2016年04月19日(火)
  「そうすれば、あなたに答え」

祝福を聞けた。

Aさんが、突如仕事を失った。年齢的に次の
仕事を得ること自体が、非常に困難だ。
仕事のある年齢ではない。

ひどく落ち込んでしまった。生活への、将来への
不安と心配、思い煩いに、心は沈み込んだ。
気力が失せ、何をすることもできない。

しかし、「とにかく御言葉に聴いて行ってみようよ」
「神様は求めに必ず応えて下さるから」との励ましと
導きに、そうしてみると。

そして、漠然と御言葉を読むのでなく、主に導きを
求めて、求めて、祈って、聴いて行った。

すると、しばらく後、「与えられました」「語られました」と。
主が、前に進むようにと。
主ご自身からの励ましがあると、気力が生まれ、力
が与えられた。
履歴書を書く力、職を探す力が与えられた。
探すと、幾つか候補があった。
主に背中を押されて、前に進めた。

履歴書に、自分の仕事経験を、ちょっと書き足して
おいたのだが、一つの会社が、まさにその経験のある
人が欲しくて、求めていたのだと。

驚き!まさに神様のお働き、みわざだった。
すぐ、採用になり、神が与えて下さったことが、皆に
もわかった。主の栄光。

生計を立てて行くことが必要なのだが、今までの
給料と同じぐらいだといいが、少し下がるかなと
思っていた。
ところが、給料の連絡があり、もう驚くばかりの額
だった。


主のご愛、ご真実を知れて、心恵まれ、励まさ
れた。

“わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、
あなたに告げよう” エレミヤ33:3

呼べば、答えて下さる主だ。

2016年04月15日(金)
  「知っています」

ある人が、神様に出会うまでは、お金がすべてとの
価値観で生きて来た。

親に絶えずそう言われて育ち、お金が人生を保障
してくれると信じていた。

そんな価値観を、神様はご存じで、ずっと何度も
何度も、繰り返し繰り返し取り扱われた。

経済的苦境を何度も通り、そのつど祈れば与えられた。
全く手元に無い中、必要があり、祈っているとと、引き
出しから忘れていた商品券が出て来て、必要与えられた。

ある時は、全く無い中、祈っていると、昔の貯金箱が
出て来て、必要が満たされた。

又、旅行の時は、チケット代が与えられたが、それ以外は
無くて、祈っていた。
おばあちゃん宅へ、スーツケースを借りに行くと、想定外の
沢山のお小遣いをもらい、必要が満たされた。

必要は、天から与えられる事を、数知れず経験して
来た。
与えらえると同時に、示されたら献げて来た。
それが献げると、また与えらえた。

それが今回、大きな必要が生じて、守りに入ってしまった。
不安が高じて、貯えるばかりで、献げることが出来なくなって
しまった。
原因は不安だからであり、主を信じることができていない
ことにあった。

献げることを止めた時、御霊の流れが止まってしまった。
喜びや平安は全く無くなってしまい、いつもイライラし、
不安と、思い煩い、恐れでいっぱいになってしまった。

そんな中、献げるよう示された。そしてその通りに従った。
すると喜びが戻って来た。
主に従って行きたい、御心行ってゆきたいと。

長い歳月ずっと金銭面で取り扱われ、今、神様が必要
を必ず与えて下さることを、信じてるのでなく、知っている。
自分は知っていることがわかったと、証しした。



その時に、ローマ8:28が浮かんだ。

“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された
人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくだ
さることを、私たちは知っています”

自分も、今までの人生、神がすべてのことを働かせて
益として下さることを、信じているのでなく、
『知っている』と。

2016年04月11日(月)
  「わたしを呼べ」


「対人関係で、理不尽なことや、腹の立つことや、
傷つくことや、嫌なことがあった時、

“わたしを呼べ”と言われる神様に、まず告げる
時、心が段々おさまって来ることを経験する。

当たって来る相手がいて、相手に嫌なことが
あったからだろうなんだけど、こちらとしては、
理不尽で、腹が立って来る。

『人に当たるな!』と思うが、我慢していると、
段々腹が立って来て、何か言い返してやろうと
の思いが湧く。

その時、あ、そうでなく、祈ろうとの思いが来て、
心の中で、神様に祈った。
すると、悪い言葉を発することから守られた。
肉で発すると、必ず言い合いになり、喧嘩
になる。

後で、相手も悪かったと思ったようで、肉の
言葉を出さなくて、ほんとに良かったと。
神様感謝です。」


「何だかいつも厳しく、言って来る相手がいて、
言葉もきつくて、心にグサッと刺さる。

もうちょっとやさしく言ってくれたら、いいのにと
思うが、とげとげしくて、好きでない。
嫌な気持ちになってしまう。

でも、嫌な気持ちになった時、「わたしを呼べ」
と言われる神様に、祈ったんです!

すると不思議に、嫌いだ、嫌だ、との思いが
ふうっと、落ち着いたんです。固い、頑なな
思いが、やわらかくなった感じになって。
不思議でした。

で、その後、その人が体調崩した時に、すごく
心配している自分がいて、そんな自分に気づき、
これは神様だと、ほんとに感謝だったです。」


「ちょっと関係筋の会合があったのですが、議題
があるが、時間ばかりがかかって、なかなか進ま
ない。
延々時間ばかりが過ぎ、何だかもう疲れて来て
しまって、しんどいなあとの、思いが来て。

ネガティブな思いに、どっとなりそうな時に、はっと
して、神様を覚えて、祈ろうと。
出席者一人一人の祝福を、心の中で祈った
んです。
すると、自分の心が変えられて、重い心が
すうっ〜と、平安に変わり、神様を感じました。

どんな時にも祈ることが大事だなあと。」


“わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに
答え・・”エレミヤ33:2

2016年04月10日(日)
  「自分が変えられた」

   「自分が変えられた」

Aさん
「夫が定年退職したんです。家族の救いを
いつも祈ってるのですが、何か聖霊様にスルスル
と導かれて、ちょこっと感謝のしるしを用意できて。

今までご苦労様でした、有難うと、感謝して
ねぎらうことができました。

でも、これは神様の奇跡です。
今まで、夫が働くのは当然、当たり前としか
思ってなかったです。
感謝もない。夫は働いてるが、私だって働い
てる。
自分も働いているから、当然としか思えない。
感謝なんて発想も無かったです。

でも、神様を知って、変えられて行って、
今回、感謝の言葉が、スルスルと出て、
ものすごく夫婦で、いい感じて、潤いました。

夫も、何だかとても嬉しかったようです(*^_^*)
こちらも、とても幸せな気持ちになりました。
神様のお陰です!

夫が、素直に表現する人でなくて、苦労
してきたのですが(笑)

私の友人が、夫婦共に交流があるのですが、
つい夫の愚痴を言ってしまった時、

『いつも、そばから見ていて、ご主人はあなた
の事を、ものすごく思っとってよ。
すごく愛情感じるよ。
でも、表現がちょっとずれてるから、うまく
伝わらないんよね。
でも、あなたを愛しとってよ』

と、友人に言われて、これが素直に言わないから
ほんと、わからないんですよねえ。
でも、そう言われれば、色々と思い当たること
もあり、でも、私自身が変えられたなあと。

神様を知らなかったら、夫に寄り添おうとか、
理解しようとか、愛して行こうとか、従おう
とか、知らなかったです。

それが夫の趣味に付き合っている内に、
自分も好きになり、夢中になり、共通の趣味に
なってしまったり。

夫婦関係がほんとに変えられて、喜びや
温もりがあって。もう神様に感謝しても
し尽くせないです(*^_^*)」


2016年04月06日(水)
  「喜び」

さん
「私は長い間、偶像を拝んで生きて
来ました。
環境的に、周囲が皆、偶像信仰者だった
ので、自然に、何の疑いもなく、その道に
歩みました。

でも、段々物心ついて、考え始めるようになると、
どうしても、心お奥底に空洞があって、幾ら
偶像を拝んでも、信心しても満たされないのです。

しかし、親族皆が、信仰していて、自分もその
まま偶像を拝み続けていました。

ある時、聖書、主イエス・キリスト、福音に
触れる機会が来ました。
自らの罪、神の愛、キリストの救いを知った時に、
信じたい!と思い、受け入れました。

主を信じ、御霊が内住された時に、喜びが溢れ
ました。
今まで経験した事のない心の奥からの喜びで、
嬉しくて嬉しくて、仕方がなかったです。

偶像礼拝の期間が長かったので、幾ら拝んで
も満たされない月日を経験していたので、
この溢れる喜びには驚きでした。

周囲が「どうしてそんなに嬉しそうなの?」「なぜ、
そんなに喜んでるの」と、いろんな人が聞いて来ました。

証しをし、主のもとへ連れて行った時に、親族が
次々と救われ、夫も、親も、親戚も救われて
行きました。

何も善行による証しはできていないのに、喜び
が証しとされました。不思議でした。
ただただ感謝ばかりです」


“御霊の実は・・喜び・・
このようなものを禁ずる律法はありません”
ガラテヤ5:23

Bさんも、
ずっと長い間、偶像を拝んで来られた。
周囲から誘われ、何か心の支え、頼るもの
が欲しかったので、信心された。

しかし、拝んでも、拝んでも、幾ら一生懸命に
言われることをしても、全く心に救いは無かったと。
心の奥の空洞が埋められない。

拝んでも、拝んでも、修業しても、心の虚しさが
無くならず・・そこに救いが無かったと。

イエス様に出会った時、心の奥が埋まって、満たされ、
感謝が溢れて、溢れて。
心の奥から喜びが湧き、嬉しくて、嬉しくてと。

「まあ、あなたはなんで、そんなに変わったのか」
とよく聞かれてと。


自分自身が、主にあって、喜んでいることが
一番の証しだ。

「作り笑いはできるが、作り喜びはできない」と
言われている。
喜びは、御霊からのもの。御霊の喜び。

妨げているものを、献げたり、取り除かれ
たりして、主と親しく交わって行きたい。
溢れ出る(*^_^*)

“わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る
ようになる”ヨハネ7:38




2016年04月04日(月)
  「問題点」

Aさん「色々問題や悩みでいっぱいの時、話すと
不思議ですね。
聞いてもらってるのに、自分で自分が見えて来て、
全然気づかなかった自分の姿が見えて来る。

先日聞いてもらった時、話していて、自分の問題点が
見えて来たんです。
あれから帰って、神様の前に静まり、祈り、問題
であった事に、自分の非がある事わかり、悔い改めました。

すると、自分の心がすっかり変えられて、平安になり、
解決したんです。」


以前に、夫婦中の悪い婦人がいて、しょっ中、
夫婦でぶつかり、喧嘩が絶えず、いっぱいいっぱい
になると、電話をして来ていた。

怒りと、不満といら立ちで、主人の悪口をぶちまけ
て、1時間半ほどすると、言い尽くしたのか、段々
静かになり、
「・・でも、・・自分も悪い・・」と言い出し、神妙になり、
悔い改めますと。

一言も言葉を発さないまま、相手が一人で喋って、
一人で悔い改めて、電話が切れた(^^;)


気持ちを言葉にすると、自分の姿が見えて来る。
混乱のカオス状態から、問題点が見えて来る。

そして主の語りかけで、問題点が見えて来る。



Bさん「今日のベテスダの池の箇所で、主が“よくなり
たいか”と、38年伏せっている人に問われた。

“よくなりたいか”と問うて下さった時に初めて、
「よくなりたくない自分」に気づかせられる。

受け入れられない相手、赦せない相手は、憎んで
いたいし、赦したくない。絶対に嫌だ。
頑なな強固な自我がある。

よくなりたくないんですよね。
でも、かすかな、もう一人の自分がいて、「よくなりたい
です」と、主に向かえたらいいだろうなあと、思っている。
でも、できない、したくない、もう一人の自分。

でも、問題点がわかり、祈りに持って行けるので感謝です。
よくなりたいですと、主にはっきり言えるよう、祈ります。





2016年04月02日(土)
  「祈りの交わり」

ハンナの祈りを学ぶ。

子供が欲しいが与えられない状況に、悩み、
苦しみ、悶々とする。

当時は不妊は神様に祝福されていないとの
迷信があったため、非常に辛かった。周囲の
白い目が心に突き刺さる。

また夫がハンナの方を愛していたため、激しい
嫉妬で、いじめの攻撃をしてくるぺにンナの存在。
陰湿ないじめに傷つき泣かされた。

夫は「なぜ泣いているのか。あなたにとって、私は
十人以上の者ではないのか」とは、全く何の慰め
にもならない。

逆だ。私にとってあなたは十人以上の者なら
わかるが。夫にも苦しい気持ちはわかってもらえ
ない。

一番苦しかったのは、神が祝福していて
下さらないのか、ということだったかも知れない。

被害者に思われるハンナにも、ペニンナへの
妬みや羨ましさ、傷つける者への憎しみ、表
には出さない、ドロドロの感情があったろう。

でも、そんなハンナは、決心した。主にとことん
向き合い、祈り、心の底を注ぎ出し、祈りに
持って行くことを。

心の何もかもを吐きだし、感情もぶつけ、激しく
泣き、不安、怒り、悲しみ、煩い、嘆き、叫び
何もかもを包み隠さず、主に持って行った。

そして祭司から「安心して行きなさい。その願いが
叶えられるように」との御言葉を与えられ、
心は、すっきりし、平安になり、解決へと導かれた。

Aさんが
「私は、祈る時、飾らないよう気をつけています。自分
の気持ちを自分で確認できるよう、声を出して祈ります。

しかし、まずその飾らない祈りにつく事がなかなかできず、
ウロウロします。難しいです。

でも、ウロウロしていると、神様が招いて下さって、
ようやく祈りにつけます。

心の様々な思い、憎しみや妬みやドロドロを持って
行くので、また逃げだしたくて、ウロウロします。

でも、神様はずっと招いて下さって、祈り始めると、
心の底にある寂しさや孤独があらわにされ、気づきを
与えられます。

ドロドロの罪があるにもかかわらず、祈り終えた時、
心がすっきりします。平安にされます」


心を注ぎ出して、吐き出して、どんな時も、何が
あっても、主との交わりにより、生かされて行く。