2016年10月25日(火)
  「選択」

Aさんが、あるコンテストの準備のサポートをしていた。
かなり前から、もう入念に〃に勉強し、準備に励んだ。
練習が積み重ねられ、本人も努力に努力を重ねた。
月日もかけていて、用意万端だった。

Aさんも、熱心に力一杯サポートし、そのサポートに
よって、今までずっと入賞を経験して来た。

そして今回も本人も素晴らしい出来で、これは入賞間
違いないと思っていたが、意に反して落選だった。

その時、Aさんは、本当に残念でしたが、精一杯した
結果で、神様からと受け止めています。
ずっと入賞が続いていましたので、この事で、自分自身も
考える機会とされて、神様に感謝しています、と。


思いもよらぬ、不測の事態が起きた時に、まず、神様
からのものと、受け止めることができる事が素晴らしい
なあと。

受け止めて、神様が、教えたいと思っておられる事を
探り、求めて行こうとする態度、
これが神様の喜ばれることなんだと。

神様視点にないと、逆方向へ行ってしまう。
自分の思い通りでないなら、失望落胆して、又不満に
思い、ネガティブに陥ってしまうが、肉だ。

先日も、信仰生活は、一瞬一瞬の「選択」だと学んだ。

御霊の導きを選ぶか、肉を選ぶか、自分の選択だ。
御霊は新しい性質を引っ張り、サタンは肉、古い性質を
引っ張る。

“肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうから
です”ガラテヤ5:17

どちらもに引っ張られ、その選択は自分がしている。
だから、罪を犯せば、自分に責任がある。

肉に蒔くなら、害毒を刈り取り、証しをつぶして行く。
御霊に蒔くなら、喜びと平安を刈り取り、周囲への証
しとなって行く。

肉に蒔いた時には、すぐに悔い改める事ができる。
神様の助けを仰ぐ時に、御霊によって歩めるよう助けて下さる。

永遠の腕が下に。

日々の生活の瞬間瞬間に、御霊の導きを選択して
行けますように。

2016年10月22日(土)
  「神様視点」

神様に無駄は一つもなく、起こる出来事に意図と
ご計画を持っておられる。

Aさん「少しづつ違和感はあったが、ある時、突然
腕にしびれと、激痛が走り、何もできなくなって、伏
せってしまった。
一体何がどうなったのか。

病院の無い地で、状況的に難しく、祈ってしばらく
様子を見ることに。
まさに祈りが聞かれ、少しづつおさまって行った。
今では、痛みはなくなっている。

全く動けなくなってしまった、その事を通して、普段
普通に動いていることが、決して当たり前でないこと。
神様による大きな恵みであることを、教えられた。

そして、家族を通して必要な助けが与えられ、皆の
祈りを通して、祈りの答えを見せられた。
普通に生かされている日常が、何て感謝なのかと
心が新たにされた」。

Bさん「指の先が、ちょっとした事で、捻挫みたいなり、
ほんの指の先だが、痛みが全身に来て、身体は
一つに造られていて、神様を感じました。

祈って、自分で湿布をし、病院に行かないままなん
ですが、神様が少しづつ癒して下さっていて、痛みが
少しづつ和らいでいます。

もし神様知らなければ、ああついてない、何て不運、
さえないなあ、とネガティブ思考しかなかったと思い
ます。

ちょっとした指先のけがでしたが、神様を覚える事が
できて、祈ることができて、ほんと普段守られている
ことに目が向き、感謝ができて。
神様を仰げるのが、何より感謝だと思いました」。


以前Cさんが、外出して、無事用を済ませ、帰途
につき、家までほんの数メートルのところで、突然の
どしゃ降りに会って、びしょ濡れになった。

その時に、自分で驚いたが、ああ、家の一歩手前
まで神様が天候を守って下さったんだ!!
濡れても、もう家の中だし、ほんとに良かった。
神様有難う!!と感謝で一杯に。

信仰生活していても、神様に視点があるのと、無い
のとでは天地の差があるなあと、気づかされました。

その時、神様何でよ!!いじわる!もうちょっとで
家だったのに!何で神様守ってくれなかった、とも
なってしまいますよね。

どこに視点を置くかで、大きな恵みになり、大きな
不満となってしまう

2016年10月11日(火)
  「続・祈りの妨害」

ハンナの祈りを学ぶ。
子供ができない悩み、苦しみ、悲しみ、辛さ、
を抱えていた。
当時は迷信により、不妊は神様の祝福がないこと、
とされていた、それが何より辛かった。
周囲の目、ペニンナのいじめ、苦しみはもう瀬戸際だった。

ハンナは決意して、祈りに持って行った。
泣いて、叫んで、心の苦しみ、嘆き、怒り、悲しみの
すべてを主の御前に吐き出した。
必死に心を注ぎ出していたので、見ていた祭司は酔っ
払っていると思ったほどだった。

心の奥まで吐き出した。
私たちも、誰にも言えない事を、主に何もかも告げて
行ける。
心の奥底を言葉で言えた時に、受け止められたとの
確信が来る。心がすっきりする。
まだ、事態は解決していなが、心は不思議にすっきり
する。主との交わりから、平安が来る。


「その事を、普段すごく経験するんです。
人に言えない事も、祈りの内に、神様に打ち明けて
行ける。
自分の中にある、憎しみや妬みや、裁きや高ぶりやら、
ドロドロの思い、誰にも見せられない、醜い自分、

でも、それを神様に一つ一つと言い表して、告げて
行く時に、本当に心がすっきりするんです。
すうっーと平安にされるんです。驚くばかりです。

悩みがある時も、問題はまだそのままそこにあるが、
心の内を打ち明けて、委ねて行く時に、確かな
平安を経験します。

それが、わかっているんです。
必ず主のもとに行って、祈ると、平安になることを。

わかっているのに、固い固い、頑固な自我があって、
祈りにもって行かない自分がいるんです。
自分の醜さを認めたくなかったり、弱さを見るのが
嫌だったり、罪を認めたくなかったり、するんだと
思います。

祈りに持って行かない、祈ろうとしない、ものすごく
頑なな自分がいます。
サタンが肉に働いて来て、妨げるんですね。
祈らない自分と戦いながら、神様に助けを求めて
祈りが与えられる感じです。

神様に助けてもらわなければ、祈りもできないことを
教えられます」

祈りをどこまでも、妨げ、奪おうとするサタン。

サタンの攻撃をわきまえて、


「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち
向かいなさい。
そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」
ヤコブ4:7







2016年10月08日(土)
  「祈りの妨害」

祈りについて学んでいた。

祈りが聞かれた数知れない経験、そしてサタン
が絶えず祈りを妨害すること。戦いであること。

サタンは真剣に祈りが嫌で、本気で妨害して
来ていることを、日々の祈りで経験する。

祈り出すと、次々と思いが来て、祈りがすぐに
考え事になってしまう。
祈りというより、思いが巡り、思っている状態に
陥ってしまう。
サタンが次から次へと思いを吹き込んで来る。
祈りが奪われてしまう。
Aさんが「祈ろうと、祈り始めたのに、ある人の
事が頭にのぼると、腹が立って、腹が立って、
どんどん怒りが込み上げて来て、祈りをやめて
しまいました!
祈っていたのに、腹を立てて終わった(大笑)
サタンにやられたんですよねえ」

「祈ろうとすると、次々的確に,、なすべき事が
思い浮かんで来る。それが声になって聞こえて
来て、もうドンピシャ。

家族を送り出して、一人になり祈ろうとすると、
朝食のテーブルをきれに片づけてから、気持ち
よく祈れるとの声。

片づけ始めると、パンくずがこぼれていて、
「ついでに掃除機かけてしまうと、すっきりする」と
の声。

すると、朝一で回した洗濯機が止まり、出来
上がっている。「早く干してしまわないと」との声。
庭が気になり、「ちょっとだけ手入れしてしまえば」、
との声。

そうこうしていると、「買い物行かなくては」との声。
声が聞こえて来て、その通りに動くと、デボーション
が出来なかった・・となる。サタンは巧妙ですねえ。

「パートをしていて、ちょっと空き時間があって、
家が近くて帰れるんですよぉ。
一人の時間で、何か、今、祈ればいいと御霊の
促しを感じるんです。
ところがいつも眠ってしまうんです。サタンにやられ
てますよねえ」

「朝、デボーションしようとすると、『犬の散歩を先に
してしまった方が後が楽だよ』との思いが来て、
散歩に出ると、帰ると疲れて、休憩となって、
それが、デボーションする気分でなくなってしまって」

サタンは祈りを奪うので、御霊の促しがある時には
すぐに従うことが大切だと教えられる。

2016年10月05日(水)
  「涙の谷が泉の湧く所に」

40年来のクリスチャン友に、久し振りに会えた。

彼女が導かれたのも、主の不思議なみわざで、
宣教師の先生が、同乗したバスで手渡した1枚の
トラクトによるものだった。

そのトラクトの住所を頼りに、教会へ来て、イエス様
を信じ、救われた!!
同世代の彼女の救いは、喜びだった。

もう昔の事で、自分はうろ覚えなのだが、私が礼拝後
家に招いたとのこと。
一緒に、家で昼食をしたのを、何となく覚えているが・・。

その場で、聖書カバーを縫ってプレゼントしたとのこと。
それも言われれば何となく、うろ覚えのような・・。
記憶が定かでない。遠い昔のことで。
それがとても嬉しかったと、話してくれる。

彼女は、その後、遠方の田舎の、実家に帰省したので、
全く会えなくなってしまった。
私も地元を離れたので、いつしか音信不通になってしま
った。

それが20数年後、再会を果たせた。
彼女は波瀾万丈、大変な紆余曲折があったが、共に
主のもとで喜び合えた。

イエス様を真ん中にというのは、何という喜び、嬉しさ
だろう(*^_^*)
恵みを語り合うと、尽きることがない。
幾多の厳しい辛い試練、苦しみ、深い悲しみを通るが、
その中の、恵みを数えて行ける。
あれも感謝、これも感謝、恵みを数えながら、感謝が
溢れる。
心一つに、イエス様を喜べる。喜びが掛け算で倍増する。


“彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。
初めの雨もまたそこを祝福でおおいます”詩篇84:6

苦しく、悲しく、辛い、涙の一つ一つの出来事も、イエス様
にあるなら、そこでしか知り得ない、その中でしかわからない
恵みを経験する。
その中で、新たに主に出会い、泉の湧く所とされる。



ご主人が召される前に、アメイジンググレイスを皆で歌って
欲しいと言い残されたと。

それで、親族一同が集まった時に、歌詞のプリントを皆に
手渡し、その旨を伝え、歌わせていただくようお願いした。

すると年長者の方が、故人のその思いを大切にしたい、
故人の気持ちだから、皆で歌おうと率先して言って下さったと。

それで未信者の親族30数名で、大きな声でアメイジンググレイス
の大賛美となり、何だか圧巻だったと(^^)

最後に聞いた、その話にも恵まれた

2016年10月03日(月)
  「いやし主」

証しに恵まれる。

Aさんに、非常に辛く、苦しい対人関係があった。
辛く当たられ、時には無視され、対応してもらえない。
ずっと苦しかった。

相手は、上に立つ人なので、もろには反発も、反撃もできない。
認めてもらえず、評価もされず、しかし逃げ出す事もできない
環境に、苦しみを胸に抑え、溜め込むばかりの歳月だった。

その苦しみは、憎しみになってしまう。
そして、人を憎むと、自分が一番辛い。その辛さを、ずっと
経験して来た。

鉛がある心は重く、ふさがれたようで、暗く、楽しい時にも
影を落とす。心底楽しめない。ずっとく重苦しさがあり、
心は晴れない。沈み込み、重かった、

神様に出会った時に、その心の苦しみを、告げて行った。
心の思いのいっさいがっさいを、何もかもを主に打ち明け
て行った。

突然、一大変化するのでなく、少しづつ少しづつだった。
苦しくなれば、主のもとに行き、思いの丈を告げて、
平安にされた。

又、重くなれば、主のもとに行き、思いの底を告げた。
心がすっきりすることを経験させられて行った。

そんな事を繰り返していたが、今、心に憎しみが消えて、
心が解き放たれている。

あの重苦しさ、辛さ、心の深い傷みが、今は、全く無い。
まるで牢獄から解放されたようだ。

こんなに気持ちが楽で、喜びがあって、嬉しい。
すべては、ただただ主の十字架のゆえだ。

主の癒しを、苦しみからの救いを、経験した。

この日を境にというのではなく、少しづつ少しづつ導かれた
結果で、自分ではわからないのだが、赦しを受け取り、
苦しみの叫びの中で、主に委ねたのだと思うと。


「でも、人を裁いたり、憎んでいる時は、本当に自分が
辛く、こんなに苦しいことはないです。
神様が解き放って下さいました」


“わたしは主、あなたをいやす者である”出エ15:26

2016年10月01日(土)
  「良くして下さった神様」

Aさんが証しをしてくれた。

「神様に従って来て、もう数10年になりますが、振り返る時
ほんとに従うことの祝福を覚えさせられます。

高校卒業して、なりたい職種の専門学校の進んだが、
途中で行けなくなってしまった。
どうしても心身固まってしまって、行けない。行こうとし
ても行けない。どうにもならなかった。
ひきこもり状態になってしまった。
その様子を見た父が、大変心配してくれて、もう辞めたら
いいよと、辞めるように言ってくれました。

牧師先生に相談し、祈ってもらった時、牧師先生に
召された場所にとどまっているようにとの、御言葉与えられ、
辞めないで休学するように、神様は導かれた。
そうしようと思えて、1年間休学した。

そして1年休んだ後、登校すると、それが不思議に
スムーズに通学できて、無事卒業まで導かれた。
1年前は何だったのかと思うほどの、スムーズだった。
そして、望んでいた職に就けました」。

その時、語り合ったが、学校合格時が補欠合格
だった。待っていると、空きができて合格になった。
空きが出来ない場合もある中、とても不思議な
合格の仕方だった。

これは後に起こる事をご存じの、神様からの
わかりやすいメッセージだったんだねと。
辞めるかどうかを、瀬戸際で悩むのをご存じで、
神様が入れて下さった事が、もろにわかるように
とのみわざだった。
神様が導かれたなら、必ず卒業まで導かれる。

そして、仕事の中で、もう一度瀬戸際まで
悩んだ事があった。
仕事で歳月経ると、職場内でも経験者となる。
リーダーの要請が来た。
自分はリーダーはどうしても出来ないと、悩みが高じ
苦しみとなる。
向き不向きがあり、自分はどうしても出来ないと。
辞職を考えるほど悩んだ。
でも、前回の挫折も、乗り越えさせてくださった、主
が与えられた御心の職だ。
その時は、主に委ねて、上に、気持ちを話すと、
配慮してもらえ、リーダーは取り下げてもらえた。

あれから又、歳月を経て、いよいよもうベテランの域に。
リーダーの話が来た時、あれほど出来ないと思って
いたが、主の助けがあれば、何とかして下さると思え
るように変えられていた。
そして今、リーダーになっている。

神様の栄光、神様の素晴らしさ、そのご愛、配慮が
Aさんの歩みを通して、見せられる。