2016年08月20日(土)
  「へりくだる」

Aさん

職場で、チームで仕事をしていて、プロジェクト
のためのアイデアを話し合っていたが、なかなか
良い案が浮かばず。
時間もそんなに無く、皆で考えに考えていた。

そんな中、ある早朝に、Aさんにアイデアがひら
めいた。それですぐ主任に電話した。
すると、「それはいい!それで行こう!」という
事になり、その日、早めに集合した。

そして、その案に、皆で取りかかった。
ところが、思うように、なかなかうまく行かず、
時間ばかりがかかった。

そして、この案では、かなりの時間がかかる事
がわかって来た。
これは大変な作業だという事が判明してきた。

時間もそんなに無く、焦りも出て来る。
時間ばかりがかかり、なかなか思うように進ま
ない。

皆がイライラしているのがわかった。疲れもする。
場の空気がピリピリしている。まさに一触即発
状態だ。

そんな時、主任が「今朝は早く出て来なければ
ならず、忙しかった」と愚痴った。

Aさんも、イライラピリピリの悪い雰囲気の中で、
影響受け、それは自分への当てつけかと、自我
が反応してしまいと。

腹立たしさまで湧いて来る。嫌味を言いたい誘惑
にかられ、自我だ!と、「神様、自我です!助けて
下さい!」と心の中で祈った。

すると、口から勝手に言葉が出て来た。
「ごめんなさい」と口が言った。
「ごめんなさいね。私がこんな案を出したばっかりに
皆に忙しい大変な目に会わせてしまって」と。

すると、同僚が「そんな事ない!ない!何言って
るのよ。Aさんのせいじゃないよ」

主任が「そうだよ。君はこんないい案を出してくれ
たんじゃないか」

別の同僚が「そうよ、そうよ。大丈夫、できるよ。
皆で頑張ろうよ」と。

職場の空気が、イライラピリピリから暖かい、和やか
な潤い満ちたものに一変してしまった。

祈る時、主は職場にも、働いて下さる事を経験
した。


へりくだるところに、主が働かれ、恵みが流れ込む。

2016年08月18日(木)
  「サタンの攻撃」

「サタンて、ほんと攻撃「して来ますね。

対人関係の中で、いろんな思いが、もやもや来て、
目の前の状況に納得が行かなくて、人を責めたい
思いや、もうちょっと何とかして欲しい思いが
どんどん強くなり、

もう〜これこれ、こういう事を言おう、との思いが来る
んです。
それはネガティブな言葉で、決して建て上げるどころか
疑いや不信を起こさせる態度や言葉で。

でも、それが全く正当に思えるんです。サタンて目を
おおってしまうんですね。

でも、朝、祈った時に、「くちびるの戸を守りなさい」
とか「悪いことばを口から出してはいけない」とか
来るんです。

で、聖書を読み出した時に、我に返って、何という
事をしようとしてたんだろうと。
その時、実行しようとしていた思いが無くなった。
今、サタンだとわかります」


「ネガティブは言葉を発すると、雰囲気を壊して
しまい、ネガティブな空気を造り出して、嫌〜な
雰囲気になるよね」

「でも、デボーションや神様思う時、ふっと気づける
が、人を責めたり、批判する態度が、正当に思え
てしまうから、恐いですね」

「サタンの言葉に聞いて行くと、サタンの言う事が
正当にしか見えなくなってしまう。

エデンの園で、エバは、サタンの言葉を聞いて
行ってしまった。すると、神は『必ず死ぬ』と言われた
のに、サタンは、善悪を知る木の実を食べても『決して
死なない』と力強く断言した。

『死』という言葉は恐いが、『死なない』と言われると、
何となく安堵する。自分に都合が良い。受け入れる、
というより、受け入れたい。

そこでその実を見るともうダメで、魅惑的、魅力的な
素晴らしい実にしか見えない。取って食べるのは
時間の問題。ほんとにサタンは巧妙だ。
自分の内にある欲望と合致するから、やっかいだ」


「教会に来て、御言葉学んで、メッセージを聞いて、
はっきり神様のみこころは何か、何が良いことで、
神が望まれているのかに、立ち返れるから
ほんとに感謝です」

2016年08月12日(金)
  「聞くだけでなく、行なうこと」

御言葉を聞くだけでなく、「従う」ことを学んでいた。

クリスチャンなら、御言葉聞いたり、学んだりする事は
全く抵抗なく、OKだ。

聞いて、神様の素晴らしさを新たに知れて、今日は
良かったと、帰る。
良かった、良かったと、聞くだけで満足してしまう。

しかし、その御言葉は、頭をスルーして、忘れてしまう。
映画館で、映画を観ているようで、自分とは何の関係
もない。
でも、良かった、良かったと終わる。
そんな御言葉はサタンが持ち去ってしまう。
結局、何も残らず、聞かなかった事と同じになってしまう。

最大の落とし穴が、その事にも気づかないことにある。
無意識なので、気づかず、良かった、良かったで終わる。

しかし、御言葉が入ってないので、自分は何も変わらず、
成長することもない。

“みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ
聞くだけの者であってはいけません”ヤコブ1:22

鏡を見て、すぐ去ってしまうと、自分がどのように映っていた
かを忘れてしまう。

聞くだけで去ると、自分を欺いていることになる。


Aさん「今日の御言葉ピッタリで、語られた御言葉を
行なうよう、示されてたんですが、しっかり実行します!」

実行することは犠牲と負担が伴い、考えるとがしんどくて、
つい延ばし延ばしに、先送りになっていて。
祝福を阻止したい、サタンも来ているんですよね。

そして後日、実行したAさん。

「もう思いを遙かに越えた素晴らしい結果が与えられ。
道が次々と備えられていて、驚きでした。
周りにも良い証しになって、感謝でした。
ほんとに実行して良かったです!!
サタンにやられるところでした」

「御言葉語られて、行なおうとする時に、無理!無理!
と声が聞こえて来る。
そして、どんなに難しく、無理かとの、ネガティブな
思いが次々と湧いて来て、不可能との確信にまで
行ってしまう。
サタンですよねえ」


御言葉に従う時、大きな祝福を刈り取る。
ペテロは、主のことばに従って網を下ろすと、
いるはずのない魚がいた。
それも大漁、破格の祝福だった。

サタンが必ず妨害に来ることをいつも覚えていたい。



2016年08月10日(水)
  「自分の姿を見せられて」

日々の対人関係の中で、様々教えられ、砕かれ、
学ばせられる。

「難しい対人関係があって、ずっと祈り、祈りつつ
自分なりに仕えて来たんです。

その対人関係があるからこそ、助けを求めて祈るし、
導き求めるし、自分の目の前に置かれた、神様
からの取り扱いと受け止めることができて。

自分では出来ないので、祈りながら、接して来た
んですが。
先日、ちょっとした私のミスでの出来事があり、その時に、
自分にとって、ものすごく傷つく言葉を言われてしまい、
もう立ち上がれないほど、辛く悲しかったんです。

その時、心の中で、この人は幾ら仕えても変わらない。
これから先も、この人はこうなんだろう。もう仕えて行く
自信がない・・そんな事を思ったんです。

それで、同じミスをしないよう、どうすれば良いかを
対応策を一生懸命考えて。
二度と無いようにと、そればかりだったんです。

今日、学びをしていて、自分の恐ろしい高慢に気づ
かされました。
自分が相手の上に立って、自分が、この人はいつもこう、
これからもこう、と決めつけていて、思い上がり、相手を
見下ろしている、高ぶりです。

ミスをどうこうするノウハウの問題でなく、自分の高慢
を悔い改めます。」


「あー!私も一緒です。自分では仕えてるんですが、
もう相手は、全然変わらないと思ってしまって。

これから後も、変わらないと思って、下向きになって
行ってたんですが。

ああ、私の高慢です。相手の上に立って、どうこう
思っていて。
悔い改めます」

「後日談があって、あの後、自分自身も平安にされ
て、相手も変わったように、こちらへの思いやりを
示してくれて、神様のみわざです。
神様の働きを感じます。やはり自分の問題だという
事を教えられます」


2016年08月06日(土)
  「御霊の気づき」

サタンの学びをしていたら、

「自分が落ち込む時や、ネガティブ思考に
なる時や、思い煩いでいっぱいになる時は、
サタンに気づいて、祈るんです。

試練の時も、逆方向に持って行こうとする
サタンを気づかせられて、祈れるんです。

でも、順調に行っている時が、サタンが全く
飛んでます。
今日、その事に気づきました。サタンが全く
無くて、でも、サタンの一番の攻撃は自分
を隠す事ですよね。
すでにやられてしまっていて、全く防備して
ないです。

だから、やはり、配慮に欠ける言葉や態度、
行動の時の動機やら、全くやられてしまってます。
そして、全く気づいていない。

相手に対して、自分は全く気づかず、正当
だと思っていた対応が、実は、自分が上に立った
高ぶりだと、今日気づきました。感謝です。
悔い改めます。

でも、何とも思わず、気づかないですねえ。
神様と逆方向の、恐ろしい事になって行き
ますよねえ。
御霊の気づきが感謝です。」


「普段生活していて、これは神の導きか、それとも
サタンからのものか、わからないことがありますねえ」

「それは、もう祈ればいいですね。祈っていると
何らか御霊の導きが来ますね」

「以前、友人が、祈っていた事業を興すチャンス
が目の前に来て。それが千万単位の高額の必要
があったんです。
それがあれば、今、事業が興せる、でも持ち金は
全く無くて。
祈って、銀行も奔走したが、融資は受けられなくて。

そんな状態の時に、商工関係者の集まりがあり、
そんなこんな話をしていたら、その中の人が、
それ融資すると言い、びっくりした。

知らない人で、親しくも全然無いし、これは神の奇跡か、
それとも、滅ぼすためのサタンからか。
神か、サタンか。もう祈りに祈り、切に祈り続け、導きを
求め続けた。
祈りに祈った結果、神からとの平安が来て、受ける事
にした。祝福とされて行った」

とにかくわからない時は、祈って行くことが一番。

2016年08月03日(水)
  「祈りはすごい」

「祈りってすごいですね」

★職場や友人間や、サークルや、対人関係で、
様々な事が起きる。
ちょっとした行き違いや、相手のきつい言葉や態度
で傷つく。

人のせいにしたい自分がいる。相手が悪い、
相手のせいにしたい。
言われた事に対して、反撃したい、攻撃したい
自分がいる。
そんな時、悪いのは一方的に相手。

そこで、ありのままを神様に告げて、祈り、祈り
続けていると、自分も悪かったと気づかせられる。

自分のあの言葉、この態度は、相手を傷つけた
のではないか。全然見えなかった自分の非を
気づかせられる。
相手を責めている時は、自分はいつも棚上げだ。

悔い改めて、相手に、ごめんねと言うと、心すっきり。
平安が戻る。

突っ張ってる間は、平安がない。自分の思うように
するのだが、そこに平安はない。
ほんとに祈りの力を経験する。いつも何があっても
神様に相談できることが、本当に感謝だ。

★ あ、同じです。エデンの園のアダムとエバのように、
すぐ相手のせいにし、責任転嫁してしまう。
自分を正当化する。

相手を責めていると、自分を見なくて済む。正当化
しておれる。心痛まなくて済む。
でも、平安はない。けれど突っ張る。

だが、そこで祈ると、気づきが与えられる。又、責任転嫁
し、自己正当化し、人のせいにしていると。

認めて、悔い改めると、平安が戻る。心が安堵する。
これをわかっていながら、同じ事を繰り返している自分。

だから、祈りたくない自分がいる。強固な自我がある。
それを教えられることも感謝です。

いつも選択ですね。感謝して、主を賛美して生きるか、
妬みや憎しみを持って生きるか、自分の選択ですね。

★、しょっ中、サタンが来ます。
こうなったのは、うまく行かなかったのは、周囲が助けて
くれなかったからだと。心の中で、周囲を責める。
自分の失敗を、周りのせいにしようとする。

又、できなかったことを認めず、私は疲れていたからだと
言い訳をする。ほんと自分の非を認めたくないんですね。

でも、でも、感謝です。祈ると、それらが示されて、
認めて、イエス様の十字架のもとへ行く時、ほんとに
平安になります。
大海のような平安を経験します。

2016年08月01日(月)
  「祈りが聞かれる」

祈りは、真に力があり、真に主の助けが臨む事を
経験する。

★「対人関係で、もう色々あります。ちょっとした言葉に
傷ついたり、カチンと来たり、ひどく腹が立ったり、悲し
くなったり。

神様を知る以前は、はっきり言い返してました。
カチンと来ると、そのままストレートに言い返し、
もめたり、家族なら甘えがあるから喧嘩になり、
しょっ中してました。

でも、神様を知って、祈るようになりました。
カチンと来る事を言われて、祈ると、言い返す事から
守られます。言葉で罪を犯す事から守られ、感謝です。

続けて祈っていると、かける言葉が与えられたり、
あ、相手はこういう思いで言ってると、様々気づきが与え
られたり、相手の立場に立てたり、ほんとに感謝です。
自分でなく、神様です。

この間も、傷つく事を言われた時、心で祈ってたんです。
すると、不思議に、あ、相手は悪気が無いんだと
わからされたんです。
今までも傷ついていたが、全く悪気なく、傷つく必要が
無かったんだと。神様だと感じました。
祈りに答えて下さったんですね。すごく感謝なことでした。」


★Bさんの友人が、養子をもらい、養育していた。
思春期になった頃、非常に難しい時期を迎えた。

子供は、ことごとに反発し、反抗した。
心が荒れているようだった。何一つ言うことも聞かない。
暴言も投げて来る。

その母親は、とにかく祈った。辛い一つ一つをことごとく
祈りに持って行った。子供のために祈り続けた。

子供が反抗する度に、祈った。争いになる度に
祈った。攻撃的な言葉にも、祈った。いつも主を
呼び求め、祈った。
しょっ中、無意識に、祈りで、口がもごもごとなっていた。
主に拠りすがる事がすべてで、祈りに祈った。

荒れた時期を経て、とうとう子供は、素直になった。
子供が泣いて言った「お母さんごめんなさい。いつもお母
さんが自分のために、祈ってくれている事を知っていた。

でも自分でもどうしようもなく、素直になれなかった。
自分で、自分をもどうにも出来なかった」と。

祈りには、大きな力がある。何もできないから、
どうにもできないからこそ、心底祈れる。
拠りすがれる。


“窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろに
されなかったからです”詩篇102:17