2015年02月24日(火)
  「へりくだり」

Aさん「異国の地で、お世話になった、素晴らしい
信仰の親のような高齢のBさん。
お誕生日にに訪問して、一緒にお祝いできた
んです。

もう素晴らしいクリスチャンで、その時に、『Bさん、
長く信仰生活送られて、今一番心にあることは
何ですか』と質問したんです。

すると、『へりくだることです』と言われたんです。
ものすごく印象的で、心に深く留まりました。

自分もそうだなあと思ったんです。子供たちを
教えているのですが、こんなに一生懸命教えて
いるのに、どうしてわかってくれないの、とイラ
イラしたり、高ぶっている姿を見せられ。
自分には、へりくだりが無いと。

『へりくだること』、求めて行きたいです。


Bさん
「人に誉められる時、『いえいえ、そんなこと
ないです』と言う。日本だと必ずそうですよね。
謙遜そうに見えるが、それはへりくだりではないと
学び、自分の心を探ると自分もその通りだと。

自分では、高慢になっているつもりはないんですよ。
いえいえと、何となく謙遜そうにしているが、
あれは、違いますよねえ。高慢ですよねえ。

もし、ほめられたら、神様がして下さいました。
感謝します、が謙遜ですよね」


Cさん
「日本では、『いえいえ』が謙遜に、なってますよね。
でも、心の中が問題で、ほんとはそう思っていない」

神様の力によって、神様が与えて下さったものなのに、
神様に栄光を帰さないで、自分が栄光を取ってしまう。

いえいえ、と言いながら、自分が栄光を受けて、
すごく心地良くて、神様の栄光を奪っている。

よくあります。これが高ぶりですよね。
肉は人から誉められたり、認められると、心地良い
ですよねえ」


「聖書に、上座に座るなとあるが、誰も上座には座らない。
下座でウロウロし、いえいえと、譲り合う。
でも、じゃあと、上座に座る人がいたら、どんだけ非常識か
と、何という人かと(笑)心で裁く。
結局、自分は上座に座りたいってことですよね」


すぐに自分が栄光を奪う者であること、謙遜が無いことを
認めて、主の前に、へりくだって行けますように。


“キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方
を捨てることができないとは考えないで、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じよう
になられたのです”


2015年02月19日(木)
  「主の平安」

前述のBさん、もう一つその前に大試練が
あった。

ワーワー泣きながら、大泣きの国際電話
がかかった。
家族から、実父さんがもう危ないとの知ら
せが入った。まだ救われていないから祈って
欲しい。まだ福音も語れていない。
すぐ帰ると。

そんな危急の時に、ご主人から何と離婚
したいと切り出された。何の予兆もなく、
突然の申し出。全くの晴天のへきれき。

「はあ?え??何??」聞いていてもわけ
がわからない。

きっとご主人は以前からよく考えての事
で、もう変わらない、意志を感じると。

突然の二重の大試練。
とにかくまず実父さんに証しをし、神様
を伝えなければ・・。
涙ながらに、祈りに、祈りながら、帰国したと。
もう祈りは、うめきだったと。

病院で、1週間、お父さんのそばに張り付
いて、看護した。お父さんは幸い危篤は
一旦落ち着き、良くはないが、小康状態に
なった。

父と娘の交わりが初めてできたと。こんな
に話したのは初めてと。
小さい時のことを、ああだったね、こうだった
ねと、笑いながら思い出を語り、暖かい交流
が与えられた。

Bさんから電話が入るが、平安そうな声と
様子に驚いた。「それが平安なんです」
人生最大の胸が張り裂けそうな試練の状況で。

神様は御言葉の通りに、どんな悲惨な状況
の中でも、「主の平安」を与えられる。
目の当たりに見せられ、皆で祈りの答えに
感謝した。

今際の際に、お父さんに福音を語れた。お父
さんは心開いて聞いてくれた。
種は蒔かれたので、平安に神様にお委ねできた。

その後、離婚に至ったが、心身、生活・・
驚くばかりに守られた。


苦しく、辛い、悲惨な状況のまっただ中での
「主の平安」「御翼の陰」
これが与えられていることの、恵み!!!


2015年02月18日(水)
  「弱さのうちに現われる」

初冬に来てくれた同じく海外のBさんも。

主に導かれた、異国の地での証しの歴史だ。

離婚を通り、異国の地で子供たちを育てた。
以前、会いに行った時が、丁度時ピッタリに
試練勃発だった。

会った途端、大泣きに泣き出す。
どうしたのか、驚くと、前日に、大家から
突然来月中に、家を出るようにと。
大家が、買い手が出て、家を売却したと。
来々月には入るからと。

前日から大パニックで、恐れと不安のまっただ
中での再会だった。
泣いて、泣いて、子供たち抱えて、お金もなく
不安で、恐ろしくてたまらないと。

マックで、聖書を開いて集会をする(^^)
夫が御言葉を語り、一緒に祈る。
神様に目が向き、信仰に立ち、落ち着いた(^^)

神様視点に立った途端、混乱から、我に返れる。
大丈夫だ。笑顔が見えた。
祈りに祈ったところ、奇跡が起きた。
教会のすぐ近くの、老夫婦より、夫人のお世話
を条件に、一緒に住まないかとの、牧師を通して
の申し出。
皆で、主の御心を確信でき、新しい道に導かれた。
教会まで45キロあり、近くに移りたいという願い
も叶えられた。

以前、車が故障し、見積もりで30万かかると
言われ、お金が無く、しかし異国の地では、
車は必需品で、無くては生活が回らない。

何の手だてもなく、どうしようもなく、
神様の御前で泣いていた。

すると、その時に、その車のメーカーの欠陥車
が発覚し、無料修理に応じるとのニュース。
何と、その車は欠陥車に入っていて、無料で
きれいに修理されて、戻された。

神様の愛をひしひしと感じ、感謝と賛美が溢れた。


“わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は
弱さのうちに完全に現われるからである”
Uコリント12:9

無くて、構わない。弱くて、良い(*^_^*)




2015年02月16日(月)
  「我慢」とは

昨秋に、海外から遊びに来てくれたAさん。

思い出の中で、「我慢」ということで、お話して
下さったことに、とても恵まれた。

以前、ひじを痛めて、ワイヤーを何本も入れる
かなりの手術をされた。
そのリハビリをされていたが、大劇痛が伴う。

手術後は、このひじが、この先、曲がる事など
あり得るのだろうかと、いうほどの感じでしたと。

数週間たっても、少し曲げるだけで、また腕が
折れたのかと、飛び上がるほどの、劇痛でと。

もうとにかく祈りに祈って。リハビリの痛みに、
必死に我慢したと。
イエス様、痛い!痛い〜!!!と、訴えながら。
余りの痛さに、涙が出る。しかし、主よ我慢です!!!
と祈りながら。

ずっと祈り、祈りながら、我慢に我慢を重ねていた
時に、ふっと、イエス様が言われた。

どうして我慢するの?
我慢の「我」は、自我の我、我慢の「慢」は
高慢の慢だよ、と。

その途端、目からうろこで、我慢しなくてよいのだ!
心が変えられて、解き放たれ、嬉しくなった。

リハビリは、その後も大劇痛だったが、
「イエス様有難うございます。」「イエス様、お願い
します。」「イエス様が出て下さい」と、祈りも変え
られた。

頑張って、我慢している時は、イエス様の愛を
受け取っていなくて、拒んでいることに気づか
されましたと。
結構です、自分がしますと、言っていることだと。

絶えず、主の愛を受け取って行けますように。
主の愛にとどまれますように。


“父がわたしを愛されたように、わたしもあなた
がたを愛しました。
わたしの愛の中にとどまりなさい”ヨハネ15:9


2015年02月13日(金)
  「大きな試練には、大きな平安」

Aさんが突然の試練に見舞われた。
厳しい試練だったので、外出先で、試練に飲み込まれ
てしまい、神様が飛んで、思いばかりがグルグルし、
落ち込んで、涙が止まらなかった。

ところが、ちょうどその出先で、バッタリ!教会のBさんと
出会った!!

そのBさんは、事情を聞いてくれて、受け止めてくれ、
神様のことを話してくれた。

Bさんを通して、その帰り道、我に返れて、祈りながら
帰れた。神様のもとにしっかり帰れた。

神様が飛んでしまっていたところ、立ち返れましたと。
まさに、Bさんを遣わして下さった神様だった。
苦しみのさ中に、神様が出会って下さった。
神様の愛を感じることができた。

祈ると、心が落ち着いて来て、冷静に考える
事ができるようになった。

神様はこの苦しい事柄を通して、何を教えたい
のか、神様の自分へのメッセージは何なのか、
祈りに持って行けた。

祈っていると、その日の箇所の御言葉が
何と、今年の目標として与えられたまさに
その御言葉だった。

神様を感じた。

尚も祈っていると、明確な指針が与えられた。
自分の心と、状況にまさにピッタリの御言葉
だった。

なすべき事を示され、向かうべき方向も示され
心がすっかり落ち着いて、平安にされた。

大きな試練には、大きな平安をもって答えて
下さる神様を新たに知れた。

試練の中でこそ、主が真実なお方であることを
真に経験して行く。


“私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである”
Uテモテ2:13

2015年02月10日(火)
  「従って行くと・・」

「教会に来て、神様を知り、夫婦の学びをして、
ほんとに夫婦が変わりました!!」

Aさんも、Bさんも、Cさんも、Dさんも・・も(^^)

「神様を知らなければ、今頃、どうなっていたか
わからないです!!

もう友人・知人たちは、熟年になると家庭内別居
なんです。
だいたいご主人の定年後、もう自分も、人生の先
が見えて来ている。

あと何年生きるかわからない、今までずっと我慢して
来た。子供も巣立った。もう心配も無い。

『残された時間ぐらい、自分の好きな事がしたい!!!
自分の好きなように、生きたい!!
好きなようにする!』
ご主人たちは晴天のへきれきのようで(>_<)

気持ちがすごくわかって、もし自分も神様知らな
ければ、絶対にそうなってました!(^^;)」

「学びを実践したんです。
夫の趣味に、自分は全然関心無く、別にした
い事でもなく、でも、夫の好きな事を一緒にし
てみようと、何の関心も無かったが、一緒に付
き合ったんです。

すると、それが、数年続く内に、自分ものめり込んで
しまって、その事がどんどん好きになり、夢中になり、
今では、しっかり共通の趣味です!(*^_^*)

一緒にするというのは良いですねえ。これに
よって夫婦が建て上げられたと思います。
心が通い合って行った。
夫が変わって、夫婦の仲がすごくいい感じです」

「Aさんが変わったから、ご主人が変わったんだ」

「学びにあったように、例えば、映画を観る時に、夫は
アクションが好き、妻はラブコメが好き。順番にどちらも
一緒に観る。
これがいいですね。相手の好きなものも一緒に観る。
これがそれぞれ好きなものを観ればいい、だと、
そこに交じり合うことが無いですものね。」

「私も、夫の大好きな事に、付き合ったんです。
私も、別にしたい事でも無かったんですが。
夫がすごく喜んで、神様が祝福して下さって、
ほんと、同じように夫婦がいい感じなんです(*^_^*)

神様を知らなかったなら、自分の好きな事だけ
していたと思います。

“私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分
かってな道に向かって行った”イザヤ53:6

生まれつきの性質は、幾らでも自分の道に
向かってしまいますよね。

神様に従うと、神様が働いて下さること
また、学べて、感謝でいっぱいです」





2015年02月07日(土)
  「アバ、父。」

Aさんが
「イエス様に出会って、振り返ると、楽に楽に
してもらっていて、ほんとに感謝です。

この平安は、もう何にも代えられないです。
少しづつ、少しづつ教えられて来たように
思います。

信じた初めの頃は、まだ何もわからず、自分の
力で、自分の思いで、事に当たり、対応するので、
神様は神様、自分は自分、だったですねえ。

だから難しい問題が来ると、ものすごくしんどく
て、イライラするし、苦しいし、落ち込むし、
思い煩い、且つ、焦り・・

全部自分の肩にかかってたんですよねえ。
だから、神様を信じてはいるが、しんどくてたまら
ない。平安など無い。

かなりの歳月、そんな歩みだったです。
それが、問題が起きて、もうどうにもならない、
ほんとにどうにもできなくて、行き詰まった時に、
初めて、神様に全部委ねることができました。

自分の力で出来る範囲なら、明け渡す事も
しなかったが、許容量を超えていたので、今
思えばほんとに感謝で、もうギブアップで、明け渡した。

その時、初めて、聖書の平安を経験しました。
それまで、クリスチャンだし、信じてもいるが、
今のこの平安は、全くわからなかったです。
自分で、全部してるんですものね。

ずっと頑張って頑張って生きて来たので、
その思考パタンと価値観しか無いので、
クリスチャンになっても、頑張ってしまう。

神様に頼るということが、どうしもわからない。
自分でしなくてはと、思ってしまう。
それがしみついていますものね。

神様の前でも、「良い人」で、いてしまうんですね。
神様の前では「子供」(チャイルド)でいいんだと。
今は、もう何でも神様に言って、受け止めてもらい、
もう平安で、平安で。

「しんどいよ〜神様」「これ、どうすればいいですか?」
「わからない、教えて下さい」何でも祈ります。
すると、喜びが心に来るんですよ。

振り返ると、結局は、試練、行き詰まりが
感謝という事になります(^^)」



“あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような
奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる
御霊を受けたのです

私たちは御霊によって、「アバ。父」と呼びます”
ローマ6:15

2015年02月04日(水)
  「些細な事の中に」

以前に、Cさんが、

ある年の年頭に、「もしあなたが信じるなら、あなたは
神の栄光を見る」ヨハネ11:40 の御言葉が心に強く
与えられた。

主の素晴らしい栄光を拝する年になるのだと、
大変嬉しく、どんな主の栄光を見れるのだろうと、
ワクワクし、その御言葉を握り、1年を出発した。

そして、何が、何が見れる?と、思いながら数ヶ
月が過ぎた頃、御霊が教えて下さった。

自分は、神の栄光=奇跡のわざと、勘違いし、
皆が、あっと驚くような、大きな、目に見える奇跡、
それが神の栄光だと、勝手に思い込み、
どこにあるのだろうかと、いぶかっていた。

毎日、同じ事の繰り返しが続くだけの、平凡な日々、
どこにそんな奇跡が??と、全く見えないでいた。

ところが、御霊が、そうではない。人をびっくりさせる
ような大きな事だけが栄光なのではない。
それだけが奇跡なのではない。

神様の栄光とみわざは、毎日の平凡な生活の中の、
小さな事の中にあると。
それがわかった事が、みわざだと。

平凡な日々の、些細な出来事の中に、神様の愛
やご配慮、祈りの答えを見つける時、喜びが溢れる。

日常の小さな事の中に、沢山の奇跡があって、
何より、自分の心が変えられている事が、奇跡
だと。

神様を見ていると、それが見えて、自分の思いや
状況を見ていると、それが見えない(^^)

2015年02月02日(月)
  「今日の悟り」

少し前に、昨年1年の恵みを語り合っていた。

Aさん「去年1年のことを振り返ったのですが、
もう、あっ!という間でした(笑)

ほんとに、あ!という間で、飛び去ってしまった
感じです。

1週間が、あっという間、1日があっという間
だなあと、ものすごく実感して。

1日が早く、1週間が早く、1年が早い。

去年を振り返りながら、今年の目標も祈ったり
考えたりしていた中、『悟る』という事が自分に
とって必要で、大事だなあと。

物事も、事態も、次から次へと流れて行く、

その中で、神様が何を教えて下さっている
のか、神様のメッセージは何か、それを
『悟れるように』が、今年の祈りで目標です。

1日ごとに、今日何を教えて下さったのか、
神様が何を言われたいのか、悟って行け
るよう、今年は祈って、そこに目を留めて
行きたいです」


Bさん「あ!私も、そうしたいです!
1日ごとに、今日は何を示し、何を与えて
下さったか、悟って行きたい。

今まで、試練の時は、試練を通して、何を教えて
下さっているのか、神様のメッセージは何かと、求め
るようにと、学びでいつも教えられるので、試練の
時は、祈るけれど、

何も無い平常は、流されたままになってます。
問題が無い時は、ぼやっ〜と過ぎてしまい
ますよね。

1日1日、今日の1日はどんな1日だったかを悟って
行けるよう祈って行きたいです!!(*^_^*)」


“私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです”
詩編90:10

日が過ぎるのは早い。
1日、1日、主と共に歩み、教えられていることを
受け取り、悟れるように。