2013年07月22日(月)
  「変えられないもの」

平安の祈りがある。

「神様、どうか私にお与えください
変えられないものを 受け入れる心の平安
を変えられるものを 変える勇気を
そして、その違いを 見極める知恵を」


変えられるものは、変えて、変えられ
ないものは受け入れる。

その違いが大切だ。


Aさんが、長い長い間、変えられない
ものを変えようと、悪戦苦闘し、
心もずっと苦しくて、辛い歳月だった。

何とかなるのではと、何とかしようと
ありとあらゆる努力もした。
しかし、何をどうやっても、何も変わ
らず、全く変わらなかった。

不毛の戦いだった。
自分で、どうにかしようとしたが、
やっと、変わらないものを、変えよう
としていた事がわかった。

神様が教えて下さった。
これは変えるべきものではなく、受け
入れるべきものだと。
初めてわかった。

その時、自分の心が変わった。
すべては神の御手から来ていて、
ご計画の内であり、神の支配の中
にあるなら、必ず良いことに導いて
下さる。
だから、信じて行こうと思えた。

初めて心に休みが来た。


人と過去は変えることができない。
自分を変えることはできる。

人と状況ではなく、自分を変えようと
して行く時に、初めて平安にたどり着く。



2013年07月19日(金)
  「どこにおいても主を認めよ」

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじては
ならない。主に責められて弱り果てては
ならない」ヘブル12:5

「あなたの行く所どこにおいても、主を
認めよ。そうすれば、主はあなたの道を
まっすぐにされる」箴言3:6


試練に、主を認めて、軽んじてはならない。
試練を通して、何を教えようとして下さっ
ているのか、祈って、受け取って行ける
ように。


「苦しい事が臨むと、自分は諦めてしまう。
もういいやと思ってしまっている。

せっかく教えようとして、試練が送られ
ているのに、流してしまっている。
神様にも、問題にも、向き合っていない。

神様にちゃんと向いて、この問題を通して、
何を教えようとして下さっているのか、
問うて行きたい」



「試練が臨むと、ただ頭をおおって、うずく
まっている自分に気づかされる。

祈ることもせず、主に叫ぶこともせず、ただ
何もどうにもできず、うずくまっている。
主に責められて、弱り果ててしまっている。

そうでなくて、一つ一つ、しっかり受け止めて、
神様に祈って行くことを教えられる。

耐えられない試練はなく、脱出の道もあり、
自分に耐えられる試練を量って与えて下さっ
てるんですよね」



「自分は、試練が来ると、砕かれて、痛んで、
泣いて、主を認めて行く感じです。

その度に、何もできない者であることを、知ら
されて、拠り頼むようにして下さってると
思う。

でも、自分が砕かれて、弱さがわかると、家族
の弱さも理解することができて、すぐ祈りに
もって行けるようにされていて、感謝です。

このところ、ずっと身体のあちこちが痛み、頭痛、
めまい、転んだ打撲の痛み、それに抱えている
持病・・、身体はボロボロですが、家族が身体の痛み
を訴えると、すぐ反応し、対応してやれて感謝です。



「でも、今までの試練を振り返ると、全部導かれ
て来て、今があって。厳しかった試練も思い出し
ますが、良かったと思えます。

あって良かった。ほんとに試練によって、高慢から
守られるんですねえ。
あの時の試練が無かったら、今頃、どうなっていた
か、道を間違って、恐ろしい事になっていたと
思います。
そして、過干渉な親になっていて、大変な事にな
っていました」


「神様知らなかったら、絶対に離婚してました(^^;)
神様に従うことによって、本当に夫婦が建て上げ
られて、神様のみわざです」

2013年07月17日(水)
  「自分の思いでなく」

信仰生活で、マイナスの、不意の出来事が
時々起こる。
例えば病気や、けがや、経済的苦境、悩み
の対人関係など、一見、悪い事なので、
あって欲しくない事なので、

「何で?何で?」となって、落ち込んで
しまう。

Aさんが、不注意で、ちょっとミスをして
しまった。
おおごとにならずに済んで、幸いだった。

神様は何を教えて下さってるんだろうと
考えた。


ヨセフは、兄たちに妬まれ、苦境に陥れ
られた。
兄たちの悪意であったが、それをも神は
良きことのための計らいとされた。
人の悪意による攻撃さえも、良きことに
される。
結果的に、ヨセフは総理大臣とされ、飢饉
の最中に、家族の命を救うこととなる。

主はすべての事を働かせて益として下さる。
また、人の邪悪な攻撃さえ、良きことの
ための計らいとされる。

そうであれば、どんな状況の中でも、神様
を信じて、信じて行けば、平安にされるはず。


でも、一見、悪い事、マイナスの事態
に直面する時、いら立ったり、落ち込ん
だり、不満でいっぱいになってしまう・・

なぜかと思うと、それは自分の思い通り
でないから。目の前の状況が、自分の思う
思いと合わない、違うから。

自分の思い通りになる事が、快適で、
満足で、幸せだと思っている。

マイナスの事態は、自分の思いに合わ
ない。正反対なので、幸せに感じられない。

つまりは、どこまでも、「自分」が中心に
あって、強い「自分の思い」があるからだと
教えられた。

自分を明け渡して、委ねて、自分の思い
でなく、神様の御心を尋ね求めて、
歩んで行きたい。

と、語り合った(*^_^*)


2013年07月16日(火)
  「思い通りにならない」

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」

目の前に起こる一つ一つの出来事は、偶然では
ない。主に偶然は無い。一つも無い。不運なの
ではない。サタンにほんろうされているのでも
ない。

一つ一つに、主からの御心があり、教えよう
とされている事がある。

偶然、単なる出来事、不運にしてしまうと、
何一つ学ぶことができず、成長もない。

Aさんが、そんな学びをした後、

「思い通りにならない事が起こるんですが、
でも、神様から来てるんだと、受け取る事
ができて感謝です。

家族で行楽に出た時に、忘れ物をして、
ああ!と、がっかり落胆。
ギリギリまで覚えていたのに、出る間際に
バタバタしてしまって。
何で、覚えてなかったのかと、いら立ちも
来る。

でも、そこで、神様を仰げたんです。
この事も、“すべての事について感謝しな
さい”で、感謝しようと、心で祈ったんです。
すると、心が変えられて、落ち着いたんです。

夫も責任を感じていて、でも「いいよ」と
言って上げられた。
その後、とても楽しい家族団らんが
与えられ、家族で楽しめて、ほんとに
感謝でした。

あの時、気持ちを引きずっていたら、
せっかく与えられた団らんを、ぶち壊し、
楽しめなかっただろうと、本当に神様に
感謝でした」

・・・・・・・・・

「次から次と、思い通りにならない事
が起きて。

不注意で、手を切ってしまった。
病院へ行くと、ひどくはなくて、感謝
だったのですが、でも、水は使えない
ので、不便で不便で。

水を使う時は、ビニール袋を手首ごと
かぶせて、台所仕事もお風呂も、
もう大変で(^^;)

そこに子供があせもがひどくて、病院
に連れて行くと、しょっ中、風呂に入
れるようにと。

何で、この時に、こうなんだと(^^;)


その後、車のバッテリーが上がってしま
ったのか、キイを幾ら回しても、エンジン
かからず。
何度も何度もやっても、びくともせず、
どうにもならずで。

途方にくれて、家族に来てもらうよう
連絡を入れて、待ってたんです。

そして、到着してくれて、繋ぐ準備を
してくれている時、もう一度キイを回して
みると。
何と、エンジンがかかったんです!
到着した途端に(^^;)


“あなたの行く所どこにおいても、
主を認めよ”

ずっと考えて、これらはすべて神様から
来ていて、自分に教えようとして下さ
っていると。

自分の無力を教えられ、自分の思いと
自分の力で、自分の思い通りにしたくて、
歩んでいる姿を見せられました。

“心を尽くして主に拠り頼め。自分の
悟りに頼るな”

神様に頼って、御心に従って歩んで
行きたいです」


「思い通りにならない事は、神様が立ち
はだかって下さってるんですよね。

肉は、どこまでも思い通りにしたいので。
神様を認めて、自分の思いでなく、神様
に従って行きたいです」

“そうすれば、主はあなたの道をまっすぐ
にされる”








2013年07月14日(日)
  「感情によらず」

Aさん「御言葉に従ったら、平安を経験した
んです。嬉しいです。

日常生活で、いろんな事態が目の前に来る。
些細な事もあるんですが、

ある事態が来た時に、神様に祈って、『どうで
あれ、御霊の導きのほうを、御心を、選択します。
そう思っています』と、神様に委ねたんです。

すると、心がすうっーと平安になったんです。
その事に対する心配も、思い煩いも全く無く
なって。ずっと無いんです。心が平安で。
初めての経験なんです。ほんとに嬉しくて、
感謝でならないんです。

今まで、どうしても出来なかったのは、感情
が伴わないと、ダメだと思っていたからなん
だと。
感情は全く思うようにならないし、ついて
来ないし、身動き取れなくて。

感情は横に置いておいていいと、意志を向け
て従えばいいと学んで、いいんだと思えて、
そのようにしたら、本当に心が変えられて、
平安にされたんです。

今は、小さな事から、こうやって平安にされて、
信仰の練習なんだなと。
今後、大きな事が来た時にも、平安でおられるん
だなと、感謝です(^^)」



「よくよく日常生活見てみると、“感情”に
振り回されてる。天気が良ければ、気分良いし、
雨が降れば、うっとうしいし、状況、環境に
よって、気分がコロコロ変わる。

嫌なことは、嫌で、感情が嫌なので、したく
ないし、そこで又、気持ちが沈むし、感情で
生きてるなあと」


「朝、起きた途端、鬱っぽくなるんです。
何か、感情が沈んで、重〜くなって。
朝から、しんど〜い感じで、気力が無くて、
いつもこうなるので祈ったら、サタンだと
教えられました。

そして、感情に依存しているので、感情に
左右されてしまうこと。
感情を置いて、意志で御心行なってゆく
ことを決心して、生活して行った時に、
平安になったんです」


感情によらず、意志で御心を行なってゆけ
ばよいので、気持ちが楽になる。


2013年07月10日(水)
  「与えられる」

交わりの中で、祈りが答えられる話をしていた。

Aさん「海外宣教地訪問に行く時に、渡航費用
を祈っていたんです。
必要は絶対に与えて下さるはずと、祈り続け
ていた中、日にちはどんどん迫るが、まだ与え
られていなくて。

でも、今までずっと与えて下さったから、与
えて下さると、待っていようと。

渡航日が目前に迫った時に、スーツケースを借
りに、おばあちゃんの家に行ったんです。
すると「お小遣い」とくれて。
全くの想定外で、すべての必要が備えられて、
びっくり感謝し、神様の御名を讃えました」

Bさん「Aさんて、いつも与えられるよね(笑)」

「お金が全然無くて、必要のために祈っていたら、
机から全然忘れていた商品券が出て来て。
又、お金が無くて、祈っていたら、昔の貯金箱に
お金が入っていたり。もう数え切れないほど」

「必要が与えられるように祈ってる」という
Aさんに、Cさんも「大丈夫ですよ。Aさんはいつも
与えられるから、また、その辺から出て来ますよ」
(大笑)


私も祖母から与えられたことがある。
聖書セミナーの集いが、夕に大きなホールで、
数日間通して開かれた事があった。
仕事の帰りに職場から直行。とても恵まれて、
喜んで参加していた。
献金があり、財布に大きな札と小銭があった。
心恵まれて、献げたいと思った。しかし札を
献げたら、残りの小銭で帰れるが、翌日の電車代
がもう無かった。
が、そうしたいと思ったので、献げた。

そして、その日帰宅すると、祖母から手紙が
来ていて、何とお小遣いが入っていた。
それで、翌日も集会に行くことができた。
神様を感じて、嬉しかった。

もう一人の祖母からも。
神学生の頃、貧学生で、よくお金が無いことも
経験した。
勿論、誰にも言わずに、祈っていた。
いつも、必ず必要が与えられた。
神様は生きておられる。

ある時、お正月だったが、聖会があり、出かけ
なければならなかった。
その時、全くお金が無くなり、電車賃が無い。
神学生でどうしても出席しなければならない。
冬休みにバイトをしているから給料は入るが
もっと後だ。

でも、祈っていて、これはどうしても必要で、
神様はどんな手段かで、絶対に与えて下さる
はずと思えた。
生涯を献げて、会社を辞めて、導きに従って
神学校にいる。自分の思いでこの状況にいる
わけではない。

絶対に奇跡を持ってでも与えられる何だか
確信が来て、「神様、電車賃がありませんが、
あなたを信じて、駅に行きます!」と自分の
部屋を出た。

すると、玄関で、祖母に呼び止められ、
「お年玉」とにっこり笑顔で、渡された。

そんな神様からの恵みを、ふと思い出した(^^)


2013年07月08日(月)
  「委ねて従う」

礼拝メッセージが、カナの奇蹟の箇所だった。

結婚式で、ぶどう酒が無くなった時に、まず
母マリヤは「イエスに向かって『ぶどう酒が
ありません』と言った」

周囲の人々に言ったのでなく、自分で立ち上が
ったのでもなく、店に買いに行ったのでもなく、
「イエスに向かって」困難を告げた。

主に聞いていただいて、主にすべて委ねた。

そして、しもべたちは、主に言われた通りに
従った。水がめに水を満たすなど、無意味な
ことに思えるところ、主を信じて、言われた
その通りに従った。

すると、奇蹟が起こり、その水がぶどう酒に
変えられた。
そして主の栄光が現わされ、弟子たちは主を
信じた。


Aさん「今、自分には、目の前に問題があり、
それだけを見ると、心が暗くなり、悩んで
しまう。
また、過去の失敗まで、サタンが責めて来て、
ひどく落ち込んでしまう。


でも、メッセージの通り、現状を神様に祈り、
問題を委ねて、目の前の一つ一つに従って
行くなら、神様の栄光を見て行けるのですね。
励まされ、感謝です。


少し前に、大きな経験をしたんです。
長年の難しい問題を抱えていて、もうどうしよう
もなく、何かすればするほど、悪くなって行き、
何のすべもなく、神様に拠りすがり、
委ねて。

対人関係だったので、御霊に示される通りに
一つ一つ従い、誠意を示して行ったんです。

示されるままに次々と従った時、本当に奇跡
のみわざを経験し、相手の心も変えられ、
和解を与えられ、主の栄光を見せられました。

今の目の前の問題にも、同じように、委ねて
御霊の示される通りに、一つ一つ従って
行こうと思います」


2013年07月06日(土)
  「従うこと」

従うことについて学んでいた。
行ないは、聖化の根拠ではないが、
聖化の方法である。
神様の示しに従って、行なって行かない
限り、何も決して変わらない。

幾ら祈っても、委ねても、御言葉を学んで
も、従って行わなければ、成長はない。
中風の人は、運んでもらわなければ、どう
にもならなかった。担架が必要だった。

しかし、主に「起きなさい」と言われて、
担架で、運ばれなければならい身体で、
起きようとした。
その時に、神の力が働いて、起き上がる
事ができた。

御声に従い、起き上がろうとした時に
超自然の力が働いた。

もし、そんな事があり得ようかと、
御声に従わなければ、みわざは無かった。

その時には、状況は担架の上であり、
自分で、何もどうにも出来ない。

自分は徹底無力であるが、御声に従おう
とした時に、奇跡が起きた。



「すべての事について感謝しなさい」

日常生活で、マイナスの事態が起きる。
病気やケガや、経済的苦境、悩みの対人
関係・・

状況的には、全然感謝ではないけれど、
「すべての事について」感謝せよと
言われる。

感情も感覚も、反対を向いているが、
主の御言葉に従って、感謝する時に
自分が変えられて行く。

御言葉に従って、感謝して行く時に
みわざを見る。

Aさん「日常生活で、自分の思い通りに
ならない事が多々あって、イライタしたり、
ガッカリして、落ち込んで行くところを、

状況も、感情も全然感謝ではないが、
神様が感謝せよと言われるので、感謝
しますと言って、感謝して行くと、

それが、不思議に、心が落ち着いて来て。

自分の思い通りにしたい、思い通りでない
と我慢できない、自分の自我の強さを教え
られて、悔い改める事ができて。

すると、丁度学びで、思い通りにならない
事によって、自我が砕かれる事を学んで。

目の前に起こる事は、一つ一つ神様が備え
られたもので、成長のための取り扱いだと。

でも、御言葉に従って、感謝した時に、
そのように導かれたことを思い、本当に
感謝でした」



2013年07月03日(水)
  「ごめんなさい」

「ちょっと失敗してしまった事が
あったんです。
自分のケアレスミスで、一つ間違ったら
大ごとになるところで。
神様に守られて、本当に感謝だったんです。

家族も驚いて、気をつけないと、と思わず
言ったんですが、自分は不満で、『私だって
忙しくて、する事が多くて、大変で・・』と、
言い訳していて。

弁解に終始し、自分を正当化する自分、
すぐに、きちんと自分の非を認められない
自分に、ああ自我だと。
もう、自我の強さを教えられて。

冷静になって、省みる時、ほんとに他の誰でも
なく、自分の失敗で。
神様の前に認めて、悔い改めることができて、
感謝でした。心平安にされました」

「わかる、わかる。自我が絶対に言いたく
ないのが、『ごめんなさい』。
ごめんなさい、だけは決して言いたくない。
良い行ないで、チャラにしてしまおうとする」

「口先で、ごめんなさい、と言っても、
心の奥底では、自分が悪いと思ってなかったり
して、自我はどこまでも強い。
ほんとに、神様ごめんなさいです」


丁度、遠方の主にある友から。

・・・朝礼拝のお話は「ごめんなさい」でした。

神から、食べるなと命じられていた
善悪の知識の木の実を、蛇に誘惑されて
エバが食べてしまい、エバはアダムにそれ
を与え、アダムも食べてしまう箇所だ。

アダムは言い訳タラタラ・・・
アダムとエバはふたりとも「ごめんなさい」と
言えない。

神様はどこまでもやさしい語り口。

幼児と触れあっていて発見した事の中に
「ゴメンナサイ」と「ありがとう」は、教えなければ、
言えないということがあります。

子育ての中でも繰り返し躾けた部分でもありますが、
全ての子に共通した弱点とわかりました。

言い訳や嘘は教えなくてもスラスラ出てくるのに。
そして、振り返れば自分もそうだったこと。

神様に素直に「ゴメンナサイ」と言えるように、
祈ることは大切だなぁとつくづく感じました。・・・


悔い砕かれたたましいを、一番喜ばれる。