2014年05月18日(日)
  「私のうちに・・」

「仕事の中で、その分野の相談に乗るという
働きがあるんです。

相談に来られる人々の、色々な悩みを聞い
て上げて。
心の重荷を話されると、その時は聞いてもら
って、スッキリすると思うんです。

でも、また溜まって来ると、お話聞いて。
話すとスッキリし、その繰り返しなんです。
同じ事をずっと繰り返していて。

聞いて上げられるけれど、この世には『解決』が
ないんですよねえ。

その時はスッキリするだけで、状況は変わらない、
自分も変わらない、問題はそこにずっとある。
何も変わらないですよねえ。

そんな人々に接したり、状況を見ていて、
ほんとに神様にしか、解決がないと思い知ら
されます。

問題は自分の自我であり、根に潜む『罪』であり、
それは、イエス様の十字架以外に解決がない。
『罪』の問題ですよねえ。

イエス様以外に、何の解決もないことを、改めて
実感させられています。」


クリスチャンのAさん。
ある問題が生じた時に、一生懸命に、解決に
奔走する。対人関係で良い関係を築こうと
時間と労力を割き、その方面の人々との、対話
に努力し、良かれと思う、あらゆる事を行って
行った。

時間も労力も並大抵でなく、しかし、何も変わ
らなかった。
どれだけ頑張っても、頑張っても、問題は何も
変わらず、疲れ果ててしまった。

もう力尽きて、主の御前に倒れ込み、祈った。
御前に静まり、心探られ、御霊に示された
のは、状況ではなく、周囲の人でもなく、
自分の問題だった。

自分が、その状況を受け入れられない事から
起きている事を示された。
自分のプライドであり、自分の罪だった。

御前に悔い改めた時に、心に平安が来て、楽に
なり、自分にとっても、問題が問題で無くなった。

そんな中、状況が動き、問題が良い方向に
解決を見て行った。


主によって、解決があり、どんな時にも祈れて、
指針が与えられ、義の道へと導かれる。


“私のうちに傷のついた道があるか、ないかを
見て、私をとこしえの道に導いてください”
詩編139:24

2014年05月15日(木)
  「神の栄光を現わすために」

“こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲む
にも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにし
なさい”Tコリント10:31


「日々の生活で、一日一日“神様の栄光のために”
“神様の栄光が現れるように”と、“神様の栄光”が
土台にある時、

日々起きる様々な突発的な出来事の中でも、
ブレない、揺れない、確かなものが心にあるんです。
平安なんです。

でも、その一点“神様の栄光”がブレて、ズレて、心に
無い時、何もかもが揺れ動いて、ガタガタになって
きます。それを日々経験させられます。

“神様の栄光のために”が無い時、必ず“自分のために”
になっていて、自分が中心になっている。

自分中心になると、全部がズレて来て、土台がグラグラ
になって、心に確信も平安も失せて、自分の思いと
思い煩いでいっぱいになるし、確信が無いから、

これでいいのだろうか、と何かをする度に大揺れに
揺れて。ああでもない、こうでもないと。

自分の思いがどんどん湧いて来て、これは御心だけど、
でも、こうすれば、ああすれば、もっと良くなるのではと、
幾らでも、思いがふつふつ湧いて来る。

あ!と、御霊の気づきが与えられて、“神様の栄光”
と思う時、我に返れて。

“神様の栄光”に視点が帰ると、優先順位やら、なす
べき事も、思いも、すべてが秩序立って、何より
心に平安が来るんです。


“神様の栄光”がブレると、生活の何もかもがブレ
て来て、まず確信が無くなって、揺れ動いて、不安に
襲われるし、秩序が乱れてくるし、ほんとに人間は
神様の栄光のために、栄光を現わすために、
造られてるんだなあと。」


その一点、非常に重要ですよねえ(^^)
朝毎に、祈って行きたいです。



2014年05月12日(月)
  「人のすべての考えにまさる神の平安」

「神様を知って、神様の主権と支配の中にあり、
深いご愛に包まれていることを思う時に、心に
大きな安堵感、安心があります。

これって、すごいですよね。
平安がいつも与えられてるって、何にも代えら
れないです。

祈りが与えられていることも、感謝です。

何かする前に、いつも祈るんですが、それが
願い通りになると嬉しいですが、でも、自分の
思い通りでなくても、神様の別な、み思いがある
んだと思えるから感謝です。

だから、いつも平安でおれるんですよね。

イエス様を知る以前は、全く違いました。
もう思い煩いやら、心配やら、悩みや、また、
イライラやら、焦りがあって、いつも平安の無い
状態でした。

何か事がある度に、思い煩い、悩んでいたが、
今は、思い煩わずに済みます。
もう以前と全然違います。

本当に自分は幸せです。
自分が平安なら、家族も、周囲も平安なん
ですよね。

最近も、目の前には様々な事が起きたんで
すが、大きな経済的必要が起き、でも、
その必要が与えられ、イベントもスムーズに
導かれ、一つ一つに神様の配慮を感じて、
嬉しかったです。

嬉しいなあ、幸せだなあと思えるって、ほんと
神様ですよね。

そして、すべての事に、神の時があって、『待つ』
ことを教えられます。

『信じて待つこと』が大事なんですね。
信じて待っていれば、思い煩いも余地がなく、
必ず良くして下さると思えて、何より心が
平安です。

一生の間、同じ時間を過ごすのに、平安
に過ごすのと、思い煩いと不安恐れの中に
過ごすのと、ほんとに天と地の差があります
よね。

私、ほんとに幸せです。」


2014年05月10日(土)
  「光あれ」

Aさんより

「創造の前の混沌とした中に、主の『光あれ!』と
いうお言葉がありましたが、わからない事がまだ
沢山あり、主の御わざが明らかなる事を祈っています」



暗闇の中に、光が射す時に、暗闇が消えて、物事が
見えて来る。
神様が教えようとしておられる事、ご計画、御手が
見えて来る。

Bさんが「やっと神様の御手が見えました。
長い年月かかりました。
職場で、仕事も初めてで、なかなかうまく出来ないし、
上司から注意の連続で、叱られの繰り返しで、もう辛
くて辛くて。

自分で働く年数を決めた、とにかくどうであれ、その年数
はしてみないと仕事自体もわからないので、自分の中で
決めて、その年数だけは何があっても、続けようと、何とか
頑張り通した。
しんどい、辛い、苦しい日々だった。

神様に祈って与えられた職だが、うまく出来無いし、もう、
自分には向いていないとしか思えなかった。
トンネルの中にいるような、何も見えない日々だった。

しかし、期限を決めたので、何とか頑張れた。
年数が来た時に、転職する先もまだ決まっていないので、
もうしばらく続けようと、素直に思えた。

そして、その後は辞める事を決めていた。
その時期が来た時に、よく祈り、考えた時に、生計は
きちんと立てなければならないので、尚もしばらく続け
て、何らかの導き、チャンスが来たなら、方向変換
をはかろうと思えた。

その間も、やはり辛く、しんどい日々であったが、

「それが、やっとわかったんです!
私を砕かれたんだなあと。強い自我を砕かれて、
素直に従うことを学ばせられました。
感謝でならないです。

対人関係における、いろんな事を訓練され、鍛え
られました。

言うべきことは、誤解のないよう、ちゃんと表現すること、
練習させられています。

神様が教えようとされている事があり、それを受け取っ
て行く時に、平安が与えられること。

最初はもうしんどいばかりで、そんな事考えられもせず、
余裕もなく、ますます苦しい状態だったと思います。

でも、ほんとに神様の時があって、神様の時に
目が開かれて、見せられて行くんですね」



2014年05月07日(木)
  「赦せた」

ずっといじめに会っていたAさん。

「辛くて、辛くて、帰宅すると、涙が溢れて、
でも、責任があって、どうしてもその仕事を
辞めるわけには行かず、苦しい日々が続いた。

その仕事の関係上で、自分が目立ってしま
うので、妬まれてのことだと思う。

辞めたいと思うが、承諾したのは自分であり、
中途放棄することは、それは自分の気持ちに
とってもできないことだ。

しかし、辛くて、帰宅しては涙の日々。
段々、自分の中に、相手への憎しみが生じて
来る。
赦せない思い、怒りも心に出て来る。

自分はクリスチャン、憎んではいけないと思うが、
憎しみは募り、赦せない思いはますます強く
なって来る。

しかし、そうなれば、いじめられて辛いのでなく、
自分の憎しみと赦せない思いで、胸が苦しく
てたまらない。

全く平安が無い。その事が頭に無い時だけ、
目の前の事に心が奪われ、忘れている時だけ
逃れられるが、その事がまた頭に浮かぶと、心が
辛く、苦しくなる。

楽しい時も楽しくなく、心が苦しく、重く、沈んで
しまう。
赦せない思いが、どうにもならない。

せっかくの楽しい時も、その事が浮かぶと心底
楽しめない。心が暗くなる。

ほんとに御言葉にある通り、赦さないことは
牢獄の中にいるようで、囚われの身であること
がわかる。

その苦しみの中から、祈り、神様を求めていた
時に、このままなら、結局、赦したくない相手に
一生自分が縛られ、自分がコントロールされる
ことに、気づかされた。

そんな一生は絶対に嫌だ、そしてこの苦しみから
解放されたいと祈った時に、初めて「赦します」と
決心し、神様に告げた。
赦そうとの、意志を主に向けることができた。

その時、『解放されたんです!』
あの苦しみ、重苦しさ、辛さ、暗さが無くなった。

そして、仕事の契約期限も全うできて、その場を
退いた。
すべて、神様の取り扱いだったのですね。感謝
でした。」


Bさんも、いじめに会った。

カルチャーサークルで、自分は以前からその習い事
をしていたので、他の人々より、うまくできた。
それが突出していたので、目立ってしまい、いじめ
に会った。

自分に向けられたきつい言葉や態度、攻撃、
辛くて、辛くて、帰宅しては涙が止まらなかった。

自分の大好きな、自分のしたい事であり、辞める
のも違うと思う。

祈っていると、相手のいろんな言葉や態度、行動
から、自分が妬ましいのだと、思われた。
妬みから、そのような行動に出ていることが感じ
られた。

しかし、自分は辛くて、その辛さゆえ、やはり相手へ
の憎しみとなって行く。

辛さも憎しみも何もかも、心の内を告白し、自分の
憎しみは悔い改め、主の御前に祈っていた、

その時に、相手を受け入れられない思いと、憎しみ
でいっぱいだったのが、不思議に自分の心が変えられ
て行った。

自分を妬んで、いじめて来る相手に、そうしかできない
相手がかわいそうに思えた。

そして、相手の祝福を祈っている自分がいた。
これは自分ではなく、御霊様だった。

・・・・・・・・・・・・

赦せることは奇跡で、人には出来ない。
神様の働きであることを見せられる。
主が、赦す心を与えて下さる。

2014年05月05日(火)
  「一つも無駄にならず」

遠方から喜びの知らせが。

「嬉しい事があったのです!!
ずっと証しをしていた、友達がイエス様を信じ、
救われました!!嬉しくてならないです。

主を伝えながらも、心が固いのかなと思ったり、
でも、折々に話していた事を、ちゃんと受け止め
て聞いてくれていたんだなと、感謝でした。

ほんとに、神様の時ってあるんですね。
すべてに“神の時”があることを、教えられます。

“神のなさることは、すべて時にかなって美しい”
伝道3:11

すぐにどうこうならなくても、忍耐して主を待つ
ことが大事だなと。

そして、今までの証しも、決して無駄でなかった、
用いられていた事が知れて、本当に嬉しいです!

今、伝えている方々のためにも、続けて祈り、
証しして行きたいです。そして、これからも
周囲の人々に主の救いを伝えて行きたいです」

・・・・・・・

母は、今際の際に、主を信じ受け入れてくれた。
たが、病室でもじっと考えていたと思う。

以前から、星野富弘さんの本を、これいいねえ
と、一つ一つ丁寧に、よく読んでくれていた。

あの本も布石になったんだなと。私たち、更に
孫たちの証しも布石になり、父が先に救われ、
天国へ行ったことの証しも布石になり・・

今までの沢山積まれた証しを、神様は用いて
下さった。一つ一つ決して無駄にされない。

・・・・・・

先日は、娘さんと姑さんがクリスチャンである
男性がイエス様を信じられた。

どうしても主の救いを知って欲しい、神様の
愛を知って欲しいとの、熱心な篤い思いが、
熱い切なる積まれた祈りが聞かれ、共に神様の
みわざを見せられた。

・・・・・・

教会の青年女性が、母の日に、お母さんに
お手紙を書きたいと。
この手紙もいつか救いのために、布石に、
用いられたらいいなと思ってと。





2014年05月03日(土)
  「わたしの平安」

Aさんの証しをお聞きする。

「今から10数年前に、イエス様を信じました。
そのきっかけは、離婚でした。

心の中が、もう真っ暗で、苦しみやら辛さや
怒りや悲しみやら、もうぐじゃぐじゃでした。

もう自分で何もどうにも出来ない、悶々
状態でした。苦しくて、苦しくて。

そんな時に、友達に教会に誘われたので、
行きました。
そこで、イエス様に出会い、受け入れました。

その時に、あんなに苦しくて、辛くて、悶々
状態だった心が、180度変えられて、全く平安
になってしまったんです!!

平安が心に臨んで、それ以来ずっと、平安が
与えられています。

主が、その余りにも素晴らしい主の平安を与えて
下さったので、離婚した夫を赦すことができました。
完全に赦せたのです。神様のわざでした。

その相手も主を信じ、今では、主に在る友人と
して、子供たちや、孫たちやら、皆で和気あいあい
と交流しています。

すべて、主のみわざで、主による平和です。
主は素晴らしいです。

平安で、平安で、この主を伝えたくて、家族や
親族に証ししました。今では、親族皆、クリス
チャンなんですよ。

主が、あの苦しみの極みの時に与えて下さった
平安は、今も変わらず、ずっと心に与えられて
います。
この素晴らしい主を、この平安を、皆に知って
もらいたいです。」


以前、末期癌発覚で、突如余命3ヶ月の宣告を
受けたBさん。
死に向き合い、絶望と不安と恐怖で、涙が溢れて
止まらなかったと。

ご主人がクリスチャンだったので、そして自分は
まだ信じることができなかったが、「夫の神様」と
神様を呼び求め、すがりたくて、祈った。

翌朝、目が覚めないのではないか、今晩眠れば
このまま死んでしまうのでは、それが日々の大きな
恐怖だったと。

聖書もむさぼるように読まれ、神を求められた。
しばらくして、はっきりと主を受け入れられた。
確かなもの、支えが、救いが欲しかったと。

そして、180度の変化が。
主を信じる前日までの食事が、砂をかむ
ようで、しかし、体力維持のため無理やり
口に詰め込んでいた。

しかし、主を受け入れたすぐ後の食事
の美味しかったこと。驚きで、奇跡でしたと。

それ以来、心が平安で平安でと。

宣教師さんが「余命を決めるのは医師では
ありません。神様です」と言われたが、

Bさんは、更に1年の余命を与えられて、
この地上で、素晴らしく神様の栄光を現わ
され、天に帰られた。


“わたしは、あなたがたに平安を残します。
わたしは、あなたがたにわたしの平安を
与えます”ヨハネ27