2018年02月02日(金)
  「私にわかるように」

Aさんが証しをしてくれた。

神様がわかりやすく、自分の不信仰を教えて下さったと。

「婦人会で、まずコーヒーを入れ、お茶を飲みながらの感じ
で学びをするんです。

玄関で、バッタリと牧師先生に会い、『先生にも事務室に
コーヒーを持って行きますね!!』と言った。

だが、完全に忘れていて、自分はちゃっかり頂いていました。

婦人会が終わった時に、突然気がついた。『あー!!
コーヒー忘れたー!!』
慌てててコーヒーを入れ、牧師先生のもとへ持って行った。

『先生、ごめんなさい。忘れてました』と正直に言えた。
『有難う』とニコニコと受け取って下さった。

その時、正直に素直に言えたのは、先生が快く赦して
くれるとわかっていたからだと、わかった。

目に見える人は信じることができる。でも、自分は、目に
見えない神様が、赦すと言って下さっているのに、信じて
いないことに気づかされた。

赦されていることを、頭でしか受け取れていない。
こんなに完全に赦す、いっさい思い出さない、と言って
下さっているのに、心では、赦しを信じることができていない。

主は、その事をはっきりと見せて下さいました。
見せて下さったから、祈りにもって行けます。

赦しを心の底から受け取り、信じることができるように、
祈って行きたいです。

不信仰を示されたのに、嬉しかったです。感謝でした」と。



そのAさんは、普段から、「霊的なことが、なかなかわからない
ので、霊の事柄を、私にわかるように教えて下さい」
と祈っている。

ほんとにその祈りが答えられている。

それを聞いていたBさんも、「私にわかるように、教えて
下さい」と祈り始めたと(*^_^*)


2017年12月22日(金)
  「主の良くしてくださったこと」

今年も余すところわずかとなり、
しかし、年末は滅茶苦茶忙しい。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」
詩篇103:2

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野で
あなたを歩ませられた全行程を覚えていなけれ
ばならない」申命記8:2

とあって、目まぐるしく忙しいが、新しい年が来る
前に、この1年「主が良くしてくださったこと」を
数えて、主に感謝をお献げして終えたいなと。

この1年の取り扱いを、忘れることなく、しっかり
心に刻んで、前に進めるように。

新しい年のビジョン、目標も与えられたいので、
ちゃんとまとめて終わらないと、ごちゃごちゃに
なり、恵みをザルに流すことになってしまう。

何とか時間を取って、まとめようと、話していたら、
一人の婦人が

「先週、まとめたんです!もう忙しくて、記録もでき
ないから、毎日1行だけ、書いてたんです。

その毎日1行だけですが、それを見ながら、1年間
を振り返った時、もう感謝に溢れました。

あれも!これも!こんなにも良くして下さってる!
すっかり忘れてしまっていて。
もう、感謝、感謝で、喜びが溢れて、心が満たされ
ほんとに振り返れて感謝でした!

今、試練の中にあるが、上を向くことができてと。


一人の若い女性に、それを話すと、

全然、記録していない。何も書いていない。
書いておかないと、ほんと何があったかもわからない
ですよねえ。
毎日、1行なら書けそう。私もそうします。


翌日「ノート買って来ました!」( ´ ▽ ` )ノ

「すでに、恵みがあったので、書きました」


忙しい中、日記となると、書けなくて、それが、すでに
ストレスになりそう。1行なら書けるかな。


今年の、主が歩ませられた行程を、振り返って、
しっかり受け取り、感謝を献げて年が越せますように。










2017年12月18日(月)
  「苦しみがあったからこそ」

Aさんから、人生の中で、一番苦しく、辛い時の話を
お聞きした。

よくまあ、心が壊れずに、どうやって過ごしていたのか。
その時はまだ神様知らずに、生きていた。
だが、その事も含めて、様々な苦難があったから、神様
のもとへ来れたと。

どれ一つ取っても、耐えられないほどの痛みと苦しみ
だったが、それがあったからこそ、神様を信じれたと
思う。

もし、それらが無かったら、平穏無事な、問題の無い
人生だったら、自分は決して神様のもとへは来ていな
い。
必要がないから。

だから今思えば、「万事益」そのもので、それらがあった
から救われて、神様知れて、こんな幸せはないと思える。
今は、心から感謝だと思える。
こう思えることが神様だと。

そして、とても不思議な事が。一番苦しくて、辛くて、
痛くて、心壊れそうな事が、今、思い出しても、心が
全く痛まない。

すっぽりおおわれていて、傷を感じない。神様の奇跡
のみわざを経験させられている。
こんな事って、あるんだろうかという、不思議なみわざ
だと。


「私もです。必要が無かったなら、神様のところへ来て
いないです。
どうにもならない、行き場の無い悲しみ、辛さ、苦しみ
があったからこそ、救いや支えを求めて、教会へ来ました。

自分は、もしその苦しみが無かったら、来ていないです。
平穏無事だったなら、来ていない。
神様の救いにあずかったことは、この痛みがあったから
こそで、感謝です」


「自分は教会に行ったり、行かなかったり、中途半端
な状態だったが、自分ではどうにも出来ない問題が起きて、

絶対に教会から離れたらだめだと、思って、必死で行く
ようになった。で、今がある。

あの時、自分にとって大きな問題が起きて無かったら、
神様のもとにいないと思う。
悩みがあったから、必死で神様を求めることができた」

ほんとに「万事益」!!


“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました”
詩篇119:71

2017年12月16日(土)
  「労使関係」

「自分は、神様とずっと労使関係だと気づかされて
来て、愛の関係にされたいと祈り続けて来た。

神様は雇用主で、自分は被雇用者、雇われ人。
時間と労働を提供して、給料を得る。
そんな関係だと。

神様を愛してでなく、もっと得たいがために、献げる。
平穏な生活が欲しいから、従う。
問題解決が欲しいから、神様、神様と言っている。

祈りは、すぐに義務であり、おつとめになってしまう。
神様の愛は何の問題もないが、自分に愛が無いから。

義務で、おつとめであっても、祈るのは、何かバチが起きると
恐いし、願っているものが欲しいから。

ほんとにギブアンドテイクの関係だなあと。
もらいたいがために、従う。
神様のために従うんじゃなくて、どこまでも自分のため。
だからすぐにしんどくなるし、潤いなど無いし、油切れになる。

そんなんじゃなくて、神様と愛の関係になりたいと思った。
神様を愛して、愛するがゆえに、従うような。

そしてずうっと祈り続けていた時に、いろんな出来事を
起こして下さって、大きな事も、小さな事も、神様の一つ
一つへの関与が見えて来た。

神様視点で見て行く時に、神様の愛が一つ一つの中に
見えて、心からの悔い改めに導かれた。

こうやって神様の愛がわからされた事が、祈りの答えだと
更に喜びが溢れた。

今は、以前とは違って、ねばならないじゃなく、そうしたい
から従っている。神様を喜ばせたいと思う。
前は自分を喜ばせたかったんだと。
今、喜びがあって、感謝でならない。」とのAさんの証しに、



「あ!私も一緒だ。それです!労使関係です。
すごく、わかります。
平穏な人生が与えられたいがために、神様について行く。
違いますよねえ。
神様と愛の関係でありたい。私も祈って行きます」

「自分もそう。問題怪傑のための神様。
この世と同じになりますよね。
家内安全、商売繁盛、交通安全、無病息災・・
神様の愛をもっともっと知って行きたい。
愛の関係でありたい」、


“父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを
愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい”
ヨハネ15:9

2017年12月12日(火)
  「どんな時も赦される」

クリスマスメッセージで、主イエスが来て下さって、
十字架にかかり、身代わりの死を遂げて下さった。

私たちの罪の赦しのためであったことを、聞く。


「毎日、毎日、罪ばかり犯している。
人を裁き、悪く思い、悪口は言わないが、人が
言う時に、心の中で、しっかり同意している。

腹を立て、いら立ち、愛の無い態度に、不用意
な言葉、ほんとに罪だらけ。ほんとに自分は罪人。

それが、ずっと赦され続けていると思う時、ほんとに
驚くばかりの恵みで、感謝しかない。

赦されて、赦されて、受け入れられていることに
ただただ感謝です」


「自分は、試練の時、苦しい時は、神様、神様と
すがりついて、いつも助けてもらい、必要与えてもらい、

でも、順境になると、神様忘れて、神様すっ飛んで、
自分で動き回り、自分の思いで生きてしまう。
これがほんとに自分の罪だと思う。神様を頼らないこと。

でも、いつもいつも赦して下さって、どれだけ同じ
失敗を繰り返しても、いつも赦して下さる。
ほんとに赦されて、受け入れられて、愛されて
嬉しい!!」


「自分は不信仰の罪を示される。神様がいつも
愛している、赦している、共にいる、必ずすべての
必要を与える、支える、助けると、ずっと言い続けて
下さっているのに、

不安と、恐れ、さみしさ、孤独、虚しさがあるのは、
神様を信じきれていない、信じていないからだと。

人の言葉は信じれるのに、人の約束は信じている
のに、本当に神様に対する不信仰を心底示され
悔い改めた。

神様の赦しを受け取る事ができて、信じる事ができ
て、不信仰という神様に申し訳ない罪だが、わからせて
下さったことが嬉しかった」


「ついこの間、対人関係で嘘をついてしまって、相手は
信じてくれているのに、自分からそれを壊すような事を
してしまい、その罪が示され、わかって、涙と共に
悔い改めた。

その時、神様の赦しがはっきりわかって、赦して下さって、
その後、全く責めておられない事がわかって嬉しかった。

失敗から学べばいいんだよと言って下さって、
神様の愛に触れて、神様ともっと交わりたい、もっと
従って行きたいと思った」



“咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちの
そむきの罪を赦してくださいます”
詩篇65:3

“しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に
恐れられます”
詩篇130:4



2017年12月08日(金)
  「後になると、平安に」

「悩みがあって、教会に来ました」とのAさんの
発言に、皆がやさしく対応する。

Bさん「私も大きな悩みがあって、来たんです。
人生途上で、突然の、大きな深い困難に陥って、
もうどうして良いかわからず、身動きも取れず、
絶望でした。
ほんとに絶望だったです。いろんな会や同じ境遇の
人たちのサークルにも行くが、全く慰めになりません
でした。
同じ境遇と言っても、皆、違うんですよね。
心にしっくり来ない、合わない。

どこへ行っても、解決が無かったです。そんな中、
知り合いに勧められて、教会に来ました。

神様を信じる事ができて、聖書を学ぶ内に、何か
心が軽くなって行ったんです。
それが、状況変わらず、同じなんですが、以前あんなに
苦しくて、重かった心が、今、苦しくないです。平安です。

日常生活で、様々問題は起きて来ますが、神様に
お委ね出来るので、ほんとに楽です。感謝です」

Cさん「数年前に、最初にBさんをお見受けした時と、
Bさん全く変わられました!明るくなられて、Bさん別人
みたいです!」

Cさん「私も、家族の介護でもうパニックになって、何を
どうして良いかもわからず、ノウハウもなく、もう不安と
恐れ、思い煩いに襲われて。

もうどうにもならず、神様にすべてお任せしたら、道が
どんどん開けて、一歩進むと、次の進むべき道が見え
て来て、又、一歩進むと、又、次が備えられている。

それをずうっと体験して来て、絶対に神様は見捨て
られない、必ず道があって、導かれる、必ずいつか
笑える日が来ると。
何度も何度も経験して来ました。
今は苦しくても、笑える日が絶対に来ます!

もうねえ、苦しい最中は、バラエティ番組とか見ても、
全然笑えない。何がおかしいんだろ?何が面白いの
かわからない。何で笑えるんだろ?
全然笑えないし、面白くもない」

Bさん「そうなんですよ!そう、そう!!
私も、苦しくてたまらない時、寅さんを観て、何が
面白いんだろ?どこが面白い?全然面白くもおかしくも
なく、全く笑えなかったですよ(大笑)」

「でも、今、笑えます!!」(*^_^*)

皆で、「Aさん大丈夫です!!必ず笑えるようになります!!」


Aさん「皆さんのように、私もいつか笑えるようになると
感謝の心です」(*^_^*)




“すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって
悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された
人々に平安な義の実を結ばせます”
ヘブル12:11

“後になると”(*^_^*)

2017年12月05日(火)
  「ゆだねられない」

ゆだねる事ほど、難しい事はないとの話になる。

頭ではわかるし、理解できるし、ゆだねたら良い
し、委ねたいと思う。

そうするのだが、しかし、すぐに口先だけのお委ね
であった事がわかる。不安と恐れも思い煩いもその
ままだ。

委ねますと言うのだが、全く委ねていない。
自我がしっかり握り締めて放さない。

もうこれはどうにもならない。自分は委ねますと言って
いるし、委ねてるつもりだが、決して明け渡していない。

「そうそう!」「わかる、わかる」「それ!それ!その通り」
と皆で。

だから試練があるのですよね。苦しみを通らないと、委ね
られない。苦しみを通っても、尚かつ、強固な自我は
握って放さない。

「委ねるって、死ぬことですね」自分に死ぬこと。

Aさん「自分は絶対に神様に渡せないものがあった。
自分にとって命なんでしょうね。
委ねられない。自分で何とかしようと、ずっとする。自分が、
自分が、と思ってる。どうしても渡せない」

「神様に委ねると、つまり自分が放すと、すべてがだめに
なるように思える。崩壊してしまうように思ってしまう」

「そう!そう!」

「つまり、神様を全然信じていない」

「そう、そう!!信じていない。だから自分でしようとする。
自分がしないで、どうなると思う。更に固く握り締める」

Aさん
「自分も自我が握り締めているものがあって、もうなかなか
委ねられなかった。委ねないと、とわかるが、放せない。
どうしても自我が放さない。

だからいつも思い煩いと、不安、恐れでいっぱいだった。
委ねないから。でも渡せない。

まさにその事で、苦しい、辛い試練が続き、もうどうにも
ならず、委ねることができた。神様のあわれみ。
すると、全く思い煩いが無くなり、不安も恐れも無くなって
平安になった。今はほんとに平安で、感謝です」

Bさん
「よくわかる!一緒だ。私も自我がめちゃくちゃ強くて、
放さない。握り締めて委ねられない。
でも、やはり苦しい、しんどい試練を通って、委ねること
ができた。すると、ほんとに自由になって、平安になった。

すると、また次、別のものを握っていることを示され。
次々と取り扱いなんですね」



“イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできる
のです」”ルカ18:27

委ねることは、人にはできないが、神にはおできになる。



2017年12月02日(土)
  「わかるように教えて下さい」

心がザラッとする時、神様からのサインが来ていると
わかるようにされて、感謝です。
その事を打ち明け、祈ると、心に妬みや裁きがある
こと示されます。
心に何かがあるサインです。

以前はそういう感覚が無くて、ザラッとしていても、そこに
意識が行っていないので、ずっとスルーでした。

信仰生活が変えられて来ている事を感じます。
ぼんやりした、漠然とした、信仰生活だったのが、
はっきりと自分の不信仰を認めて、悔い改めた時から
変えられました。

頭では、聖書知識として色々な事があるが、神様を
信頼することとは、全く別で。

心の底を探られると、信じていない、不信仰な自分を
はっきり示されました。
今まで、ぼんやり、漠然と自分は不信仰だと感じて
いたのが、具体的出来事を通して教えられ。

目に見える近しい人は信頼できるのに、神様を信頼
していない自分がよくわかりました。

不信仰を悔い改めた時に、不思議ですが、神様に頼って
行けるようになって、何でも神様に言えるようになり、心が
変わりました。

神様を身近に感じるようになって。
それまでも、神様は近づいて下さって、ずっと関与して
下さっていたが、自分が拒んでいたのだと思います。
それも無意識だったのですが。

自分に足らない、色々な気づきが、与えられて、又、罪が
示されて、でも、そこで落ち込むのでなく、気づかせて下さった
事に感謝できるようになって。それが感謝です!!

以前は、自分はダメだ、又、ダメだと、幾らたっても成長
しないと落ち込むだけだったのが、変えられて本当に感謝
です。

不信仰を悔い改めた時からで、不思議な神様の導きに、
ただただ感謝です。



“しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたを
すべての真理に導き入れます。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、
あなたがたに知らせるからです”
ヨハネ16:13


Aさんはいつも、「霊的な事を、私にわかるように教えて下さい」
と祈っておられて、その祈りが答えられていることに、感謝(*^_^*)