2015年06月20日(土)
  「御心を行なう時に妨害」

信仰生活に、絶えずサタンが働くと、話し合って
いると、


「ああ、まずデボーションが盗られます。

ここ数日、神様と交わりができてなくて、
自分の思いが強くなって、自分の思いで
歩んでしまっていた。、

それが日曜、教会に来ては、流されていた
事に気づく。

神様が飛ぶと、自分の思いがどんどん湧いて、
自分で設計計画立てて行ってしまい、

それと同時に、不安や心配、思い煩いも
どっと来る。するとまた最悪の場合のシナリオ
を自分で描いて、全然平安が無い。

ほんとサタンにやられていたと気づく。
神様飛ぶと、サタンも飛ぶ。

反対に、神様と交わりの中で、日々過ごすと
ほんとに平安で、喜びがあって、とっさの事態
が起きても、信仰もって対応できて、

神様が導いて下さるから大丈夫と思えて、もう
全然違う。
この平安や喜びを奪いたくて、サタンは祈ったり
御言葉に触れることを妨害して来るのでしょうね」


「神様のみこころを示されて、みこころだとわかって
いて、でも、どうしてもできなかった事があって、

ああ、サタンの妨害だったんだと。
自分の強い自我がどうしても、したくなかった
んだと。そこに働いて来たんだなと。

冷静に考えると、その事を行なうと、すごい
証しになって、神様の栄光が現われるんだと
気づかせられる。
サタンが嫌だったんだと。

でも、次は神様に頼って、どうしても従いたいと
思えて、益とされて感謝です」


“神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて
志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです”

“すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ない
なさい。
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で
世の光として輝くためです”
ピリピ2:13

“すべてのことをつぶやかず、疑わずに行ないなさい”

とあり、逆に、御心行なう時には、必ずつぶやきや
疑いが来て、妨げが臨む。
御心行なう時には、サタンが妨害して来ることを
覚えていたい。


2015年06月11日(木)
  「神の時」

“天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある”伝道3:1

“神のなさることは、すべて時にかなって美しい”
伝道3:11


「すべてに神の時があって、神のされる事は
美しいんですよね。

時々、思うんです。もっと早く救われていた
ら、あの人、この人に伝えられていたのかな・・

もっと早く救われて、救われた後も、もっと
早く神様の素晴らしさをわかっていたら、
あの時、あの人、この人の助けになった
のかな・・

自分自身も、もっと早くに変えられていた
のかな。

色々思うことがあるんですが、でも、救われた
のも、すべて委ねて神様がぐっと近くされた時
も、すべて御心の内であって、「神の時」
なんですよね。

自分は滅茶苦茶頑固で、固くて、しんどい
時が必要で、砕かれたから信じることも
できて、辛い試練があって、神様が四方
八方から圧迫して下さったからこそ、明け渡す
ことができた。

自分には必要な「時」で、試練が必要で、あの
時でないと救われなかったし、救われた後に
大きな試練が臨んで、でも、それがないと
明け渡すことはできなかった。

すべて、頑固な自分に必要な「時」で、ああ美しい
神の時に、救われ、明け渡せたんだと
思わされられています(*^_^*)

もっと早くと思っても、あの時では神様がわから
なかった。
痛みを通る必要があって、砕かれる必要が
あった。
救われるためにも、すべてが自分には必要な
「時」だったんだなあと。」

2015年06月08日(月)
  「自分の罪を言い表わす」

古い性質、肉は罪を認めたくないことを
話していた時に、


「神様に、辛い気持ち、しんどい気持ち、自分の
罪も、一つ一つ告げたり、悔い改めたりして行く
と、心がすう〜っと平安になるんです。

人を憎んだり、恨んだり、裁いたりする思いも
正直に告白して行く時に、ほんとに赦されるん
ですね。

すうっ〜と心が穏やかにされて、その前までの
悶々や、ザラザラした思いが消えるんです。

こんな何にも代えられない平安を経験させて
もらっている。

だのに、こんな平安を知っているのに、渋って
神様の前に行こうとしない自分がいる事にも
気づかされて。

どうしてだろうと思うと、一つ一つ胸の内の
思いを告白して行く時に、自分がそれを
聞くわけで、聞きたくないんですね。

自分の醜さや、嫌なものを見たくない、
つまり、認めたくないんですね。
ほんとに自我だと気づかされました。」


「神様信じる前は、もう自分を正当化して
周囲に責任転嫁して、悪いのは周りに
すべてなってました(笑)

エデンで、アダムがエバに責任転嫁、エバ
が蛇に責任転嫁、まさにあれです。

罪の性質ですねえ。そんな事を言うから
自分は怒る。言った相手が悪い。怒らせ
る相手が悪い。
ずっとそれで生きて来ました(笑)

でも、悔い改めた罪が赦されるんですよね。

自分の罪や非を認めて、悔い改めが
与えられるよう、祈って行きたいです」



“もし、私たちが自分の罪を言い表わす
なら、神は真実で正しい方ですから、

その罪を赦し、すべての悪から私たちを
きよめてくださいます”
Tヨハネ1:9



2015年06月06日(土)
  「二度と思い出さない」

主の十字架による赦しを、学んでいた。

主の流された血潮によって、悔い改めた罪
は完全に赦される。

3回、主を否んだペテロも赦された。主の愛
により回復させられ、主の昇天後は、諸教会
のリーダーとして、聖霊に満たされて、力強く
宣教して行った。

ペテロは完全な赦しを受け取っていた。

だから、人々に「あなたがたは、この方を
十字架につけた」と言えた。

“もはや、彼らの罪を思い出さないからで
ある”ヘブル8:12

“わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を、
二度と思い出さないからだ”エレミヤ31:34

悔い改めた罪を、二度と思い出さない、
忘れると言っておられる。


「あ、いえいえ私は罪人で、私はダメでと
言ってますが、それって謙遜でなくて、卑下
ですよね。

御言葉をきちんと受け取っていないから、
完全に赦されたと思っていなくて、何となく
赦されていて、だからいつも罪があるような
気がしている。
勘違いして、それがへりくだりだと思っていて。

御言葉をそのまま、その通りに受け取る事
がへりくだりなんですよね。
罪は完全に赦された。神様が二度と思い出
されないと言われる。
受け取って行きたいです」


「もう、日常生活、仕事の中でも、『ごめんなさい』
の連続です。しょっ中、ミスするし、失敗だらけ。

でも、赦される事がほんとに感謝で、感謝でなら
ないです。
赦されるから、赦しがあるから、毎日平安の中
で生かされています。


「神様が私の罪を赦され、二度と思い出され
ないこと、本当に嬉しいです。

でも、自分は、人にされた事、恨みつらみ、
傷つけられた事、忘れないでずっと根に
持っていて、何かあると思い出して、又
怒りと憎しみが沸く。

神様が私の罪を二度と思い出されないの
だから、自分も、自分にされた事を赦し
て、忘れることを祈って行きたいです」

2015年06月04日(木)
  「御心の中での試練」

「祈りの中で、導かれて、御心を行なっていたが、
大きな失敗をしてしまった。
落ち込んで、ガックリ来て、心が萎えそうになっ
てしまうが、でも、信仰の試みなんだと示された。

思い通りでない事が起きると、『何で?何で?』
と思ってしまいがちだが、
そうでなく、『何を?』、何を教えてようとして
下さっているのかを問うて行きたい。」


主が「向こう岸に渡ろう」と言われた時に、
弟子たちは、主を小舟でお連れした。

すると、途中で大変な嵐に会った。ベテラン
漁師たちが恐れをなして、身の危険を感じる
大嵐だった。

向こう岸に渡るという御心に従ったら嵐に
会った。
従わずに、岸に残っていたなら、嵐に会わなかった。

しかし、嵐に会うことによって、主が自然界をも
主権を持って支配しておられる、生ける神である
ことを知った。
御心に従わず、岸にとどまれば、嵐に会わなかっ
たが、主がまことの神であることを、経験する事
もなかった。

御心に歩む中で、試練に会うが、その状況で
なければ知る事のできない、主を知ることになる。


よくよく祈って導かれた御心の進路に進んだ
Aさん。
途中で挫折してしまった。どうしても自分と
仕事が合わない。
辛くて、苦しくて、行き詰まってしまった。

仕事の悩みに加えて、もしかして、御心を間違った
のだろうか、この道は御心ではなかったのだろうか、
との思い煩いが来る。

しかし、よくよく祈った結果であり、道が開かれて
御心を確信できた進路であった。

結果的に、御心に従う中での試練であり、
その中で、更なる御心の道が示され、しかし
その進路のために、その経験を通る必要があった
ことがわかった。

その進路が、本来の進路のための足がかりに
されたのだった。










2015年06月02日(火)
  「思い煩い」

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、
感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただき
なさい」ピリピ4:6


★「思い煩い」の学びを通して、少しづつ
ですが自分が変わりました。

以前は、不安で心配な事態が目の前に
来ると、飲み込まれてしまって、身動きとれず、
不安、恐れ、思い煩いにさいなまれて、
そのストレスが、身体にまで来てました。

大きな事が来ると、もう真っ暗になって、
うずくまってしまう感じで、何もできなく
なって、深い淵に落ち込んでしまう感じで。
大きな試練の時には、食事もできないし、
考えることもできなくなってしまって。

でも、自分が持って、抱え込んで、沈没
してしまうんではなくて、まず神様に一つ一つ
知っていただくことを学んで、少しづつですが
実行できて、すると自分が随分変わりました。

思い煩いが来たら、神様に渡すことを
繰り返し実行しています。時に、神様飛んで
自分が抱え込んでしまう事もありますが、
はっと、気づかせられて、そうだ、渡そうと。
聖霊様ですよね。」


★「試練が来た時に、信仰を働かせる事
もせず、祈りをする事もなく、ただ流されて
思い煩いと不安がおおいかぶさって来て、
頭を手でおおって、ただうずくまっている
自分に気づかされました。

神様に向き合って、祈って行くことを始め
ます。不安、恐れ、思い煩いの一つ一つ
を神様に持って行きます」


★「思い煩いを、神様に来る度に渡すことを
しようとし、渡した!と思うのですが、すぐ
戻って来る。

又、渡した!と渡して。だが、しばらくすると
又、来る。同じ事を何度も繰り返して、

やっと、自分は口先だけで、自我が握り
締めて、渡せないんだと気づいて。

『渡せません』と祈った時に、ああ、神様は
自分のすべてを知って下さっていると思えて、
平安になったんです!」