2017年09月19日(火)
  「心安らか」

試練について、何やらかんやら話し合っていると、

「自分は、ほんと、今、平安なんです。
思い煩いがまるで無い。

状況は大変だし、先を見ても大変なのに、
全く思い煩いが無い。

以前は、こんなんじゃなかった。
自分は不安症、人一倍心配症で、ああでもない、こう
でもないと、心配で、思い煩いで一杯だった。

問題は次から次へと襲って来るし、ずっとしんどかった。
不安、恐れ、煩い、心配、いつも心は重く、苦しい
感じだった。ほんとにもうグダグダだった。

それが、今、全く心が静かで、波立たない」


「神様に、委ねきってるからだよ。心の底が
委ねきっている」


「うん、そうだと思う。長年、生きて来て、もう試練に次ぐ
試練を通って来て、ほんとに心底、自分ではどうにも
出来ない、どうやっても、どうにも出来ないと、わからされた。

自分の力や知恵、思いではどうにもならない。それが
とことんわかった。それかなあ。
それでもう、神様しかない。神様にしてもらうしかない。
もうギブアップで、何もかも神様に渡して、任せてる。

すると、思い煩いが、何も全く無くなった。
あの事も、この事も、自分ではどうにもできないから、
神様がして下さる、良い時に、良きにして下さると
思える。自分で出来ないから、そう思えると思う。
ずっと心が平安なんよ」

Bさん
「すごい!!私は、まだまだ、余力があって(笑)
自分の力がムクムクと出て来て、やってみる。そして出来
ない事を教えられる。砕かれて、そこで神様に頼る。

でも、次もまた、懲りずに自分の力でやっている(笑)
また、出来ずに、失敗する。その繰り返し。

自我はどこまでもどこまでも強くて、でも、少しづつ変えら
れていることも、わからされて感謝です。」

Cさn
「自分でしようとするから、思い煩うんですよね。
つまり、思い煩っている時って、自分の力に頼っている。

神様が“何も思い煩わないで”と言われている事を
思う時、我に返れる。

“何も”なんだと。祈りに持って行ける」


”あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです”
Tペテロ5:7


2017年09月13日(水)
  「苦しみの中でも、平安に」

Aさん
「これまでの人生を振り返る時、辛い事、悲しい事、
苦しい事、こんな事が起きるのかという事、
耐えられないと思う事・・

厳しい試練、苦難がありました。
でも、それがあったから、神様に出会えたと思います。

苦しくて、辛くて、絶望で、もうしゃがみ込んだまま、顔も
上がらない、それがあったからこそ、教会に誘われた時、
行ってみようと思えた。

もし、何の問題もなく、環境は素晴らしく、平穏無事に、
ただ楽しく過ごしていたら、自分は絶対に教会へ行って
いない。

苦しみの中で、もし神様を知らなかったら、人を恨み、
さばき、憎んで、辛い辛い人生だったと思います。
神様を知れた事が、感謝で感謝でならないです。

今でも、突如の悩みが来た時は、神様が飛んで、
思い煩いと不安でいっぱいになる。
最悪のシナリオを描いて、どつぼにはまり、しばらくして、
あ、そうじゃない、そうじゃないと気づき、祈り始める(笑)

八方塞がりになった時に、すぐに神様のもとに行けない
感情が先に出て来て、感情に振り回されてしまう
自分に気づかされます。

でも、御霊の示し、導きで、祈り始めると本当に感謝
なんです。
いつも、学んでるように、声に出して祈るんです。
すると、自分の言葉が、自分の耳に入って来る。

その時、あ、本当の気持ちではないと、わかる。
口と、心に、ギャップがあって、合致しない。

口では「〜〜できません」と祈るが、いや、できないのでは
なくて、「したくない」のだとわかる。
そこに頑なな自我がある。

そして、自分が神様に喜ばれることを、「選ばない」と
気づかせられる。

祈りを、自分の本当の気持ちに変えて行くと、
状況は変わらないのに、不思議に心に平安が与え
られるんです。

神様を知ってからは、どんな苦しい状況があっても、
心が平安にされること、経験させられ、感謝で一杯です」


「本音を告げることで、神様に知っていただいた。神様に
わかっていただけたと思えるからでしょうね。
建前の祈りだと、その確信が来ないし、平安も無いです
よね」


“何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもって
ささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を
神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって
守ってくれます”ピリピ4:6

2017年09月09日(土)
  「喜びと楽しみを与えて下さる主」

孫たちが、野球が大好きで、少年野球に入って
いて、試合を見に行った。

予選は勝ち抜いて、決勝トーナメントだった。
惜しくも、敗退してしまったが、一生懸命に
頑張っていた。

野球が好きで、好きで、カープ大ファンだが、
カープどころか、他球団の、パリーグまで、
一人一人の選手の事をよく知っていて、
打率やホームラン数、出身地、出身校
びっくりする。

野球年鑑?選手名鑑?選手一覧?
常に見ているので、頭に入ってしまってるよう。

過去の試合もよく覚えていて、
「えっと、去年の優勝の時の試合は?」
「一昨年のカープが、クライマックスを逃した試合は、
どうだったかいね?」
と聞くと、すらすらと説明してくれる。

それほど好きな野球、最初は、はなから諦めていたよう。
親たちの主催で、成り立っているので、親はそれでなく
とも、仕事と教会の仕事と、滅茶苦茶忙しいから
お世話は無理と。日曜もあるだろうしと。

体験入団だけ、行かせてやるつもりだったが、
それだけでも、もう大喜び。

それで、その時に監督と話をすると、日曜行けない
旨話し、土曜も教会の集会ある週があり、それら
を話すと、いいですよと言われ、来れる時に来られた
らと、祈りの中で、門がスルスルと開かれて行く。

それが支障無ければと、これだけしたい事なら、させ
てやった方が良いと、親が時間、労力の多大の犠牲を払い、
今に至っている。

その結果、大きな祝福が臨んだ。
あれダメ、これダメでなく、大好きな事をやらせてもらい、
そのために、親が犠牲を払ってくれる姿を見て、
神様が大好きになって行った。

兄は、すでにバプテスマを受け、弟もバプテスマの決心
が与えられている。


“あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない”創世3:16

主は、まず、どの木からでも、思いのまま食べて良いと、肯定された。

だが、サタンは、園のどの木からも食べてはならない、と神は言われた
のかと誘惑して来た。

あれはダメ、これはダメと、否定的な人生ではなく、食べて良いと
肯定的な人生を与えて下さる、主に感謝!!




2017年09月04日(月)
  「すべての事について感謝」

「苦しい事、しんどい事、行き詰まる事、どうしていいか
わからない事があるんですが、

“すべての事について感謝しなさい”の御言葉に従って、
今、どうすればよいかも、わかりませんが、この事態を
ただ御言葉に従って、感謝しますと、感謝して行くと、

それが、不思議が起きるんです。
まず、あんなに波風逆巻いていた、心が落ち着いてきて、
いろんな御言葉が心に浮かんで来て、更に落ち着いて
来て、何だか大丈夫だと思えるんです。
ほんとに不思議です。

それで落ち着いて祈って行くと、何か糸口が見えて来て。
あ、こうしてらいい、ああしたらいいと、御霊の導きが
心に来て。

ほんとに感謝することには力があると、経験させられています。」


「日常の生活で、心に重たい事が起きたり、思い煩う
事や、不安な事が起きる時に、

すべての事は感謝なんだと。御言葉に立って、この目の
前の問題も、神様の御手の内であり、計画と目的持って
自分の前に来ているので、

目の前の状況は、不都合なマイナスの一見悪い事態
だが、必ず益とされると、信じて、「感謝します」と感謝
して行くと、ほんとに心が変えられるんです。

心がネガティブに行かずに守られて、学びの通りに、感謝
はサタンの足場をくじき、無くしてしまうんだなと教えられ
ます。

感謝する時、神様に目が向いて、様々な御言葉が思い
に浮かび、前向き、建設的、信仰的に心が守られる。

感謝って、すごいなあと、実際の生活で、教えられています」


モアブ人やアモン人が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。
「神よ。彼らをさばいて下さらないのですか。
このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。
私たちとしては、どうすればよいかわかりません。
ただ、あなたに私たちは目を注ぐのみです」U歴代20:12

私たちも大きな問題、難題、深い悩みの時は、この状況だ。

この時に主は「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに
恐れてはならない。気落ちしてはならない。
この戦いは、あなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」
と言われた。

そして、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」
賛美隊が、喜びの声、賛美の声をあげ始めた時、主は伏兵
を設けて、敵を打ち負かされた。

感謝し、賛美した時に、敵は敗北した。
目の前に、おびただしい大軍が来た時には、感謝を
献げて行きたい。










2017年09月01日(金)
  「主が決めておられるように」

「祈りについて、考えさせられ、教えられています。

クリスチャン生活、40年近く送って来て、祈りをし、又、
様々な試練の時には、もう祈りが叫びとなり、あがき
求める事も経験して来ました。

心が苦しくて苦しくて、張り裂けそうな所も通りました。
祈りがうめきとなるような時もありました。

沢山の願いが答えられました。勿論、願った通りに
答えられない祈りもありました。

願った通りではなかったけれど、ほんとに良いように
導かれていることを経験して来ました。

神様が最善をして下さると、長い年数を経て、
頭ではなく、何か膚で信じられるようになって来ました。

ああして欲しい、こうして欲しい、あれを、これを下さい
との自分の思いとしての願いは、勿論あるのですが、

人生も終わりの部分に近づいて来て、最近、
あれが欲しい、これが欲しい、ああして、こうしてとの
願いはあるが、神様が最善を考えていて下さって、
配慮して下さっていて、一番良いことを備えて下さって
いるのであれば、

神様のご計画と御心が成りますように、が祈りになって
来るなあと。
ああして欲しい、こうして欲しい、より、神様のみ思いは何ですか
に、変わって来ることを感じさせられています。


“あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられる
ように、私を生かしてください”詩篇119:156

自分の思い通りでなく、神様が決めておられるように、生か
していただく事が、結局一番の幸せで、喜びなんですよね。」



答えられなかった数々の祈りも感謝で、自分が何を求めて
いるのかも、よくわかっていない。

自分の真の必要をわかっていない。そのため、自分の最善と
思っているが、実は的はずれだったりする。
自己中心に、自我からの求めも、わからないまま祈っている。
答えられない方が感謝だ。

主が、いつも必ず「良いもの」を与えて下さる「良いお方」である
ことを信じて、お心を求めて行けるように、
祈って行きたい。