2014年02月20日(木)
  「あなたの道を主にゆだねよ」

Aさんに、最近、神様の約束の素晴らしい成就があった。
本当に良かったねと、周囲も喜びが溢れた。

「ほんとに喜びが溢れて、幸せが与えられています。
でも、毎回同じことを繰り返しています。
悔いが来ます。
なぜ、その期間、神様を信じておれなかったのだろう。

神様は善い方で、必ず良くして下さるのに、
信じて待てず、不安と思い煩い、心配、恐れを
許してしまって、肉のほうへ行ってしまう。

自分が選んでるんですよね。
神様を信じて待つことを選ばずに、思い煩いと
不安、恐れを選んでしまう。

自分が握ってしまっていて、どうしても放すことが
できない。ゆだねる事ができないからだと、教えられ
ました。

“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる”

ゆだねられないのは、やっぱり信頼しきれていない
からだと。

こんなに良くして下さるのに。こんなに愛して下さって
いるのに。もう本当に申し訳なくて、心から悔い改め
ました。

神様の約束を、信じて待ちたい!信仰をお献げして
行きたい!と、心から思わせられました。」

Bさん

「私も、今までずっと、神様は必ず良くして下さって、
すべての必要与えて、導いて来て下さったことが
よくわかるのに、

先のことが不安で、心配で、思い煩ってしまう。

それは、自分が将来を握りしめて、決して手放さ
ない、ゆだねられないからだと、わかります。

何で委ねられないのかなと、心探ると、
神様の御心に従うのでなく、どうしても自分の思い
通りにしたい、自分のしたい事をして行きたい、
からだとわかった。

自分には出来ないので、でも、ゆだねられるよう
助けて下さいと、祈って行きます。」


あなたの道を主にゆだねよ・・・・主が成し遂げてくださる。

ゆだねて、主を信頼して行く時、最善の御心を
主が成し遂げて下さる。

出来ないから、祈れることが感謝だ!(*^_^*)

2014年02月17日(月)
  「苦しみがあったから」

Fさんが証ししてくれた。

小さい頃から神様を信じていたし、天国
へ行けるから、もうそれでOKとずっと思って
いた。

神様のことは、もう知ってるし、死んでも天国に
行けるし、それ以上何が必要なのかと、思ってまし
たと。

だから、大きくなってからは、身体だけは教会
に行っているが、心はそこにあらずでしたと。

神様の素晴らしさも、霊の喜びや平安も何も
知らないまま、もうOKと思っていましたと。


そのFさんが、神様を求めて、献身にまで導かれ
た。その「求め」が、長い間全く無かったのに、
その「求め」はどこから出て来たのか。

「振り返ってみるに、やっぱり“行き詰まり”から
です。人生が順調に、平穏に、何の問題も無く行っ
ていたなら、ずっと神様を“求め”ないままだった
と思います。

対人関係で行き詰まり、環境的に行き詰まり、
自分の力で、どうにもこうにも、どうしようも出来な
くなった時に、初めて、神様を“求め”ました。

それまでも、一応祈ったりはしていたが、苦しい
時の神頼みで、困った時だけに。

でも、真に、心から祈ったのは、自分で全くどう
にも出来ない状況に、ぶち当たった時でした。

悲しい、辛い、自分で、人間の力ではどうにも、
いっさい出来ない状況に陥ったことが、結果的に
神様を求め、神様に生涯のすべてを献げて従って
行きたい“献身”に導かれて行った。

つまり、その悩み、問題がなければ、献身など
無かったです。

振り返れば、その悩み、問題、苦しい状況が、
神様へと追いやってくれたわけで、その悩みが
無ければ、神様を決して求めなかっただろうから、
試練こそが感謝ですよね。
感謝で、感謝でならないです。感謝できます」


行き詰まり、苦しみ、悩み、絶体絶命、瀬戸際・・
人間的には、絶対に嬉しくないこと、

でも、それこそが、神様を求めさせてくれて、神様
に追いやってくれて、結果的に喜びと平安に至らせ
てくれる。


“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました”
詩編119:71

結果的に、苦しみに会ったことは、しあわせだった
と言える。
そのように、神様が成し遂げて下さる。

どこまでも主に在って希望がある。


2014年02月16日(日)
  「家族の救い」

Aさんのお母様が、今際の際にイエス様を受け入れ
られた。そして、とても平安なお顔で、天に帰られた。

Aさんも、親の救いという祈りが答えられて、もう嬉しく
て嬉しくて、葬儀の間中も、ずっと平安で平安でなら
なかったと。

親族方に、はっきりと「母は天国に行ったので、また
会えますから」と言っておられた。


Aさんお母様の救いによって、皆で、大変励ましを受けた。
親の救いに関して、最後まで希望があることを見せら
れた。

お母様は、生前は、神様についてなかなか聞く耳を
持たれなかった。
そのお母様が救われたということにも、更に励まさ
れた。

B、C、Dさん「親はどんどん高齢になって来る中、
神様と言っても、なかなか聞いてくれないが、神様
に不可能は無いことを見せられます。
祈り続けます!」

Eさん「父親が、私が救われて以来もうずっと、
キリスト教に大反対だったんです。

教会の壮年の男性方も、祈り、何とか話そう、関わろ
うとして、下さったのですが、とりつくしまなく、
全くだめで。聞く耳無しでした。

そんな中、母が救われて、母も教会に集うよう
になって、母は喜んで集っていたんです。

私はその間に、結婚もして、父が受けつけない
もので、疎遠になってしまって。

数年後、親戚が亡くなり、その葬儀通して、また
父子間の交流が復活するように。

そんな父が病で倒れた時に、自分から教会に
行くと言ったんです。もう、びっくりしました。
奇跡だと思いました。祈りに答えて下さったんですね。

そして、回復した時に、自ら教会に行って、イエス様
を信じて救われたんです。もう感謝で、感謝で。

大反対していた時も、実は、色々考えてたんだと
思います。」


「うちの父も、福音は聞いてくれるが、信じない
と言っていて。
戦争を通り、自分の力で生きて来た、自負があって、
受け入れられないのだと思う。

病で、死に向き合った時に、ものすごく考えて、
自ら受け入れる決心をしてくれた。

突然救われたように見えるが、実は、ずっと
長年心の中で、信じる、信じない、の葛藤
していたんでしょうね。」

Dさん「それは、絶対、葛藤されてたんですよ。
子供の生き様通しても、何かを感じておられた
はずですよ」


とにかく、皆の変わらない切なる願いは、家族
の救いだ。祈り続けよう。


“主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの
家族も救われます”

2014年02月14日(金)
  「祈ったから・・」

Cさん
「祈りって、力がありますね。

また経験した出来事があって。
内容、場所、時間的・・あらゆる状況を考えて、この
進路に進みたいという、強い願いがあったんです。

これは、環境的にも、すべてが整っていて、どう考え
ても、きっとみこころだろうと思えるような、妥当な
選択に思えました。

ところが、いざ、ふたを開けてみると、その進路が
閉ざされていて。

何で!、何で!!と、もうパニックで、これは絶対に
良いと思える道なのにと。

ただ、そこがだめな場合は、二番目の、別の
道の選択肢もあり、それで、その事も一緒に
祈っていたんです。

それでそちらに、急いで方向変換して、準備すると、
そこも難しいはずなのに、それが道が開かれて、
その進路に進むことができたんです。
それも奇跡的にOKだったんです。

自分は、最初の進路が良いと思えたが、祈った。
祈った上で、与えられた結果だったので、
祈りの答えだと受け取れました。

もし、祈りが無かったら、自分の価値観でしか、
事態を見れず、何で?何で?となって、受け入れ
難かったと思う。

祈った結果、こうなったから、神様からの答えと
神様から来たものと、受け取れることが、感謝でした!!喜びと平安があります。


“あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ”

“わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ”

“わたしの道は、あなたがたの道よりも高く”


祈ってなかったらと思うと・・
一つ一つのことに、祈って、神様に頼って行く
って、大切だなあと教えられて、感謝でした!!」




2014年02月13日(木)
  「賛美」

「大変なプレッシャーに押しつぶされそうになった
時に、、不安を締め出したくて、賛美歌をずうっと
歌い続けていたんです。

次から次へと歌い続けていると、その歌詞が心に響
いて来て、その歌詞の内容に励まされ、力づけられ、
恵まれて、それが、不思議なことに、心が落ち着い
て行ったんです。
すっかり平安になって行ってしまって。

賛美って、すごい力があるなあと、自分の身に体験
できて感謝でした。
歌詞の言葉が、強く迫って来て、心に入って
来て、思いが変えられて行くんですねえ。

肉の不安や、思い煩いや、恐れが、
神様のみ思いへと、飲み込まれて行く感じで。」



Bさんも、ある時、思いに来るサタンの攻撃に
襲われ、どうにかなりそうだった。
しかし、ネガティブに陥れる、サタンだとわかる
ので、祈りと共に、ずうっと途切れることなく、
賛美を続けた。

思いを吹っ切るように、賛美を続けて、賛美に
集中していた時に、ネガティブな思いに襲われ
ていた心が、すうっーと落ち着いて来て、心が
平安にされる経験をした。
賛美の力を体験した。

「賛美を聴くことでも、よく助けられますね。
思い煩いや、不安の中で、賛美歌をふと聴いて
いて、その歌詞に、心が引き上げられて、
喜びと平安に満ちて来る。
歌詞の言葉に、恵まれる。

心が不安や恐れから、神様の方に向いて、
信仰や、感謝に変えられるんでしょうね」





2014年02月10日(火)
  「希望」

Aさんの御高齢のお母様が、体調崩されたと思った
途端、次々と機能不全状態に陥られ、翌日に神様
のもとに召されて行かれた。

入院の知らせを受けて、祈っていたら、突然亡くなり
ましたとの知らせで、余りにも突然で驚く。

しかし、最期の様子を聞いて、心から感謝した。

医師より、治療の処置上から、とにかく寝かさない
よう話しかけて、それを続けて下さいとのこと。

まさに、神様のお導き。
こんなスチュエーションを設定して下さった。

神様のことをずっと話すことができた。

「今までずっとずっと頑張って来たね。
しんどかったね。イエス様が全部負って下さる
から、イエス様しんどいですと言って」

とても素直に「うん!わかった!」と言って下さったと。

「一緒に天国に行こうね。イエス・キリスト様が
連れて行って下さるからね」
「うん!」

人生ずっと頑張って、頑張って来られたお母様。
荷を下ろされて、安堵の顔になられたと。

死に直面されて、イエス様に救われて、
お顔が穏やかな、安らかなお顔に変わられたと。

前夜式と葬儀式の間中、Aさんは、未信者の
ご親族方の前で、
「母は天国へ行きました。また天国で会える
から感謝です」と。

お棺が閉じられる時も「お母さん先に行って
待っててね。あとから行くからね」と笑顔で
見送っていた。           
        
葬儀社の係員が、焼き場で「これが最後の
お別れでございます」と、永遠の別れのように
言っていたが、

救われて、天国へ行けるとは何という
希望だろう。


“けれども、私たちの国籍は天にあります”ピリピ3:20

“そういうわけで、いつまでも残るものは信仰と
希望と愛です・・” Tコリント13:13
 

2014年02月07(金)
  「気づき」

Aさん「対人関係で、何だかぎくしゃくし、気まずい、うまく
行かないことを感じていて。

悩みつつ、環境を変えようかとの思いも来て、あのように、
このようにしたらどうかとの、いろんな思いが来る。

しかし、自分がその場を逃げるのは、違うだろうと、それは
御心ではないだろうと、何やかや祈りながら、考えていた。

そんな時、底の底の思いを探っていると、自分は相手
によく思われたい、好かれたいと思っていることに、気づ
かされた。

だから、心が縛られて、窮屈で、しんどいのだと。それに気づ
かされた時に、ふっと心が解き放たれて、いいや、と思え
た。自分は自分でいればいい。

相手に配慮したり、愛して行くことは祈って行くが、相手
に自分がどう思われようと構わないと、思った時に、すごく
心が楽になった。

主と共に、その環境にとどまろうと、平安にされた。
気づけたことに感謝でした。

でも、人に良く思われたい、良い人に見られたいという
思いは根深いですよねえ」


Bさん
「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」

「ずうっと昔に、子供の頃に、よくテレビから流れていた。
その子供の頃に、辛いことがあって、この言葉がその頃、
ピッタリと心にはまった。この言葉で救われていた。

ふっと、最近思い出して、あの子供の時から、神様が
私をつかんでいて下さった、握っていて下さったんだと、
喜びが溢れた。

古い性質があり、思い通りにならないと、不平不満が出て
来るが、神様との交わりの中で、心の内をありのまま
不平も不満も、神様に告げて行く時、不思議に心が
落ち着いて来る。

神様との交わりによって、心が変えられて行く。
不思議だが、状況が変わらずとも、心が平安にされて
行く。

神様に触れて、平安にされて行く時、御霊の喜びを
与えられて、その喜びは周囲に伝染して行く。」