2017年06月18日(日)
  「試練」

主は、試練を与えられること、最近も教えられている。

祈りに祈って、主の導きを信じて、進んて行った先が、
突如閉じられたとの、連絡を受ける。

本人も、周囲も祈って、主の導きを信じて、踏み出し
た道であったが、続ける事が不可能になり、門が閉じら
れた。

導きを信じて踏み出した道が閉じられる時、大きな
痛みと、苦しみを伴うが、しかし、主が与えて下さった
試練として、受け止める事を教えられる。

偶然そうなったのでなく、主が与えられた試練なのだと。

“主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れる
すべての子に、むちを加えられるからである”

“訓練と思って耐え忍びなさい”

“霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の
聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです”

“すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいもので
はなく、かえって悲しく思われるものですが、

後になると、これによって訓練された人々に平安
な義の実を結ばせます”ヘブル12:11

ずっと以前に、教会に来ていた、まだ十代の若い
女子が、夜遅くに、突然教会にやって来た。

泣いていて、お父さんとお母さんが大喧嘩をして
いる。いつも両親は喧嘩が絶えない。

「お父さんとお母さん仲良くして下さい」と遺書を
残して死にたいと思うほどだと、泣いていた。
家にいたくない、帰りたくないと。

親の喧嘩は、子供にとって辛くて、苦しくて、耐え難く、
心が引き裂かれる。

一緒にお祈りして、ヘブル12章を一緒に読んでいたら、
突然、彼女が「帰ります」と言った。

御霊が力強く働かれ、試練として受け止めさせて
下さったよう。

突如、遅いかかる不意の出来事、わけのわからない問題、
主からの試練として、受け止めて行くことを学ばされる。

2017年06月17日(土)
  「丁度・・」

カンボジアの地で。

A宣教師家族が、用事で、現地から、車で5時間ほどの
首都プノンペンへ。

用を済ませて、帰途につく。
途上は、遙か地平線に広がり、延々と続く大平原。
家一軒なく、何もない、広大な平原。

丁度、そんな途上の田舎町に差しかかった時に、
車が故障して、止まってしまった。

大平原でなくて良かった!!もう、どうしようも無いところ。
それで、その車が止まった場所の、目の前の家の人に

この辺に修理工場は無いかと聞いた。
すると、ここが修理工場ですと。 え!

実は、修理工場を新しくオープンするところで、看板も
今、制作中と。
それでわからなかった。

プノンペンで経験を積んで、田舎に帰って、店を開く
ところと。
上手な職人さんで、部品も取り寄せてくれて、すぐ
に修理してくれた。

車が止まったところが、丁度田舎町で、丁度修理工場の前。

一分一秒違わず、完璧に神様の御手の内で、事が行なわ
れている。

止まる所もご存じ。状況も、すべて御手の内なら、人生、
色々な事が起きるが、恐れなく、平安の中におれる。

不意の出来事、どうしてこんな事が、との出来事も
起きるが、不運なのでなく、たまたまなのでなく、
サタンに翻弄されているのでなく、すべてが御手の内なら
主に委ねて行ける。


“主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます”
詩篇138:8

2017年06月07日(水)
  「窮する者の祈りを」

海外のAさんから、試練にあり、祈りリクエストの連絡が。

祈りに覚えつつ、彼女が泣いて泣いて、大泣きだった時の
事が思い出された。

海外への予定が入り、丁度彼女と現地で会えることに。
再会をとても楽しみに、約束の時間に、待ち合わせ場所に。

それが、会うや、もう号泣状態。びっくりして、何が起きたのかと。
すると、丁度その所へ来る前日に、家主から、即、家を空けて
欲しいと。
異国の地で、小さな子供たちと母子で、もうどうしていいか
わからない。
不安で不安で、恐くて、先のめども何もなく、途方に暮れる
ばかり。泣いて、泣いて、ずっと泣いた。

カフェに入り、聖書を開いて、さながら集会。夫が御言葉を
話し、御霊様が支配され、段々彼女も落ち着いて来た。

目の前の状況のみを見ていた目が、神様を見上げた。
すると、御言葉により励まされ、力づけられ、心が平安に
なって来たと。その場で、共に祈った。

祈った後、顔に笑みが。神様の力、御言葉の力を見せ
られた。
帰宅し、彼女の通う教会でも、皆に祈ってもらい、結果的に
教会の近くに、御心にかなった住まいが与えられた。主が働かれた。
喜びに満たされた。
窮地の、瀬戸際の切なる祈りに、答えられた。



その母子で暮らす彼女の、車が故障した。
車無しでは、生活が不可能。贅沢品でなく、必需品。

修理の費用が無かった。足がないと、生活ができない。
もう、どうしてよいかわからず、泣いていたと。

泣きながら、神様に必要が与えられるように訴え、祈った。

すると、何とその年式のその車種が、欠陥車だと判明し、
すべて無料で修理するという、連絡が来た。

無料で修理され、車が戻って来た。
神様が祈りを聞かれた。泣いて窮地にいる神様の子供を
決して放っておかれないと見せられた。


“窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろに
されなかったからです” 詩篇102:17

窮した者の切なる祈りを、必ず聞き届けて下さる。

2017年06月02日(金)
  「だましたり、だまされたりしながら」

サタンの学びをしていて、教会には変な人が数え切れ
ないほど来たとの、話になり、大笑いになった。

“しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたり
しながら、ますます悪に落ちて行くのです”Uテモテ3:13

身障者の方で、この先の方の会社に職が決まった。準備
をするまで少し泊まらせて欲しい。宿泊し3度の食事。
集会に出て、賛美のリクエストをし、偽の証しまでする。
日本中回っているプロのよう。段々不審に。それでその就職先
の会社名を電話帳で調べると無く。

やがて本性が。お金を貸して欲しい。物なら差し上げます。
お金はできませんとはっきり言うと。顔がこわばり、すぐに出て
行き。お金が目的だった。
1年後、同一人物から電話が。騙した先も覚えて無かったよう。

母親が子供を連れて、夜、集会中に来て、「財布を落とした
のでお金を貸して欲しい」。
「え、財布を落とされたなら、すぐそこに交番があるので、行かれ
たら」と。落とし物はまず交番だろうと、単純に思い。

すると、逆ギレみたいに、怒り爆発させ、「もういいです!!」と
蹴り倒すかのように、出て行き。あっけに取られ。

遠方からの知り合いの牧師先生が来られた時、そんな話を
すると、「あ!それ、うちの界隈回ってる!近くの先生から聞いた
同一人物!」

その先生に、又、別の男性が、職捜しの間、泊めて欲しいと
来たと話す。
昼間出かけているが、職を探している気配がない。その気持ちも
感じられない。
数日間、宿泊し、食事をし、やはり同様に最終的にお金を
貸して欲しいと。お金目的。

その話をすると、「それ!!うちにも来た!!!」もう大笑い。

若い、最初の頃は、もし万が一にも本当に困っておられたなら、
との思いがあり、対応していたが、もう段々、万一も何もなく、
言ってるしりから、嘘だと。御霊様の助け。

御言葉も、賛美も利用し、神様を利用し、詐欺をする。

“だましたり、だまされたりしながら、ますます悪に落ちて行く。”

恐ろしく、怖い。

自分自身も、主を利用してしまう肉、サタンの欺き、
常に光のもと、悔いあらためて、悔いあらためて歩めますように。