2015年01月30日(金)
  「恵みの下にある」

Aさん
「わけわからないほどの、めちゃくちゃ忙しい日々が
続いて、しばらく全くデボーションが出来てなかった
んです。

忙しさに飲み込まれてしまい、神様が飛んで、絶えず
目の前のことに反応してしまい、心はイライラ、ピリピリ。
余裕が全く無くて、でもこなして行かなくてはならず、
しんどくてたまらなかったです。

忙しさがひと息ついたんですが、何だか心が重くて。
せっかく時間が取れて、デボーションをしようとするが
できないんです。

あれもこれも出来ていないし、もう、ぐちゃぐちゃに
なっていて、祈れない。胸に重〜い鉛があるような
感じで、しんどいんです。

それで、聖書を読もうと、手に取るんですが、
字面を負うだけで、全然心に入らない。
何も入って来ない。まるで義務な感じで。
時間が取れたのに、はあ〜と、もうため息で。

もうどうしようもなく、そばにあった信仰書でも
読んでみようと、読み始めた。

すると、その中に、「恵み」のことが書いてあって、
私たちは「〜をしていなからダメ」、「〜したら受け入れ
られる」と、いつも「〜をしたら」の条件をつけて考えて
しまうと。

だが、条件が無いのが「恵み」と書かれてあった。
無条件ということが、心に、響いて来た。

条件を果たそう〃としていた自分に、気づかされ教え
られた。
デボーションをしたら受け入れられる。心にある
あの事、この事をしたら愛される。

裏返すと、デボーションをしていない自分は受け入れ
られていない、あれをこれをしていない自分は神様
から離れている・・。
だから、心が重くて、しんどかったのだと。

無条件の愛を思った時に、素直に御前に行くことが
できて、自分の姿を認めることができた。
すると、心平安にされて。

心平安になって、以前から示されていた友人に
電話ができ、証しができました。」


“律法によって義と認められようとしている
あなたがたは、キリストから離れ、恵みから
落ちてしまったのです”
ガラテヤ5:4

“あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下に
あるからです“ローマ6:14

2015年01月26日(月)
  「従うことの喜び」

Aさんが、対人関係で、ある苦手な相手がいた。

好きではない相手で、受け入れるのが難しく、
しかし、心は辛いので、ずっと祈っていた相手
だった。

守られて、外側は、何とか礼儀正しく接すること
ができていた。

ある時、家に遊びに来たいとの連絡を受けた。
その時、用事があるからと、即座に断った。

しかし、幾らでも日時も、動かせる、差し障り
の無い用だった。

祈らずに、神様を仰がずに、自分の思いで
断ってしまい、平安が無くなった。

もしかして、家に来てもらう事がみこころなの
ではとの、思いが来て、主を見上げて祈ると、
そうするように、御霊の促しを強く感じた。

心に抵抗があって、出来たら、そうしたくないが、
だが、みこころに従いたいと思えた。

祈って、決心して、電話した。
その時、相手が出ず、通じなかったのだが、
心は平安で満ちた。
嬉しくなり、御霊の喜びが湧き上がった。

後で、電話が入り、家族で食事に出る
ことになり、外出していたとのことだった。

主に従うことの喜びを体験した。
この世の喜びではない、御霊の喜びが与え
られることに。



“わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを
愛する人です。
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたし
もその人を愛し、
わたし自身を彼に現わします。” ヨハネ14:21

2015年01月24日(土)
  「砕かれて」

人生で、ちょっとひと息ついたAさん。

振り返ると、ずうっと、もう試練続きでした(笑)
それも半端無い、厳しい試練で、ずっと辛く
苦しかったです。

その渦中では、もう辛いばかりで、涙が出て
ただただ、いっぱいいっぱいでした。

もう一日一日過ごすのがやっとで、何が
何だかわからないほどの、しんどさでした。

でも、試練を通り過ぎた今、神様がすごく
見えるんです。
一つ一つのピースが繋がって、無駄は
一つも無いと、よくわかります。

それぞれが、必要なピースだったんだと。
それが一つ一つはまって、今があると。

でも、苦しい、痛い長い年月だったの
ですが、痛みが無ければ、神様のことは
わからないですね。

ものすごく痛いけれど、頑固な、強い強い自我が
砕かれるためだったと、わかります。

自分の自我が、どれだけ強いか、学ばされて
もし試練を通らなければ、そんな事もわから
ないままだっただろうと、
ほんとに、心から感謝できるんです。
痛いけれど、砕かれたことに心底感謝です。

対人関係で苦しかった事も、今、ワンクッション
おいて、落ち着いて、冷静に考える事ができて。

こちらの事も考えてくれていたこと、思って対応
してくれていたことも、不思議に気づけて、
感謝です。これも神様だと思います。


“苦しみに会ったことは、私たちにとってしあわせ
でした。
私はそれであなたのおきてを学びました”
詩編119:71

2015年01月20日(火)
  「呼べば答えて下さる」

今、大きな試練が臨んでいるBさん

「最初、どうにも出来ない事態に、もう大パニック
になったが、この事態が起きたから、神様に立ち
返れて感謝です。

祈ることができる、頼るお方がいる、どんなに感謝
か知れないです。

今、事態を主に委ねて、導きを待ち望んでいる状況。
主は思い煩うな、心配するな、任せて平安でおれと、
言って下さっています。

待っているが、全く何の動きも無いので、どうしても
不安がよぎってしまう。

そんな状況で、夜に祈ったんです。

『主の思い煩うなとの御言葉感謝です。
でも、弱くて、すぐ不安になって、思い煩うことを
赦して下さい。
何の動きも無いことで、一体どうなっているのか
不安で仕方ありません.
どうか心配しなくていい。恐れなくていい。と
教えて下さい』と。

すると祈ったその翌朝、突然その事についての連絡が
来たんです。
これからその事が進められて行くのですが、祈りが、
すぐに答えられたこと、主がわかっていて下さること、
本当に嬉しかったです。

今、一度お委ねしました。信じて行こうと思えて
感謝です。」


試練が来たから、主のもとへ走り、主に拠りすがる
ことができて、試練が主へと追いやってくれた。


“神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることが
できないような試練に会わせるようなことはなさい
ません。

むしろ耐えることができるように、試練とともに、
脱出の道も備えてくださいます”Tコリント10:13


“私が呼ぶとき、主は聞いてくださる”詩編4:3

2015年01月17日(土)
  「祈っていると・・」

「祈っていると、神様が一つ一つ導いて下さって
いることが見えて来ます。

今、義母の介護をしているが、先に実母を介護
して見送ったことが感謝で、振り返っていろんな
事が見えて来ます。

実母なので甘えもあり、つい言いたい事を言って
しまい、帰る道のりも暗たんたる気持ちで帰った
こともしばしば。

そんな失敗も益とされ、よく祈って行くと、自分の
気持ちに余裕があって、受け止めることができて
すがすがしい暖かな気持ちで帰れて。
祈りの力を経験させられました。

ああして上げたら良かったんだ、ここは、こうして
上げたら・・と後になって、色々教えられ、学ば
されました。

実母との関わりで、色々気づかされた後に、
義母に接して、ワンクッションもあり、冷静に
対応できるんです。

祈っていると、『ああ、こう言ってもらえば
嬉しいのではないかな』との思いが与えられて、
対応や、言葉かけも導かれて感謝です。
自分じゃなくて、神様を感じます。」

自分の肉親の時には、親が弱っている姿を見る
のが辛くて、受け入れられなくて、頑張れ、頑張
れ、と言ってしまう。
どうしても元気になって欲しくて、頑張って!になる。

でも、義母には、もう十分頑張っているよ、大丈夫
だよと言えて。

Aさんが具体的に証ししてくれて、
皆で「うわあ、そう言ってもらえたら嬉しいわ!!」

「でも、これも先に実母を看取ったお陰です。
一つも無駄がなく、すべての事が、パズルのように、
導かれているんだなあと、すごく神様を感じます」

何があっても、神様に祈れるから、ほんとに
感謝です。




2015年01月15日(木)
  「どこにいにるか」

Aさん「特別にしんどい試練だった時に、
教えられたんです。

自分がどこにいるかだけだなあと。

厳しい試練で、苦しい中だけど、イエス
様と共にいて、主を見ている時は、
きっと良くして下さると思える。
大変な状況の中だが、平安なんです。

そして、周囲の人が気遣ってくれたり、
祈ってくれたり、手を延べてくれることが
すごく感謝で、こんな自分のためにと、
有難いと思える。

ところが、肉にいる時は、心を屈折させ
る。
良くしてくれる人々に対しても、心を
閉じて、あんたたちは、幸せでいいよね
と心を屈折させる。
感謝も、平安もなく、人が羨ましくて
ならない。更にみじめになってしまう。

でも、状況は同じで、自分も同じ自分。
霊にいるか、肉にいるかで、天と地ほど
違うんですよねえ。

“あなたがわたしに下さったものを、わたし
のいる所にわたしといっしょにおらせて
ください”

イエス様が祈って下さったように、主の
おられる所にいつもいたいです。
どんな中でも、主の平安が与えられる
ことを経験しました。


Bさんも「もう涙、涙で、これだけ涙がよく
あるんだと思うほど、辛い中を通りました。
幾ら泣いても、涙が枯れない。

でも、不思議に、仕事に出る時は、心も
身体も、しゃんとして、人との対応には
笑顔が出るんです。
自分でなく、全然頑張ってるわけでなく、
無理にしてるわけでなく、神様の力を
ものすごく感じさせられました。

大きな御手に支えられていること、
守られていること、愛されていること
苦しい中で、でも平安が与えられていて、
ほんとに、瀬戸際の中で、もろにびんびん
神様を感じさせられました」


状況は問題ではないこと、自分がどこを
見て、どこにいるか、だけであることを、
教えられる。

2015年01月13日(火)
  「神のための私」


Aさん「厳しい、極度に苦しい試練があった。
余りに苦しくて、辛くて、神様がいるなら、何でこうなるのか、
神様何でと、神様を恨んで、何もしてくれない神様を憎んで
しまって、もう信じないと、心を頑なにしてしまった。
二度と祈ったりしない。
と、思った時もあったが、今、祈ってます」と(^^)

「神のための私」でなく、ずっと「私のための神」だった。
数十年前も、ずっと学びで聞いていたが、頭の理解だけで、
全然わからなかった。


自分軸で回り、自分が中心にあって、自分のために
神がある。
助けてもらうための神、自分がよりよく生きて行く
ための神。
だから、して欲しいばかりで、ああしてくれない、こう
してくれないと、自分の思い通りにならなければ、
神に反抗し、恨んでしまう。

「神のための自分」と、あの頃も散々学んだのに、
心が求めなかった。
自分が幸せになりたいばかりで、ああすれば、こうなれば、
きっと幸せになれると。そうならないと神を恨む。

そして、外面的に見れば、幸せな、恵まれた生活を手に
したが、心には喜びが無かった。神様に反抗していた。


自分でどうにも出来ない試練が起きて、神様のもとへ
追いやられ、必死に祈る自分がいた。

「今、神のための自分であることが、よくわかる。
初めてわかる。
それがわかるために、この数十年が必要だったの
でしょうね。」

自分の欲が満たされるなら、幸せになると勘違い
するが、そこに幸せも喜びもなく、

神に喜ばれることを求めて行く時に、自分に喜び
と幸せが与えられる。


2015年01月10日(土)
  「御心を行なうこと」

みこころに従うことの大切さを話していた。

Aさん「御心わかっていたのに、ずっとずるずると
なってしまい、なかなか従えなかった。

ずるずるとなると、感覚が鈍って来てしまって、
ますます従えなくなってしまう。
サタンも働いて来るし、してもしなくても
どっちでも良いように思えて来る。

そんな中、御霊の強い導きが来て、神様が
背中を押して下さっているのがわかった。
神様に背中を押されて、素直に従おうと
思えて、一歩踏み出した。

それ以来、ほんとに祝福されて、導かれて
今は感謝しかない。神様が近いと感じている。
あわれんで、チャンスを下さった。
御霊の強い導きがある時、それを拒まず、
無視せず、従うことの大切さを教えられた。

あの時、従わなかったら、今はないと思う」


Bさん「経験するんですが、御心がわかって
いて、自我が強くて、したくないので、しよう
としない。
出来ないのだが、本当は出来ないのでなく、
したくないから、しない。

そうすると、ますます心が固くなってしまう。
ますます従えなくなる。
御心は、できたら従ったらいいんじゃなくて、
従わないと、心が更に固くなるんですね。

ますますしたくなくなってしまって。
反対方向へ向かってしまう。
嫌いなことは、ますます嫌いになって行く。

御霊に助けられて、御心に従って行くこと
の大切さを教えられます」


パロが、神様に従わずに、ひと息つくと拒み、
を繰り返して行き、どんどん心が頑なになって
行ってしまった。

御心示されて、したくない時は、
「したくありません。助けて下さい」と、祈って行く
時に、不思議に、できるようにされる。
御霊がそこに働いて、助けて下さる。


“わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたし
を愛する人です。
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、
わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に
現わします”ヨハネ14:21

素晴らしい祝福が備えられている(^^)



2015年01月07日(水)
  「主がともにおられる」

昨年末のこと、1年の恵みを語り合っていた。

集まった皆が同じことを言い、不思議に、感謝だった。

「インマヌエル」 神は私たちとともにおられる。

Aさん
「いつも思う事ですが、頼ったり、気持ちをぶつけたり
出来る存在が、いつと近くにいて下さる事がすごく
支えになっているという事です。


小さい悩みも、大きい悩みも、自分の思っている事も、
何でも神様に祈るだけで、状況は変わっていなくても、
益として下さる事、又、そう思える事で平安を与えて
下さる状況を、この1年も何度も経験させていただき
ました。

何か起こった時に、まず祈るという練習が、前よりは
出来てきた気がして、感謝です!!」


Bさん
「年ごとに神様が近くなり、1年通して、更に近いお方
にされていることが感謝です。

人に言えば愚痴になり、不満になり、相手を責める
言葉になるところを、神様にそのまま言うことができて、
もうすぐそばにおられ、内におられ、受け止めて下さる。
感謝でならないです。嬉しいです。

一つ一つを祈りに持って行くと、更に神様を近く
感じ、自分の心が平安になり、軽くなる。

そして、今は目の前はこうで、目に見えるところは
こうだけど、必ず良くして下さると、思えるから
不思議です。

神様おられなかったら、どうなっていたかわからない
ほんとに感謝でならないです」



心底、神様に祈って行くと、気持ちを訴え、受け止
めてもらえて行くと、状況は全く変わらないのに、
そのままなのに、心が平安にされて行くから
不思議だ。

すると、問題が問題で無くなって行く。

結局、問題がある無いは、関係なく、「インマヌエル」
神が私たちと共におられることが、最大の喜びで感謝
だと

2015年01月03日(土)
  「試練があるからこそ」

Aさん
「厳しい状況にある時、必ず『思い煩い』が次々と
臨んで来る。襲って来る。
以前は、その思い煩いに取り込まれ、振り回されていた。
そして、それすら気づかなかった。
だから、苦しい状況が来る度に、落ち込み、沈み込み、
心は暗く、流されたままだった。
ほんろうされているようだった、

それを学びを通して、それはサタンの火矢であり、
繰り返し、繰り返し、思いの矢が飛んで来ている
ことを学んだ。

そして、主が「何も思い煩うな」と言っておられること
を何度も何度も学んだ。

まず、主を呼び、主に向き、思い煩いをそのまま告げ、
主に渡すことも。

それで、主に従おうと思い、思い煩いのたびに、それを
繰り返し、繰り返し実践して行った。

失敗しては、思い煩いについて行ってしまい、落ち
込んだりするが、だが、その事に気づけるようになって
行った。

今、サタンからの思い煩いが来ている、それは自分が
受け入れ、選択していること。
それに気づけるようになり、大きな変化だった。

実践し続けている内に、自分が変えられていることに
気づいた。

以前は、思い煩いと自分が一体化していたが、今は、
「思い煩い」が来ていることが認識できる。

『やはり練習なんですねえ』

今、神様から示されて、目の前の不安な事への思い煩い
が来るたびに、御言葉を口ずさむんです。

一日に一つ暗唱聖句をすることに決めて、一日何回も
その御言葉を覚えて、そして、思い煩いが来る度に、その
朝の御言葉を口づさむ。

すると思い煩いが消えるんです。
また、来たら、また、御言葉を握る。すごく良いです!
喜びが来て、心が恵まれています(^^)」

とても喜びもって話されるAさん。


はたで見ていて、結局、試練があるから、主を呼び、
主に拠りすがり、御言葉を握り、御言葉に立とうとする。

試練によって、信仰が鍛えられ、強められておられる。
試練があるからこそで、ほんとに益とされる主を
見せられる。

“私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それを
この上もない喜びと思いなさい

信仰がためされると忍耐が生じる・・

成長を遂げた完全な者となります”ヤコブ1:2

試練が、信仰の成長を与えてくれる。



2015年01月01日(木)
  「主の山の上には備えがある」

明けましておめでとうございます。

先日、カンボジアに宣教地訪問に行き、
家族が守られていること、開拓宣教を
主が導いて下さっていることを、目の当たり
に見ることができ、感謝でした。

宣教当初から「主の山の上に備えあり」
で、まず外国人がどのように捜してよい
のかわからない、住まいも家具も、すべ
てそっくり備えられていました。

丁度、働き終えて帰国される宣教師さんと
時期がジャストタイミングで、そのまま譲って
下さいました。

言葉の学びも、奉仕教会も備えられ、
又、しばらくすると、宣教師が、フォロー帰国で
お留守の教会をお世話する働きにあずかり、
大変良い訓練とされました。

そして、早くから、更に地方へ行き、開拓宣教
の志が与えられていましたが、それも昨年
実現し、次の働きの地でも、素晴らしい
住まいが備えられていました。

大家さんがクリスチャンで、良くして下さって、
助け合えるバプテスト教会が近くにあり、
すべてにおいて、主の山の上に備えあり
を見せられて行きました。

子供たちのための働きから開拓して行き、
今回もクリスマスに沢山の子供たちが
集い、神様の働きを目の当たりに。

病院が無く、学校が無いのでホームスクール
ですが、腰痛で歩けなくなった時には、
日本人整体師が短期滞在。診てもらい、
快方へ。

みこころの中にいて、みこころを行なって
行く時に、すべてにおいて主の備えが
あること、何の心配もないことを見せられ
ます。、

これからも、「主の山の上に備えあり」を
見せられて行く行程であることに、感謝
します。


過日、身近な二人の方が全く同じ事を
言われた。
「何の思い煩いもない、全く無い」「何の心配もない」
「こんなに平安でいいのだろうかと、思うほど平安」

「問題は無いのでなく、この事も、あの事も、
主の御心の時に、主が成し遂げて下さると
思える。だから心配無い」

問題も、思い煩いもあるけれど、それを逐一
主に委ねて、明け渡しているから、全き平安、
主の平安の中におられる。

今年も「主の山の上に備えあり」を信じて、
主を信頼して歩んで行けますように!!