2017年05月23日(火) 「続・心探られ」
浪人中だったAさん。 志を同じくする、浪人中の友人と一緒に合格 向けて、懸命に勉強に励んでいた。 今度こそは、何がなんでも合格したい。 いよいよ、準備に準備を重ねた試験日となった。 もうこれ以上出来ないほど精一杯の万全の 準備をし、合格を信じていたので、勉強のかたわらに していたバイトも止めた。 そして発表当日、何と不合格だった。 そして、友人は合格していた。 もう落胆で、ガックリ来た。通ると思っていただけに 落胆も大きかった。 もう一年また、頑張らなければならない。気が重い。 辞めてしまったバイトも、生計のために必要で、 次を探さないといけない。 とにかく、力が入らず、意気消沈だった。 友人に、おめでとうと言わないと、と思うが、とてもじゃ ないが、言えない。 友人が羨ましくて、妬ましくて仕方がない。 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き なさい」ローマ12:15 と主は言われるが、どうしても喜ぶ者といっしょに喜べない。 何もできずにいたが、だが、自分はクリスチャン、これで いいわけはない。 祈ろうと、主に、「祝福できません。喜べません」と、あるが ままの、そのままの気持ちを率直に祈った。 ずると、何か心が変わった。心が平安にされた。 一言だけでもとメールを送ろうと思えた。 そして、短い祝福のメールを送った。 すると友人は、驚いて、ことのほか自分のメールが 非常に嬉しかったと。インパクトとなり、証しになった ようだった。 そして、友人がしていて、もう辞める予定のバイトを、 そのまま譲ってくれた。必要が天から与えられた。 そして翌年、合格が与えられた。
2017年05月19日(金) 「主よ。私を探り・・」
「習い事のサークルでのこと。習い事終わって、人々と 何やかやと談笑していたんです。 そんな中、やはりどうしても、集まると出るのが、愚痴 と不満。日常の対人関係の愚痴が、出て来る。 ある人から、相手にされて嫌なこと、さばく思いや言葉 が出た。 すると、別の人から、自分も同じだと。そして嫌な相手 に対する、もう大上段に振りかざした物言いが出た。 普通は絶対に言わない、言ってはいけない言葉が出て 聞くだけでも、大変なショックだった。 でも、その出来事、それらの言葉を通して、色々考え させられて、本当に神様から、自分の心の奥を探られ 照らし出されたんです。 自分は決して口にこそ出さないが、自分も同じだと。 同じ思いが心の底に潜んでいる。 決して表に出さない心の奥では、一刀両断に人を さばいているし、言ってはいけない言葉、その思い を持っている。すごいものが心の奥にある。 自分も同じ者だと。 その出来事が無かったら、今も気づかないままだった と思います。 御霊が照らし出して下さって、自分の心の奥にある ものと重なったから、わかった。 神様に心から悔い改めて、赦してもらいました。 安堵が来て、どんな時も、ほんとに赦してもらえるから 感謝です(^^)」 「え、でも、Aさんすごいと思う。 一つ一つの事があった時に、自分はどうなのかと 自分を照らし合わせてる。 これに対して、あれに対して、自分はどうなのかと。 私なんて、全然、そんな事無いですよ。 目の前に、いろんな事が起こるんですが、自分に照らし 合わせることなど、全くなく、通り過ぎている。 私もならいたいです」 “主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます” “神よ。私を探り、私の心を知ってください。 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、 私をとこしえの道に導いてください” 詩篇139
2017年05月14日(日) 「霊の敵」
Aさんの証し。 「ある時、突然、人の言葉が心に刺さった。全くそれ まで何ともどうも無かったのに。 すると、その言葉に支配されてしまい、どんどん落ち 込んだ。ネガティブにしか、物事が考えられない。 何がどうなったのかもわからない。 心が、スッポリ暗闇におおわれたようになってしまった。 すべてが悲観的に、否定的にしか見えない。 穴の中に落ち込んで、暗闇しか見えない。 祈るのだが、幾ら祈っても、心が落ち込んだまま。 そうこうしていると、又、別の火の言葉も刺さって来た。 自分の居場所が無いほど、もう存在否定にように 自分で思ってしまう。 もうどうにも耐えられず、神様に向かって、泣き叫んで、 もう泣いて泣いて、辛い、苦しいと、わめいて、大泣きで 心の中を根こそぎ、洗いざらい祈ったんです。 きれい事もへっちゃくれも、何もなく、本音を吐き出し もう気持ちぶつけて、こんなに叫び祈ったのは初めてで。 何だか心が落ち着いて感謝でした。 そうすると、その心刺された言葉を発した人と、 交わる機会が与えられたんです。 穏やかで平安に楽しく交われて、『いつも祈ってるんですよ』 と言われて、その人は自分に対して、全く何も、これっぽっちも 思っていないことが判明したんです。 それが、もう一人の人も全く同じだった。 答えは、「サタン!」だった。 サタンの攻撃を受けていたと、わかった。 ずっとサタンの、無い事を有る事にし、欺きを吹き込む 砲火を浴びていた。 ものすごい攻撃を受けていたんだなと。 最初に祈っていたのは、口先だけだったんです。 だから、何の変化も無かった。 しかし、本音を吐き出し、丸ごとで神様に向かった時に 祈りが答えられた! それを経験し、大きな大きな祝福に変えられた」 皆で「サタンて、恐いですねえ。すごいですねえ。 よく祈って、いつも見上げて、備えておかないと うわあ、教えられます!」 “悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、 神のすべての武具を身に着けなさい”エペソ6:11
2017年05月13日(土) 「続・窮地の祈り}
Aさんが、経済的に少し収入があると助かる状況で、 仕事の紹介所に登録していた。 すると連絡が来て、まず面接があった。 希望はバイト、パートだったが、それはフルタイムで してもらえないかという仕事だった。 家庭があり、子供もいて、無理なので、はなから 断ろうと思った。 しかし、一応夫に話すと、「いいんじゃない。やって みたら」と、勧めてくれる。 予想外の驚きの展開だった。家の事も協力するから、 チャレンジしてみたらと。 障害がなく、道が開かれてしまう。 自分は、その仕事内容が難しく、絶対に自分には 無理だと思う。だが、夫は、後押ししてくれる。 フルタイムだし、気後れがして、できたら、断りたい 気分だ。 だが、何事もまず祈りに、と学んでいて、とにかく この事について、主に申し上げ、主の御心を求めて 祈った。 するとその祈りの中で、自分がずっと仕事を求めて 今まで祈って来た。まさにその祈りの答えではない のかと、思い至る。 自分には無理だと思うのだが、神様からのものなら、 信仰によって、受け取ろうと決心した。 しかし、涙、涙だった。自分には出来ない、出来ない と、涙で祈る日々だった。 心底、主にすがりついて、拠り頼んで、祈りの日々 だった。 祈って、祈って、祈りによって仕事を始めた。 すると、驚くべきことに、どんどん成果が与えられる。 次から次jへと結果が出せて、皆が驚いた。 「才能があったんじゃないの」「向いてるんじゃないの」 周囲に賞賛され、 「違う!違う!!そうじゃない。私じゃない。 神様からのもの。私じゃない。本当に私じゃない。 神様!!神様なんだって!!」 主の栄光(*^_^*)
2017年05月11日(木) 「窮地の祈り」
窮地の祈り 「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろに されなかったからです」詩篇102:17 Aさん 「子供が小学生の時だったんですが、子供を 叱って、親子大喧嘩になってしまって、 子供が切れて、『もう、こんな家、出てやる!!』と 家を飛び出したんです。 その時は、こちらもカッカして、腹を立てて、怒り 心頭で。 すぐ、帰って来るだろうくらいに思っていたが、 かなり時間がたつが帰って来なくて。 段々不安になって来て、いつもの友達の家に 電話するが、どこにもいなくて。 どんどん不安になって、夕刻になり、陽も傾いて 来るし、事故や、何かあったらどうしようと、どおっと 不安に襲われ。 とにかく車で、近辺を探し回るが、全く見当たらず、 日は暮れてくるし、心臓がバクバクして来て、 もう不安と恐れで、車を止めて、必死に神様に すがりついて、祈ったんです。 『神様ごめんなさい。自分も大人げなく、至らなか ったです。もし子供に何かあったら、取り返しの つかない事になったら、もう生きて行けません。 助けて下さい。この身に代えてでも子供を 助けて下さい』 もう、恐くて、不安で、必死になって、叫び祈って たら、何かそれが心がすう〜っと平安になって。 神様が聞いて下さったと思えた。 不思議な感覚でした。 祈り終えて、顔を上げて、ふっと前を見た時に、 車を止めていた、信号の向こう側に、子供が いたんです! どれだけ探しても見つからなかったのに。 もう、びっくり感謝で、神様だ!!と思いました。 かなり遠くまで、歩き回ってたそうで、子供も しゅんとしていて、悪かったと思っていたようで。 一件落着で、ほんとに神様に感謝でした」
2017年05月10日(水) 「思い煩い」
皆で話していると、 「思い煩い」が、皆に来るサタンからの攻撃 だと、知ることができる。 将来の、先の、きちんと考えるべき計画とは 別の、不毛の、亡霊の「思い煩い」だ。 行き当たりばったりは、御心ではないし、脳天気 も違う。いい加減も、ちゃらんぽらんも違う。 神様と相談しながら、将来の計画を立てるのは 良いことだ。 だが、サタンからの思い煩いは、亡霊であり、心騒がせ、心を 暗くし、落ち込ませ、心を苦しくさせる。 だから、今日なすべき事、今日神様が備えて 下さった御心を行えなくさせてしまう。 「自分は人一倍心配症で、くよくよ〃とあれや これや心配してしまう。 問題が目の前に来ると、もう、どお〜っと落ち込んで、 心が真っ暗になって、苦しくなる。 先が見えなくなって、不安でたまらなくなる。 でも、御言葉を学んで行く中で、少しづつ変え られている自分を発見する。 思い煩いが来ると、祈るようにしていて、祈りが 飛んでしまう事もしばしばだが、気づける事が 感謝です。 祈りに持って行くと、心が落ち着いて来て、 以前とは全然違います」 「先が不安でたまらないから、最悪を考えてしま うんですよね。そうなったためしが無いのに(笑) 最悪のシナリオを描いてしまう。 サタンですよねえ。 でも、御言葉の力を体験します。 “何も思い煩わないで・・”とあり、「何も」 いっさい思い煩わなくて良いなどと、すごい事ですよね。 目の前の、この事も、あの事も、いっさい、一つも 思い煩わなくていいんだと。祈りに持って行けばよいと。 こんな安堵と平安無いですよね」 「御言葉はすごい力がある。 先の事、将来の事の、亡霊の不安と思い煩いが 来た時、 “あすの心配は無用です。あすのことはあすが 心配します”マタイ6:34 の御言葉が来ると、亡霊が消える。 不安と思い煩いが消えてしまう。 御言葉には、力があります」
2017年05月03日(水) 「続・御霊の気づき」
Bさん 自分は、神様がおられることは信じれた。 天国へ行けることも信じれた。でも、神様の愛がどうしても わからなかった。 ずっとわからないままだった。生い立ちの関係もあって、 愛というものが、わからない。 イエス様が身代わりに死んで下さったと、そうだと受け入れ ているが、愛されている実感が、全く無かった。 実感は無いまま、信仰生活は続けていた。 度重なる試練があり、自分ではどうにも出来ず、 どうしても支えが欲しかった。 そんな中だが、祈りが答えられることを実際経験し、何度 も経験して行けた。 苦しい中を導いて下さることは、わかることができた。 対人関係の様々な悩みや子育ての中、指針が 欲しかったが、いつも御言葉から、学びから与えられた。 そして、実際助けられ、支えられた。 外堀が埋められて行くというか、そんな経験が積み重ね られて行った。 本当に支えられたし、祈りの答えも経験し、神様が 真実であられることを体験して行けた。 だが、愛されていることの実感は全く無いし、愛がわか らなかった。 そんな時、自分は神様に愛されている事を、信じようと していない事を示された。御霊の気づきだった。御霊から だった。 感覚で求めていて、感じたいばかりで、「信仰」神様 が求めておられる、信仰を全く向けていないことを見せ られた。 今までの神様の導き、神様の真実を覚えた時に、 全く何も感じないし、何の感覚も無いが、十字架に よってすでに愛されていることを、信仰によって 受け入れようと決心した。 初めて「神様、愛して下さって感謝します」と祈った。 祈った時も、何の実感も感覚も無かった。 でも、信仰によって感謝した。 信仰による一歩を踏み出した。 その時から、変えられた。以前とはっきり違う。 神様の愛が少しづつわかるようにされている。 確かに愛がわかる。 これから更に、愛の深さ、高さ、広さを生涯教えて 行って下さることが楽しみで喜びだ。
2017年05月02日(火) 「御霊の気づき」
Aさん 自分は、神様のことががずうっと長い間、わからなかった。 神様を信じてはいるが、実感がなく、頭でしかわからない。 何だかもやがかかった感じでわからない。 でも、聖書は学びたいと思うし、御言葉聞くのも全く 嫌でなく、交わりも楽しかった。 いろんなストレスも、教会に来て、聞いてもらうと、また 頑張ろうと思えた。 教会へ来るのも良いのだが、何だか神様がわからなかった。 そんなある時、種蒔きのたとえの学びで、道ばたに落ちた 種は、地面が固いので、種をはじいてしまうとの箇所があった。 それは自分の思いが強かったり、偏見があったり、自分の 考え、価値観、経験値の方を優先すると、御言葉を はじいてしまうと。 又、傍観者のように、他人事のように聞いて、自分の事 として聞かないなら、それも御言葉をはじくことになると。 あ、自分はこれだと、その時初めてわかった。 御言葉を聞くことは嫌でなく、むしろ喜んで聞くのだが、 御言葉聞くと同時に、いつも自分の思いが来る。 必ず来る。「あ、それは自分には無理」「私には出来ない」 その思いが来て、御言葉を受け入れない。 物理的に耳に聞こえてはいるが、心には入れないで、 捨ててしまっていた。その事に初めて気づいた。 今まで、捨てている事にも気づかなかった。 「そんな事してたら、この世で生きて行けない」「浮いて しまう」「無理、無理」 その思いが来ては、御言葉を受け入れずに流してしまう。 ずっと流してしまっていた事に気づかされた。 聞くことが嫌だったり、拒否したりが無いので、自分でも 全くわからなかった。 御霊の気づきに感謝だった。御霊の働きだった。 それに気づいてから、初めて、「自分は無理と思うので、 助けて下さい」と祈り、前に進むことができた。 従おうとの思いが湧いた。以前はただ漫然と御言葉を 聞くだけで、従おうともしていなかった。 だから神様がわからなかったのだと、わかった。 それ以来、「従いたいと思っています。でも、出来ないので 助けて下さい」と、神様に近づけた。 わからなかった神様のことが、少しづつわかるようにされた。 振り返って思うと、サタンにずっと妨害していたと気づかさ れる。 御言葉と同時に、肉の思いが来て、サタンがそっちの 方が正しいと思わせる。 肉の思いの方が妥当に、常識的に見えてしまう。 そしてうまくゆくと思えてしまう。 御言葉を聞く時、絶えずサタンの攻撃を受けていること を見せられる。 絶えず祈りなさい、のごとく、いつも祈りをもってでなければ もって行かれてしまう。
2017年05月01日(月) 「比較」
学びの後、何やかやと語り合っていると、 ★「やっぱり、“比較”が、自分は根深いなあと気づかせ られます。 神様に出会って、比較ではない、神様を見上げて、 自分と神様の関係がすべてで、御心を行なって行く 歩みだと、教えられて。 そんな価値観無かったので、すごく感謝で、救われた 思いになりました。 でも、頭ではわかるんですが、それが日常では比較 してるんですよねえ。 自分が落ち込んだり、暗くなったり、喜び無くなったり、 沈む時に、その根に、“比較”があると気づかされます。 でも、気づける事が感謝なんですよね。 以前は、全く気づかなかったから。でも根深いです」 ★「結局、神様知る前は、ずっと比較の中で生きて来た から、長い間に培われたものは深いですねえ。 人との差異で、自分を量って来て、それが当たり前で それしか量るすべがなく、それしか無かった。 だから無意識にも、比較している。 でも、比較が諸悪の根源ですよねえ。カインとアベル、 ダビデとサウル王、弟息子と兄息子、ぶどう園の労務者、 律法学者とイエス様・・ 皆、比較から妬みが来て、憎しみとなり罪を犯して行く。 ペテロが死に際の事を、イエス様から言われた時に、すぐ にヨハネが気になり、ヨハネはどうかと。 すると、・・それがあなたに何のかかわりがあるか。 あなたはわたしに従いなさいと。 ずうっと比較の誘惑や、攻撃が来て、一生この御言葉 握って、御言葉に立って行くことだなあと思わされて います」 「あなたに何のかかわりがありますか」 「あなたはわたしに従いなさい」 ★「小さい子がいるのですが、周囲が気になって しまって。 おけいこ事を、あれやこれや習ってると聞くと、 心がざわついて、遅れを取る不安に襲われて。 でも周囲は何の関係もない。 主を見上げて、主の御心を行なってゆくことだと 我に返れて感謝です」