2016年09月10日(土)
  「従うことの祝福」

御言葉を聞くことが大切、それだけでなく、聞いた御言葉
に従うことが大切・・と学んでいた。


従って行こうとした時、本当に祝福されること
経験して来ましたと。

Aさん「自分は思い煩いがものすごく強い。人一倍強い。
心配症で、ことごとく思い煩ってしまいます。

“何も思い煩わないで・・”の、“思い煩うな”との
御言葉があるのだが、どうしても思い煩ってしまっていた。

でも、御言葉に従うことの大切さを学び、“何も思い煩
わないで・・”の御言葉に従おうとした。

思い煩いはストップし、ことごとくを神様に祈って行こうと。

そして、御言葉に従おうとした時に、自分の姿が照らされ
見えて来た。神様が自分の姿を見せて下さった。

自分は思い煩っていたいのだと。自分が思い煩いを選択
していると。

思い煩っていたいので、思い煩いが無いと、ものすごく
不安になる。
こんなに何もなくて良いのかと。居心地悪くなり、
落ち着かない。

そして、自分で思い煩いを捜して来て、思い煩いを
引っ張り出して、安心する。

神様は平安を与えよう、与えようとして下さっているのに、
自分の根には、真逆のものが根深く熱良く潜んでいる。
ここに気づかない限り、前に進めないですね。
そのことを教えられて感謝でした。

以前とは全然違います。自分の弱さである思い煩いに
ついて、前進させて下さっていることに感謝です」


自分の根にある価値観が問題で、そこが変わらない限り、
変わって行かない。

御言葉に従おうとした時に、その価値観に気づかせられる。
従おうとしないなら、一生気づくこともない。


Bさん[私も思い煩いが、ものすごく強いです。すぐに思い煩って
深く落ち込んでしまうんです。

心が暗くなって、沈んでしまい、あ、思い煩ってると気づくん
ですが、すぐに思い煩ってしまう。

そんな思い煩っている時に、いつも“わたしを呼べ”と、
とにかく祈れ!と学んでいるので、神様!思い煩いが来ます!
と祈ったんです。

すると
“明日のための心配は無用です。明日のことは明日が
心配します”との御言葉が浮かんで来て。

明日のことは、明日が心配する。そうだ!と思えて。
とても感謝だったんです」






2016年09月05日(月)
  「試練はチャンス」

試練の学びをしていた。

この世的にマイナスの事、病気、けが、リストラ、倒産、
不作、不合格・・この世では悪い事で、あってはならい
事、それらが無いようにとの信心だ。

Aさんは、いつも小さい頃から、お母さんにどんな良い
事、ハピーな事があっても、こんな事は続かないからね、
今に悪い事が来るからと、言われ続けて育ったと。

だからどんなハピーな事があっても、その底にいつも恐れ
と不安があり、心底楽しむ事ができなかった。

しかし、神様は違う。すべての事について感謝せよと、
それらも感謝だと言われる。

それらは悪ではないからだ。神様は、試練は信仰が
成長するための「チャンス」だと言われる。

“さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない
喜びと思いなさい”ヤコブ1:2
不合格も、不作も、リストラも、この上もない喜びと
思えと。

信仰がためされる=試練があると、忍耐が生じるから。
忍耐=我慢の意味でない。
忍耐=神様が必ず良くして下さると信じる意味だ。

Bさん「自分は苦しい時、そこで神様を信じようとか
祈ろうとかでなく、我慢してしまってる。
神様に近づくとかではなく、ただただ頭を手ておおって
うずくまって、我慢している。

ただただ我慢するのに必死になってしまい、神様が
飛んでしまっている。それに気づきました。
試練と受け止めるのでなく、避けて逃げてしまっている。
きちんと受け止めて、神様に向き合いたいです」

この苦しみの中で、神様が良くして下さること、導いて
下さることを信じて行く時に、信仰が成長する。

だから、信仰が成長するのは、試練の時であるので、
試練は喜びであると。

この世の価値観と全く違う、神様の価値観が、少し
少しと培われて行くように。

根深く培われている、この世の価値観、肉の価値観が
御言葉に変えられて行くように。


Cさんに、試練に次ぐ試練の時があった。
身動き取れない経済的苦境に、夫婦関係がうまく
行かず、子供が問題を起こし、難しく、問題に次ぐ
問題、何もかもがうまく行かない。

許容量オーバーな、追い詰められたような心境になり、
何も考えたくなく、一人で車で宛先もなく、ひた走りに、
走り続けた。

すると、御言葉が追いかけて来た。

“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまず
に死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべて
のものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう”ローマ8:32

逃げても逃げても、どんどん追いかけて来る。
御言葉が消えない。大きくなるばかりだ。

とうとう御言葉を受け取り、信じ、Uターンして、帰路に
ついた。
帰宅後は、すっかり心が落ち着いてしまって、
平安になっていた。平安に家族に対応できた。

試練の中で、神様に新たに出会えた時だった。


2016年09月02日(金)
  「御霊の一致」

10名で独立して、当初は教会財政が毎月赤字
だった。

教会の最初からのスタンスは、何があってもいつもまず
祈ること、御言葉を通して、主の御心を求めること
だった。

赤字についても、御心を求めて祈ると、5つのパンと2匹
の魚の箇所から、どんなに小さなものでも、持てるものを
主のもとに持って行くなら、主が満たして下さると。

皆が各自祈って、主に導かれたものを、主のもとに携えた。
すると、不思議が起きて、赤字分が、ほんのちょっと多い目
に満たされた。

ずっと赤字続きだったが、その度に、祈って、各自示された
ものを、主のもとに持って来た。
毎回、毎回、ほんのちょっと多く、満たされた。

それがずっと重なり、皆で、主の不思議を見た。


「不思議だったですよ。毎回祈って、献げるんですが、
ある時は、家の想定外の大きな出費があり、自分は少し
しか献げられなかったので、祈ってたんですが、その時も満
たされて、ほんとに嬉しかったです」

「誰が幾ら献げるなど、全く相談などしないのに、皆、各自
祈って、献げると、必ず必要が満たされて、ほんとに驚き
でした」

「まるで、あなた幾ら、私は幾らと、相談でもしたかのように
ピッタリ満たされるので、この赤字の事を通しても、ほんとに
神様が生きておられると、見せられました」

赤字を通して、祈ること、主に頼ることを身をもって訓練
され、教えられた。

全地に満てるものは、すべて主のもの、主が与えようと思
われるなら、簡単に与えることがお出来になる。
しかし痛みも、試練として、訓練として与えて下さり、
信仰を培って行って下さった。

車を購入する時も、皆で祈り、皆で御心求め、一致の中で
購入できた。

教会では、何かにつけて、いつも祈って、御言葉を求めて、
動く、これが土台とされた。
このゆえに、いつも今に至るまで、一致が保たれて来た。

“平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に
保ちなさい”エペソ4:3

2016年09月01日(木)
  「思い出」

この日曜に、教会創立35周年記念礼拝&交わり会
をした。
母教会から独立してから、35年になる。

開拓伝道で、オープニング集会が42年前だった。
伝道開始時には、何も無く、電話も車もオルガン
も無かった。

今の携帯からは考えられないが、当時、電話は
非常に高価なものだった。
親切な隣の方が「呼び出し」にどうぞと、言って
下さった。

今の若い人たちは、「何それ?」(笑)
隣の人の電話番号を、こちらの知り合いに教えておいて、
電話が隣にかかり、隣の人が電話ですよと、うちに言い
に来てくれて、隣の家に行って、電話に出る(^^)

昔は、割と普通で、名簿にも(呼)○○ー○○○と
あった。懐かしい(笑)

チラシを作るにも、連絡先が必要で、電話が与え
られるよう、とにかく祈っていた。

すると、その呼び出しに、母教会の先生から、電話が
かかり、伝道所に電話はどうしても必要なので、
母教会でつけることに、皆で決めましたと。
感謝だった(^^)

足がなく、教会学校が別の地域でしていて、そこから
大人の集会所へ駆けつけるのが、非常に困った。
タクシーは、すぐつかまるとは限らず、徒歩と電車は
時間ギリギリだった。

車も、働きのために与えられるよう、祈っていると、
母教会の車関係の仕事をしていた方が、主のために
と中古の軽を献げて下さった。
その軽は、本当に有難く、足となり大いに用いられた。

オルガンも、中古の処分品が、安く販売されていて、
鳴り物も与えられた。

本当に、天から、一つ一つと備えられて行った。
オープニング集会には、夫が広島に来て友達になった
青年が来てくれて、母教会から応援の方と私たちの
4名から始まった。

公園の中の、建物の会議室を借りての集会だったので、
いつも、その公園で、個人伝道をしていた。
その中から、集う人々も出て来た。

こうやって、始められて行った。
ずっと主がともにおられ、御手により支えられ、守られ、
すべての必要を、いつも与えられ、今に至っている。