2014年08月22日(金) 「比較」
「次々と、試練が来て、何だか自分ばかりが、 あれも、これもと、大変な状況で、神様何で、 自分ばかりと、状況だけ見ていると、落ち込み そうになる。 でも、学びに来る度に、そうじゃないんだ、神様 は、自分に、ご計画をもって与えておられ、意味 があり、教えようとされていることがあり、必ず、 良くして下さるんだと。 これも益となり、感謝なんだと。 神様視点に変えられるから感謝です。 今日は、落ち込むその底に、『比較』があること に気づかされました。 無意識で、気づかなかったですが、自分ばかりと 思うのは、人と比較しているからなんだと。 人は、皆、普通そうに暮らしているのに、何で こんなに大変な事が、自分ばかり臨むのかと。 「あなたは、わたしに従いなさい」と言われる 神様を見て、神様に従って行けばよいと思う 時、気持ちが何だか楽になり、平安になります。 いつもそうなんです。神様に目が行くと、感謝 な思いが湧いて来るんです。感謝です」 「つつがなく生活が守られていて、身体も守られ、 経済的にも守られ、様々大変な人も多いのに 自分は守られている。 これって、違いますよね。底に『比較』があって、 人との比較で見ている。 自分だって病気になるかも知れないし、 経済的苦境が臨むかも知れない。 神様だけを見上げて、自分と神様の間だけを 見て、感謝して行きたいです」 「自分は、いつも自分の理想と比較している ことに気づかされる。 こうありたい自分、こうあるべき自分という 自分の思いがあって、絶えず無意識に比較 していて、自分はダメと、暗くなり、落ち込んで しまっている。 神様はあるがまま受け入れて下さっている。 でも、自分はあるがままではダメで、自分の 理想でないから、自分が自分を裁いている。 平安がなく、心が暗くなる。自分の理想は 偶像だと気づかされた。 主があるがまま受け入れ、愛していて下さる ことを思うと、喜びが来る。嬉しい」 “・・それがあなたに何のかかわりがありますか。 あなたは、わたしに従いなさい” ヨハネ21:22
2014年08月16日(木) 「祈りの力」
祈りの力を教えられ、目の前に見せらる。 Bさん、どうしても受け入れられない相手 がいた。自分には、苦手な相手で、対応が 難しく、ストレスが溜まる一方だった。 自分には対応出来ないことを、神様に告げて、 とにかく祈りに持って行き、神様が働いて下さる ように、祈っていた。 自分には出来ませんと、祈りを積んで、次に会う と、不思議に心が守られ、落ち着いて、平安の中 で接することができた。 良い関係で、和やかに過ごすことができた。 やっぱり祈りは力があることを、もろに経験できた。 自分には出来ないので、自分ではなくて、神様 だった。祈りに答えて下さった。 Cさん、親ごさんが、病院に。会いに行くのだが、 身内なので、甘えが出て、親御さんは、ああでない こうでない、もっとああであったらよいのに、こうであっ たらよいのに〜ずっと愚痴が出る。 自分の体調も大変な中、また忙しい中、酷暑の中、 出かけて行くのだが、不満をぶつけられ、責められ、 心がへこんでしまう。 つい自分も、愚痴は聞くのが辛く、感謝しなきゃあと、 律法的態度、言葉になってしまい、すると平安は無く、 暗たんたる気持ちで、帰ることになる。 そのままを受け入れられない自分に、自己嫌悪に 陥るし、あ〜あ、来なきゃ良かったと思ってしまう。 「ところが!祈って行くと全然違うんです!」と明るい 顔で。 よくよく祈って行くと、それが受け止めることができて、 受け入れられるんですよね。 「ああ、そうじゃね。うん、しんどいね」と明るく、 平安に受け止めることができて。自分に余裕があるん ですね。同じ自分が、こんなに違うんだと。 すると、親も落ち着いて、心穏やかに、交流できて。 不思議です。神様が本当に働いて下さる。 行って良かったと、平安に喜びもって帰れるんです。 祈りの力を経験させられます。
2014年08月15日(水) 「ゆだねること」
ずっと山あり谷ありの、波瀾万丈の人生を 歩んで来たAさん。 もう次から次へと、試練続きで、言葉に尽くせぬ いろんな事があって、息つく間もなかった。 次々と、目の前のことをこなすのに精一杯で、 ただただ一生懸命だった。 いつも大きな重荷が押し寄せ、対応だけでも 全身全霊注ぎ、必死に生きて来たように思う。 ずっと、常に問題があり、重い荷があった。 しかし、それが長い歳月を経て、今、荷が全く 無くなってしまった。すべて失せてしまった。 思い煩いも、心配も、不安も、何も無い。 こんなに平安でいていいのだろうか、そう思う ぐらい平安で。 人生で、こんなに荷が無い状態は初めて だと。 感謝しかなく、心が安らかで、穏やかで、 平穏の中におかれている。 でも、決して問題が無いわけではない。 あの事も、この事も、思い煩おうと思えば、 不安を抱こうと思えば、幾らでもできる。 しかし、それは、一つ一つ、神様のふさわしい 時に、神様が成し遂げて下さると、心底思える、 信じられるのだと。 「あ、神様にゆだねたんだ!それでなんだ」 「そう、ゆだねた」 「ゆだねきったから、全き平安なんだ」 「そうだと思う。だいたい、ゆだねるという事が、 全くわからなかった。 どういう事がゆだねることなのか。どうなれば、 ゆだねた事になるのか。 ゆだねたと思っても、自分がしっかり握って いるし、思い煩いは全然無くならないし、 ゆだねるという事も、神様によらないと できないんだと。」 「御霊の導きに、ほんとに感謝(*^_^*)」
2014年08月10日(日) 「内を探り、御心へ」
神様は、私たちの心の底の動機を照らし出して 正しく導いて下さる。 Aさんが、子供のためと思い、目に余る行動を 正しく矯正しようと、注意し、叱っていた。 しかし、幾ら叱っても、全く何も変わらない。 子供はイライラし、反発してくるばかり。 自分も、いい加減腹が立って来る。 子供のことを心配して、思って、言っているのに と、怒りがこみ上げる。 何も変わらないので、何かが違うのではと、 心静め、心の底を、祈りつつ考えた。 すると、自分が不安で、自分が心配だから、 自分の心をおさめるために、自分のために 小言を言っていたことがわかった。 実は、子供のためでなく、自分のため。 自分が安心したいがためだった。 だから、相手の心に響かないとわかった。 Bさん、懸命に、人を助けようとしているが、 自分が助けなければ、立ち行けないと思っ てしまう。 手を引けば、相手は倒れてしまうと。 だからどうしても、支えなければならないと。 手を引くのが恐れと不安があって、できない。 しかし、それが相手の自立を妨げることを 神様から教えられた。 返って、相手を損なって行ってしまうことを。 手を引くことが、愛情であることを。 そして、自分が良い人に見られたい心の 内も示された。 周囲に良い人だと見られたいし、自分でも良い 人だと思いたい。 心の内を照らし、正しく導いて下さる神様に 感謝だ。 “主よ。あなたは私を探り、私を知っておられ ます”詩編139:1 “私のうちに傷のついた道があるか、ないかを 見て、私をとこしえの道に導いてください” 詩編139:24
2014年08月01日(金) 「思い煩いが失せて」
Aさん「私、若い頃から、というより子供の頃から、 人何倍も、ものすごい思い煩い症、心配症だった。 ああでもない、こうでもないと、目の前の一つ一つが、 ずうっと不安で心配でならない。 目の前の事も、過去の事も思い煩い、先の事も 不安で、心配の種は尽きない。 その思い煩いで、胃もしょっ中痛くて、生まれつきの 性質なんだと思った。 それが、イエス様に出会って、イエス様を信じた時に 全く心配が無くなった! 信仰生活、もちろん試練はあるし、苦しみもあるん だけれど、信じる前と全然違う。 根本から、心配症で無くなってしまった。 自分が、変えられてしまって、神様本当におられて、 神様、すごいと思った。 身をもって、神様がわかった。」 Bさん「自分にはどうして良いかわからない、どうにも できない悩みに会った時に、教会に飛んで行った。 以前からたまに行っていたが、その時に、イエス様を 信じて、救われたと思う。 その悩みがあったからこそ、イエス様のもとへ行けて、 感謝だった。 でも、その時はわからず、後でわかったことですが、 救われたが、自我は固く、自分の思いと自分の力が、 ものすごく強かった。 自分が、自分が、と思っているので、信じた後、 次の試練が来た時に、全部自分の肩にかかって しまうから、ものすごくしんどかった。 試練の厳しさに、平安などなく、ただただ苦しいばかり だった。 あとでわかるが、自分の力でしているので、力尽きて しまい、一歩も進めなくなってしまった。 委ねるも委ねないも、もうどうにもならず、委ねざるを 得なくされた感じだった。 「明け渡します」と祈った時に、何もかも変わってしまい 本当に驚いた。 あれほど重荷にあえぎ、しんどくてしんどくて、苦しかった 状況。その、状況は何も変わらないのに、思い煩いが 消えてしまった。 自分は何もできない、思い煩ったところで何もできない、 神様が一番良いようにして下さる!と、思えるんです。 それも、神様の時があるから、じたばたしてもどうにも ならない。 委ねていようと、思えるんですよ(*^_^*) 感謝です!!」