2003年07月16日(水)
  「誰かの人生に影響を」

「私達の日々は、誰かの人生に影響を与えて
いる」という言葉がある。
平凡かも知れないし、時々は、むしろ失敗だ
と感じたり、挫折を感じたり、いたずらに労
力ばかりを使っているように、感じるかも知
れない。

しかし、神は言われる。「神は・・至る所で
私たちを通して、キリストを知る知識のかお
りを放ってくださいます」

教会のAちゃんがHPを開いた。宗教を前面
に出すと、知らない人達は、知る以前にまず
引いてしまうので、自然な交流の中で証しを
して行きたいと。クリスチャンだと明言して。

そのAちゃんの、言葉や発想や価値観や態度
に、キリストの香りや温もりが、現れている。
悩みを吐露した人々や、落ち込んで来た人々
をしっかり温めている。
そこで、色々な人達が、勇気づけられ、力づ
けられている。
イエス様の何ともいえない芳香が漂っている。
来た人は、何かわからないが、確かにそこに
ある暖かいものに触れる。

HPを通して、Aちゃんを見ていると、確か
に誰かの人生に、HPを訪ねて来る人々に、
影響を与えていると感じる。

新しい道に進むために、もうすぐ退職予定の
Bちゃんは、職場で一番の若輩、自称「ペエ
ペエなんですよお」。
しかし、イエス様の香りを放てるようにが、
日々の祈り。いつの間にか、職場で、皆に愛
されている。

そして、コーヒーポットを先輩が割ったが、
先輩は知らん顔。Bちゃんが割ったと、皆に
思われた時、「すみませんでした」と、口か
ら自然に言葉が出て来た。

これを通して、正しいのに、十字架にかかる
必要など無かったのに、他人の罪を背負い、
身代わりに十字架にかかられたイエス様が、
心にしみ通った。

私達の心の芯に、生活の真ん中にイエス・
キリストを据えるなら、周囲の人は必ず
何かに触れる。
私達は気づこうが気づくまいが、何かを漂わ
せ、放っている。

どうか、願わくば日々の生活が、人々にとっ
てのイエス様への道案内とされますように。
by 多恵子

2003年07月16日(水)
  「誰かの人生に影響を」

「私達の日々は、誰かの人生に影響を与えて
いる」という言葉がある。
平凡かも知れないし、時々は、むしろ失敗だ
と感じたり、挫折を感じたり、いたずらに労
力ばかりを使っているように、感じるかも知
れない。

しかし、神は言われる。「神は・・至る所で
私たちを通して、キリストを知る知識のかお
りを放ってくださいます」

教会のAちゃんがHPを開いた。宗教を前面
に出すと、知らない人達は、知る以前にまず
引いてしまうので、自然な交流の中で証しを
して行きたいと。クリスチャンだと明言して。

そのAちゃんの、言葉や発想や価値観や態度
に、キリストの香りや温もりが、現れている。
悩みを吐露した人々や、落ち込んで来た人々
をしっかり温めている。
そこで、色々な人達が、勇気づけられ、力づ
けられている。
イエス様の何ともいえない芳香が漂っている。
来た人は、何かわからないが、確かにそこに
ある暖かいものに触れる。

HPを通して、Aちゃんを見ていると、確か
に誰かの人生に、HPを訪ねて来る人々に、
影響を与えていると感じる。

新しい道に進むために、もうすぐ退職予定の
Bちゃんは、職場で一番の若輩、自称「ペエ
ペエなんですよお」。
しかし、イエス様の香りを放てるようにが、
日々の祈り。いつの間にか、職場で、皆に愛
されている。

そして、コーヒーポットを先輩が割ったが、
先輩は知らん顔。Bちゃんが割ったと、皆に
思われた時、「すみませんでした」と、口か
ら自然に言葉が出て来た。

これを通して、正しいのに、十字架にかかる
必要など無かったのに、他人の罪を背負い、
身代わりに十字架にかかられたイエス様が、
心にしみ通った。

私達の心の芯に、生活の真ん中にイエス・
キリストを据えるなら、周囲の人は必ず
何かに触れる。
私達は気づこうが気づくまいが、何かを漂わ
せ、放っている。

どうか、願わくば日々の生活が、人々にとっ
てのイエス様への道案内とされますように。
by 多恵子

2003年01月31日(金)
  人を変えるのは愛

この聖日、海外宣教師のS先生が来教。
宣教活動の報告をして下さった。とても心恵まれた。

以前、全私財を投げ売って、30数ケ国を回り、
貧しい人々を助けながら、福音を伝えておられた
ご夫妻に出会った。
その時、教会の婦人が言った。

「もう、私など水が変われば、すぐお腹こわすし、
ロシアや中国など観光旅行でも行きたくない。それを
辺境のあちこちを回られ、それもリタイア後の60代
で、もう圧倒されるばかりです」

S先生の宣教地、南米の国も、初めて行かれて、生活
習慣、考え方、価値観、文化、何もかもが全く違った。
今まで常識と思い込んで来た事が、全く通じない。
言葉は通じないし、こちらの思いはどんどん裏切られ
るし、悲しみや怒りで、落胆の余り、心が閉じて行く
のがわかった。

神様の前に、そのような状態を祈っていると、自らの
心の内を照らされ、自分のやり方を通して、相手を変
えようとばかりしている事、宣教地の人々への愛が
無い事を示された。

心から悔い改め、相手を変えるのでなく、自分が変わ
ろうとした時、事態が変えられて行った。受け入れる
心が与えられた時、相手との信頼関係が生まれ、心の
通い合いが生まれて来たと。すると、こちらの気持ち
も少しづつわかって貰えるようになって、不思議に
相手も変わって来たと。

お話を聞いていて、人を変えて行くのは「愛」、働き
を成し遂げて行くのは「愛」なんだなあと、教えられる。
「自分が正しい」に立っていては何の働きも出来ない。

あの60代のニュージーランド人のご夫妻は、以前の
湾岸戦争時に、イラクにいたと。クルド人を助けて、
働きをしていた最中だったと。
爆弾は爆発、炸裂し、銃撃戦、あんなに恐ろしかった
事はないと。戦争が始まっても帰国しないで、そこに
いる。

ほんとに「本気」なんだ。「本気」で、主のために生
きている人々を見る時、心が主に触れる。

「今回ねえ、宣教報告に帰りたくなかったほど、
神様が、現地の人々と、すっかり良い関係にして
下さって」と、S先生。
続けて、豊かな祝福がありますように。広島より
お祈りしています。
by 多恵子

2003年01月14日(火)
  潤ちゃんコーヒポット事件!

職場で、一番年下の若い潤ちゃん。日毎に神様からの訓練
を受けている。職場では一番下っ端で上司の命令は絶対的。

ある時、先輩がコーヒーポットを割った。しかし、先輩は
知らん顔をしている。
周囲は何となく、潤ちゃんが割ったと思っている。
「あら?ポットどうしたの?」と聞かれた時、「すみま
せん」との言葉が自然に口から出て来た。全く先輩に腹も
立たず心も静かで平安で、自分でも驚いた。神様を感じた。

ところが、段々と肉の思い、古い性質が頭をもたげて来て
怒りが沸き上がる。自分の名誉を傷つけられた、許せない
思いに、怒り沸騰。でも、人を裁くと、その後を自分の
罪が追いかけて、堂々巡りで、いつまでも平安が無い。

職場で、ふっと鏡を見た時、じゃあ自分は一体なんぼの
もんよ、と思った時、今度は猛烈に自分に腹が立って来た。
何の罪も無いイエス様が、こんな自分のために、罪をかぶ
って死なれた事が迫って来た。

家でも泣いた潤ちゃん、でも、翌日「解決しました!」と
メールが来た。

帰宅して、御言葉に向かっていた時、「ののしられても、
ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになりました」
Tペテロ2:23

「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会って
いる人々は、善を行なうにあたって、真実であられる
創造者に自分のたましいをお任せしなさい」4:19

イエス様のことを思うと、自分の事など何でもないこと
に思えた。イエス様、感謝です!!の思いに変えられた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
潤ちゃんのことを祈っていた時、御言葉が迫って来た。

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前に
おける良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは
喜ばれる事です。善を行なっていて苦しみを受け、
それを耐え忍ぶとしたらそれは、神に喜ばれることで
す。あなたがたが召されたのは、実にそのためです」
Tペテロ2:11

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は
多くの罪をおおうからです」

同時進行で、神様ご自身から教えられて、すっかり
平安になっていた潤ちゃん、全く同じ事を示され
聖霊様の導きを感じる。

「自分は正しい」を追求して行くと、不思議だけど
正しくなくなってしまう。潤ちゃんはコーヒーポット
を割っていなのだから、正しい。
しかし、もっと満ち満ちた、全く別の領域、世界が
あることが私達はそれを知っていることが素晴らしい。

イエス様は正しさだけに立たれていたら、十字架に
かかられる必要は無かった。なぜなら、罪が一つも
無く、絶対的に正しかったのだから。
十字架を拒まれても当然だった。そして、救いも無
かった。

もっと素晴らしい領域があり、それが十字架を負う
ことだと。自分に死ぬこと、みこころに従うこと、
それが十字架を負う意味だと教えられる。

単に「正しい」に立つのは、普通のこと、何も感じ
ない。しかし、十字架を負う人を見る時、心に深
く訴えるもの、心動かされるものが迫り来て、
「何か」を感じる。

先日、学び会で学んだ。「聖霊を悲しませては
いけません」エペソ4:30
良心でもない、善悪でもない、正、不正でもない、
聖霊の領域があると。

良心も、善悪も、正、不正も何の問題も無いのに、
聖霊様は違うと言われる。心がすっきりしない、
合法的で問題は無いはずなのに、何か平安が無い。
聖霊のお心にそってはいない。

私達は、良心でも、善悪でもなく、聖霊様の御声
に従って生きる時、きよめられて行く、ますます
聖い者にされて行くと。

潤ちゃんはコーヒーポットを割っていないの
だから、正しかった。しかし、聖霊様はそれ以上
のことを潤ちゃんに求められた。自分は悪くない
と主張するだけより、遥かに高い道があると。
それが聖霊様の思いであり、キリストの歩まれた
道だと。

潤ちゃん事件を通して、「すべてのはあなたがた
のためであり、それは、恵みがますます多くの人
に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われ
るようになるためです」Uコリント4:16

コーヒーポット事件を通して、周囲の人達が恵まれ
教えられた。
「すべてのことは」私達のためであり、本当に
御言葉の通りだと。

今年起こる「すべてのこと」に神様を見れます
ように、砕かれ、自分に死んで行けますように。
                 by多恵子


2003年01月09日(木)
 

いつも、みことばの配信の奉仕に恵まれている。
奉仕といっても、自分が恵まれているんだから、これは
自分への奉仕だ。今日の日々のみことばは、これだった。

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを開放したからです」
(ローマ8:2)

最後のコメントに頭をひねった。罪の原理は、かんたんに
理解できる。しかし御霊の原理を自分なりにかみ砕いて説
明できないことに気がついた。

自分の意志で良いことをしようとすると、セットで罪も発
生する。まるで重力に逆らえず、ものが地面に落ちるよう
に、罪を自分の手で支える事は出来ない。いくら軽いもの
でも、これを長時間支えているわけにはいかない。

これは、この前読んだウオッチマン、ニーの「私でなくキ
リスト」の中に書いてあった。なるほど、そうそうと罪の
原理はわかって、さっそく、娘その@に知ったかぶって話
してみると、
「なら、生まれっぱなしでもいいと言う事?」
「違う!偽善者がだめなんよ。」「なら自分がしたいよう
になるまで待つの?」これも違う・・・
多恵子先生は、「御霊に導かれて・・・」と言われていた
が、どうも、自分の言葉で話せない。頭が受けつけん…


そこで、この配信のために、自分のために、良くわかるよ
うにと祈った。祈って、もう一度この本を読んでみた。
すると、
*-*-*-*-*-*-
主イエスを信じる前は、罪の荷で重くおしつけられていた
が、信じた今は、聖潔の重荷で重くおしつけられている・・
それはただ 一つの荷ともう一つの荷を交換しただけです。

人がキリスト者の生活を生きようと企てるのは間違いです。
かつて死ぬ必要はないとの福音 を聞いて神に感謝したよ
うに、生きる 必要がないと神が言われるのを聞くときにも
神に感謝できるのです*-*-*-*-*-*-
とあった。
もう、自分が生きなくて良い・・いつも聞いている言葉が
よくわかった。
となると、やはり御霊の原理は、かみ砕くと聖霊に導かれ
て・・・しかないんだと、朝から感謝だと思った。

その後、他の用件で多恵子先生にメールを書いた。
今朝、多恵子先生からのメールのなかで、
「潤ちゃんのコーヒーポット事件、すごい教えられて恵ま
れて、自分の姿を見せられて感謝だったと対外からメール
が届いてた。感謝。」と書かれていたので、それに対して

無意識に、最近の潤のことばが頭をよぎりそれを書いた。

『最近、あの子がよく言うことば「クリスチャンだから
○○できる」・・に、すごく励まされます。
「クリスチャンだから○○しなければならない」ではな
いんですね。気づかずに言っているんだと思うんです。

昨日も「クリスチャンだから、お母さんみたいな中年でも
お父さんを愛そうとするじゃろ?クリスチャンじゃなかっ
たら、もう惰性で暮してて、もういいか、あんなおやじ・
・となるじゃろ?」
と言うので、おかしいけど、なんか、後でじんわり、突き
刺さり自分の心の中をのぞいて見れました。』と。

送った後で、読み返してパソコンを消して
(送る前に読み返せ!)
立ち上がった時、あっ、これだ!と示された。
なんでクリスチャンは、人には出来ない事をするんだろ
う、なんでクリスチャンだから出来るんだろう・・・・
御霊に導かれるからに決まってる、これが罪と御霊の原
理だ、よし、消化できた!
メール中も神様は、教えて下さっていたんだと思うと、
心がほんわかして、おかしくなって来た。自分で自分に
向かって祈りの答えを書いていた。
「神様に助けられ導かれる」言いなれたことば、聞きな
れたことばが、また今朝も身近に迫ってきた。
富士子