2014年04月16日(水) 「いっさいゆだねよ」
Aさんが、事情があり、転居の必要に迫られ、次の物件を探す 必要が生じた。この際、将来のことも考えて、購入を決めた。 費用、地理的、間取り等、一応設定して、それらの範囲内で 探し始めた。 祈りつつ探すので、どこかあるだろうと思っていた。 様々情報を入手し、足で不動産も訪ね、色々物件が出て来る のだが、不思議に一つ一つに難があり、決定に至らない。 祈っているので、まあ待っていたら、その内に、物件が出て来る だろうと、思っていた。 ところが、物件はあっても、ふさわしいものが一つもない。かれ これ半年がたっていた。 そこで尚も真剣に祈り求め、尚も探すがどうしても、これという 物がない。 もう1年がたち、その頃になって、これだけ祈り探して無いという のは、みこころが別のところにあるのではと、思い始める。 しかし、それも懸命に祈って、懸命に探したという実績があれば こそ、思えたことだった。 そう思った頃に、無いことに数回の帰郷が与えられた。長年振り に帰郷した時に、足を踏み入れた瞬間、ここが心的に自分の 居場所と強く感じさせられた。 安心感があり、心底の安堵があり、平安があった。今、故郷に 帰りたいと思った。 そこで郷里でも、住まいを探してみると、すべての条件をクリアし、 すべてを満たす、ピッタリ!の素晴らしい住まいが、何と瞬時に 与えられた。ベストハウスであった。 すべてが整えられて、御心の住まいであり、郷里で新しい歩み を備えておられることがわかった。 探しても探しても、ふさわしい物件が無い時、必死に祈っている のに、何で?どうして?と、これだけ祈って、探して、何で無いの だろう??と。 しかし、主は「思い煩うな」「いっさい思い煩うな」と言われ、本当 に、結果的に思い煩う必要が、全く何一つ無かった。 別の所に、最善のものを用意して下さっていた。 祈って与えられない場合、みこころが別のところにあるのでは、 と、祈ってゆくことと、「何も思い煩うな」「思い煩いをいっさい 神にゆだねよ」 「神があなたがたのことを心配してくださる」 神がちゃんと考えていて下さることを見せられる。
2014年04月13日(日) 「神様有難う」
「とても嬉しい事がありました。 入学に際して、色々規則があって、身体的 規則もあり、子供は、それが一見違反に見 えてしまう。 決して違反ではなく、自然な生まれつきの 身体的なものなので、入学時に、親が先生に 説明するようにしようと、親子で話していた。 入学式があり、いざとなると子供の方がセンシ ティブになり、言わないで欲しいと。 確かにデリケイトな事だし、子供の思いを越え てまで、出来ないので、自分も迷いながら、 そのまま帰宅した。 子供は新しい環境に大変緊張気味な上、その 事の不安で、食欲もなく、何も言わないが、 不安や心配が伝わって来る。 親として、ちゃんと説明してやれなかった自分を 責めもして、でも、どうにも出来ないので、ただ ただ祈りに持って行き、気持ちをあるがまま主 に告げて、祈り続けていた。 すると翌日、帰りに友達に誘われて、母校へ 寄ることになり、恩師に会って、心が元気になっ たようで、表情が明るくなっていた。 そして、身体的規則の検査にも無事合格で、 驚いて、安堵した。 すべて神様だと思った。祈りに答えて、子供を 励まし、この結果も神様が下さった。 そして、自分を責めていた私をもあわれんで 下さったのだと。 神様のご愛、あわれみを知れて、もう嬉しくて、 嬉しくて。」
2014年04月09日(水) 「ゆだねることの祝福」
A「私、すごく心配症、煩い症だったんです。 でも、神様に出会って、今、何だか全然煩いが 無いんです。 もう絶対に、神様が何とかして下さると思えるんです。 今まで、自分で、どうにも出来ない色々な事が あった時も、必ず道をつけて、導いて下さった。 だから、神様は絶対に良くして下さるから、信じて おれば良いんだと。 主が良くして下さる。主が戦って下さると思える。 以前は、自分で、自分で、が強く、「自分が」と 思っていたので、もう肩に、全身に力が入って、 いつもガチガチでした。 そんな状態って、うまく行かないと、人を責めて しまいますしね。 今は、まあ、ほんとに楽になって(*^_^*) 自分の力で歩むと、自分でシュミレーションして、 でも、シュミレーション通りにならない。 仮になったとしても、その時の、肉の喜びだけで、 本当の喜びが無いんですよね。」 「Aさん、ものすごくお顔が変わられましたよ! 私が最初に来て、お会いした時は、もうほんとに しんどそうで、辛そうなお顔でしたもの(笑)」 A「あの頃は、試練がどっと来て、もうどうにも できず、重くて、しんどくて。先は見えずで(笑) どうにもならず、委ねたというか、神様に委ねさ せられたんです。 一度に試練がどっと来たから、良かったんですよね。 そうでなければ、自分の力で突進してましたから。 委ねられたことが奇跡で、ほんとに楽で、楽で、 こんなに安らかで良いのかと思うほど(笑) 嬉しいです。 生活していると、様々あるけれど、神様に 祈り、神様に頼れば大丈夫!と思えるから 感謝です。 ほんとに元の私はこんなんじゃないですよ」 A「それが先日もね。親族が倒れて、少し遠方の病院 に行く必要があり。 出たのですが、どうもバス停を間違えたようで、おかしい なと。 それが丁度時刻表や料金メモとバス会社の番号 を持っていて、電話したら、やはり場所が違っていて。 すぐ移動できて、それが、来るはずのバスが遅れて いて、何と無事乗れたんです!1時間に1本しかなくて。 行く前に無事着かせて下さいと、祈って出かけたんです。 祈りの答えと、神様感じて、もう嬉しくて、嬉しくて。」 皆で「そこに神様が無ければ、偶然、ラッキー!しか ないですよね。そこに神様を見ることも、認めることも ない。感謝ですよねえ。嬉しいですよねえ」 いつも交わりの最後が「神様知れて良かった、 ほんとに良かった。知れなかったら。どうなって たかわかりません。酷い人生になってたと確信 します」(笑) 「Aさんの変化がすごい!(*^_^*)ほんとに神様 がおられると思いますもの」 “あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。 主が成し遂げてくださる” ゆだねること、明け渡すことは力ですねえ。
2014年04月07日(月) 「へりくだる」
「自分の善かれという思いと、神様の思いが 合っていない、違うことを気づかせられます。 仕事で、自分の技量を磨いて、どんどんスキル アップし、上達することが、立派によくできることが、 神様の栄光を現わすことだと、自分は思う。 努力して、与えられた仕事が、よく出来ることが、 神様の栄光だと思う。 それで、技術を身につけたいし、よりよく仕事を するために、将来のためにも、いろんな経験を 積みたい。 自分は、そう思っているが、それが状況はどんどん 違う方向へ行く。 経験を積む機会どころか、もっとベテランの他の 方々が入って来て、自分よりずっとよくできるし、 技能を持っているし、自分は必要無いのではと。 そして、なぜか失敗ばかりして、何でこんな事が できないのかというほど失敗ばかり。 その状況になって、そんな現状を告げて祈って いると、立派に仕事をしたいという動機が、 「自分が」「自分が」で、自己実現、自己満足、 結局、神様の栄光じゃなく、自分ではないかと。 そして、神様が思われる、神様の栄光って、 もっと違うものじゃないかと、気づかされて。 自分はバリバリ仕事をする事が、栄光だと思って いたが、自分のプライドが砕かれる、いろんな場面 に遭遇し、自分の自我の強さ、頑なさを見せられて。 自分のプライドが砕かれ、自分自身が折られて ゆくこと、それが神様の栄光なんだと、今、教えられ ています。 自分を折って、へりくだって行くことが栄光なんだと。 “キリストは、神の御姿であられる方なのに、神の あり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と 同じようになられたのです” ・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の 死にまでも従われたのです”ピリピ2:6 この自我、プライドが砕かれないと、神様がわから ないし、的はずれだし、間違った方向へ行くし、 何も始まらないですよねえ。 砕かれることが、本当に感謝なんだと教えられて いて、感謝です。 そこに立っていると、思い通りにならない事、自分 に出来ない事、自分の弱さ、それらがすべて 砕きのためであって、感謝に思えます。」 日常生活を、ずっとそこに焦点を当てて見ていたら、 すべてが平安で、感謝になりますよねえ。
2014年04月06日(日) 「イエスに向かって」
カナの奇蹟の箇所を学んでいた。 “ぶどう酒がなくなり、母がイエスに向かって 「ぶどう酒がありません」と言った” “イエスに向かって”言った。 何か事態が起きる時、まず何とかしなければ との思いが来て、自分が立ち上がって、自分が 判断して、パニックになる。 しばらくしてから、「あ、祈りだ!」と気づいて、 主に向かって祈る。 「どうしても、即、祈りにならない。必ず、自分が まず動いてしまいますよねえ。 瞬間反応してしまって、どうしようかと、頭を巡ら している。 でも、どうにもならないので、心がどっと暗くなり、 思い煩いでいっぱいになる。 まず、“イエスに向かって”が、繰り返し失敗しな がら身につくようにですよねえ。 でも、気づかせて下さることに感謝です」 そして、“水がめに水を満たしなさい”と主が 指示を与えられた。示しに従った時に、水が ぶどう酒に変えられた。奇蹟が起きた。 次に主の御声を聞いて、主の指示に従う。 すると、生活の中で、奇跡を経験する。 これがまた、祈ったからよいと、御声を聞かないで、 主の導きを待たないで、自分で動いてしまう。 自分で良かれと動くと、的はずれになってしまう。 「夕食作ろうとしていた時に、子供がひどく ぐずり出して。 夕食作らなければならないし、でもぐずり方 が普通ではない。 夕食準備したいし、時間が迫ってるし、焦って 来る。肉の思いでは、とにかくちゃっちゃと、早く 作ってしまいたい。 でも、神様!と、心の中で主に向いたら、これは どうしても、今、子供に関わってやった方がよい との思いが与えられて。 夕食は委ねて、そうしようと思い、子供にじっと落 ち着いて向き合ってやってたら、子供の心も落ち 着いて着て。 でも、夕食の時間に、食事は全く作れておらず。 夕食が無い。 すると、夫から電話がかかって来て、「今日は無い ことに早く帰れるから、外に食べに行こう」と。 思わず「神様有難う!」神様が働いて下さった。 ほんとに感謝で、嬉しくて。 神様を見上げなかったなら、子供の気持ちも 無視したまま、自分は夕食を作らねば!と そっちに行っていたかも知れない。 何か起きた時、まずイエスに向かって祈り、 示されたことをする時に、神が働かれ、 みわざを見る。 「何か信仰生活、失敗ばかりするんですが、 失敗の連続なんですが、いつもそこで主を 見上げて、そこで従って行く時に、水を ぶどう酒に変えて下さるんだなあと。 今まで、振り返っても、ずっと水をぶどう酒に 変えて来て下さったなあと。感謝です」 無くなった時のぶどう酒より、更に「良いぶどう酒」 を与えて下さる。
2014年04月05日(土) 「弱さのうちに」
恵みを語り合っていた。 ・・・・・ 最近もずっとなんですが、必要不可欠な事を取りこぼ してしまう。幾つかしなければならない事があると、必ず 1つ忘れてしまう。 もう様々失敗を繰り返してしまう。鍵を無くしたり、 鍋の空だき、大切な持参物の忘れ、余りにもひどく、 落ち込んで、なすべき事が多すぎるので、生活範囲 を縮小して行けば良いのかと。 でも、そういう問題じゃなくて、神様に頼れということだと わかりました。 どうしても、「自分が」「自分が」「自分で」「自分で」に なってしまう。 自分が前に出てしまう。いかに、自分が無力で弱い かということを、思い知らされていて感謝です。 ほんとに失敗するので、もう祈らざるを得ない。取り こぼしなく、判断も守られて、気づいていな事あれば 気づき与えられて、この1日が守られるようにと。 もう真剣に、切に祈ってて。祈らなければ、日常生活 ができない。これってほんとに感謝なんですよねえ。 「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現わ れるからである」Uコリント12:9 弱さの中でしか、神様は知れないから、弱さを これでもかと、これでもかと、教えて下さっている。 日常で、自分の思い通りにならない時、何かしようと している時に妨害が入る時、イライラして、腹が立って。 怒りが湧く。 これも神様の砕きですよねえ。「自分が」「自分が」を 砕いて下さっていることに感謝です。 日常生活、思い通りにならない事ばかりで、あちこちで 頭をぶつけ、バッサバッサと神様が砕いて下さっている。 全然喜びではないけれど、砕きだと受け取れる事が 感謝です。 結局、自分の力で、自分が、自分がと生きていたら 全然、全く、神様がわからないですよねえ。 最後まで、頭だけの信仰に終わってしまう。 ほんとに弱さの中でしか、神様はわからないですねえ。 人間の罪の性質って、自我って、甘くないですよねえ。 どんだけ高慢で、プライドに満ち満ちて。 放っておかれたほうが恐い。砕かれるって、取り扱って 下さっていて感謝です。
2014年04月04日(金) 「あわれみ」
●「私、パリサイ人ってわかる。 小さい頃から、親から頑張れ、もっと頑張れ、もっともっと 頑張れと言われ続け、叱咤激励で育って来て、 頑張るのが善という価値観が、根深く培われてしまって いる。 頑張らない事は悪。でも、自分の力で頑張っていると、 必ず頑張らない人をさばく。 例えば、時間に厳しく自分を律して、待ち合わせの 約束をした時間には逆算して、準備し行動する。 だから絶対に遅れない。 それは良いのだが、そうすると、遅れる人をさばく。 時間がわかっているのに、なぜ遅れるのかがわからない。 時間に合わせて、準備すれば済むことではないか。 それをしないことに腹を立てる。 できる自分を誇り、肉って、ものすごいものが ありますねえ。」 ▲「あ!わかる!ぶどう園の早朝の者よね!!」 ●「そうそう!!私、絶対に早朝の者!! 5時の者と同じ額だなどと、どう考えても納得が行 かない。おかしい(笑) でも、神様がそのままでいいと言って下さった から、頑張らなくていいと言って下さったから 信じることができた。 肩から力が抜け落ちて、楽にされた。 恵みがわかって、自分が時間にきっちりできる なら、それは神様の恵みによるとわかる」 ・・・・・・・・・・・・ ぶどう園の労務者のたとえ話で、主人が借り入れ 時に、労務者を雇うが、早朝に雇った者には 1人1デナリの契約を結ぶ。 9時 12時 3時 にも雇い、それは一デナリの 契約ではなく「相当のものをあげる」と言った。 5時にも雇い、6時には仕事が終わり、わざわざ 5時の者から順番に1デナリづつ支払った。 5時の者が1時間働いて1デナリなら、早朝から 働いた者は12デナリになる。 しかし、全員1デナリで、早朝の者は怒り爆発した。 不公平だと。 でも、5時の者にすれば、1時間で1日分の給料 をもらえて、どんなに有難かったか。 怠けていたわけでなく、誰にも雇って貰えなかった。 身体も弱そうだったのかも知れない。 早朝の者は、1デナリが確約されていて、労働の 後には、家族に報酬を持って帰れる。平安に働 けた。 5時の者は、家族に持って帰る糧がない。夕刻 までどんなに不安で心細い事だったか。 天の御国は、神様の恵みで成り立っていて、 あわれみが支配するところ。 ・・・・・・・・・・・・・・ Cさんが「自分は5時の者です」と言われた。 「病を得て、もうどうにもならない状態の時に、 神様に出会って、救われました。 あり余る恵みの中に置いてもらい、神様の あわれみによって生かされています。 救って下さったことに、感謝でならないです」 「5時の者」・・うわあ、皆で、ものすごく恵まれた。 「ほんとは滅びて当然の中を救われて、みんな 5時の者ですよね」
2014年04月02日(水) 「救われて良かった!」
皆で集まると、日常の様々な出来事や取り扱いを 語り合い、「救われて良かったねえ」「ほんと救われ て感謝しかない」「もうほんとに感謝!!」となる。 「神様知れて良かった」「神様を知らなかったらどう なってたのかと思う」 突然、AさんがBさんに「有難うございました!」と頭を 下げた。 Bさんは「何を、何を」 Aさん「子供の役員を一緒にして、それがきっかけで 知り合えて、長い長い間、神様のことが全くわからなか ったのに、ずっと付き合ってもらえ、神様を伝えてもら ってほんとに感謝です。 Bさんと一緒に集会に出ていた時、よくBさんが泣き ながら御言葉を聞いていて。 私は全然神様のことがわからなくて、Bさん何で泣く んだろうといつも不思議に思っていたんです(^_^;) あの頃は、神様に頼るとか、神様を認めるとか全く無く、 自分の力で生きて行く!と思ってましたから(笑) 御言葉が全然、全くわからなかったです。 というか、自分がシャットアウトしてましたね。 今は、わかります!(笑) 御言葉に恵まれて涙するBさんの気持ちが よくわかります。 もう自分、自分、自分の力だった自分が 完全に行き詰まって、砕かれたことが感謝です。 明け渡した時から、それが思い煩いが消えたんです。 神様が良きにして下さると何だか信じれて。 今も、お委ね状態で、平安で平安で(*^_^*)」 Bさん「いやあ、Aさんがすごい。もう10数年の つきあいですが、Aさんが変わってしまって、 神様にあって、キラキラ輝いていて、すごく励ま されます。 こちらこそ、感謝で、感謝で」 Cさん「私も神様を知れて、感謝でならないです。 神様知らない時は、不都合な事や、マイナスの 事が起きると、不安と思い煩いと恐れで、落ち込む しかなかった。 心が真っ暗になり、救いがなく、沈み込んでしまう。 又、思い通りにならない時には、腹を立て、怒り、 周囲に当たり散らして、自分も面白くない。 でも、今は、思い通りにならない事が起きても、 神様の何かのご計画があって、神様の御手の 内で、この事を良い事にして下さる、と思える んです。 だから、心も平安に守られて、ほんとに神様を 知っていて良かったと。もう感謝で感謝で。 嬉しいです(*^_^*) 以前の自分と全然違うことに気づかされて それがまた嬉しいです。」