2015年05月22日(金)
  「どこでも祈れる」

デボーションについて語り合っていたら、

「どんな時にも、祈れると知って、嬉しいです。
なかなか、きちんと座って、一人になってというと、
沢山の時間は取れない状況にいて。

多忙な生活の中にいて、庭は草がすぐに
伸びて来て、草ぼうぼうになるし、草抜きも
しなくちゃで、もううんざりで。

そんな時、庭の草抜きを、主との交わりにした
主婦の証しを聞いて、あ、そうなんだと、
すごく嬉しくなりました。

草抜きしながら祈り、悔い改めの祈り、感謝の祈り、
執り成しの祈りができて、庭がすっかりきれいに
なる頃には、自分自身も主との交わりにより
心がすっきりし、恵まれ、喜びに満ちていたと。

私も、そうしようと思います。もう考えるだけでも
うんざりで、しんどくなる草抜きが、交わりの時に
されますね。感謝です」


「お皿洗いながら、運転しながら、歩きながら
私も、祈ってます!
毎日、職場への車の中が、祈りの時で、
行き帰りの時間が、ほんとに感謝です。
出勤前も、出勤後ももう多忙で、帰宅
するとすぐ食事作りで、あっという間に1日
終わるので、感謝なんです」


「私は出勤で自転車をこぎながら、毎朝
祈ってます。
職場まで、こぎながら祈り続けて行くと、
神様のよろいで、どんどん全身が満たされ
て行くようで、着いた頃には、すっかり
神様にガードされて、恵まれて、神様と共に、
さあ、仕事スタート!です。感謝です」


「ある人が通勤途上の電車の中で、心の中で
祈っていると聞き、私は、一人になれるお風呂
の中でいつも祈ってます!
一人になれる時間も場所も、なかなか無い中、
恵まれて感謝です(^^)」

2015年05月18日(日)
  「祈りの答え」

Aさん
「全く気づかなかったが、癌が進行していた。
発見できたのが、奇跡でした。

もう非常に危険な状態だったが、宣教師さん
がずっと祈って下さったんです。
そして、切除して、一命を取りとめることができて。
もう奇跡でした。祈りのお陰です。

その後も、転移も守られて来ました。
これも祈りによってです。」

その前に、癌を患った方の証しを聞く機会
があり、それで発見できたと。

それが無ければ、自覚症状全く無く、
大変な事になっていた。
まさに神の働きだった。

その直前に親族を亡くされ、悲しみに悲しみ
が重なる事がないようにとの、主の計らいだった。


Bさん
朝に、自転車通学の子供、鍵が何度やっても
どうやっても開かず、時刻迫り、ギリギリで車で送迎
して、間に合って感謝だった。

そして、当日は学校で自転車点検がある日、
不安がってた子供にそのまま話すようにと。

それで教会の集会にきて、皆に祈ってもらった。

帰宅後、自転車屋さんに来てもらおうと。
その前に、祈ってもう一度、鍵を開けてみると
何と開いた!

あれだけ開かなかったのに、祈りの答えだ。

又、当日の点検も突然中止になった。

新しい鍵を買いに、自転車屋さんへ。
点検もお願いすると、細部まで丁寧に点検
してくれて、無料ですと。

祈りに答えて、神様が何もかもを最善に
に働かせて下さって、母子で喜んだと。




2015年05月15日(金)
  「解放された」

Aさん
「対人関係で、最近来た、目の前の相手に
妬みを抱いてしまい、心が苦しくてたまらなかった。

神様からの訓練だと思うが、心は乱れて苦しい。

これまでもずっと妬みに働いて来る、ここが自分
の弱さだった。

今回、とことん自分の醜さを見せられた。
愛の無さ、嫉妬心、どんなに頑張っても相手
を愛せない自分、心底どうにもならないこの心。

やっと、これは自分ではどうにも出来ないこと、
このためにこそ、主が十字架にかかられたこと。

以前の学びがピッタリと重なり、符合した。

“自分で努力しても、善を行うことはできない。
自分の善に諦めがつくと、望みはイエス様しかなくなる。

その時にイエス様に向かう完全な信仰が芽生え、
十字架で流された血が、私たちを全ての罪から
救ったという確信が持てる。“

ーーこの事がここ数年ずっと納得が行かなかった。
自分に諦める。努力しなくてただ休んでいて、主が
その心に働かれ、善に生きるように導かれる。ーー

やっと今回わかった。心で理解できた。
自分の内に愛も善もない、幾ら努力しても無駄な事、

その罪のために、イエス様が来られたのだから、
このままの私でいいこと、このままの私を受け入れていて
下さること、
このままでいい。このままでいい。このままでいい。

このままの私を受け入れて下さってる。
努力しなくていい。背伸びしなくていい。このままでいい。
主につながっているだけでいい。
主の十字架の死と、復活をじっと見つめているだけでいい。

やっとこのままの私でいいことが、心で理解できた。
平安です。嬉しいです。
いままで自分の内なる罪に苦しんできたが、
やっと解放され、自由にされた。


いつも、そのままでいいんだよと、そのままの私を主が
愛してくださってるよと・・言ってもらっていたのに、
納得行かなかった。
でも今は心でわかりました。
お祈り心から感謝します。

こうゆう事が、神様からの悟りを得ると言う事なんですね。
かけがえのない大きな富であり、恵みですね。
心から感謝します。」


(数日後)
「あれから信仰生活がずいぶん楽に、自由になりました。
罪に縛られず、自分の罪を思うたび、このために
イエス様がこられたのだ。

このためにイエス様が血を流されたのだ。
と、主を見つめる事ができます。
また人の罪も同じように見れます。
感謝です。」

2015年05月11日(月)
  「サタン」

サタンが思いに常に働いて来ることを話す。

「朝、祈って、平安に、気持ちよく1日が始ま
ってたんですよぉ。平安そのもので。

それが、ふっとした瞬間に、対人関係で嫌だった
ことが、突然思い起こされ、その前まで何も
思ってないんですよ。

すると、どんどん腹立たしい思いになって、それが
もう遙か昔のことまで、鮮明にどんどん思い出して、
もう怒りで、イライラ、憎しみまで湧いてくるし、
思いがぐじゃぐじゃで、

それで、「神様!」と言った途端、はっとして
「サタンだ!」と気づかされて。
サタンだったんです!すごいですよねえ。
気づくと、サアッーと、平安になって。


「ある!ある!でも、祝福がある時って、サタン
が来ますよね。
今まで、振り返ると、大きな祝福の時って
必ずサタンが来てる。」


「この間も、夫婦で旅行して、祈って行くと、すごく
祝福されて、楽しくて、快い余韻の中で帰って
来て。

それが帰宅して、良かったなあと思っている中で、
ふっと、あそこも見たかった、ここも見たかったと
の思いが来て。

すると、どんどんもっとああすれば、こうすれば
と不満が出て来て。
サタンにやられました!何だこれはと、はっと
気づいて、祝福を奪うんですねえ。」


「祈っている最中に、途中で思いがふうっ〜と
来て、思いに持って行かれて、人の言葉や
された事に、怒りが出て来て、もう腹が立って
腹が立って。

で、はたと、祈っていたのに、何で怒り心頭
なんだと。サタンだ!と、我に返って。」


「祈ろうとしたら、眠くてたまらなくなるし、
祈る前なんて、全く眠くないのに。

聖書を読もうとすると、あれをしなくちゃ、
これをしなくちゃと具体的思いがくる。

すると、身体が動いて行くんですよね〜
その前まで、全くする気など無かったのに。
サタンて、ほんと妨害に来てますね〜」

「ほんと、具体的に来る。あ、洗濯機回して
しまおう。テーブルだけ、片づけよう。
すると、次々思いが来て、連れて行かれて
しまう(笑)」

サタンに気づけるように祈っていよう。


“悪魔の策略に対して立ち向かうことが
できるために、神のすべての武具を身に
つけなさい”エペソ6:11

2015年05月10日(日)
  「神の時」

「『時』ってありますねえ。

『神様の時』は深いですねえ。私は長い間イベント時
だけ教会に来ていました。
お話聞くことは嫌ではなく、でも、全然心には入らない
というか、しっかりガードして、入れなかったんでしょうね。

神様に頼るなどと、とんでもない。自分の力で生きて
行きたいし、自分の力でやりたい。
それが命だったですねえ。

やっぱり自分の力でやって、自分が認められたい、
自分が評価されたいんですよねえ。

だから、心がシャットアウトしてるんでしょうね。
御言葉聞くことは嫌ではないが、全く、全然
心に入れてなかったです。
その時は、それも意識していないので、わからなか
ったですが。

だから、御言葉が全然わからなかったです。
誘ってくれた友達が、学びの時に、御言葉聞いて
横で泣いていて、なんで泣くんだろうと、全然理解
できなかったです。

でも、食事会やら楽しいし、皆、いい人だし、長い
間、年1回の時もあり、でも来てましたね。

それが、それが、自分ではどうにも出来ない試練
にぶち当たり、以前から知っていた教会に飛び込
んで来て(笑)
神様のあわれみですね。

御言葉聞こうとの姿勢にされて、そんな中、更に
大型試練が臨んで、もうバーンアウトで。
何もかも明け渡した時に、ほんとに生まれて初めて
平安というものを知って。

もう平安で平安で、楽で楽で、よく今まで神様
知らないで生きて来れたなあと。

でも、自分の力で頑張っている『時』も、神様は
見ていて下さって、自分には必要だったんだと。

自分は、そのしんどさを通らないと、神様知れなか
ったんだろうと。

試練の『時』も感謝で、それが無かったら、絶対に
神様のところへ行っていないです(^^;)

平安の無い苦しい、しんどい『時』も通ったから、
平安の素晴らしさを味わえるわけで。

意味のない『時』は無くて、すべての『時』が
神様の『時』だったと、振り返る時、感謝です。」


“天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある”伝道3:1

2015年05月08日(金)
  「肉」

「自分の肉をよく照らされます。

人に言われたことが、カチン!と来て、ぐわっ〜と
肉が反応して、怒りや反発心や、心に広がる。

「肉だ!」と、その度に「神様!」と心で呼ばわる
と、ひと呼吸置けるんです。
ひと呼吸置けると、言い返せずに、何とかおさめ
られて。

もう、人の言葉に反応して、ムクムクムク〜と
自我が(^^;)すごいです。

そして、後で冷静になると、まさに肉なんですよ
ねえ。不用意な言葉を発さずにほんとに
良かったと。

でも、気づかされることが感謝です。
御霊様ですよねえ。
自我が強くて、砕かれて行かないと。

朝に、主と交わって祈って、1日始めると
ほんとに気づきが与えられ感謝です。

朝、バタバタと祈りなく始まってしまうと、
もう、1日が凄まじい勢いで流されてしまって、
祈るのと、祈らないのでは、全然違います」


「私は、もう自己正当化、言い訳、弁解の
肉を示されます。

自分を守るんですねえ。必ず言い訳している。
イライラして、ついきつい言葉が出てしまうと、

私は忙しかったから、疲れていたから、
相手が、イラ立たせるような事を言ったからと。
言い訳し、自分を正当化する。
相手が悪いと。

自分が傷つける言葉を発したと認めない。

でも、神様を知って行った時に、そのまま認める
ことを教えられ、従って行くと、ほんとに平安に
されますねえ。
変えられて来ました。

この平安は何にも代えられないです。
何よりも、この平安が嬉しく、感謝です」


「そうなんですよね。段々、言い訳したところで、
主はお見通しで、何もかもご存じだと。

それで、何より平安でいたいから、『ごめんなさい』
と認めて行くようにされて。
平安が戻ることが嬉しい。
自己正当化すると、すぐ、平安が無くなります
ものね」


“肉の願うところは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう
からです。この二つは互いに対立していて、そのため
あなたがたは、自分のしたいと思うことをすることが
できないのです”

の通りですね。

だから“御霊によって歩みなさい”ですよね。

2015年05月05日(火)
  「ゆだねること」

「最近、思い煩いって、明け渡して、委ねることが
できた時に初めて、消えること、無くなることを、
教えられています。

それまでは、委ねた「つもり」だけど、心の底
では、しっかり握っていて、決して放して
いない。

でも、自分は委ねた「つもり」で。
しかし、思い煩いは消えない。

それで『委ねた』『委ねた』と、懸命に思い込もう
とする。
また、『委ねます』と祈る。

その時は良いのだが、すぐに思い煩いが返って
来る。心は重く、しんどい。重苦しい。

又、『委ねます』と言う。しばらくは良いが、
すぐに、不安、心配、煩いが戻る。

その繰り返しで、とうとう、自分は委ねることが
できないのだと、気づく。

『ほんとにギブアップです。委ねることができません。
心の奥が握り締めていて、放さず、どうにも
なりません。助けて下さい』

と祈った時に、初めて解放された。

『それが、ほんとに思い煩いが消えたんです。
神様がして下さる。自分がどうこうしなくて良い。
状況を動かし、人を動かす必要もない』

と思うと、もう平安で、平安で(*^_^*)
こんな平安、何にも替えられたです!!」


主が成し遂げて下さるという信仰、信頼、
主は喜ばれる。


“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる”詩篇37;5

2015年05月02日(土)
  「聞き方に注意」

「普段、御言葉聞いていながら、全く意識していない
んですが、よくよく心を探ってみると、

例えば、「神にとって不可能なことは一つもありません」
と聞くと、

自分が判定して、このぐらいのことは、神に可能で、
こんな大きな事は不可能と、決めつけている。

出来るわけがない、そんな事があろうかと心の奥
では思っている。

でも、そう思っていることに、気づいていない。
気づかないまま、流してしまっている・・。
底に、不信仰があるから、御言葉が根づかない
ですよね。

自分では、ちゃんと聞いている「つもり」だから、
問題意識もなく、始末が悪い。

その事に気づけたことが感謝です。」


「その通りで、御言葉聞いた時に、『無理、無理』
と思っている。

『それは他の人には可能でも、自分には無理』と。
その時に、御言葉が流れてしまっていて、結局は
捨ててしまっていて、

実になることがないから、だからなかなか神様の
ことがわからないし、自分が変わらない、

その事が、自分もわかりました。」


「『わたしの目には、あなたは高価で尊い』を
長い間、全然受け入れられなかった。
どうしても信じられない。
信じない、信じようとしない自分の頑なな自我
に気づかされた。

それにも、長い間、気づかなかった。
自分は、御言葉をちゃんと聞いていると思っていた。

だから、神様の愛がわからず、実感も無かった。
ここに原因があることに気づかされ、変えられて
感謝です」


“だから、聞き方に注意しなさい。というのは、
持っている人は、さらに与えられ、持たない人
は、持っていると思っているものまでも取り上げ
られるからです”ルカ8:18