2016年06月15日(水) 「祈りの力」
★「対人関係で、幾ら言っても相手に通じない 状況があって、つい怒りとなり、いら立った物言い をしてしまった。 行き違いが生じてしまい、もうどうして行け ばよいのか。気持ちがしんどいし、悩みの中 にいた。 隣人は愛すること、わかるのだが、できない。 その事を洗いざらい、祈りに持って行った。 愛せないこと、怒りがあること、様々な気持ち 思いを何もかもを、吐き出して祈った。 すると、心がすっきりした。 そして、何と、心が変えられていた。怒りは消えて 相手を気遣う思いが生まれていた。 そして、相手の長所が見えて来て、自分で驚いた。 それまで全く見えなかった。 見方が全く変わってしまった。 祈りの力に驚かされた」 ★ 「引っ越し以来ずっと近所の対人関係で 悩まされて来た。 難しくて、気を遣いながら、祈りながら、ずっと 接して来た。 隣家との境界線のことで、うまく行かず、試練 を通り、祈りを重ねて来た。 そんな中、完全にこちらのケアレスミスで、 隣家に迷惑をかける事態が発生した。 こちらの落ち度であり、もう祈りに祈って、 恐れを感じる中、謝りに行った。 すると、快く赦してもらえて、弁償も必要ないと とのこと、驚いて、神様のあわれみに感謝した。 こちらの気持ちとして、物品を持って行くと、 今後は、こちらこそが世話にならないといけない 身なので、こういう事はするなと、気遣いを 受け、恐縮し、神が平和を置いて下さった事に、 心から主を崇め、みわざに感謝した。 切なる祈りに答えられたことが、何より感謝で あった」 ★ 「朝から雨で、うっとうしい天候の中、色々 あって、自分の心も、閉塞感でいっぱいだった。 息苦しく、心が抑えつけられるようだった。 その時に、祈った。 今のうっとうしい気持ちを、あるがまま告げて、 助けを求めて祈った。 その次の瞬間、なぜか日々の言葉に目が行き、 その御言葉が、まさに今の自分の状況にピッタリ だった。驚いた。 答えが来て、目が上に向いた。 上に向くや、与えられている祝福が見えて来て、 心が解き放たれ、平安にされた。 その時、あ!祈りが答えられたとわかった。 その事がまた、喜びとされた。 心がうっとうしくて、冴えないと、何か気分転換 をと、思いがちだが、まず祈ることが大切だと また教えられた」
2016年06月10日(金) 「続 〃 」
★「対人関係で、○○さんの祝い事があって、お祝い して上げたいなあと思い、でも相手が、何が良いのか わからず、好みもわからないので、プレゼントを すごく祈ったんです。 ふさわしい、良い物与えて下さいと。祈って、買い物 に出て、色々見回って、考え、考え、こういうのが 良いかなとの思いが来て、それに決めたんです。 喜んで受け取ってもらい、しばらく後、全然関係の 無い所で、○○さんが、元々それが好きだったという 情報を得て、びっくりして。 祈ったので、神様が導いて下さったと、嬉しかった です。感謝でした」 皆で「でも、Aさんて、○○さんの事、以前苦手で、 難しくて、ものすごく悩んで、苦しんでいたよね。 すごいね!!(^^)神様のみわざ。愛情に変えて 下さって」 「え!私、そうでしたっけ?!(大笑) そう言えば、そうです!そうです!!以前悩んで、 悩んで、苦しんでました。 神様すごいです。ほんと従って行くと、祝福して 下さるんですねえ。神様、感謝です!!」 「あんなに苦しんでたのに。忘れてるなんて(笑) 神様、心を全く変えて下さるね(*^_^*)」 ★「私は、以前を思うと、ほんと思い煩いが無くなって しまって。何かもう、ずっと神様頼みで。 毎日の生活で、あれ出来ません、これ出来ません。 神様助けて下さいね。 あれは、どうしましょうか。これは、どうしましょう。 心の中で、ずっと祈りながら、神様と相談しながら、 暮らしていて。 すると、ほんとに助けられて。導かれて。 何も、心配すること無いんだと。 くよくよ心配している時間があったら、祈ったらいい んだなあと、教えられて。 やはり振り返ると、もう身動き取れない、どうにも ならなかった、どうしていいかわからなかった、崖っぷち を通った時から変わったと。 あの時に、明け渡して、委ねた時から信仰生活 変わりました。 委ねるしか方法なくて、あの崖っぷちが感謝でした。 最悪が、実は最善なんですね。 あれ以来ずっと平安で、嬉しいです(*^_^*」)
2016年06月07日(火) 「日常の中で」
交わりの中で ★「ものすごく心配していた事柄や、対人関係の事やら が、もう見事に解決されたんです。神様が働いて下さい ました。 ほんとに神様ごめんなさいで、思い煩うなと言われる のに、思い煩って、不安になって、心配していて。 神様に申し訳ないです。 こんなんなら、思い煩うんじゃなかったと(笑) でも、神様を、また一歩大きく体験できた時とされ ました。 御言葉の通り、ほんとに、ほんとに、思い煩わなくて 良いですねえ。神様は真実です。 感謝な出来事でした」 ★「お嫁さんが、私の言った言葉で、傷ついたらしく、 泣いて、言って来てくれたんです。 『お義母さんの言葉で傷つきました』と泣いていて。 もう、びっくりして。私は全然そんなつもりほんとに 無くて。言葉が足らなかったり、適切でなかったり することがあって。 もう、ごめんね。ごめんね。そんなつもり全く無い からと。 『私は、○○ちゃんを心から愛してるよ。 ほんとに大切に思ってるし、愛情感じてるよと、 もうわかってもらおうと、必死になって。 わかって欲しいと懸命に』 最後口から出た言葉が『私を信じて!』 もう『私を信じて!』愛してるからと。 お嫁さんの顔が明るくなって、元気になって料理 作りを始めて、良かったです。 でも、最後はもう『私を信じて』しか言葉がなく、 これって、神様が私に言っておられるんだと、 わかりました!! 神様を信じて欲しいと、願っておられるんだと。 感謝な出来事でした」 皆が「良かったねえ。神様が益とされて、愛を伝える 機会になって(^^)」 「そう!!愛してると宣言した!!」(笑)
2016年06月03日(金) 「弱さの中に、神の力」
「わたしの恵みは、あなたに十分である。 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に 現われるからである」Uコリント12:9 パウロは、激痛を伴うとげを与えられていた。 とげは、身体を突き刺し痛い。 これを取り去って欲しいと、徹底的に祈った。 しかし、答えは「ノー」だった。 恵みは十分で、このとげの中で、神の力が 働き、神の力が完全に現れると。 神の臨在がおおうと。 これがあるがために、神の恵み、力、臨在が 伴う。 パウロは、とげに甘んじて、喜びとした。 そして、とげが与えられた目的が「高ぶることの ないように」、 高慢から守られるためだった。 Aさん「信仰持って長い歳月がたち、主人の 救いをずっと祈って来たが、 その動機が、自分が楽になりたいため、 自分が信仰生活、教会生活が自由にできる ため、だったと思う。 まだ救われていないが、恵みは十分で、弱さ の中に働いて下さることに感謝。 自分は、もしすぐに主人が救われていたら、 なあなあの、クリスチャンになっていたと思う。 今日も、集会に来れることが嬉しくて、嬉しくて 渇きをもって、来れる。 これもとげが与えられているがためであって、高ぶり から守られ、砕かれ、主を求めるためだったと思う。 とげによって、ずっと神様に頼り、神様を求めて 来れた。恵みは十分で、弱さのうちに働かれて いることが本当に感謝です」 Bさん「私も辛い家族生活だった。とげが与え られていた。 でも、それがあったから、救われたと思う。 もし幸せな家庭だったら、私は神様を求めていないし、 神様のところに来ていない。 辛くて、苦しかった境遇が感謝で、だからこそ救いに 入れられ、神様に出会えた。 この事は何にも代えられない。 恵みは十分で、弱さの中に神の力を感じます。 感謝でならないです」
2016年06月01日(水) 「網をおろす」
ペテロが「深みにこぎ出すよう」言われた箇所を 学んでいた。 その日、漁に出たが、一匹も魚がとれなかった。 それで、朝になり、引き揚げて来た。 丁度、岸に群衆が押し迫り、イエス様の御言葉を 聞いていた。 群衆が聞いているのに、ペテロは、御言葉を聞いて おらず、背を向けて網を洗っていた。 疲労こんぱいで、一刻も早く帰って眠りたかったろう。 そこに主が、ペテロに「少し」舟を出すよう頼まれた。 ペテロは、その前に姑の高熱をいやしてもらっている 恩義もあり、まあ先生の言うことだからと、舟を出した。 岸から少し離れ、舟の中から、主が岸に向かって話すと、 押し合いへし合いだったのが、皆も秩序もってよい具合に 聞けた。 そして、ペテロはいやがおうでも、自分の舟なので、主の 御言葉を聞かざるを得なかった。 御言葉を聞いた事により、ペテロの内で変化が生じた。 話が終わると、主が「深みに漕ぎ出して、網をおろして 魚をとりなさい」と言われた。 漁は夜から未明にするので、朝に魚はいない。 常識的にも、物理的にも、自分の経験値でもあり 得ない。自分の思い、経験では、やっても無駄だ。 「でも」と思えた。「おことばどおり、網をおろして みましょう」と。 主の御言葉を聞いたので、従おうと思えた。 そして、「少し」出てしまっていたので、そのまま 沖へ出れば良かった。 網を洗っている時に、「沖へ出よ」と言われたなら 無理ですと、お断りしていただろう。 従えるように、一歩一歩と、手取り足取り、主の 配慮がある。 Aさんが、イエス様を信じた後、主から祈る事を教え られ、悩みや問題の中で、祈って行くと、確かに、 祈りに答えられ、心が落ち着いて行くことを経験して 行った。 確かに、神様がおられる。しかし、なかなか神様に 愛されているという実感を持てなかった。 頭ではわかるのだが、実感が無かった。 ある時、自分は神様の愛を受け入れていない事 に気づかされた。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い」との御言葉も いいえ、私が高価で尊いはずがない。 他の人はそうでも、自分は違うと。全く受け入れず、 拒否していることに、初めて気づかされた。 つまり、御言葉を否定して、捨てていることになると。 自分は絶対にそう思えない。 「でも」と初めて思えた。自分はそう思わないけれど、 「おことばどおり」受け入れようと。決心した。 「神様、愛して下さって有難うございます」と応答した。 網をおろした。 すると、そこから、変えられた。神様の愛がわかり、 目が開かれて行った。 信仰の網をおろすことを、見せられる。