2017年11月21日(火) 「受け入れてゆくこと」
ずっと以前の事だったが、ある時、教会の行事か何かで、 天候のために祈った。 切に、切に、切に祈った。 これは、行事がうまく行くために、この祈りは神様の御心 に叶っているはずだ。 どう見ても、良いと思える合法的な祈りだ。 きっと祈りは聞かれると思った。 が、神様の答えは逆だった。自分たちの思いとは違った。 しかし、その時に、神様の真理を教えられた。 聖書の箇所で、 ユダが裏切り、イエス様が群衆に取り囲まれ、捕らえられ た時、ペテロが、主を守り、戦おうと、剣を抜いて、大祭司 のしもべの耳を切り落としたところがある。 。 主は、そのしもべの耳をさわってすぐ直され、ペテロに剣を納める ようにと、いさめられた。 その時に、 「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの 御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないと でも思うのですか」マタイ26:53 と言われた。 このところで、主は何でもお出来になる。そして、 捕らえられた主を、助け出そうと思われるなら、御父は何でも お出来になる。 しかし主は御心に従って、捕らえられて行かれた。 十字架が成就なされるために。 私たちのためにも、主は、その日の天候をどうにでも、できたが、 御心によって、あえて、私たちの願いが叶わないようにされた。 それを通して、思い通りにならない事態を受け入れて行くこと、 神様のみ思いと、自分たちの思いが時として違うこと。 神の思いは遙かに高いこと。そして最善であること。 それを素直に、感謝して、受け入れて行くことを学ばされた。 思い通りにならない事を、自我を砕いて、受け入れて行くこと、 そちらの方が、遙かに、霊的な大きな祝福であった。
2017年11月17日(金) 「そこでしか学べないこと」
神様は何でも出来る、全能のお方だが、 今、苦しい目の前の問題を取り去られない。 それは神様には、明確な私たちへのご計画があり、 それを通して、しようとされている事があり、 万事益にされようとしているから。 “あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。 主が成し遂げてくださる”詩篇37:5 そんな時は「何で?」「何で?」を主に委ねて行く。 目の前の問題、そして自分自身を主に明け渡して 行く。 その時、不思議だが、自分自身が平安にされる。 そして、行き詰まって、平安が無い状態だったのが、 前に進むことができる。 ある人が、対人関係の問題で、深刻な悩みに会った。 知人に、全く身に覚えのない事で、誹謗、中傷され、 悪口を周囲に言いふらされた。 以前からの知り合いだが、突然の事で、全くわけが わからなかった。 何か自分に間違いがあれば、言われても仕方がないし、 ちゃんと謝ろうと思う。 だが、全く自分は言っていなし、していない。 「火の無いところに煙は立たぬ」というが、火が無い。 まさに根も葉も無いことで、どうして良いかわからない。 周囲からはどんどん、噂が耳に入り、苦しくなって来る。 悩んで、どうにもならず、祈っていて、神様にこの事態も、 自分自身も、すべて明け渡そうと思い、助けを求めて、 御前にすべてをお委ねした。 すると、事態が動いて、その相手の主人と話す機会 があった。現状を話すと、全然知らなかった、迷惑かけ て申し訳ない、よく注意して妻を見ますと言われた。 その後、その人が病気を患っている事が判明し入院に。 主人が謝罪と、お陰で病気がわかって治療しますと、 挨拶に来られた。 神様に明け渡したので、神様が働かれたことがわかった。 自分の内側も深く照らされて、人が神になっていて、 人にどう見られるか、どう思われているか、良く見られ たい、良く思われたい、それが根強いことを示され、 神様の取り扱いだったと。 神様に無駄は一つもなく、いつも通る必要があるから、 通しておられて、そこでしか学べないことを 教えて下さる。
2017年11月14日(火) 「なぜ?なぜ?」
「やはり、そこが、信仰上の一番の試みです」と いろんな方々が。 試練や、困難に行き詰まった時に、 “神様に不可能は一つもない”、“神様は何でも できる” “神に出来ない事は何一つない” “神は全能であるお方” それはよくわかる。神が全能で、何でも出来る。 それなら、なぜ自分の目の前のこの困難に、何も してくれないのか。 何でも出来るのになぜ?? こんなに苦しいのに。こんなに辛いのに、なぜ 何もしてくれないのか?ほんとに愛してくれてるのか? そこが試練の中で、非常な試みとなる。 Aさん「今、自分はそのまっただ中にいます。 ほんとにその事が一番大きいです。サタンもいつも やって来て、なぜ?なぜ?を投げかけて来る。 でも、これこそが信仰の試しなんだと、教えられて います。この中で、神は必ず良くして下さることを 信じて行くこと、これが信仰なんだなと」 Bさん「私も試練があって、試練自体はしんどくて 辛くて、どうしても環境が変わって欲しいし、早く 解決して欲しいし、試練が無くなることを望んで します。 でも、「患難さえも喜んでいます。患難が忍耐を 生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す・・」 とあって、 試練が品性を生み出すと。私は品性が欲しい。 御霊の実を与えられたい、実を結ぶ者とされたい。 そのために試練が必要なんだと、教えられていて。 忍耐も無い者で、試練が忍耐を生み出すんです よね。 自分が変えられて行きたいから、試練が必要 なんだと」 Cさん「ひえ〜〜、品性!!偉いねえ。 試練が来ると、早く去って欲しいばかりで、品性どうこう など、考えられんわ(大笑) でも、自分も試練は嫌だけれど、数々の試練通って来て、 信仰の成長のために、与えて下さってるんだなと、思え ます。 実際、信じてはいるんだけれど、よくわからなかった神様が、 苦しい事、辛い事、しんどい事を通って、もうどうにも出来ず、 その中で叫び祈って、神様に近づけてられた。 今、以前とは全然違う。 痛くて、辛いけれど、感謝だとわかるし、そう思える」 委ねて行った時に、自分自身も事態も導かれて行った。 “霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さ にあずからせようとして、懲らしめるのです” ヘブル12:10
2017年11月10日(金) 「信仰ということ」
ある先生が、夫人を癌で見送られた。 「私の人生で最大の試練でした」と言われた。 「その試練をどうやって、乗り越えられたのですか」と皆で お聞きした。 厳しい試練のまっただ中にある人々もいて、ほんとに聞き たかった。 「私は弱い者です。『なぜですか』『どうしてですか』と神様に 叫びました。 『なぜ取られるのですか』『妻は、あなた様のために忠実 に従い、私たちは、示された通りに、ずっと一緒に働いて来ました』 『なぜ、こんなにも早く』・・ 心は苦しくて、辛くて、悲しくて、まさに『私たちがおぼれ死にそう でも、何とも思われないのですか』マルコ4:38 の弟子たちの叫びでした。 主が『向こう岸に渡る』と言われているのに、途中で嵐に会い、 舟が沈没しそうになると、主の言葉を信じないで、動転してしまい、 溺れ死ぬと大パニックになる。 神様のご愛を思えば、失礼な事ですが、何度も、何度も繰り 返しました。 『どうしてですか』『なぜ、今なのですか』 そして、『癒されるようにと祈り続けた祈りが、なぜ答えられなか ったのですか』と。 特に、神様は何でもお出来になる、不可能は一つもない、 であるのに、なぜ癒して下さらないのか、こんなに願っても どうして?? その結果、神様にゆだねることだと、教えられました。 自分の願い、自分の思いでなく、神様のご計画が成るように。 意味がわからなくても、納得行かなくても、神が最善を しておられることを、信じて行くこと。 その時、心に平安が来ました」と。 試練のまっただ中で、一番厳しく感じるのが、神は全能のお方、 何でも出来て、何一つ出来ない事はない。 なら、どうしてこの事を止められなかったのか。どうして、起こる 事を許されたのか。なぜ祈りに答えられないのか。 でも、そこにご計画があり、自分の思いとは違うが、神の最善 であると信じること。 それが「信仰」ということなのだと。
2017年11月05日(日) 「言い訳する」
Aさんが、聖書の学びの後で、 「自分は、いつも神様に言い訳している気がする。 例えば、天に帰った時にも、イエス様が私のすべての 罪の弁護をして下さるのに、自分は一つ一つ言い訳を すると思う。 そんな自分は、もっともっと砕かれないといけないと思う・・ 」 そんなある日、 婦人の集まりがあって、Aさんが教会にやって来た時に、 丁度、玄関でバッタリ牧師に出会った。 婦人の集いでは、いつもコーヒーを飲むので、 Aさんは「牧師先生にも、コーヒーを持って行きますね!」 と言った。 それが、言ったのに、完全に忘れてしまっていて、集いが 終了して、皆で帰り支度していた時に、気づいた!(>_<) 「あー!コーヒー忘れたー!!」Aさんが大声で叫び、 急いで、牧師にコーヒーを入れて届けた。 その時に、「先生、コーヒー持って行くと言ったのに、 忘れてしまって、ごめんね」と、忘れた事を素直に 正直に言えた。 牧師は笑顔で「いいよ、いいよ。大丈夫」と言ってくれた。 その出来事を通して、神様が教えて下さった。 忘れてたことなど、恥ずかしいのに、なぜ、正直に言えた のか。それは、牧師が赦してくれることをが、わかって いたから。牧師を信じて、信頼していたから。 神様の前に、正直に自分の罪を認られず、言い訳するのは、 神様が赦してくれると、頭だけで、心底信じていないからだと。 神様への不信仰を気づかせられた。 でも、それがわかったことが、すごく嬉しかったと。 頭で知識として知っている事と、実際は、全く違うことも 見せられた。 神様へ信仰を献げて行きたいと、祈って行きたいと、切に 思わせられたと。 神様が、霊の事柄を、わかりやすく環境を通して、解き明か して教えて下さったことが感謝でした(*^_^*)
2017年11月02日(水) 「どこにおいても、主を認める」
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」 箴言3:6 日常生活で、日々の時間の中に、環境の中に 主を認めることを教えられる。 目の前の思い通りにならない状況に、だが、主から 来ていると、主を認める時、いら立たずに 受け止めることができる。 たまたまでなく、不運でなく、偶然でなく、サタンに 翻弄されているのではなく、目の前の事態は主から 来ている。 Aさんが、ご両親を連れて、秋の旅行に出かけた。 だが、ずっとあいにくの雨だった。 行動にも制約があり、皆は非常に残念がったが、しかし、 主を知っているAさんは、すべてが主から来ていること を知っていた。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 万事益、すべてのことについて感謝。 これも主による事と受け止めることができて、 心は平安で、感謝だった。 そして、その雨を通して、親が思った以上に年老いて いて、行動が非常に難しい事が判明し、今後の事を考え て行かないといけない、感謝な時とされたと。 Bさんは、対人関係で、難しい相手がいて、こちらとして は、どこまでも平和を保って行きたいが、相手のあること。 相手から拒否される事態があったが、それもあなたの行く 所どこにおいても、主を認めよ。 これも主からの事と、そこに主を認めた時、心が動揺から 守られ、平安にされた。 相手がどうであれ、誠意を示して行った時、道が開かれた が、あれもこれも主による事と、変わりない平安に置かれて 感謝だった。 教会で、日曜午後に、皆で草刈りをする予定だったが 2週続けて雨。 特別集会の日までに、刈りたい。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 この雨も主からであり、ご計画があることを思えて感謝だった。 平日に婦人会で草刈りをする事に。素晴らしい秋晴れの 気持ちの良い中、婦人たちと草刈りが、本当に楽しく、 喜びの中で、奉仕ができて、すっかりきれいになった。 雨も益とされて、感謝だった。 行く所、どこにおいても主を認める時、主はあなたの道を まっすぐにされる。 道をまっすぐにとは、どうであれ、心に平安を下さり、平安に して下さるということだ。