2017年08月11日(金)
  「思い煩いが無い」

カンボジアの首都から数100キロ離れた地方、
田舎で、宣教しているが、

そこに、定年でリタイアされ、更に数年働いて、
すべて退かれた後、ご夫妻で、そのカンボジアの
田舎に来られた。

永住しますと。ポルポトの悲惨を知り、残る生涯
を神様に献げて、現地の子供たちのために、
出来ることをしたいと。

病院は無く、四季が無いので、一年中暑く、
生鮮食品は、唯一市場で買う。

昭和初期に出て来るような市場で、肉も
野菜も、ブルーシートにそのまま、ドーンと置いてある。

デング熱、マラリヤ、猩紅熱、チフス、どれも1回
はかかると言われている。

その中で、一切合切を委ねておられる。
身体のことも、暮らしのことも、残る生涯のことも、
すべて主に委ねておられるので、
思い煩いが全く無い。

そう見受けられ、ほんと主の力、主の素晴らしさを
見せられる。
不安も恐れもなく、そこにいる事にを喜んで、楽しんで
おられる。

“これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう”
詩篇118:24
いっさい何の不満もなく、楽しみ喜んでおられる。

主を信頼すること、委ねることを教えられ、励まされる。


高齢で独身のBさんも、以前、仕事がリストラになった時に、
教会へ来られた。
以前からチラシが入る度に、ずっと行きたかったが、仕事が
日曜出勤なので、行けなかった。

それが失職になったので、即、来て下さった。主を信じ
救われ、次の職を祈りつつ、ずっと探された。
しかし、なかなか無い。1ヶ月過ぎるが無く、貯えは無い
のでどうしても必要だ。2ヶ月が過ぎた。
ずっと探しているが、どうしても無いと。

「でも、心が平安なんです!心配も不安も全く無い
んです!思い煩いもないんですよ」と。
周囲の皆がびっくり仰天し、「○○さん、すごいー!!!」

“だれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも
延ばすことができますか”マタイ6:27
が、心にぐぐっと入り込んで、いっさいの心配が消えたと。

近所の人たちが、畑の作物をよく下さり、魚釣りの人が
魚をくれたり、必要が与えられるのだと。
そして、そうこうしていたら、仕事が与えられた。


私も昔、山でのテントキャンプで不思議な経験を。
飯ごう炊さんで、野外キャンプ場のコンクリートの調理場で
調理する。
そこに蜂の巣があり、蜂がその辺を飛んでいる。
蜂から守られるように、皆で祈り、自分自身も祈りに祈った。

すると不思議な感覚が来て、不安も恐れも思い煩いも
全く無い状態になった。
蜂が飛んでいるのだが、神様の許しが無ければ刺されないのだと。

だから、普通に調理し、食事を作り、全く不安恐れのかけらも
無かった。上からすっぽり平安に包まれる、不思議な感覚だった。
そして、その通りに全く刺されず、守られた。
不思議な空間だった。
神様のみわざ、取り合う会だったと思う。


2017年08月04日(金)
  「主の山の上に備えあり」

カンボジアの宣教地を訪問して来た。

宣教師家族と久し振りの対面。
元気に守られていて感謝だった。

「主の山の上に備えあり」

とにかく、カンボジア宣教を示され、カンボジアの地に一歩
を踏み出した時に、この10年ずっと、絶えず「主の山の上
に備えあり」の歩みであった。

これから宣教という時に、まず家も、どうやって探せば
いいのか、現地は不動産屋が無く、誰を信用していいの
かもわからない。

時もピッタリに、丁度入れ替わりに帰国の宣教師さんに、
賃貸住まいをそのまま引き継ぐ事ができ、家具一式も安く
譲っていただけた。主の山の上に備えであった。

アメリカ人宣教師の教会を奉仕教会とさせてもらい、
集う教会も、主の山の上に備えあり。

スタートから、一歩みこころへと踏み出した時に、すでに
すべてが備えられている事を見せられる。

信仰もって一歩踏み出さない限り、経験できない恵みだ。

ヨシュアを新しいリーダーに、カナンへと進む時に、目の前に
とうとうと、岸いっぱいに溢れるヨルダン川が横たわる。

船も橋も無い。春先で、雪解けで水かさが増している。

でも、主の示しの通り、祭司たちが一歩を川に向かって
踏み出した時、水がせきをなして立ち、水は完全に
せき止められ、渡ることができた。

エリコの難攻不落の、そびえ立つ城壁も、主の示しの
通りに周囲を回り続け、ときの声を上げた時に
崩れ落ちた。

示された通りに、一歩を踏み出した時に、神が働かれ
みわざを見る。

最初の首都での働きから、更に田舎開拓伝道に移る。
そこでも、主の山の上に備えあり。

ふさわしい住まいが備えられ、教会学校、礼拝、祈り会
と導かれ、無料勉強クラブが用いられ、勉強を教える場に、
子供たちが集まり、親にも喜ばれ、それゆ教会学校に
出席されてくれている。

仏教国の中で、不思議な主の備えであった。

同じく、どこにおいても、信仰生活の中に、主の山の上に
備えありを、見せられて行けることに感謝。

2017年08月1日(火)
  「感謝できないが、感謝」

「すべての事について感謝しなさい」

ハピーな時、好都合の時は感謝できるが、
試練の時、苦しい時、辛い時は、感謝できない。

辛い時はどうだろう。心が辛い時は、相手や環境をさばいている。
なぜさばくかと思うなら、自分の思い通りにならないからであり、
結局、自分が中心だから、平安が無い。

これを繰り返していても、どこまで行っても平安は無い。
環境のせいにし、人のせいにしているから。

視点を変えて、今のこの状況に神が置かれている。
対人関係は神から来ている。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」箴言3:6

この事に主を認め、まず感謝する。

この事を通して、何を教えて下さりたいのか、何を気づかせ
たいのか、自分の何が問題なのか、自分のどこを変えたい
と思っておられるのか。
それを祈って行く時に、自分にとって益にしかならない。



「試練の時に、不都合な事態が起きた時に、
苦しい時に、感謝するって、ほんと出来ないですね」

「できないですねえ。もうネガティブな思いに引きずられ、
引き回されて、すぐ落ち込んでしまう」

「最悪のシナリオが勝手に出て来るんですよね」

「そうそう!そうなんよ!一緒、一緒!」

「これこれ、こうなって、こうなって行くと、全部最後
まで出来上がってる。でも常に最悪の結末」(笑)

皆が、落ち込んで暗くなって、苦しくなって、最悪
のシナリオが、結果が浮かんで来ると。

それが、なぜか最悪の結果。

そうなったためしが無いのに、サタンが思いを吹き
込んで来る。

感謝する時、サタンの足場を崩してしまう。
サタンが入り込めず、試練を受け止めることができて
教えようとして下さっていることを、きちんと受け取る
ことができる。