2015年03月21日(土) 「どうしても必要なこと」
サタンがデボーションをいかに妨げるかという 話になる。 「祈っていると、思いがふっと入り、その思いにつら れて行って、気がつくと考え事をしていて、 祈りが飛んでいる(^^;)」 「それ、しょっ中ある!祈りが、いつの間にか 考え事になっていて。 サタンが、思いを吹き込んで来るんですねえ」 「祈ろうとすると、眠気が来る。それまで全然 眠くなどないのに(笑)妨げを感じます」 「ふっと時間ができて、今、祈ったらいいとの 思いが来る。御霊様ですよね。 すると、あれをしなきゃ〜、これをしなくては〜 との思いが必ず来る。 身体がふう〜と動いて行ってしまう」 「私、デボーションしてたんですよぉ。聖書 読んでいて、ふと庭を見たら、草が目に入って、 で、気がつくと、庭に出て、草抜きをしていて。 はっと我に返り、今、何で、草を抜かないと いけないのかと(笑)何をしているのか。 大事な、デボーションしなくちゃと、大急ぎ で戻り(^^;)」 「朝、家族を送り出して、祈ろうとすると、 テーブルを先に片づけたら気持ち良く できるとの思いが来る。 その思いにつられると、その間に洗濯機 回したら、同時進行でできるとの思い。 それに従うと、とにかく干さなくてはと 洗濯物を干し、ついでに掃除機かけ てしまったら、朝の用が済んで、 落ち着いて聖書読めるとの思い、 それサタンの吹き込む思いですよね。 それについて行くと、デボーションが 持てないまま・・」 「する事が多い日など、気持ちが急いて 急いて、祈ってる場合じゃないとの思いが・・(笑) 一番大事なのにね」 サタンを見分けて、無くてはならない一つのものを 大切にして行けるように。 “しかし、どうしても必要なことはわずかです。 いや、一つだけです。”ルカ10:42
2015年03月18日(水) 「向こう岸へ渡ろう」
イエス様が、「さあ、向こう岸に渡ろう」と言われ、 夕方に、弟子たちは舟をこぎ出した。 湖に、舟をこぎ出すと、途上で大嵐に会った。 いつも嵐にも慣れているベテラン漁師たちが、 死ぬかも知れないと思うほどの、特別な嵐だった。 舟はどんどん水が入り、必死で水をかき出し ていた。浸水し、転覆してしまう。 「向こう岸に渡ろう」との、御心に従わずに 岸にとどまっていれば、嵐に会わなかった。 御心に従ったゆえに、嵐に会った。 よく、御心に従って、試練に遭遇する。 Aさんも「御心に従ったなら、万事順調、 何の問題もなく、順風満帆で、幸せになると、何と なく、思い込んでいました。 御心をはずれたら、祝福からそれるのは わかるが、御心に従うことは祝福で、 その祝福=順風で問題の無いこと、平穏無事 と勘違いしていて。 ところが、御心に従った途端、もう次から次 へと、これでもかこれでもかと、試練が来て。 最初、「何で?何で?」御心を間違ったのか と思うが、でも、祈って与えられたものと確信 があるし。 神様の視点は、自分の思いとは正反対で、 自分に試練を与え、固い強固な自我を 砕くこと、そして、神様に拠り頼む者に 造り変えようとして下さることだったんだと。 もう次々と辛い苦しいことの連続で、でも 一つも無駄はなく、通るべき、自分に必要 な道だったと、わかります。 苦しみの中で、沢山のことを学ばせられ 心から感謝できます。」 向こう岸へ渡れたね。 “苦しみに会ったことは、私にとってしあわせ でした。 私はそれであなたのおきてを学びました” 詩編119:71
2015年03月14日(土) 「御声を聞く」
「最近すごく気づくんですが、 祈りは大事という事を繰り返し、繰り返し学ぶので、 何か、しようとする時に、まず祈るんですが。 しかし、これも感謝なことで、以前はそういう事も なく、自分が思い立つと、祈りもせず、思うまま に動き回っていました。 まず、祈るように、変えられたことに感謝です。 だが、祈った途端、すぐ立ち上がって動いてしまう。 祈ったから大丈夫!!祈ったからOK!! になってしまっていて。 祈って、待つ。祈って、御声を聞く。そして動く。 主の御声に耳を澄ませ、耳を傾け、御霊の 平安を探りながら、主の御心を知る。 待つこと、耳を傾けることに、心を向けています。 そして、逆に、あの時、この時、御霊の促しを 確かに受けていたと、今、わかるんです。 あれは御霊様だ。 あれをしなさい、これをしなさい、御霊が導いて おられたと。 よく心に留めないまま、ないがしろして、ずるずる と流したことが色々あったなあと。 示されているとわかっても、したくない事だったり すると、できなくて、というかしたくなくて、流して しまったことも。 これからは、御霊のうながし、示しに祈って 助けられて、一つ一つ従って行きたいです。」 “あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの 耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と 言うことばを聞く” イザヤ30:21
2015年03月12日(木) 「主を第一に」
「対人関係で、もやもや、イライラ、心がざらついて いたんです。 人が羨ましく感じたり、妬ましく思ったり、自分の思い 通りにならない状況に、心が重く、苦しかったり、 心沈んだり・・。 祈っていたんですが、その時に、ハッと、突然 光が来て、自分が何とかしようとしいるし、 神様以外のものを、人を重んじていることに 気づかされ。神様より上に置いていると。 とにかく、神様を第一にすれば良いんだと、 そう決心すると、心がものすごく平安になった んです。 もう、ス〜ッと落ち着いて、それが、ざらつきが消え たんです!楽になりました。 神様に視点に立つと、『あ、神様は状況をご存じ』 『神様はわかって下さっている』『神様が見て下さっ ている。神様が見て下さっているなら、それでいい』・・ と思うと、心に、もやもやが何も無くなり、喜びが 出てきて。 もう驚くほどなんです!私、変えられました。 初めての経験で、嬉しいです」 “神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものは すべて与えられます” マタイ6:33 何を飲むか、何を着るか、などと言って 心配するのはやめなさい。 あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに 必要であることを知っておられます” 物品、経済的必要の満たしは、しょっ中、経験する が、心に気づかぬ偶像があって、それは目に見えない ので気づかない。 神様第一にして行く時、心が自由に〃されて行く。
2015年03月08日(日) 「神に知っていただく」
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝 をもってささげる祈りと願いによって、あなたがた の願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人の考えにまさる神の平安が、あ なたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって 守ってくれます」ピリピ4:6 何も、いっさい思い煩わないで、願いを神に 「知っていただきなさい」。 そうすれば、「人の考えにまさる神の平安が」 来て、心と思いが守られる。 主に持って行き、祈ると、心が平安に守られると。 外出中に、急にひどく気分が悪くなり、とりあえず 椅子に座り込んだ。 身体が重い感じで、だるく、しんどくて、何だか 吐きそうだ。不安に襲われそうになるが、 「何も思い煩わず、神に知っていただきなさい」 の通り、 状況を祈ると、すうっ〜と、心が平安になった。 今の状態、不安を、主に「知っていただいた」と 思った時、今、この状況を知って下さっていると 思うと、不安が消えた。 安心感に包まれて、心があたたかくなった。 大丈夫だと思えた。 しばらく椅子で休み、冷たい飲み物を飲むと すっきりして、吐き気が無くなり、立ち上がれた。 突然のアクシデントだったが、神様に触れる恵み の機会とされた。 「知っていただく」ことの安堵感、安心感をもろに 経験した出来事だった。 Aさんも、「デボーションノートに、思い煩いや不安 な事を、書き連ねるです。 そして、知って下さって感謝しますと、祈る。 すると、平安になります!! 心が重かったり、気持ちが落ち込んで、暗くなる時、 必ず、何か思い煩ったり、自分で何とかしようと していることに気づかされます “あらゆるばあいに”なので、一つ一つ 神様のもとに持って行くと、平安にされます!」
2015年03月05日(木) 「自分じゃなく」
不規則な時間帯で仕事をしているAさん。 仕事明けが、集会の時間になることも。 身体はもうクタクタのヘトヘト、御言葉を 学びに行けば良いのはわかるが、 すぐにでも、横になってしまいたいほど。 だが、職場を出ると、まあ、ちょうどピッタリと 電停に、電車が・・。 「神様、これは行けと言うことですね」 倒れ込みそうに疲れていたが、学びに 来れた。 「神様です。自分じゃなくて、神様が来さ せて下さいました」 「ほんと、ヘトヘトだったけど、来て良かった! 恵まれました」 Bさん「私、神様によって、変えられました。 親族の世話をするのも、なかなか身体が きつくて、しんどくて、心身疲れて来て しまい、できなかった。 相手も、自分の思うようにならないストレス をぶつけてくるので、こちらも精神的に 参ってしまい、イラ立ちが出てくると、 自分を責めて、落ち込んでしまって。 ただただ、「したくないです」「しんどいです」 「動けません」と。 「自分には出来ません。委ねます。助けて下 さい」と、ありのままを祈り続けて行くと、 それが今、身体が動くんです。こうして上げたら いいなと思うことを、自分がしてるんです。 驚きです。 こんな言葉をかけて上げたらいいなという 言葉かけを自分がしていて、もうびっくり!です。 自分じゃないです! 自分は、全然頑張っていないし、以前あれほど しんどかったのに、どうもない。 神様に導かれて生きるって、全然違うんですね。 御霊に導かれる経験をして驚いています。 ギスギスして、重くて、苦しくて、しんどくて、 それが、なめらかで、軽くて、喜びがあって、 平安で、神様すごいです」 “御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して 肉の欲望を満足させるようなことはありません。 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがた は律法の下にはいません” ガラテヤ5:16
2015年03月02日(月) 「些細なことの中に」
以前に、Cさんが、 ある年の年頭に、「もしあなたが信じるなら、あなたは 神の栄光を見る」ヨハネ11:40 の御言葉が心に強く 与えられた。 主の素晴らしい栄光を拝する年になるのだと、 大変嬉しく、どんな主の栄光を見れるのだろうと、 ワクワクし、その御言葉を握り、1年を出発した。 そして、何が、何が見れる?と、思いながら数ヶ 月が過ぎた頃、御霊が教えて下さった。 自分は、神の栄光=奇跡のわざと、勘違いし、 皆が、あっと驚くような、大きな、目に見える奇跡、 それが神の栄光だと、勝手に思い込み、 どこにあるのだろうかと、いぶかっていた。 毎日、同じ事の繰り返しが続くだけの、平凡な日々、 どこにそんな奇跡が??と、全く見えないでいた。 ところが、御霊が、そうではない。人をびっくりさせる ような大きな事だけが栄光なのではない。 それだけが奇跡なのではない。 神様の栄光とみわざは、毎日の平凡な生活の中の、 小さな事の中にあると。 それがわかった事が、みわざだと。 平凡な日々の、些細な出来事の中に、神様の愛 やご配慮、祈りの答えを見つける時、喜びが溢れる。 日常の小さな事の中に、沢山の奇跡があって、 何より、自分の心が変えられている事が、奇跡 だと。 神様を見ていると、それが見えて、自分の思いや 状況を見ていると、それが見えない(^^)