃない、自分は愛されてるんだ』と
初めて思えた。
実感伴ってではないが、初めてその思いが来て、
奇跡だと思った」


「良くなったら、霊的になったら愛して下さるんじゃ
なくて、このままの醜い、自己中心な自分を愛
して下さってると思う時、ものすごく嬉しくなる。
心に灯がともって、あったかくなる」

聖書を読んで、祈ったら、愛して下さるんじゃ
なくて、聖書読めない、祈れない自分、祈れない
じゃなくて、祈ろうとしない自分。

でも、そんな自分を、今、このままで愛して下
さってると思うと、心があったくなって、喜びが来て、
ああ、聖書読みたいな、祈りたいなと思う。
ここに恵みがある」


「Bちゃんがいつも言っていて。
昼間のちょっと空いた時間に、聖書読もうと
思うけど、すぐウトウト眠ってしまう。
又、読もうと思うのに、寝る」

でも、大きな大きな愛で、愛して下さっている。
神様のご性質が愛なのだから、この愛は不変だ。

こんな自分を変わらずに愛して下さっていると思う時、
じゃあ、もっと好き勝手しようなどと、決して思わない。

神様の愛に応えて、生きて行きたいと、自由意志で、
自発的に思う。御霊が働かれている。喜びがあり、
生き生きと生きることができる。

良い行ないをして、受け入れてもらおう、愛して
もらおうとするなら、律法だ。

そしてそれなら、キリストの十字架が無意味になって
しまうことであり、キリストはいたずらに死なれた
ことに自分がしてしまう。


“私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法
によって得られるとしたら、それこそキリストの
死は無意味です”ガラテヤ2:21

2013年04月02日(火)
  「貪欲と満足」

雑談をしていた。

「大金持ちが、お金が無い、お金が無いと言うよね」

「そう!財産あるのに。意味わからんよね」(笑)

「“貪欲”というのは、幾らあっても、足らないんだよね。
これでいいという事がない。満足することが決して無い。
更に持ちたい。際限無く得たい。
金額の問題でなくて、心の問題だよね」

“しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を
受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何
一つ持って出ることもできません
衣食があれば、それで満足すべきです”Tテモテ6:6

神様にある時、満ち足りる心を下さる。どんな中でも
不安や恐れでなく、平安を下さる。何という有難い
恵みだろう。

どんな中でも、祈ることができるので、委ねて行ける。
祈れるなどとは、何という恵みだろう。
気持ちをことごとく告げて、吐き出して、主のみ思い
に変えて下さる。祈ると、神様視点に立ち返れる。

愛されていること、目に留め、心配して下さっている
こと、すべての必要は与えられること、
“感謝をもって、ささげる祈りと願いによって、願い事
を知っていただけること”
そうする時、平安に満たされること。
いつも、そこに立ち返れる。


「時々あるよね。極貧の生活をしていた人が、何千
万という大金を畳の下に敷いて死んでいた、と。

不安で、不安でしようがない。老後のため、70才に
なった時のためにと思い、食べる物も食べないで、着る
物も着ないで、始末に始末して貯めに貯める。貧しい
生活をして、ひたすら貯蓄する。

しかし、チマチマと貯めに貯める生活をして、70才
になったら、なったで、今度は80才になった時のことが
不安で、不安でたまらない。

更に、食べる物も食べず、ひたすら貯える。
次は90才になった時のことが不安で・・、際限がない。
常に不安で不安でたまらないから、将来のために
貯めるのみの生活」

どこまでも不安なので、ただ貯め込むのみで、使うこと
をしない。死んだ後、それは誰のものになるのか。

神様は、神様のお心に従って、使うように与えて下
さっている。
神様の栄光のために使う時、自分も、人も喜びが与え
られる。何と幸せで喜びある充実した人生だろう。

「聖書に出て来るよね。
“おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。
そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれの
ものになるのか”

神様を信じないなら、信じるのは自分であり、お金
なので、どんなにか将来が恐ろしくて、不安だろうね」


神様を信じて生きることの幸せ、生かされていること
の喜び、感謝、恵みをしみじみと思う。



2013年04月01日(月)
  【弱さのうちに」

「よくサタンが来るのが、性懲りもなく、同じ失敗
ばかり繰り返して、お前はダメだ、ダメだと。

そして、どうしても自分の力で、御言葉に従おうと
頑張る。“御霊によって”が、なかなかわからなくて、
学びを通して、頭ではわかるが、実質的に、霊的には
わかってなくて、どこまでも自分の力で頑張ってる。

どんなに従おうとしても、できないことがわかって
来る。

でも“私の肉のうちに善が住んでいない”ローマ7:18
とあって、自分の力では、肉では行なえない。はなから
善が無いのだから。

そこで、落ち込むのは、自分で出来ると思って
いるからですよね。
『その通り。私の内には善は住んでいない』と認める。
そして、『自分には出来ません』と御霊に明け渡して
行くことですよね」。

「クリスチャン生活何年も経て、ほんとに自分の内
には、とことん善が無いとわかる。幾ら頑張っても
幾らやってみても愛せない。何年も〃も葛藤して
やっとわからされた。

身体もあちこちガタガタで、ボロボロで、弱さの極み
にいた時に、ほんとに善が無いと認めた時、同じ病
にある信仰の友を病院に訪ねる機会が与えられた。

自分はもう弱さのどん底で、しかし、同じ病にある
気持ちはわかるので、手を取り合った。

どん底の弱さの中で、何を励ませるのだろうかと、
しかし、御霊に強く促されて、行った見舞いであった。
が、こちらが励まされ、慰められた。心温められた。
相手も慰め励まされたと喜んでくれた。

その帰り、ひとりでに、涙が溢れて来た。悲しみや
辛さの涙でなく、心に暖いものが溢れ出て来た、
まさに恵みの涙だった。
弱さの極みで、神様に触れて、神様を感じて、
恵まれて恵まれて溢れ出た涙だった。

神様に触れた初めての経験だった。
とことん自分に善が無いことを認め、弱さのどん底
だったが、神様に従い、訪問し、交わった時、
御霊に触れた。神様と霊と霊が触れた。

弱さの中に、恵みは十分。弱さの内に完全に働
かれる神様に触れた」

“しかし主は「わたしの恵みは、あなたに十分
である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに
完全に現われるからである”Uコリント12:0