2016年07月20日(水) 「すべてが益に」
ある人の証しがあった。 成績はトップクラスで、受験は難なく合格と自他共に 皆が信じていた。しかし、結果は不合格だった。 皆が驚いたが、しかし、これが後に素晴らしい益と 結果することになった。 本人は、大きな挫折を通ったが、すべり止めの学校 に入学した。そこで主に従って行った。 しかし、そこで思いもしなかった、大きな祝福が備え られていた。 主のみわざで、聖書研究会の道が開かれ、生徒たちに 御言葉を伝えることができた。 そして、クラブや生徒会で、リーダーとなって活躍する ことになった。 実は以前は、「私、できます」感を漂わせ、高慢な 感じがあった。 しかし、挫折を通して、砕かれ、人格が変わった。 柔和になり、周囲から大変慕われる人となった。 どんなにネガティブな事態が起きても、主の御手に あって、信仰もって歩むなら、必ず祝福に結果する ことを教えられる。 Aさん「子供の就職にしても、より条件の良い所、 より安定した所と、目がどんどん世の価値観に行って しまい、子供の思いなど、そっちのけで、何という肉だと、 気づかされました。 子供の気持ち、子供の意志、考えを第一に 尊重してやりたいと示されて感謝でした。 もし、仮りに子供がしたい道に進んで失敗した としても、子供は納得が行くし、また次に進んで 行ける。 そして、もし失敗したとしても、神様にあって益とされ ることに本当に感謝です」 どこに目が向いているかが大切で、神様に向いて いるなら、どんな状況の中でも、そこに闇はなく、いつも 光があって、希望があって、何と感謝なことか。
2016年07月16日(土) 「教えられること」
★「3名で奉仕をする機会があったんです。 大事な集いで、ずっと祈って迎えたんですが、 バタバタと始まって、次々と対応が続き、何とか うまく行きました。 一段落ついた時に、「あ!3人で祈らずに始めた」 ことに気がつき、その事がグッと心に来て、 2人の方に、ごめんなさいと、バタバタして祈らずに 始めてしまったことを言うと、 2人の方も、ああ、そうでしたと、一緒に祈りました。 その後、バタバタの中も平安に導かれて行えて。 でもその時、ああ、その前の奉仕もうまく行ったのは 神様が守っていて下さったんだと、改めて感謝で いっぱいになり、ほんとにすべては益と、感謝でした」 ★「“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って 召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて 益としてくださることを、私たちは知っています”ローマ8:28 の有名な御言葉があって、感謝だなあ、素晴らしいなあ 失敗も、マイナスの事柄も、苦しみも、すべての事を 働かせて益として下さるんだと、いつも学び、 そのように、自分は信じていると思っていたんです。 信じている「つもり」だったんです。 でも、目の前に、実際にいろんな問題が起き、それら を通して、自分の心が照らし出され、自分は益と なると、信じていない、信じることができないんだと わかりました。 目の前の状況を見て、これが益になるなどと、 どこがどうなれば、そうなるのか、考えられない、 到底信じられない。 だから、思い煩いや不安が生じるんですよね。 でも、この気づきが感謝なんですよね。 このありのままの心を、神様に祈って行きます。」 ★「今、多大な思い煩いと、問題を抱えているんですが、 心が重く、苦しくて、“何も思い煩うな”は、自分のため だと思いました。 思い煩うのは、自分でしようとしているからであり、その底は 自分で出来ると思っている、高慢であることが、わかりました。 委ねないで、自分が握っているところに問題がある事が わかります。でも、これがまた握りしめていて、自分では、 委ねられない。 自分が握っていては、神様が働けないですよね。 委ねられるように祈ること、これが自分への御心だと わかりました。」
2016年07月12日(火) 「出来ないことを認めて、受け入れる」
“あなたの隣人を愛しなさい”との学びだった。 自分はまさに隣人=ご近所さんトラブルを長年 抱えて来た。 嫌がらせをされ、攻撃をされる。しんどくて、重くて 苦しくて、気持ちが沈む。 後から思えば、神様の取り扱いだとわかるが、 ご近所さんが引っ越しすると、また、次、同じ ような人が入る。どうなってるのか。 忍耐しながらも、また、何かされるのではとの 恐れが来る。外に出られなくなる。 祈るのだが、長い間、解決が与えられないでいた。 自分は愛せない事を、教えられるためだったと思う。 嫌がらせに、腹が立つし、何でこういう人なのかと思う。 自分の家の玄関に、「あなたの隣人を愛しなさい」 との御言葉の置き額があるが、辛くて、ひっくり返して しまった。 でも、心は苦しくて、愛が無い自分が悪いと思う。もっと 頑張らなければと思う。それは苦しい。 しかし、長年、その繰り返しだったが、そこからは何も生 まれなかった。 今、教えられたのは、隣人を愛せないことを認め、 自分に出来ないことを責めずに、それを受け入れる ことだと。そして神様に頼る。 そこから新しい一歩が始まるのだと。 出来ないことを神様に申し上げ、そして何もしない のでなく、神様に頼って、示された事をして行く。 そして、神様はいつも自分に出来ることを示して 下さる。 自分は、 タラントのたとえの箇所で、一タラントを隠す しもべだと思って来た。 失敗が恐いので、ただそれを地に埋めて持っている。 でも、出来ない事を正直に認め、神様に頼るなら、 自分に出来ることをさせて下さる、と思えるように なった。 一歩展開があって、進んで行ける。そこに喜びがある ので、一タラントのしもべで無くなると思えた。 長い、取り扱いだったが、心から感謝できる。 ★愛せない自分を責めて、もっと頑張ろうとするので なく、自分に愛が無いことを認める。 そして、愛が無いことを責めずに、受け入れる。 神様に頼る時、そこに神様が働いて、みわざをして 下さる。
2016年07月11日(月) 「愛がない」
「主を信じて、初めの頃は、自分に愛が無い とは全然思ってないです。 愛深いとは思わないが、普通に愛情あると 思っていました。 普通に良い人間だと。 でも、クリスチャン生活が進んで行くと、神様 が取り扱って下さって、いろんな人を目の前に 置いて、愛が無いことを、シビアに教えられる。 でも、でも、確かに愛は無いのだが、しかし 僅かでもあると思っていた。 全面否定はしたくないんでしょうね。 そんなにひどい人間ではないと思いたい。 でも、難しい相手を目の前に置かれて、自分 に、僅かの愛もなく、全く愛がないことを教えられ ました。 そこが、なかなかわからないんですよね。 絶対にそんな事、認めたくないですしね。 全く愛が無い。でも、祝福なんですよね。 御言葉は、罪がわかるために、自分では 出来ないことがわかるために、あるんですよね。 出来ないことを認める時、イエス様が成し遂げ て下さる。 自分に愛が無いことを知れて感謝です。 愛が無いことを知ることは痛いですが、この事も ですが、またいろんな痛い事も、避けて通ると 、神様がわからないんだなあと。 痛みは避けられても、神様を知って行く恵みを 捨てることになりますよね。 自分の自我が砕かれることもない。 でも、痛いから、避けて、逃げてしまいそうに なるが、でも神様は愛で、もう逃げられないように ドカン!と、目の前に置かれますね。 避けないで、逃げないで、向き合って行くと、 神様を知れて、自分も成長させて下さって 祝福されるんだと、教えられます。 避けたら、自分は何も変わらないし、神様を 知る喜びも無いですね」。
2016年07月10日(日) 『蒔かれたものを奪って行く」
サタンは、御言葉と祈りを奪いたくて仕方がない。 “御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が 来て、その人の心に蒔かれたものを奪って 行きます”マタイ13:19 御言葉を聞いている時に、必ず横から別の思い が来る。 「そんなの無理、無理」「できっこない」 「自分一人ぐらいが献げても、何にもならない。 自分がしても・・」 「こんな微力は焼け石に水」 「そんな事をしたら、世の中では変に思われる」 「世の中ではやって行けない」 御言葉を聞く時、同時にサタンからの思いが 臨んで来る。 よく認識して、わきまえて、意識していなければ、 そっちの方へずっと行き、サタンの言葉を選択して いて全く気づかない。 御言葉は霊であり、いのちだ。 御言葉には大きな力がある。 アスファルトの隙間に落ちた種が、アスファルトを 持ち上げて、打ち破って芽吹いているのを 時々目にする。 そんな、人を生かし、建て上げる命の言葉を 絶対に心に入れたくないのが、サタンだ。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い、 わたしはあなたを愛している」と主が言われる。 ある人は、その言葉を自分は全然受け入れて いなかったと。 ある人は、人にはそうだろうが、自分など、高価で 尊いなどと、とんでもないとずっと拒否していたと。 ある人は、その言葉を全く信じていない自分に 気づいたと。 気づけたことが、御霊の働きで、大きな感謝だ。 ある人は、聖書の中に「喜びなさい」という御言葉 が出て来る。 “いつも主にあって喜びなさい” “もう一度言います。喜びなさい” 喜びなさいとの言葉が、よく心に来ていて、語られている。 しかし、自分は喜べる状況ではない。病気にもなり、 ずっと仕事もできなかった。 「だから、状況を見て、自分も『無理、無理』と御言葉 を受け入れず、拒否し、捨てていたと気がつきました。 御言葉に従って、主にあって喜んで行きます」。
2016年07月08日(金) 「他人事に聞いていたのが、ある時」
続・御言葉の聞き方 「ずっと長い間、御言葉を聞いてたが、他人事で聞いて いて、自分の事として、聞いた事が無かった。 自分には、助けは必要無いと思っていて、そんなの 自分でやらなくて、どうすると。 プライドと自我が強かったんですよねえ。 友人が誘ってくれて、聖書の学びに集っていたが、 横で、友人が御言葉を聞いて、よく泣いていた。 今思えば、友人は恵まれて泣いていた。 でもその時は、何を泣くんじゃろ? 何で泣くん じゃ?と横で、不思議で仕方無かった。 自分は御言葉を聞いても、何もわからなかった。 心動くことなど無かった。 だいたいから、入って無かったんですよねえ。 それがある時、御言葉が心にぐいぐい入って来た。 放蕩息子のお話聞いて、自分だとわかった。 それ以後、御言葉が自分に当てはまるので びっくりだった。 日々のことばの冊子を読んでいるが、これ自分の 事だと、その時、その時の心の状態にピッタリと はまって来る。ビンビンと響いて来る。 びっくりです。 やはり、人生に行き詰まって、何もかも、すべてを 神様に明け渡した時に、自分が変わりました。 その時に、目の前の危機が、何もかも完璧に 導かれたことを体験しました。 進むべき道が、目の前に次々と開かれて行って、 驚くばかりでした。神様が開いて下さって行くのが もろにわかって。神様すごいです! 何でも祈れることの、幸いと喜びが日々もう感謝で 感謝で。幸せです。 嫌な相手と接する時も、神様に頼って祈っていると、 それが自分の口から、優しい言葉が出て来て びっくり!!です。 え!今、自分が言った?!みたいな(^^) ほんと、自分じゃなくて、神様です!! 神様に生かされています」
2016年07月07日(木) 「ギブアップ」
御言葉の聞き方について話していて。 Aさん「種まきの例えで、道ばたに落ちた種は 土地が固くて、地中に植わらず、サタンが来て 種を取って行ってしまった、とあるが、 自分はまさにそうでした。10年近く、集会に 来て、御言葉は聞くのですが、心が固く、 自分の思いは強く、全く心に入ってなかった。 丁度、自分は観客で、映画を観ているようで、 自分とリンクせず、自分とは関係なく目の前に あって、通り過ぎて行く、 まさに、ずっとそういう状態でした。自我が強い からだと思います」 「試練に、ぶち当たった時に変えられた?」 「それも、少々の試練ではダメで、自分で何とか できてしまう。 ほんとに絶体絶命で、もう完全ギブアップに された時に、変えられました!」 「外から見ていても、もう使用前、使用後ぐらい に変わったよ」(笑) 「顔が真っ暗らな、憔悴しきった顔だったのが、 突然、笑顔になって、もう満面の笑みで、 思い煩いが全然無いんです!!と(*^_^*)」 「皆で、呆気にとられるほどの、変わりようで、 ほんとに神様はすごいと!!」 「あれからずっとAさんが聖霊に導かれている のが、わかる。ずっと平安に満ちてて、喜び があってね」 「そうなんです!もう嬉しくて、嬉しくて!!」 ドンピシャ!聖歌の556 「祈りすれど、手ごたえなく、求むれど 得ずして 重き心 抱き続け 苦しみは 誰ぞや」 「汝が 持てるものを 主の手に ことごとく 献げしや 条件つけず 降伏せば 勝ちうべし 勝利を」 「信仰を持ち 恵みに満ち み光の中行く 輝かしき 生活をば 望まずや 我が友」 「恵み持たず 賜物のみ 慕うとも 益なし 汝が すべてを 献げ尽くし 火を待てや 静かに」 「献げ尽くし 明け渡しし 心こそ 妙なれ 君なるイエス 心に住み 御心を 成したもう」 「汝が 持てるものを 主の手に ことごとく 献げしや 条件つけず 降伏せば 勝ちうべし 勝利を」 降伏!ギブアップが、最高の幸せの道!!
2016年07月05日(火) 「サタンの妨害」
御心を行なおうとすると、サタンが来る。 “神は、みこころのままに、あなたがたの うちに働いて志を立てさせ、事を行なわ せてくださるのです”ピリピ2:13 神が、みこころを示し、神ご自身が力を 与え、私たちを通して実現させて行かれる。 自分の力ではない。 でも、その時に、必ずと言っていいほど サタンの妨害が入る。 “すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ない なさい”ピリピ2:14 経験するところだ。御心を行なおうとする時、 つぶやきや疑いが来る。 「何でこんな事を?」「どうして自分が?」 「本当に神様が言われたのか?」 「自分の聞き違いではないのか?」 「こんな事をしたら、言ったら、人々から浮いて しまう」 「世の中、渡って行けない」 「人にどう思われるだろうか?変に思われるのでは?」 様々な思いをサタンは持って来る。 御心を行なうことをストップさせようとする。 大きな祝福がある時、必ずサタンが働く。 行なう事の祝福をサタンこそが知っているので、 行なわれたくない。 サタンは全力で阻止して来る。 「あ!わかる!!必ず来る。思いが来る。 例えば、無視されると、こちらも無視したくなる。 でも、神様の御心は、「 “悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、 かえって祝福を与えなさい”だ。 “あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから です”Tペテロ3:9 サタンが肉に働いて来て、正反対の方向へ向かわせ ようとする。神様の栄光を壊して行こうとする。 御霊の促しに従おうとする時、阻んで来るサタンを よく識別できて、戦えるように。祈っていよう。
2016年07月02日(土) 「幸せ」
体調に問題を抱えているAさん。 「今、与えられている命、これから先は主の御心の ままです。 今後、何年あるかも主の御手の内。だから、この 1日を精一杯生きたいです。 明日は無いというぐらいに考えて、それほど今日 命が与えられていることに感謝し、今日なすべき 事を、仕事を家事を身の回りのことを、全身全霊 で行ないたい。 心を注いで、気持ちを込めて、主と共に歩みたい です」 他の人々も同じような事を(^^) 「思い煩って、不安を数えて、落ち込んだ中で 過ごしても1日、思い煩いを委ねて、明け渡して 感謝に溢れて過ごしても1日、 くよくよと思い煩うと気力が失せ、何もできず、 ただ堂々巡りで、周囲にも害毒を流してしまう。 そして、何よりほんとに!無駄な1日にしてしまう。 それよりも、神様を見上げるなら、どんなに良いか。 恵みを数えて、感謝して行く時、感謝を増し加えて 下さって、感謝することを与えて下さる」 「いつもいっしょにいる」 「わたしのものは全部お前のものだ」 「永遠の愛で愛している」 「何も思い煩うな」 「わたしを呼べ」 いつも目の前の問題でなく、自分を見るのでなく、 御言葉に立っておれるように。 「平凡な、何げない、ごく当たり前の1日。 これが実は何と感謝で、大きな恵みであることか。 何と幸せであることか。 深い闇があるから、光がわかる。 光の中で、光は認識できない。 闇が濃いから、光がくっきりする。 試練の日々があるから、苦しく辛い日々を通るから、 何げない、平凡な日常が、どんなに幸せかがわかる。 肉は、毎日同じ事の繰り返し、虚しくつまらないと 言うが、神様を意識しながら、神様と共に始める 1日がどんなに幸せであるか。 同じ状況が、神様のある無しでは、天と地ほどに 違う。 主と歩めることの大きな幸せ」