2017年02月20日(月)
  「心が変えられる」

心が変えられるという一番の奇跡に
ついて語り合っていた。

★「信仰生活の中で、様々な祝福を経験
する。経済的必要が与えられたり、病気が
癒されたり、仕事が与えられたり、物質的
必要が与えられる多くの経験がある。

でも、心が変えられるって、これはものすごい
奇跡ですよね。
先ほどAさんは、どうしても受け入れる事の
出来なかった辛い苦しい、大変な厳しい状況を、
神様を信じて、受け入れる事ができるように
なったと話された。
これこそ、神様の奇跡ですよね。心を変える
など、絶対に自分では出来ない。
神様の働きですよね。

自分自身も振り返ると、絶対に受け入れられない、
全面的拒否反応しか無かった事態が、今、受け
入れられている。
壁にぶち当たり、祈りに祈り、砕かれ、自分が受け
入れる事ができている事が驚きです。
絶対に自分では出来ない。神様の奇跡です」


★「私は、ひどく傷つけられた相手がいて、長年どうしても
受け入れられず、裁きと憎しみでいっぱいでした。

長い多くの時間がかかったが、ずっと助けを求めて
祈って来て、今、憎しみが無いんです。消えてるんです。
神様を知らなかったら、有り得ないことで、一生、
憎んで終わるんだろうなと。
心が変えられた。神様のみわざですね。」


一緒に祈って来た周囲は
「えー!!無くなったの!あんなに大変だったのに。
奇跡!!神様すごい!ほんとにすごい!」

★対人関係で傷を負い、辛く苦しかったBさんも、
「裁く思い、憎しみがどんなに、胸が苦しくて、
辛いか、経験して来ました。
胸がずっと苦しかった。でも、これがあったから、
イエス様のもとに来れたと思います。
これが無かったら、来ていないし、救われていな
かったです。

信仰持った後も、憎しみは根深く、祈って祈って、
神様との交わりを重ねて行く中で、今は無くなり
ました。
憎しみは、相手でなく自分が辛いです。
ほんとに楽になりました。今は平安で、喜びがあり、
神様のみわざです」

主を信じて歩むと、心が変えられて、変えられて、行ことを
経験する。これこそ大きな大きな奇跡。


“あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに
新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、
あなたがたに肉の心を与える”
エゼキエル36:26


2017年02月14日(火)
  「わたしがあなたがたを選び」

救いの証しをし合っていた。

★厳しい大きな悩みを抱えて、苦しんでいた時に
親族がクリスチャンで、声をかけられ、近くの
この教会に来てみた。

そこで学ぶ聖書の言葉が、心にぐいぐい入って
来た。信じたいと思った。
今も状況は変わらないが、神様によって状況を
見ることができるので、心に平安が与えられている。


★親族関係に悩み、苦しみ、心が行き場の無い状況
に追い詰められるようだった。
そんな時、異端の人々がやって来て、家で聖書
の学びをと言われ、聖書を学べるならと、学んで
いた。

しかし、途中で、どうも内容がおかしいと思い、
止めた。後で聞くと、聖書とは全く違う信仰で
止めて良かった。
真理を知りたいと、家で祈っていた時に、本当
の聖書を教える伝道者が訪問して来て、まこと
の神様に出会う事ができた。

★きっかけは本だった。キリストに関する本や
「大草原の小さな家」を見たり、「塩狩峠」を
読んだ事が大きかった。
どうしても、まことの神様を知りたいと思った。

そんな時、聖書もどきの全く違う教えを、
そうだと思って入信した。
しかし、途中で大きなけがをし、家族もその
信仰を心配してくれ、足が遠のいた。
そんな時、近くにいた友人が、丁度この教会に
誘ってくれた。そこで本当の神様に出会えた。


★生い立ちが複雑で、様々悩みを抱えて
いた。大きくなり、特に悩んだのが人間関係
だった。その苦しい環境から出ることは出来ず、
苦しみをずっと抱えていた。

そんな時、幼ななじみがクリスチャンになっていて、
教会に誘ってくれた。
不思議に、引っ越しをして、この教会に来る事
ができた。心の救いを、拠り所を求めていたので
神様を信じ救われた。


★他県で主を信じ救われたが、自分は教会難民
で、行く教会、行く教会、聖書的では無かった。
どこに行っても、牧師が問題を起こしたり、教えが
聖書からはずれていたり、地方の狭い中、行く
教会が無くなり、涙ながらに神様どこへ行けば良い
のでしょうかと、祈り続けた。

そんな時に、知り合いを通して、神様は今の教会
に導いて下さった。聖書をそのまま学ぶ事ができる
恵みに感謝している。


“あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命
したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなた
がたの実が残るためであり”
ヨハネ15:16

証しを聞く時、人を遣わし、書物を通し、試練を与え、
求めさせ、神様が選んで下さっていて、信仰が与え
られたことをいつも見せられる。






2017年02月13日(月)
  「耳を傾ける」

「自分の事は見えないのに、人の事って、
すごく見えますよねえ。ワンクッションあって、冷静に
見れるからですよねえ。

育児の学びをした後で、子連れのママ友や
知り合いの親子に接した時に、

あ、そこは叱らなくても良いのに、小言は言わない
方が良いのに、あ、その言葉は子供を傷つけてしまう。

あ、その事は、きちんと叱らないといけないのに、どんな
に泣いても毅然とした態度で叱らないと、・・・

自分の姿は見えないのに、人の振り見てすごく
わかって。

その時に、逆に、人はよく私の事が見えるわけで、
人が言ってくれる事って、耳を傾けて聞かないと
いけないなあと、すごく教えられたんです」


「あ、わかる。試練の時って、自分は全く見えない。
真っ暗ななトンネルの中にいるようで、沈み込んだ
状態になっている。

でも、人の試練って、すごくよくわかりますよね。人が試練の
最中にいる時って、はたから見ていたら、すごく神様の
されていることが見える。

ものすごく見えて、こうこう〜で、こういう事を教えたいがために、
今、こうなっている。これが神様の教えたいことだよと、全部
言って上げられる(笑)

自分が試練にいる時は、全く見えないのに、不思議ですねえ。
だから、試練の時に、周囲の人が言ってくれる事に、アドバイス
に、聞かないといけませんねえ」


Aさんの友人、Bさんが苦しい悩みの中にいた。
日頃親しいので、Bさんをよく知るAさんには、Bさんの問題点が、
はっきり見えた。

ここが間違っているから、問題が繰り返されている。でも、そういう
所は、自我、プライドに触れる地雷だ。

そこを突くと地雷を踏む事になる。
忠告したところで、受け入れられないだろうし、二人の関係は
終わるだろうと思えた。

しかし苦しい状況にある、Bさんのために祈れば祈るほど、その
問題点を指摘するように示される。

しかし指摘すれば、絶対に痛いから、受け入れる事が出来ず、
断絶になると思えた。

だが、御霊様の示しは変わらず、忠告するように促される。幾ら
祈っても、示しは変わらない。
そこでとうとうAさんは決心して、祈って祈ってBさんに忠告した。
やはり激痛のBさんは受け入れられず、怒りで反応し、激しく
応戦して来た。

だが、Bさんはその晩、眠れずずっと考えたと。そして思った。
言えば、嫌われる事がわかっていて、Aさんが言ってくれた事に
思いが至った。

そこが自分の問題点であり、弱さであることに、目が開かれ、
主の導きを祈ることができた。

そして、翌朝、BさんからAさんに謝罪と感謝の電話がかかった。






2017年02月09日(木)
  「建前の祈り}

「学びの中で、いつもいつも毎回毎回、神様に
ありのままの気持ちを告げて、祈るように教え
られているのに、全然出来ていなかったことが
わかった。

学びの度に、『そうだ、ふん、ふん。神様に正直な
気持ちを祈らないと』と聞いているが全くできて
いなかった。

出来ていない事すら、気づいていなかった。
ずっと良い子ちゃんの祈りだった。
長年の培われた価値観か、この世の価値観か、
神様の前で、良い子になっていた。

本心を全く告白せず、告げていない。
完全な建前の、きれい事の祈りだった。
本心を隠したまま、良い子を振る舞っていた。
神様の前で。

『○○のようにお願いします』
『○○をして下さい』式のお祈りだった。
神様との間に、ずっと距離があった。

自分の人生の中で、最も厳しい試練が与えらえて、
心は辛く、苦しく、重く、沈むばかりだった。
気力が失せて、何をする気も起こらない。

食事作りを、最後の気力を絞り上げて何とかやって
いたが、もう気持ちも身体もしんどくてたまらなかった。
人にも会いたくないし、外にも出られなかった。
何もできなかった。

気持ちは沈むばかりで、ネガティブになるばかりだった。
もう瀬戸際で、ギリギリで、自分には何もどうにもでき
なかった。

でも、どうしても委ねることができない。なぜか?
委ねるとダメになるように思えてしまう。自分の手を
放すと、すべてが崩壊するように思える。
なぜそう思うのか?
神様を信じる事ができないからだ。

もう何もどうにも出来ず、ついに神様に向かって叫んだ。
「神様を信じることができません。信じていません。
助けて下さい」と叫んだ。

その後、心が全く変えられた。あんなに苦しかった心
が軽くなって、平安になった。委ねられない者を助けて
下さって、委ねさせて下さった。神様のみわざだった。

新しい気力が生まれ、生き生きと日常を送る事が
出来るようになった。外にも出られ、家事もどんどん
出来るようにされた。

大変な環境は何も変わらないのに、心が一変した。

神様に追い込まれなければ、ずっと学んでいても
建前の祈りから出られなかった。
試練は痛くて苦しいが、神様に近づけたことが何より
感謝で、今は、この試練も必ず良くして下さると信じれる。
神様を信じることができるようにされた。」


“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し
遂げて下さる”詩篇37:5


2017年02月07日(火)
  「主は心を配っておられる」

日々の生活のひとこま、ひとこまで、
神様の配慮や慈しみが見えることに感謝だ。

★「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋の
すべてに心を配っておられる」箴言5:21

Aさん、学び会の時に、ある事の連絡がなかなか
来ない事に、不安になっていた。
それもこれも、祈りに覚え、共に祈って。

学び会から帰宅した時に、封書連絡がポストに
届いていた。
祈って途端に連絡が来て、祈りに答えられた
ことが感謝だった。
しかしそれ以上に、神様が不安な心をご存じで
あわれんで下さり、「わかっているよ」と言って下さった
ことが感謝だったと。

神様からの「わかっているよ」とのメッセージと受け
取れたことが、何より素晴らしいと恵まれた。


★「すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・
イエスにあって神があなたがたに望んでおられること
です」Tテサロニケ5:18


Bさん「家庭の中に試練があって、でも、私自身
も最初はすごく苦しんで、辛くて、でも祈って行く
中で、神様にお委ねする事ができて、神様が必ず
良くして下さると信じることができて、平安なんです。

気持ちがものすごく楽になって、最初は真っ暗で
落ちこんで、気持ちもふさぎ込んでいたのが、それ
から解き放たれて、気力が出て来て、前向きに
なれました。

でも、自分は神様を知ってるので、そうできるが、
夫はまだ神様知らないので、思い煩い、心配し、
落ち込み、それが言葉となって出て来る。

その時に、その一つの事は、今、問題としてある
けれど、その他の事に目をやると、それ以外は
すべてとても守られて、うまく行っていて、有難いこと。

そしてその事も、以前に比べれば、前進している
事を話すと、夫も気持ちが上向きになるようで。

ほんとに感謝して行くって、周囲の人をも前向き
にして行くこと経験させられて、感謝です。
感謝するって、すごい力だなあと。」


2017年02月03日(金)
  「続・人にできない事が神には出来る」

Bさんも同じ経験をした。

人生で一番と言っていいほどの、大きな厳しい
試練が臨んだ。

Bさんはパニックになり、何をどうして良いかも
わからない。
笑みが消え、お顔がほんとに暗く、辛そうだった。
苦渋の表情だった。

後に、その時は自分の肩に巨大な重荷がかぶさり、
もう苦しくてたまらなかったと。

周囲が、何か出来ることがあればと、助けができたらと
皆、非常に心配した。
だが、その時はもう心もいっぱい〃ギリギリだったようで、
助けも拒む感じだった。

Bさんは、苦しくて苦しくてたまらないのだが、明け渡す
ことが、どうしても出来なかったのだと。

固い固い自我があり、自我がどこまでも頑なで、砕
かれない。どうしてもだめで、委ねられなかったと。

でも、負いきれない重荷に、胸は苦しく、しんどくて
たまらず、もう瀬戸際になってて、神様助けて!
と心底から叫んだ。

すると!どうなったか自分でもわからないが、何か
わからないが、委ねることができたと。
自分でもわからないと。

でも実際委ねることができて、心から重荷が取れて、
平安でいっぱいになり、心が軽くなり、自分でも
びっくり!!

ほんとに人に出来ないことが、神にはできる。

周囲も、もうびっくり!!あの苦渋に満ちた顔が、
突然のこぼれるような笑顔、全くの別人に。
まさに使用前、使用後(*^_^*)

あれ以後、数年になるが、重荷が来るたびに
おゆだね、おゆだねで、思い煩いもおゆだねで、
こんなに心軽く、平安でいいのかしらと思うほどと。

おゆだねすると、目の前でからみ合った糸が
解かれるように、一番良い方向へ導かれ、

また、ピースがそれぞれふさわしい場所に置かれる
ようにおさめられて行くことを経験すると。


“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる”詩篇37:5







2017年02月01日(水)
  「人にはできないが、神にはできる」

「それは人にはできないことですが、神は、
そうではありません。
どんなことでも、神にはできるのです」
マルコ10:27

人にはできないことが、神にはできる。

Aさんが、どうしても手に入れたいものがあった。
どうやっても、絶対に欲しい。
しかし、手に入れるためには、体力面、精神面
時間的なことで、許容量オーバーになっていた。

すでにクタクタのヘトヘトで、倒れんばかりだ。
しかし、絶対に手に入れたい。欲しい。

“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ
主が成し遂げてくださる”

ゆだねるなら、主が成し遂げて下さると。
しかし、ゆだねるのは嫌だ。ゆだねられない。

ゆだねて、明け渡すと言うことは、つまり
手に入れても、入れなくてもOKですということだ。
御心のままにということだ。

手に入れないのは絶対に嫌なので、だから明け
渡せない。委ねられない。すると自分で何とかする
しかない。自分の力だ。

しかし、全く平安はなく、心は苦しくてたまらない。
もうがんじがらめの、行き詰まりで、もうぼろぼろ
だと。しかしゆだねられない。ゆだねたくない。

「神様に従えません」と帰って行った。

帰宅後、心は重く、暗く、切羽詰まり、しんどくて
たまらない。
それで礼拝の御言葉「すべて疲れたは、わたしの
ところに来なさい。わたしが休ませてあげます」が
来て、イエス様のところへ行こうと思った。

明け渡すこともできないし、もう疲れたと
祈っていたら、それが明け渡すことができたと(^^)

手に入れなくもOKです!と使用前、使用後の
ように、別人のごとく明るくなってしまった。

そのまま主のもとに行けば、助けられる!
人にできないことが、神にはできる。
神がして下さる!!

周囲も神のみわざを見て、恵みに溢れる(*^_^*)