2016年03月25日(金)
  「平安を与える計画」

「わたしはあなたがたのために立てている
計画をよく知っている」

人生にご計画があり、起こる一つ一つの
出来事に、主のご計画がある。

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを
知っておられた」
五つのパンと二匹の魚の箇所でも、奇跡を
行なおうと決めておられた。


「それはわざわいではなくて、平安を与える計画
であり」

一見、マイナスの事態、問題、困難、悩み・・
それはわざわいではないと。

「平安を与える計画」だと。
平安を与える計画なら、その問題の一つ一つが、
必ずj平安な結果に着地する。

Aさんが、初めてその事を経験しましたと。

「高齢の親が突然体調崩し、倒れた。
即、入院になったが、この先をどうすればよいのか。

施設もすぐには入れない。パニックになりそうだったが、
皆にも祈ってもらい。

“立てている計画がある”“平安を与える計画”
と言われる。
必ず平安な地点に着地させて下さる、それを信じた。

今まで沢山の問題に直面したが、今までとは自分の
気持ちが全く違っていて、楽にされた。

平安を与える計画なのだから、大丈夫だと思えた。
すると、奇跡的に親は回復し、元気にされた。
主のみわざだった。

今回、主が取り扱って下さって、平安の着地点を
信じれた。

そして学ばされました。試練のトンネルは必ず出口が
ある。必ず出る。でも、トンネルのまっただ中を
どう過ごすかですよね。

御言葉を握り、主に拠り頼み、主を信頼して
過ごすのか、不安と恐れと思い煩いでいっぱいに
なって過ごすのか。

次も、“平安の着地点に導かれる計画”と信じて
試練を通り抜けたいです。」

2016年03月19日(土)
  「主の山の上に備えあり」

孫が、海外宣教地から、親と共に一時帰国して来た。

幼稚園が、「親が海外から1週間の出張の間だけでも、
来ている子供さんもいます。少しの間でも来られたらいい
ですよ」と、親切に受け入れてもらえる園だ。

年長組になり、昨年帰国時に2日だけ出席させてもらった。
2日だけだったのに、海外にまで、是非卒園式にと
連絡をもらい、小学校入学式もあるので帰国の運びに。

卒園式前日に、孫は一日だけ平常保育に出席できた。
帰国がその前夜だったので。

それが園では、孫の不在中も、ずっと担任の先生が
孫のことを園児たちに伝えていて、孫が登園するや、
皆が走って迎えに出てくれ、大歓迎だ。
さながらアイドル(^_^;)

寂しくないように、孤立感のないようとの、園の行き届いた
配慮に、心温められる。
突然の参加なのに、居場所があり、式後も、ちょっと園庭で
写真撮りたくて、部屋に呼びに行くと、「大丈夫」と出て来ない。
「大丈夫」?? ん?!
そこに、いたいと思えるんだなあ。

年間ずっと海外だったので、卒園アルバムに写真も勿論
無い。平常の写真も勿論無い。
それが前日登園の写真がいっぱい撮られ、すぐプリント
されたのか、翌日沢山展示されていた。
行き届いた心遣いに心温められる。

式の最後に、担任の若い先生が、座っている20数名の
一人一人の子供に、ひざを折り、しゃがんで子供目線で
丁寧に「おめでとう」を。
十把一からげでなく、一人一人が大切に。

「自由に家族写真後、最後にもう一度皆で集まります」
の連絡。
何かと思うと、先生が最後、一人一人に、ぎゅっとハグを。
最後まで心温められた式だった。


式中、園長先生のお祝いの言葉が、

「失敗してもいいんだよ。全然大丈夫だよ。
いつでも、そこから学んで行けばいいんだよ。

なんで人が羨ましく妬ましくなるのかな?
人の持っているものが、いいなと、欲しくなるからだよね。
でも、人と同じでなくていいんだよ。

神様は、みんな一人一人違うように創られたから
人と違っていていいんだよ。

みんなが、人にはないものを、神様から与えられて
いるんだよ。それを大事にして行こうね。」

心に響いて来て、心があったかくなる。


2年前の上の孫の、卒園式も同じ園長先生の
祝辞を、今も覚えている。

「人の持っているおもちゃを貸して欲しい時は、
奪い取るんじゃなくて、どうしたらいいのかな。

園でずっと学んで来たよね。
『貸して下さい』と、お願いするんだよね。

それでもダメな時は?
もっとお願いするんだよね。『貸して下さい』と、お願いを
続けるんだよね」


保育方針が独自で、プログラムは用意されているが、
その子が、例えば粘土とか、お絵かきとか、熱中して
続けたければ、次のプログラムに来なくてもいい。
それを続けていてよい。
次に来たくなれば、来たらよい。
だいたい、皆がしている事が気になって、しばらく
すると来たりとか。

プログラムに子供を合わせるのでなくて、その子の選択
があり、その子の持っている内側が現れるなあと。


海外から、帰国の度に受け入れてもらった、理解ある
園が与えられたこと、神様のご配慮、備えに心からの
感謝だった。

いつも
“主の山の上には備えがある”創世記22:14






2016年03月14日(月)
  「みことばを一心に見つめて離れない」

みことばをすぐに忘れてしまう・・。
みことばが飛んでしまう・・。
いのちのみことばをしっかり握っておれるように。

★朝、聖書を読んで、与えられた御言葉は
反すうしないと、すぐ忘れてしまうし、無くなって
しまいます。

朝、感動した御言葉も、日常が始まるとすぐに
飛んでしまって、目の前の忙しさに、流されて
一日終わる頃、全く御言葉が吹っ飛んでいて、
無いことに気づかされ。

でも、朝の御言葉を、一日に何度も、事ある
ごとに反すうし、思い返し、何度も見ていると
忘れないし、一日心にあるんです。

その時、御言葉がものすごく力になって、血となり
糧となることがわかります。


★御言葉をすぐ忘れるので、今年は「みことばを
一心に見つめて離れない」を目標にしたいです。

ほんとに忘れます。ヤコブ書の通りです。

鏡を見て、自分をながめてから立ち去ると、
すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

去年を反省する時、ほんとこの通りで、御言葉
に感動して、しかし、すぐに忘れてしまっていて。

何だかったかなあ?今朝の言葉も荷だったか??
という感じで。

御言葉を一心に見つめて離れないなら、すぐ忘れる
聞き手にはならないで、事を実行する人になると。

一心に見つめて行こうと思います。

御言葉を、一日に何度も何度も反すうして、
一心に見つめて行けるように。
御霊が助けて下さるので、祈って行きたいです。


サタンも強力に働いて、御言葉を奪って行く。
とにかく御言葉を奪えば、大成功だ。

御言葉に聞き従うなら、岩の上に建てられて家で
であって、何があっても倒れない。
嵐が来ても、どんな試練の中でも倒れない。

御言葉を一心に見つめる時、行なってゆける。
一心に離れず見つめて行けるように。

2016年03月12日(土)
  「平安へと」

神様が祈りに答えて、心の悩みを導いて下さる
ことを何やかや話し合っていた。


「いやな人がいて、思い出すと腹が立って仕方が
ない。
忙しい時は忘れているが、ふと思いに浮かぶと、
怒りが湧く。嫌で嫌でたまらなくなる。
サタンもあおって来る。
平安はなく、心はどんより思くなる。

この事について祈っていた時、ふと、こんな平安
の無いことを思っていたくない。
自分はイエス様のことを思って、時間を過ごし
たい。
それがもう切実な思いとなって、神様への重いが募り、
感謝でした。

“あなたがたは、地上のものを思わず、天にある
ものを思いなさい”コロサイ3:2

“上にあるものを求めなさい”3:1

イエス様を思って、生きて行きたい、でも、その
ように切実に思えたのも、逆のことがあったから
で、益として下さったんだなと感謝でした。

順境だけの日々なら、イエス様を思うのでなく、
流されて、のほほんと、気楽に生きていたと
思います。」


「同じようなこと、経験しました。対人関係で、大きな
悩みの中にいました。
辛く当たってくる相手がいて、いじめ状態でした。
妬まれているんだろうなと、わかりました。
辛くて、苦しくて、帰宅すると涙が溢れました。
帰っては泣いてました。

そんな相手に対して、憎しみが湧いてきて、赦せない
思いでいっぱいになる。
すると、その思いに縛られて、また苦しくなる。
平安が無いし、自分が苦しくてたまらない。
赦せない相手がいるということは、辛いことです。

でも、赦せないんですよね。こんなに苦しいなら
赦したらいいのに、赦したくない。
心は重く、胸に鉛を抱えている感じなんです。
ずっと祈ってはいたんです。

余りに辛くなった時、ふっと自分は一生をこの
相手にコントロールされるのはいやだ。
憎しみで、支配されるのはいやだ、と心底思った
んです。
神様に支配されて生きて行きたいし、平安でいたいと。
助けて下さいと祈って。

その時、赦す決心をしたんです。相手を赦そうと。
それが!その時にその苦しみから解放されました。
自由になって、もう心が平安になって。
喜びが湧きました。
赦すって嬉しいことなんですね。」

主は平安へと導いて下さること感謝です。

2016年03月10日(木)
  「自分の力」

どうしても「自分の力」「自分の頑張り」が出て
しまうと、盛り上がる。

日常生活、神様を忘れると、自分で頑張っている。
すべて自分の肩にかかっていて、ずっしり重い。
しかし、自分では気づいていない。
疲れて、しんどくなって、平安が無い。
そして、自分で頑張ると、必ず、人をさばく。

「何で、自分ばっかり」「何で、もっとやってくれんのん」
「ちょっとぐらいやってよ」「自分はこんなに大変なのに、
気がつけよ」
心がざらついて、苦いものが出て来る。
心が辛くなって、身体もしんどくなった頃、

はっと我に返り、気づく。神様に頼っていなかった・・。
すべて自分でしていた・・。
「神様ごめんなさい」と神様を見上げて、
頼る時、心がすう〜っと平安になって行く(^^)

いつもこの繰り返しなんですが、
気づけることに感謝です。
以前は気づきもしなかったですから(^^;)


同じです!自分は職場で、自分の力で頑張って
しまうと、もうイライラして来て。
また、それが周囲にもイライラする。
ちゃんとやっていない人に、腹が立って仕方がない。
さばいてますよねえ。

心でさばいているから、ちゃんとやっている他の人が
文句を言う時に、心ではしっかり同意していて、
もう思わず悪口言いそうになってしまって。

神様!と、思う時、守られるんです。
悪い言葉を出すことから、守られて感謝です。
でも、自分の力で頑張ってしまうから、そうなる
んだとわかります。
祈りながら、神様に頼って、仕事をして行きたい
です。


私は体調を崩してしまった時、何とかしなければ、
早く良くならなければと。
その思いがとにかく強くて、焦って、更に何とか
しようと頑張ってしまう。

でも、全く良くならなくて、どうしてだろうと祈って
いると、自分の力で、良くしようとしていて、
神様を全然信じていないと、示されました。

神様がして下さるのだから、自分は神様を信じて
おればいいことがわかり、その時、初めて心に平安が
訪れました。
感謝な経験でした。


肉の力は強く、すぐ自分に頼ってしまうが、
御霊が気づかせては、立ち返らせて下さることに
感謝です!!

“律法の行ないによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです”ガラテヤ2:16

2016年03月06日(日)
  「悔い改め」

「悔い改めなんですが、罪を犯したなら、悔い改め
ないといけないと、口先だけで悔い改めてしまう
こともよくあって。

でも、口先は口先なんですね。
この間、ああ、ほんとに罪を犯してしまったんだと
気づきを与えられ、弁解のしようもなく、心底自分が
悪かったと思い、悔い改めたんです。

すると、本当に心がすっきりして、平安になったんです。
神様に触れたことが、はっきりとわかって、口先だけの
悔い改めと全然違うことががわかりました。」


「わかります!ハンナの祈りの箇所でも学んだのですが、
心にいろんな思い煩いや、不安、辛い思い、苦い思い
ネガティブなもので、心が辛い時に、

心がいっぱいいっぱいになってしまって、ハンナのように、
一つ一つ心にあるものを、神様に打ち明けて行ったん
です。
人への憎しみや、赦せない思いや、ありのまま吐露して、
悔い改めたんです。

すると、ほんとに心がすう〜と落ち着いて来て、あんなに
悶々と苦しかった心が、すうーと平安になったんです。
思い煩いが消えていて、自分でもびっくりしました。
神様を膚で知る経験でした。」


「どう見ても、自分は被害者だとしか見えないし、思え
ない状況なので、心で相手を憎み、責めて行ってしま
って気づかない。
自分も裁き、軽蔑し、憎んでしまっている罪を御霊に
教えられ、悔い改めた時、解放されました」



「悔い改めは御霊が導かれるんですね。
自分では全然気づかなかった事が、御霊によって罪
だと示され、教えられて、もう涙ながらに心底悔い改め
たんです。

その時、ほんとにあの、自分の胸をたたいて、『こんな罪
人の私をあわれんでください』と祈った、取税人のまさに
あの心境でした。

自分の罪と神様しか見えず、もう人なんて全く見えない。
悔いくずおれる感じで。
でも、確かに赦されたことが確信できて、ほんとに感謝でした。
御霊に示される時って、人など全く関係なく、自分と神様
だけなんだなあと。
罪がはっきりわかるんですねえ」


御霊の気づきが、ほんとに感謝です。
御霊によらなければ、わからないですねえ。


2016年03月05日(土)
  「御霊によって」

神様のご愛、十字架の血潮、罪の赦しを学ぶ。

「罪を犯すと、どうしても、神様から離れてしまう。
イエス様の血潮が罪の赦しのために、流されて、
御父もそれゆえに、罪しない、赦すと言われて
いることが、

頭では、よくわかるのに、なぜか心が沈んでしまう。
神様の前に出らないと思ってしまう。」


「そうそう!わかる、わかる!このままでは出られない。
少しはましに、きれいになってからと思う。
どうしても、その思いがよぎる。」

「悔い改めるんだけど、また、思い出しては悔い改め、
これだと感覚に頼ってるわけですよね。
何だか赦された感じがしないという。
頭の知識では、赦されると思っているが、赦された感じが
しない」

「一度悔い改めたことを、再度悔い改めるほどに、信仰
が無くなって行く」

「ほんとにその通りで。でも、感覚に頼っているから、何度
も悔い改めたくなってしまう。赦された、自分の感じがしない
御言葉はそう言ってるが、半信半疑で。」

「目の前の御言葉を信じるか、自分の感覚を信じるか
ですよね。どちらかしかない。
どちらかを選択している。」

「罪を犯すと、神様から遠ざかろうとし、隠れようとして
しまうのは、根深い、行ないによる価値観があるから
なんでしょうね」

「良い子は良い子で、悪い子は悪い子。この世界
ではすべて、その価値観で、行ないの良い子が良い子。

それが寝深く培われているから、行ないが悪いと、
受け入れてもらえないと思ってしまう。」

「今日はしっかりデボーションが出来たから、気持ち
がよく、今日は受け入れられていると思う。
今日は祈れていないから、不安とか。
結局は、行ないにかかっている」

「頭ではわかるが、本音は行ないの価値観が染み付いて
いる。
だから、“わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を
招くために来たのです”のイエス様の言葉も、

“わたしは罪人を招くためではなく、正しい人を招く
ために来たのです”の方が、根の価値観にはしっくり来る。」


「行ないの価値観が、思っている以上に寝深くあることに
気づけることに感謝ですよね」


「目が見たことも、聞いたことも、思い浮かんだこともない
神の愛、あわれみ、救い、なので、肉に気づけて、
少しづつ行けることが感謝です」

“神のみこころのことは、神の御霊のほかには誰も
知りません”

「自分の思いでは、絶対にわからないし、この世の価値観、
経験値をもってしてもわからない。

しかし、御霊が教えて下さるので、大きな希望があって
楽しみと喜びです」