2015年04月22日(水) 「聞く態度」
「最近、御言葉を聞く『態度』について考え させられ、心探られています。 種まきの例えで、幾ら種である御言葉があっても 土地が問題で、種がきちんと受け止められなければ 実がなることが無いですよねえ。 土地は心で、自分はどういう態度で聞いているのかと、 今までの聞き方も振り返らされて。」 学びの中で、道ばたに落ちた種は鳥が来て食べて しまった。サタンが取ってしまう。 道ばたの心は、固くて、地中に種が入らず、 種を跳ね返してしまう。 自分の主観が強かったり、思いが強く、偏見が あったりしたら、御言葉が入らない。 自分を御言葉の上に置いて、都合の良い御言葉 だけを受け入れ、都合悪い実言葉は捨てる。 又、映画館で映画を観るように、自分は関係無く 傍観者的に聞く。他人事だ。そのように自分のことと して受け取らない。 自分の心には入らない。それなら、つまりは、御言葉 を捨てていて、聞かなかったことと同じになる。 聞いていると思っているが、実は聞いていないことに なる。 反発しているつもりは無いので、自分は御言葉を 聞いていると思っているが、実は何も入ってなかった りする。 御言葉が根ざさない限り、クリスチャン生活、何年 たっても自分が変わることも、成長することがない。 御言葉が心に入らない限り、結実は不可能だ。 何も起こらない。 又、「自分が」御言葉を取ったり捨てたりして、 都合良い御言葉だけ取るなら、自我が砕かれる ことは無い。 「自分が」御言葉をわかろうとしても、わからない。 御言葉の下に自分を置いて、へりくだって聞く 時にのみ、心に撒かれた種が確実に結実して 行く。 ‘わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ わたしのことばにおののく者だ’イザヤ66:2
2015年04月20日(月) 「自然体で」
「対人関係で、難しい人がいました。 相手はわからないが、自分的には無理と思い、 距離を置いて接していました。 それが、神様を信じて、少しづつ御言葉を 学んで行く内に、別の試練が臨んで、その時に もう自分ではどうにもならず、身動き取れず、 自分を明け渡したんです。 すると、ほんとに使用前、使用後みたいに自分 の心が変わってしまって、気持ちが楽にされて その試練を乗り越えることができたんです。 本当に、ただただ神様の力でした。 そして、ずっと以前からの、対人関係が目の 前に来た時に、自分は何も頑張らないし、 気負いもなく、ただ祈っていただけなのに、 相手を受け入れることができていたんです。もう 自分でもびっくりで、自分はほんとに何もして いない。 神様に明け渡して、祈っていただけ。 奇跡が起こりました。相手を喜ばせようとかも 別に考えているわけじゃないのに、ただ祈って いると、ああして上げたらいいな、こうして上げ たらいいなと、示しが浮かぶんです。 自分ではその御霊の示しに従って行くと、 相手に、ものすごく喜ばれてびっくりです。 頑張りも、無理もせず、自然に、自然体で 出来るんです。 強いられてでなく、ねばならないでなく、 ほんとに自然なんです。 ただただ神様です! いつも学ぶように、自分の力だと、油の切れた 機械で、心がざらついて、心固くイライラピリピリ、 でも、御霊が働かれると潤いがあって、スムーズで 頑張りがなくて、喜びがあって、感謝です(^^)」 ・・・・・・・・・・・・・・・ 皆で、「明け渡しが鍵ですねえ(*^_^*)」 “しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがた は、律法の下にはいません”ガラテヤ5:18
2015年04月15日(水) 「神の思いと人の思い」
「嬉しいことがあったんです! 自分の進むべき道を、時間をかけながら、ずっと 祈って来て。祈りを積んでいた。 その中で、本当に導かれるのだろうかと、正直、途中で 不安が来たり、思い煩ったりもあったりしながら、 でも、その事も、ありのまま告げて、祈りながら、導きを 待ち望んでいた。 状況やら、御言葉やら、心の平安やら見ながら、 段々、こうなのではないかなあと、思い描く 将来の姿が少しづつ見えて来て。 それらのものと併せつつ、自分としては こうなったらいいなという、思いがあって。 これが御心かなと。段々思えて来て。 結局、今まで祈りを積んだ御心が示されると、 それが全然、自分の思いとは違ったんです。 自分の思いの進路は閉ざされて、別の形 だった。 でも、そこで、神の思いと人の思いがあるという ことで、受け入れることができたんです! 自分の思い通りでなかったが、主の最善だと 受け止めることができた。 これ、大きな変化なんです!! 以前はそれが出来なかった。 自分の強い思いがあるばかりで、自分の 思い通りにならなければ、神様の愛を 疑ってしまい、愛されていると感じられ なかった。 教理では、神の思いと人の思いがあると 神の思いが最善とわかるが、 現実の事柄では、受け入れられなくて、 神様に怒ってた。そして、どこが愛なのか わからなかった。 いつも問題が起きるたびにそうだった。 今回、変えられている自分を知り、 嬉しかったです!!」 “わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。” イザヤ55:8
2015年04月13日(月) 「主の平安」
神様にある平安がどんなに感謝かと話す。 「もう第二の人生なんですが、老後の事を考えて 準備をしています。 将来の住まいを祈る中で、神様が導いて下さって います。それが自分が一番好きでない、行きたく ない所だったんですよねえ(笑) でも、祈りを積む中で、平安に準備ができている 自分に驚いています。もう不思議で。 神様が良くして下さると思えるから、その先の 思い煩いも不安も、何だか、無いんです(^^) 生活の中で、状況じゃなく、境遇でもなく、心に 幸福感、幸せを感じることができて、もうこれって、 ただただ神様のゆえと、感謝でいっぱいです。」 「私もおんなじ。ほんとに心が安らかで、何も 無いんよ。こんなに楽でいいのかと思うほど(笑) 状況的には、何も無いんじゃなくて、もう問題や 悩みや、不安なことに取り巻かれてるんよ。 でも、神様が良くして下さる、自分が煩ったとこ ろで、何もできない、自分はなんにもできない、 一つ一つ、神様の時に、ご計画通りに導いて 下さると思えるんよ。 それで、自分の内になんにも無くて、ほんとに 穏やかで平安なんよ」 「うわっ!それ、神様にゆだねてるんじゃあ!!」(笑) 「委ねてるからよ。すごいなあ」 「すごいこと何もない。でも、私、変えられた。 以前はもう、思い煩い、〃、〃、心配症で 煩い症、すごかったんよ。いつも眉間にしわを寄せて、 胃が痛くて。ずっと胃が痛かった。 それが今、胃が痛むこともなんもない」 「あ!それ、私もわかる!! 私も以前は、もう半端無い心配症。いつも最悪 のシナリオ描いて。 その最悪、なったためしがない(笑) 先のことは、全くわからないのだから、おゆだね しようと思ったら、もうもうすごい平安になった!」 もう、主の平安は何ものにも代えられないね!!(*^_^*)
2015年04月12日(日) 「無駄は一つもない」
ヨセフの波瀾万丈、疾風怒濤の歩みを学んでいた。 エジプトに売られた時も、「主がヨセフとともにおられたので」 主人の絶大な信任と愛顧を受けた。 それが、えん罪で一転、囚人に。奴隷よりも悪い。 しかし「主はヨセフとともにおられ」模範囚となり、 囚人の管理を任された。 牢獄で、献酌官長の夢を解き明かし、献酌官は 晴れて釈放に。無実の自分の事を執り成してくれる と期待し待ったが、忘れられてしまった。 2年後、パロの夢を解き明かすことになるが、この 2年が非常なる試練の時だったろう。期待が無ければ いいが、今日か明日かと期待し、ダメで、その繰り返し は心が疲弊する。厳しい試練、忍耐の時だった。 しかし、ヨセフは、くさらず、投げやりにならず、いじけず、 主を見上げて、その場〃で、出来る事をして行った。 ヨセフは、父ヤコブに可愛がられて、ひいきにされて 育ち、人の痛みもわからなかった。 砕かれて砕かれて、練られて、訓練されて、器に整え られて行った。 ・・・・・・・ 日常に起こる出来事の中で、『これが最善か??』 『このどこが最善なんだ??』とその時はもう『??』 なんですが、 後になると、ほんとに最善なんですよね!! 痛いこと、しんどい事、苦しい事があるし、通る んですが、通って良かったと思えるんですよね。 ほんとに無駄なこと、一つもないんだなあと。 砕かれることが必要なんですよね。 砕かれないと、わからないですねえ。 今は、周囲からも、下の人からも偉そうに言われても、 全然腹が立たないんです。 昔の自分なら、カチーン!と来て、怒り心頭です。 あっちにカチン、こっちにカチン!もうどこでも頭 ぶつけて(笑)腹立てて。 神様、変えて下さいました。まあ、平安になりました(^^) 以前は、何か人に言われる度に、ムカッ!と来て いて、プライドにいつもひっかかったんでしょうねえ。 砕かれるって、感謝です。砕かれると、そこが無く なりますよね。カチンと来なくなるし、ムカッと来な くなる。ほんと砕かれてなんぼですねえ」 「あ、わかる!同じです。職場でも、何10才も 年下の人に言われても、怒られても、全然どうもない。 教えてもらいたい、教えて欲しい、教えてもらって 感謝なんよ。 自分の失敗も受け入れることができて、神様ごめん なさいばかりで、でも、へこまずに、この事も益と して下さる、先があると思えるんよ。 神様が良くして下さると思える。だからへこたれず にやれる。 かなりの失敗するんだけど、翌朝には、さあ行こう!! と思える(笑)神様ですよねえ 人も気にならなくて。以前は違った。人が気に なって気になって。」 「砕かれないと、御言葉もわからないですねえ。 自分で聖書を読もうとしても。わからない。 へりくだって、神様に教えていただかないと わからない。へりくだりですねえ。結局、 神様の世界は、これしかないんですねえ。 ほんとに、自我がもう強いから」 「自我、もうものすごく強い。どこまでという ぐらい。 でも、ほんと砕かれると、そこの部分は 無くなること経験します(^^)」
2015年04月10日(金) 「互いの栄誉」
「日本人て、空気読んで生きて行くことが、小さい頃 からの生き方で、本音と建前を使い分けて、人の前 に、うまく生きて行くように、培われていますよね。 人を愛するのとは、違って、人への配慮のように見え るが、結局は自分が良く思われたいからですよね。 良い人に見られたい。自分のため。 そうやってずっと生きて来たから、本当の自分がわか らない。 自分が思う自分は、繕って来た自分であって、本当 の自分ではない。 では、本当の自分はというと、ほんとにわからない。 結局、全く自分を生きて来ていないんですよね。 人の前の自分、人にどう思われるかの自分、その 自分があるばかりで。 突き詰めて行くと、そんな生き方虚しいですねえ。 でも、それに気づけて感謝ですよね。 御霊様に、自分の闇の部分に光を当てていただ いて、導かれたいです。 気づかせて下さったのは、必ず成し遂げて下さる ためですよね。感謝です。 自分の心の内を照らし出されるために、 祈って行きます!」 「良い人に見られたくて、ずっと生きてきたと思います。 神様を知る前は、そんなことを考えることも無かった。 そういう発想も無くて、ずっとそうやっていてわからない、 気づかない。 神様を信じた後も、自分の栄光のため、自分が賞賛 を受けるため、神様の前でなく、人の前に生きて来て 気づかない。どうしても人の愛が欲しいのでしょうね。 でも、「わたしの目にあなたは高価で尊い」と言われ、 この御言葉が、心にぐっと入った時に、心が変わり ました。 神様の前に生きたい、神様が愛して下さっている のだから、人からどうこう思われてもいいと。 神様によって、人を気にして生きる生き方から自由に されことを教えられます。」 「神様のために生きているつもりなので、この“つもり” がくせもので、欺かれてしまう。 でも、自分のための神です。自分が中心にあって、 その自分のための神様。 神のための自分じゃないことを、見せられる。 ほんとに御霊によらなければ、不可能ですよねえ。 自分を捨てる、十字架に自分もつけられている。 御霊によって、それを信じて行く歩みですね」 “互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求め ないあなたがたは、どうして信じることができますか” ヨハネ5:44
2015年04月08日(水) 「素晴らしい神様」
この日曜は、イースター召天者記念礼拝だった。 毎年、信仰もって召された親族の証しを順番 にしていて、今回は一人の人の母親について の証しだった。 母親は生まれた時に、彼女のそのまた母親 が亡くなり、養女として親族に育てられ、 若い時に、親戚に決められた結婚をした。 しかし人に決められたもので、うまく行かず、 離婚に至ってしまった。 夫婦が子供を一人づつ引き取り、彼女は断腸の 思いで、子供を手放した。 それ以来、彼女は自分の手で育てられなかった 事が心裂かれる思いで、苦しみと悲しみで、深い の心の傷となった。 別れた母子の再会が果たせて、子供が、 神様を信じて、喜びもって生きる姿に、彼女 は心の底から喜び、主イエスを信じた。 やがて、高齢になり、病に倒れ、危篤状態で かけつけた時に、神様のことを話すと「その事が 聞きたかった」と。御言葉を求め、待っていた。 御言葉を聞き喜んだ。 苦労に苦労の、悲しみや辛さの人生だった が、最後の言葉は満面の笑みで「私は幸せ でした」一番最後が「感謝!」だった。 彼女の娘が、母の最後の言葉が「感謝」だっ たと、お墓を造った時に、墓石に大きく「感謝」 の文字を彫った。 神様が成された、素晴らしいみわざだった。
2015年04月06日(月) 「みこころのように」
よく自分の思いと、神様の御心がかみ合わない時が ある。 自分は、こう進みたいのに、道が開かれない。 自分はしたくないのに、神様からの促しを感じる。 心がスムーズでなく、悶々とする。 自分は、したい事があり、強い思いがあり、でも 平安がない。 どうしてもしたくない事だが、するようにと御霊の 導きが来る。 イエス様がゲッセマネの園で祈られた箇所を学ぶ。 「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて ください。しかし、わたしの願うようにではなく、 あなたのみこころをのように、なさってください」 マタイ26:39 この十字架を回避したい、かかりたくないと 祈られた。何か、別の思いがあられたのだろうが、 極めて率直に、祈られている。 かかりたくないと。しかし、自分の思いでなく、 みこころのようにと。 「悲しみもだえられ」「悲しみのあまり死ぬほど」と。 「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血 のしずくのように地におちた」 「深く恐れてもだえ」 あの弟子たちに、一緒にいてほしいと。 弱さをそのまま出された。強がるのでなく、 率直に、素直に気持ちを表されている。 雄々しく、弱音を吐かず、御心を行なって行くのが 霊的であり、立派な信仰者と思いそうだが、 主はあるがまま、正直に、気持ちを告げ、 弱さを出しておられる。 きちんと御父に、自分自身に向き合われた からこそ、御心を受け入れて行かれた、 「立ちなさい。さあ、行くのです」と、十字架に 進んで行かれた。 Aさん 「何と、自分が薄っぺらなのかと、薄っぺらの ぺらぺらです。思い知らされました」 Bさん 「自分は日頃、御心のままに、と祈っているが、 口先だけで、そのつもりだけで、嘘です」 「ちゃんと向き合って、自分の内を探ってもらい、 自分の本当の気持ちを知り、それを認めて、 正直に祈って行かない限り、 御心なんて、受け入れることができないんだと 知りました。自分の全くいい加減な態度を知ら されました」
2015年04月03日(金) 「信仰もって・・」
「長血の女」の箇所で、 この女性の、12年の長血の身体的苦しみが あった。 あちらに良い医者がいる聞けば飛んで行 き、こっちにいると聞けば、急ぎ訪ね、どこに行って も治ることなく、失意落胆を繰り返し・・ 期待の度合いだけ、失望も大きく、それが12年 心は疲弊し、同時に財産も使い果たし・・ 心的苦痛に、経済の破綻、不安、思い煩い・・ しかし、病は治らず、更に悪くなり、もう財力も無く、 病の性質上、人の前にも出られず、社会生活も、 宗教生活もできず、 何の希望も無い、ただ苦しみと辛さと痛み・・ そんな中で、イエス様のうわさを聞き、この方 なら、何とかして下さるのではと、一縷の望み をもって、イエス様の着物にさわった。 すると、血の源が枯れた。 12年間も、どうやっても、何をしても治らなかった 病が、完治した。 このままうまく逃げたかったかも知れない。誰にも、 何も知られないまま、密かにこの場を去りたい・・ しかし、主は「誰がさわったのですか」と言われ、 じいっと待たれる。 何とかこの場を、すり抜けられたどんなに良いだろう。 しかし、時間は過ぎる。主は動かれない。 観念して、告白した。12年間の真実を余すところ なく告げた。 主は心の痛み、悲しみ、苦しみ、怒り、心の傷 を受け止め、いやして下さった。 そして「安心して行きなさい」と。平安を下さった。 ・・・・・・・・・・・・ 「12年間の病、12年前、自分は何をしてただろう? まだイエス様のもとに来ていない。 もう思い煩いと、怒りと、不満と、大変な中にいました! 今じゃあ、イエス様無しの人生など絶対に考えられない。 『安心して行きなさい』 私も、神様を信じて、自分自身を明け渡した時に、この 平安をいただきました。 そして、今もずっと平安をいただいています!」 「真実を余すところなく告げることを、教えられます。 自分は告げきれてないと思う。 心の底にある思い、傷、痛み、それすら自分で 押し込め、抑え込んでしまっているのでは。 どうしても人の目を気にして生きているので、繕って しまうので、自分が自分の気持ちをわからない。 神様とよく交わって、自分の内にあるものを 告げて行きたいです」 「自分は、自分にとっての長血は何だろう?と、 そえrを祈って行きます。」 「血の源が枯れた・・完全にいやして下さる、解決 して下さることが感謝です。 血の源が枯れた経験をします。赦せない相手を 赦せたこと。受け入れられない状況を、受け入れる ことができたこと。 祈って、神様の示しに従って行くことなんだなあと。 着物をさわるのと、同じ結果を見る」 弟子たちも、群衆も、イエス様に触れていた。 でも、物理的に触れていたのと、信仰もって触れた事 の違いを、しっかり受け止めて応えて下さった。
2015年04月01日(水) 「些細なことを・・」
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝を もってささげる祈りと願いによって、あなたがたの 願い事を神に知っていただきなさい」 ピリピ4:6 どうしても思い煩ってしまうと、皆であれやこれやと 語り合う。 「何も思い煩わないで・・」 思い煩わないのも、「何も」!!とはすごい!!! 大きな事も、中くらいの事も、些細な事も、 すべてだ!! 「信仰生活長くなって、祈りも教えられて、 大きな事は、必ず祈れるようになって感謝です。 でも、大きな事は祈るが、小さな事を思い煩っ ていて、気づいていないことに、気づきました! 大きな悩みや問題が来ると、デボーションで、その 問題に関して、祈り、御言葉求め、委ねて行こうと する。 そのデボーションが終わった途端、目の前の 小さな事を、即、思い煩っている。 今日の目の前の、些細ななすべき事や、外出に ついてやら、くよくよしている。心が沈むんです。 心煩わせていて、全然気づいていない。 それこそをも、「思い煩うな!委ねよ!」ですよね。 些細な事も一つ一つ、委ねて行けば、ほんと 平安!!ですよね(^^) 「あ、それすごくわかります!おんなじだ!! 大きな問題は、しっかり祈りに持って行くが、 大きな事は神様に持って行って、小さな事は、 すべて自分がしている(^^;) だから大きな事以外は、つまり全部自分の肩に かかってますよね。 で、自分の力でしてますよね。 だから、しんどいんですね。 その些細な事が、面倒で、うっとうしく、煩わしく 心が沈んだりするんですよね。 しっかり祈ったすぐ後で、平安なくなっていて、 いつもおかしいなあと思ってました。 些細な一つ一つを、神様に渡して行きます!」 「自分の許容量越えた事態は、自分でどうしようもない ので、わかりやすいですが、 自分で出来ることは、神様を頼らないで、自分で してしまいますねえ。 祈らないで、頼らないで、自分の力でしてしまう ところを、御霊に気づかせていただけるよう 祈って行きます」