2017年04月19日(水)
  「献げること」

献げることについて、カンボジア宣教師から話を
聞いた。

カンボジアでは、トップ階級の人々は大金持ちだが、
貧しい人々は、極度に貧しい。

貧しい家の子供たちは裸足で、上半身、裸だ。
猛暑の南国なので、小さい子たちは丸裸も
普通だ。
服も、もう汚れが取れないのか、汚れがしみつい
ている。

そんな極めて貧しい子たちが、教会学校に来て
くれている。

そんな中で、献金をした時に、後で袋を見ると
中にキャンディが一つ入っていた。

お金など持たない貧しい子供が、自分の大切な
キャンディを神様に献げたかった。
貧しい中で、自分が食べたかったであろうキャンディ
を神様に献げたその行為は、働き人をものすごく
恵み、励ました。
ましてや、神様はどんなに喜んでおられるだろう。

又、クリスマス時に、子供たちが「先生、クリスマス
プレゼントです」とキャンディの包みを渡してくれた。

お金など無いであろう貧しい子供たち、その大切な
お金を持ち寄って、買ってくれたキャンディ。
どんなにか励まされ、慰められ、深い感動を与えられた。

愛するとは、犠牲を払うこと。自分の大切なものを
献げること。犠牲を払わずして、愛することはできない。

お金、時間、労力、賜物・・自分は何をお献げでき
るだろう。

主はすでに、私のために、ご自身を献げ、ご自身を
捨てて下さった。

“私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の
御子”ガラテヤ2:20



この事を聞いて、「献げることについて、教えられ、
考えさせられました。
自分も、献げることを祈って行きたいです.
自分にできる事を、お献げして行きたいです」
と皆が。

2017年04月17日(月)
  「続・〃」

Bさんは、小さい頃から、ものすごく人が気になる部分が
強かった。
人が気になって、気になって仕方がない。

余り人が気にならない人もいるのに、自分は神経質に
人が自分をどう思っているか、どう見られるかが、常に
気にかかる。

小さい頃からずっとそうだった。
どう見られているかが、気になるので、良い人を演じて
しまう。
良く思われたい、良い人に見られたい。
人に嫌われたくない。受け入れてもらいたい。
必死だった。
人が気になるのはわかるが、心の中の動機やら、
深いところはわからなかった。

そんな中で、神様に出会うことができた。
段々、御言葉を学ぶ内に、心の内側が照らされて行った。

全然良い人では無いのに、良い人を振る舞っている自分。
自分の罪を教えられた。
しかし、小さい頃から培われたものは根深く、頭では
よくわかるのだが、どうしても人を気にしてしまう自分が
どうにもならなかった。

そんな中、対人関係で、あつれきが生じた。突然ある人から
根も葉もない中傷をされた。

全く身に覚えが無い事で、もうパニック。悪口を言いふらされ、
友人たちからも耳に入って来た。
「こんな事言われてたよ。ああ、やっぱり違ったんだね。
でも、ごめん。Bさんて、そんな事をする人なんかと一瞬
思ってしまったよ(笑)」

それももうショックで、根も葉も無いこと言い広められて、
耳にも入って来るし、もう何が何だかわからず、わけ
わからない。
「何で、こんな事が」夜も寝られないほど、思い悩んで、
悩みに悩んだ。

とうとうもう瀬戸際で、心底神様に助けを求めた。
自分自身もこの事態も明け渡した。
もう委ねた。心がすうっ〜と凪になった。

その後、その人に病気が発覚。その誹謗中傷も、病から
来ていた事が判明し、入院治療となった。
そして、事態を知った親族が、謝罪に来た。

主が解決に導かれたが、その時、以前の自分と違っている
事に気づいた。人が気にならなくなっている自分に驚いた。

痛い、辛い、苦しい試練だったが、自由にするための、主の取り
扱いだとわかり、心から感謝した。

2017年04月14日(金)
  「良く見られたい」

“人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する
者は守られる”箴言29:25


人が気になる、どう思われているかが気になって
仕方がない・・日本人て、また、それが強い、
自分にも生まれつきのDNAが・・と皆で。

昔から、日本では向こう三軒両隣が、神だと
言われて来た。
失態が無いように、落ち度が無いように、何も
言われないように、神の目でなく、人の目が神
となって、人目をうかがって生きて来た。

嫌われたくない、仲間はずれにされたくない、
良い人だと思われたい、受け入れて欲しい、
愛して欲しい・・

人の目を気にすると、良い人を演技し、良い人を
振る舞い、偽りと欺瞞に陥ってしまう。

何で良い人になろうとするのか。人に受け入れて
もらいたい、愛してもらいたいから。
何で愛してもらいたいのか。

エデンの園で罪を犯した時に、神との交わりが
遮断されてしまった。
神の愛の中で、喜びと楽しみの中で生きていた
のが、神から身を隠すようになった。
神から離れた結果、人の愛を求めて生きるようになった。

Aさん「自分は複雑な生い立ちも関係していて、
ずっと人に受け入れてもらいたいと、愛して欲しいと
の思いで生きて来たんだと、神様を知って気づかせ
られる。

神様を知るまでは、そんな事も全くわからず、ただ
人に嫌われたくない、良く思われたい一心だった。

良く思われたいので、本心隠して、良い人を振る舞う。
そうやってずっと生きて来て、いつしか本当の自分が
わからなくなっていた。
本当の自分の気持ちがわからない。自分を生きていない。

神様を知って、心の内側を照らされて、人の愛が欲しい
自分がわかった。
根深いものがあって、求めは目に見える人の愛なので、
神の愛より人の愛を求めているので、神の愛が、
なかなかわからなかった。

信仰によって神の愛を信じて行こうと決心した時に
初めて門口に立てて、神の愛がわかり始めた。

根深い、人に良く見られたい思いから離れるのは、
ますます神の愛を知る事によってであると、教えられ。

神様の愛を、その高さ深さ広さを知って行けるよう
祈りに持って行けている、今、ほんとに感謝です」






2017年04月08日(土)
  「重荷とはならない」

主は、日々の歩みを力強く、導いて下さっている。

「私、日々神様に救われています。ほんとに感謝で
ならないです。

デボーションが、どうしても出来ない時がある。
祈ろうとするが、疲れ過ぎて祈れない。
身体はクタクタのヘトヘトで、もう消耗しきって
聖書も読めない。

そんな時、自分の力でしようとすると、デボーション
がお勤めになる。
潤いも、喜びもなく、義務で、まさに放蕩息子の
兄息子だ。

でも、『今、クタクタです。ごめんなさい。しんどくて
祈れません。聖書を読む気力もありません。
どうにもできません、神様』と、

あるがままを祈って行く時、すごく平安になるんです。
受け入れられて、受け止められている感覚があって、
気持ちがすごく楽になる。肩に力が入ることもなく、
ほんと気持ちが救われるんです」

律法でなく、恵みの中を歩んでおられる(*^_^*)


「この間も、言葉の事で、救われたんです。

ちょっとした行き違いで、うまくこちらの思いが
相手に伝わっていなくて、相手は近親者で甘えが
あるから、イライラしていて。
きつい言葉が来て。

こちらも、何でそんな事を言われんだ、とイラッとなって
言葉が出そうだった時、聖霊様が止めて下さって。

『神様、腹が立ちます!助けて下さい』と神様に
祈ることができて。
そうすると、気持ちが、すうっと落ち着いて、言わずに
済みました。

後で、冷静に考えると、ああ、言わなくて良かったと。
感謝で、感謝で、
関係に、恐ろしいヒビが入るところでした。

御霊の気づきが与えられて、守られていることを実感し、
感謝でならないです」


自分が頑張るわけでなく、主が働き、主が導いておられる。
そのまっただ中を、平安に生きて行ける。


“神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令
は重荷とはなりません”

“なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つから
です。私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です”
Tヨハネ5:4


2017年04月03日(月)
  「自分がルール」

聖書を学び始めている方が、

創世記で、蛇がエバを誘惑する箇所があるが、最初

聖書を読んだ時に、善悪を知る木の実を食べる箇所、



「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が

開け、あなたがたは神のようになり、善悪を知るように

なる・・」

との箇所で、善悪を知れるようになるなら、人間に

とって、いい事じゃんと思ってました、と。



でも、その善が、自分が思う善で、自分が思う悪だと

今日の学びで知り、神から離れたことだと知りました。



神の命令に背く罪であり、

いやあ、善悪の知識の木の実を食べると死ぬという

意味がよくわかりました」



自分が神になるとは、自分がルールになるということだ。

自分が善とすれば善で、悪とすれば悪、自分が基準で

すべて自分が決めるということだ。



神無しであり、神の上に自分を置くことであり、恐るべき

高慢だ。神に対する畏れがないと、容易に陥ってしまう。



自分が正しいとしか思えなくなる。自分が神になる。

高慢の、サタンの本質だ。



自分が判断したい、自分の力で生きたい、人からの

評価、賞賛が欲しい。人に認められたい。



自分、自分、自分・・サタンそのものだ。





「恐いですよねえ。相手が悪いとしか見えなくなって、

周囲をさばきまくって、高慢に陥ってる自分の姿は全く

見えない。

神様に出会って、今は、聖霊様が気づかせて下さる

から、感謝で、感謝で。

神様を知らなければ、恐ろしい事になってた。

その恐ろしさもわからないですよねえ。



今でも、相手をさばいたり、責めたりするが、でも御霊

の気づきがほんとに感謝でならないです」






サタンの高慢と、イエス様のへりくだりが対極にある。



へりくだれない自我を砕いて行って下さる歴史が、神様の愛だ。







2017年04月02日(日)
  「頑張らずに、告げる」

皆で、語り合っていると、

★「デボーションがなかなか、持てないですねえ。
朝、持つのですが、外出前だと、どうしても気持ちが
焦り、落ち着かないです。

一応、聖書を読むのですが、心が座ってなくて、立っ
てしまっていて、なんか上っすべりで読んでいて」

★「ものすごく頑なな自分がわかります。
いつも家の中で、デボーション持っている場所に
座ろうとしない自分がいる。

神様はありのまま受け入れ下さるし、悔い改める
なら罪も失敗も赦して下さる、全部頭ではわかって
るんですが、持とうとしない自分がいる。
ほんとに出エジプトに出て来る、頑ななパロだ
なあと」

★「デボーション持とうとすると、次から次へとなすべき事
が的確に浮かんで来て、引き回されてしまう。
サタンですよねえ。

とにかく朝一で祈ろうとすると、即、今日のスケジュール
が浮かび、あれをしなくては、これをしたなくては、
又、目の前の問題が来て、あれを思い煩い、
これを心配し・・思いが駆け巡る。

朝食準備の時間になり、朝食終え、家族を送り
出すと、一人になれるので、すぐにデボーションすれば
いいのに、とりあえず、テーブルを片づけて、きれいにしようと。

すると床のパンくずやゴミが気になり、ついでに掃除機
回してしまおう。その間に洗濯機を回すと効率が良い。
すると、掃除が出来ると、洗濯物を干すことになる。

そうこうすると、どうしてもの買い物の予定時刻だ・・
次々と浮かぶから引き回される。サタンだと後になって
気づく」

★「あ、同じ!はっきり声が聞こえて来る。次はあれし、
次はこれをすればよいと。
サタンですねえ。その声に従うと、ほんと祈りと御言葉
を奪われてしまう」


サタンは何よりも、祈りと御言葉が、心底嫌なのが
わかる。
私たちより遙かに、その力を知っているから。
祈られたら終わり、御言葉握られたら終わりなんでしょうね。


頑張って祈るんじゃなくて、「祈れません」「祈りたくありません」
と主に告げて行くと、不思議に祈りが天から与えられる。

頑張ると余計嫌になって、重荷にしかならない。
頑張りではなく、恵みだ。