2003年08月31日(日)
  「more than enough」!!

息子の留学のために、教会の皆がずっと祈っ
て下さったので、息子が、礼拝で、感謝の報
告をした。

「英語教員のために、教え方を学べるコース
で、理論と実際を学ぶ事ができ、児童英語教
育のコースも受講、それも大変良い学びにな
った。

自分がしたかった学びを充分に習得できて、
又、自分の以前からの願いであった留学が叶
えられて、何より感謝だった。

そして、一人で寂しいかなと思っていたら、ホ
ームスティ先で、それは親切に、良くしてもら
って、教会でも、暖かく迎えてもらった。

トロントに移動した時には、大都会で不安だった
が、そこに会った事のない親戚がいて、ものすご
く親切にしてもらい、すべての面で、神様は素晴
らしく備えて下さっていた。

そして、異国での文化の違いに戸惑い、疲れるよ
うな時、神様がすぐそばにいて下さることがよく
わかった。いつも共にいて下さる。

この留学のキイワードは、「more than enough」
です。つまり、十分以上、十二分だったというこ
とです。」と言った。

★今日は、教会創立22周年記念集会だった。
教会の22才のハピーバースディだ。皆でお祝い
をし、和やかな、楽しいひと時が与えられた。

この22年、神様が私達の教会にして下さったこ
とは、まさに「モア ザン イナッフ」!!

沢山の兄弟姉妹達を、群れに加えて下さり、素晴
らしい、どこにも無い、愛の交わりを与えて下さ
った。

神様が愛して下さった教会に、新会堂まで与えて
下さった。沢山の奇跡のみわざを、見せて下さっ
た。神様に特別に愛されている、私達の教会!!!

「それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
それは、あなたがわたしを遣わされたことと、
あなたがわたしを愛されたように、彼らをも愛さ
れたこととを、この世が知るためです」
ヨハネ17:23

by 多恵子

2003年08月30日(土)
  心に染みる愛

息子が1年弱のカナダ留学を終えて、無事
帰国した。
本人が一番望み、願っていた、まさにその
ものを、神様は与えて下さった。主の御名
はほむべきかな。

高校受験の時も、ホームスティのシステムの
ある高校と科を自ら選んだ。心の望みであった。

夏、冬、春と休みごとに、世界のあちこちに、
ホームスティ先を学校側が、すべて整えセッティ
ングしてくれる。費用さへ出せば、自由に参加
できるシステムになっていた。

ロサンゼルス、シアトル、西安でホームスティ
をし、修学旅行でマレーシアへ行き、大学に入
ると、旅行で、韓国、台湾、香港、シンガポ
ール、ハワイ、メキシコ・・駆け巡って行った。

教会会堂の二階が住居で、ひときわ狭い、住宅
事情により、大学受験の大変な時に、勉強する
場所が無いという、何とも心痛む時を通った。

「もう嫌だ。引越ししたい」と言った。しかし、
今すぐに何も、どうにもならない状況だった。

どんなにか心痛み、ただ神様に対して、心歪む
事のないように、それだけを祈りに祈り続けた。
そして、全能の主が、勉強するスペースを与え
て下さるようにと、祈り続けた。

ちょうどそんな時だった。シアトルへの2週間
のホームスティに行きたいと願った。どうしても、
その願いを叶えてやりたかった。

そして、神様は絶対に必要を与えて下さると確
信できた。見事に上から、神様から与えられた。
何よりも、神様のご愛を、顧みを、ひしひしと
感じた。

そして、6ケ月後、長男が神学校入学のために、
神戸から仕事を辞して帰広。荷物が、狭い家に
入りきらず、倉庫用に安いアパートを借りた。

そこが、勉強部屋になった。神様は見事に祈り
に答えて下さった!! 何よりも神様のご愛が心
に染みた。

大学受験の時、留学の願いがあったが、担任の
先生が、自分は留学先や方法について、全くわ
からないので、どうしてあげたらよいかわから
ないと。

とにかく、みこころが成るよう、祈っていると、
国内の今の大学に、はっきりと導かれた。

そして、卒業を前に、英語教員の志を与えられ、
就職前に、必要な語学留学の道を開いて下さっ
た。神様のご愛が尚も心に染みた。

息子に、西安ホームスティの願いが与えられた
時、献げ物が与えられた。
「これは働きのためにではなく、必ず先生家族
のために使って下さい」と。

何より、歪むことのないようにとの、祈りに答
え、心の内を暖かく配慮下って、願いを叶えて
下さった、神様。
限り無い、神様の慈しみとご愛を、溢れるばか
りに、そして心に染み入り体験できた、一こま、
一こまであった。

この留学も、留学先で、様々な人々の溢れるば
かりの好意、親切を受け、どんなにか心温めら
れたことであろうと感謝でならない。
すべての背後におられる、神の大きな、大きな
ご愛に包まれている幸い!!

「主の祝福そのものが人を富ませ、
     人の苦労は何もそれに加えない。」
              箴言12:22
  by 多恵子


2003年08月29日(金)
  神様の備え

もうすぐ、娘が神学校へ行く。
決心に導かれて2年半。高校の進路を決める時期に
担任に報告。驚かせてしまった。

三者面談の時に先生は「神学校がどんな所かは、
わからんから何も助言はしてやれんが、ただ今のおま
えじゃ、いけんことだけはわかる。頑張れ」との温か
い言葉をいただいた。

長距離の通学のため、頭痛、腹痛があるとよく休んで
いたからだ。
「このクラスの誰が休んでも、おまえだけは休んだら
いけん、神学生とはそういうもんだ」とも。

夫も、はじめは反対していたが、学費と社会経験のた
めの就職活動にも積極的に動いてくれ、良い就職
先にも恵まれた。
無責任な学生時代とは違って、苦しいこともあったよ
うだが、祈りながら神様と共に事に当たっているよう
だった。

仕事意識も備わって、一日も休むことなく勤めること
ができた。

昨年、来年度の神学校の入学生が、娘一人かもしれな
いと聞き、同じ教会で親しく導いてくれているM姉が
神学校在学中に行くほうが良いのでは、と思えて先生
達とともにみんなで祈った。

「一人は淋しいよ。一年でもMちゃんと一緒のほうが」
と言う私に、夫も「二年間、勤めるという約束だった」
と言いながらも、やはり親心で迷っているようだった。

どうしてもと言うなら私に任せてもいいよ・・・との柔
らかい感触もあっり、目の前の状況は、それがベストに
思えていたが、

多恵子先生の「ご主人が、そう言うなら今は時ではない
かも」の言葉と、娘も今行くべき・・というはっきりと
した確信も与えられず、やはり一年待った。

神学校での友人は一生の友になる、必要なら必ず与えら
れるし、一人ならそれも、また御心と祈っていたら、
この度、何人もの新入生が与えられ感謝だった。

今年になって夫に県外転勤の話しが持ち上がるようになっ
た。中国五県以外での転勤というのは夫の職場では本当に
めずらしいことなので、東京、大阪、福岡か、それも噂の
域を出ないと、本人は言っていたが、はたして大阪に決定
して、七月の終わりには、「一足お先に」と大阪の空の下
の住民になってしまった。
30分も電車に乗れば娘と会えるところだ。

「神様は粋なことをされるんよね」とずいぶん前に婦人
会で、E姉が言っておられたが、本当にそう思う。

本人の備えばかりではなく、私にも神様の時を待つこと
を教えられ、なにより娘が信仰という自分の手の届かな
いような所へ行ってしまう、口には出さなくても、そんな
大きな不安を持っていたはずの夫を今、単身赴任の中で慰
め力づけて下さっている。

9月2日の神学校の入学式がすんだら夫の所によって帰る
ことになっているが、単身のわびしさからか「あと何日か
な?」と電話で言うのを聞くと、
今一番入学式を待っているのは夫かも…という不思議な
構図が見えてきた。

近所の人からも、夫の友人からも「うまいこと出来てる
なぁ」とよく言われた。

最初には、こんな日が来るとは想像もしていなかったのに、
神様の備えは、いつも周囲のすべてを納得させて、
う〜〜んさすがじゃ…とまたひたひたと喜びに満たされて
いる。

娘の就職が決まった時に多恵子先生が「これじゃ!」と言
われた詩篇のみことば心に浮かんだ。

「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、
  辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
 主はその愛する者には、眠っている間に、
     このように備えてくださる」詩篇127:2

          by 富士子
 





2003年08月28日(木)
  都合の良い言葉

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そう
とせず、自分に都合の良いことを言ってもらう
ために、気ままな願いをもって、次々に教師た
ちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳を
そむけ、空想話にそれて行くような時代になる
からです」Uテモテ3:3

健全な教えは、自分の間違いを指し示し、罪を
指摘し、矯正してくれる。だから、必ず自分に
とって痛い。聞きたくない。内なる古い性質は、
罪は見たくないし、決して認めたくない。

人は誰しも、自分に都合の良いことだけを言っ
て欲しい。自我は痛いことは避けて、スルリ、
スルリと通り抜けて行く。

一人の婦人が話してくれた。
神様からの自分へのみこころは、はっきりわか
っている。夫に従うこと。
だのに、自分はそれに従おうとせずに、夫に従
えない理由をつけ、夫の欠点や夫の足らないと
ころを数え上げては、さばき、夫が悪いから従
えないと、自分を正当化している。

問題は、自分の強い頑固な自我です、と。神様
に従いたいから、夫に従えるよう、祈って下さ
いと。

自分の都合の良い言葉、心地良い言葉を求める。
神様の愛の言葉を求めるが、神様のみこころは
悔い改めだったりすると、自分の求めているも
のが違うから、御言葉がわからない。御声が聞
けない。

神様は懸命に語りかけておられるが、焦点が合
っていないので、自己中心に聞いているので、
全くわからない。自分は正しいと思っている限
り、決してわからない。

自分の側に問題がないか。健全な言葉を避けて、
都合の良い言葉を、心地良い言葉を求めていな
いか、いつも聖霊様に心を探っていただきたい。
by 多恵子


2003年08月27日(水)
  献身への答え

少し前に、Dちゃんが神様に自分の人生、生涯、
自分自身のすべてを献げた。

イエス様は、献げられた五つのパンと二匹の魚
を取り、それらを祝福して下さった。

すべてを献げたDちゃんを、素晴らしく祝福して
下さり、使用前、使用後のごとく、大きく変わっ
てしまった。
今まで、自分の力で懸命に頑張っていたが、しん
どくて、辛くて、苦しいばかり。

それが、一変、力が抜けて、軽くなり、安らぎの
中で仕事ができた。
仕事の成果が、自分の力でなく、神様によって与
えられた。さながらに立って、神様のみわざを見
るようだった。

天と地ほどの相違!
そんな中、Dちゃんが、自分はこんなにも神様に
良くして貰っている。自分も、何か人の役に立
つ事がしたいと、真剣な目で話してきてくれた。

仕事で、お年寄りと話している時が、自分には
一番しっくり来る。自分も癒される。どの世代
よりも、お年寄りと話している時が、自分が自
分でおれる。

将来、ご高齢の人々のために、何かできたらと
の思いが与えられ、みこころならと、祈り続け
ていると、それがどんどん形になって、導かれ
て行く。

心も定められ、将来のライフワークとしてのビ
ジョンが与えられた。具体的にそちらの方向へ
進み出そうとしている。

Dちゃんを見て、神様の素晴らしさを見せられ
る。すべてを献げた魂を、神様は真実に受け取
って、献身に対する生涯への答えを下さる。神
様は真実なお方。

私も自分の思いを、計画を、自分の将来を、自
分自身をすべて献げた時、「伝道者」という答
えを下さった。
そして、それは自分自身にとって、神様が与え
て下さった最高の働きであり、最善の道であっ
たことを、年数を経るごとに深められ、心十二
分に満たされ、喜びが増し加えられている。

献げた生涯に、答えをもって報いて下さる真実
なお方に、栄光がありますように。

「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン
切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっ
ぱいあった。」マタイ14:20
by  多恵子

2003年08月26日(火)
  自分の力

いつも学びの中で、イエス様を信じ救わ
れると、二つの性質を持つ、二重人格者
だと学ぶ。

・・救われる前からの、古い罪の性質を
神様そのまま残しておられる。イエス様を
信じた時に、「その人は新しく造られた者
・・見よ、すべてが新しくなりました」
Uコリント5:17の新しい性質が生まれる。

新しい性質は、罪を悲しんだり、神様を愛
したい、みこころに従いたい、霊的な事に
関心が行き、喜ぶ、以前には全く無かった性質。
この二つの性質が戦うことによって、クリス
チャンとしての成長、成熟がある。

肉の性質の方は、どこまで行っても肉で、
自分の力でやろうとし、自分の力を誇り、
自分が評価され、認められたい。自分が認め
られる事が最大の喜び。

新しい性質は、自分を虚しくし、神に頼り、
神の力を喜ぶ。ここには、いっさいの頑張り
がない。神に頼り、神との信頼関係で生きて
いるから、自分の力での、あらゆる頑張りが
降ろされ、安らぎと、安堵感と、信頼の世界
だ。神の栄光を喜ぶ。

クリスチャンの内にこの二つの性質があり、
自分を捨てて、神のみこころを選び、神に従
って行くにつれ、新しい性質が大きく成長し
て行く。・・いつも学んでいることだ。

Cちゃんが頑張って、頑張って疲れ果てて
生きて来た。イエス様を信じて、頑張らなく
て良いと知り、真に福音だった。どんなに嬉
しかったか。天にも上る心地だった。

自力で頑張るのでなく、イエス様に委ねて、
イエス様を信頼して生きる安らぎ、喜びを
体験し味わった。救いであった。

自分の弱さも、そのまま出すことができた。
弱さを神の前にも、人の前にも認めて生き出
した時、心の自由と解放、喜びを経験した。

それが、ネットで交わっている時に、激しい
攻撃を受けてしまった。自分の力で歯を食い
しばって、懸命に頑張っている人々には、受
け入れられなかった。
辛く苦しい中、自分達は弱音を吐かないで、
頑張っている、それを弱さをひけらかし、売
り物にしていると厳しく非難された。人は自
分の力で生きるべきだと。

生まれつきの性質は、そうなんだ。
自分の内にある古い性質も、同じもの。どこ
までも、自分の力に頼ろうとする。それは
一生つきまとう。

しかし、新しい性質は、神を誇り、神を喜び、
神に頼る事を喜び、神の栄光を喜ぶ。ここに
救いがある。

自分の力で生きて行くと、必ず自分を誇り、
自分に栄光を帰する。

「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を
誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の
御名を誇ろう。」詩篇20:7

「私たちにではなく、主よ、私たちにでは
なく、あなたの恵みとまことのために、
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰して
ください」詩篇115:1
by 多恵子




2003年08月25日(月)
  「見るところによってではなく」

昨日、学び会で「信仰」の学びをしていた。

Aちゃん「職場で、契約獲得目標を設定され
る。前回は到底不可能なのに、クリアできた。
自分も驚きで、神様のみわざで、神様の力を
感じた。

すると、又、全部ゼロにして、新たなもの
すごく高い目標を言い渡される。ものすごい
プレッシャーで、絶対にダメだと思ってしま
ってた。

今日、学びで気づかされた。ああ、そうだ。
何度学べばわかるんだろう。又、同じ間違い
をしていた。
私がするのでなく、イエス様がして下さる
んだ、私の力や能力など問題ではない、イエ
ス様が与えて下さるものなんだ、私は信仰に
立つことなんだと、気づかされました。」

Bちゃん「今、志持って勉強しているが、
その試験がものすごく大変な難関、とても
無理だと思ってしまう。
それなら、親に高い学資出して貰って、資格
を取るために勉強しているが、全部無駄にな
って、親に何とも申し訳ない。

それに、私は就職活動はしてないし、じゃあ、
卒業後は、私はどこにも行く先なく、する事
なく、プー太郎になってしまうじゃないか。
とこの頃ずっと考えて落ち込んでた。」(笑)

「悲観的な思いしかなく、最悪の事ばかり考え
て、将来の事など全くわからないのに、今、
心真っ暗になってて。」(笑)


「今、学びをしてて、え?これって不信仰で、
神様が全然無かったと気づいた!」
信仰に立つことなく、自分で思い煩い、心配
し、不安になり、どんどん悪い方にしか考え
られなくて、沈んで行く。

「神様は、私の生涯にご計画を持って下さっ
ていて、私への神様のみこころを備えて下さ
っている。
だから、どうなろうと、神様は導いて下さる。
たとえ、試験にすべったとしても、それもご
計画の中なら、最善だし、別の道を用意して
いて下さる!心が平安になりました!」

<自分には出来ないが、イエス様にはお出来
になる>、この信仰を喜ばれる。
私のすることは、イエス様を信じること。

あの事、この事、この重荷、私のすることは、
イエス様がして下さると<信じる>こと。

この世の勢力は凄まじい。目に見えるところ
は、強烈なので、目に見えない世界が飲み込
まれてしまいそうになる。

違う、そうじゃない、目に見えるところでは
ない、何度も、何度も、再確認しながら、
<信仰>に立ち返る。そして、平安になる。

「確かに、私たちは見るところによってでは
なく、信仰によって歩んでいます。」
Uコリント5:7

「信仰がなくては、神に喜ばれることはでき
ません。神に近づく者は、神がおられること
と、神を求める者には報いてくださる方であ
ることとを、信じなければならないのです。」
ヘブル11:4

by 多恵子

2003年08月24日(日)
  心を開かれる神

父の救いを、友人のクリスチャンに知らせた。

すると「実はこの日曜、うちの教会でも姉妹
のお父様が救われて、教会中どよめきました。」
との返信。

お父様のお世話をされていた姉妹が、神様に限界
を打ち明け、神様に委ねると、悔い改められた翌
週の、お父様の決心だった、と。

教会では、信徒のお父様が礼拝での招きに出て
決心するのは初めてで、皆にとって大きな祝福
であり、励ましでした、と。

兄弟姉妹達の親族の救いは、ことさらに嬉しい。

父の救いの時に、福音を伝えた息子が、「神の時」
を感じたと。
神が、父の心を開かれて、御霊が力強く働き、自
然に福音を語れ、心に入って行ったのを感じたと。

★私が祖母に伝えた時も、そうだった。
孫可愛さに、聖書の事を話しても、ニコニコしな
がら聞いてくれるが、心には入ってなかった。
誘うと、孫ゆえに、教会へも来てくれるが、十字
架の話になると居眠りをする。
長い偶像礼拝ゆえの、サタンの妨害だと思ったが。

そのような状態が何年か続いた、ある日、不思議な
ことが起こった。
雑談から、自然に神様の話になり、そして、その時、
真摯に、真剣に聞いてくれているのがわかった。
福音を語ると、心にすうっと入って行くのを感じた。
いつもと、全く違った。祖母の心が開かれていた。

信じると言い、翌朝の礼拝に一緒に出た時、自分で
招きに前に進み出た。驚いた。
神様の働きを、目の当たりに見た。

「ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を
開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」
使徒16:14

「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15

神の時に、神が聞く人の心を開かれ、御霊が心に働
いて決心を促して下さる。

栄光が神にありますように。
by 多恵子

2003年08月23日(土)
  何も動かず、何も見えない

昨日、B子ちゃんと学びをする。

★B子「前回の学び会で、難しい問題を
祈ったでしょう。帰るや、すぐに祈り
が答えられたんよ!!
答えが、もう待ち構えていた。すでに
成就していた!!」「えー!!すごい!」

呼べば、答えて下さる神様を、共に喜ぶ。
求めたものが、すぐに与えられる祈りがある。

そして、別の形の祈りもある。
「わたしの願うようにでなく、あなたの
みこころのようになさってください」

B子ちゃんの状況は険しい。困難が前にも
後ろにも横たわり、身動きとれないように
感じる。
「もう、やめてしまおうかと思ったりするん
よ。(笑)もうしんどいわ。でも、神様が与
えて下さった場所、祈って与えられたみここ
ろの場所と確信がある。」

今の神様のお心は、「忍耐して続けなさい」だ
とわかる。
神様が今の場所に導かれたことが、はっきりし
ている。だとすれば、そこに神様のご計画が
あり、しようとしておられることがある。

何も動かず、何も進まないように見える状況で、
教えようとしておられる大切なことがあるはず。

★東北へ行って、東北の先生方や兄姉方と交わ
った。都会と全く違って、まず人は来ない。
チラシでなど全く来ない。よそ者だと、表面的
には良いが、しかし、受け入れてもらえない。

ある先生と交わる。どんなに動き回っても、何
をしても、次から次へと方法を変えても、何も
動かない、何一つ動かない、微動だにしない、
そんな中で、何年、何10年間も、じいっと身を
据えていることの、厳しい大きな訓練。
「ほんとに、自分は変えられましたわ。」と。

目に見えるところ何一つ動かない、そんな環境の
中で、見えるところでなく、見えないものによっ
て歩む、「信仰」によって歩むということが、
どういうことか、先生方を通して、見せられた。

目に見えるところ、何も全く動かないので、見え
るところで一切無い、物事の「本質」が見えて来る
んだろうなと。
信仰の本質、礼拝の本質、クリスチャン生活の本質・・

見えるところが、一切取り除かれて、見えないもの
を見続ける時、そのものの本質が見えてくる・・・。

ともすれば、目に見えるところだけで、右往左往し、
そこに目をとられ、見えるところだけにバタバタし、
見えるところに翻弄され、過ぎ去って行く人生。

東北に行って、大変なインパクトを受け、深く考え
させられ、教えられた。

そして、都会から東北へ宣教に出られた、その先生
は言われた。
「来て良かったです。本当に良かったです。変え
られました。何もわかっていない者でした。」
その先生に、神様の栄光を見た。神様が輝いておら
れた。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないも
のにこそ目を留めます。見えるものは一時的で
あり、見えないものはいつまでも続くからです」
Uコリント4:18
by 多恵子



2003年08月22日(金)
  <皆の祈り>

父が、病で入院することになった。
もう高齢なので、はっきりと救われて
欲しい。

救いのために、祈り続け、皆にも祈っても
らう。身体はいつか必ず朽ちるので、何より
も救いが与えられるように、切に祈る。

教会の兄姉のみならず、あちこちの多くの
兄姉達が祈って下さる。アメリカの姉妹
も、教会でもリクエスト出して祈って貰う
からね!と。

入院に長男が付き添ってくれる事になり、
帰省。神様のことを語り続けてくれる。

入院の前夜、「入院のために祈ってるから
ね」と長男が言うと「お願いする」との返事。

あれっと思い、心が柔らかくされている事を
感じ、心の中で「今、御霊が働いて下さい」
「皆の祈りに答えて下さい」と祈り、
福音を語った。

すると、「信じる」と。御霊の強い力を感じ
たと。神の時であり、神が働かれて、心を
開かれ、御言葉がすうっーと語れ、父の心にも
すうっーと入り、心に届いた。信じるよう、
聖霊様が促して下さり、助け導いて下さった。

「神のものになったんだな」と父が言ったそう。
その場の扇風機を見て「新しい風が吹いてる」
と。
もう一度、確認のため福音を語り、確かめる
と、きっちり理解していたと。
父の救いを確信できて、心から主の御名を
ほめ称えた。

私が救われてから、37年間、毎日欠かさず
祈り続けた祈りに答えて下さった。
「神の時」に。

<皆の祈り>、長男が福音を語る時も、
その場も、祈りの力をもろに感じたと。

私のもう一つの祈りにも答えて下さった。
「救われたことが、はっきりわかるようにして
下さい。」そして「御名が崇められますように」
との祈りに。

by 多恵子




2003年08月21日(木)
  みことばの力

初対面の先生が、牧師に導かれた経緯を、
話して下さった。

★小さな子供さんを病気で亡くされた。
非常な辛さと、悲しみに沈み込み、立ち
直れないでいた。そのような中で、御言
葉の真の力を知った。

色々な人々が、慰めの言葉をかけてくれ
るが、あくまでもそれは人の言葉でしか
ない。
しかし、神の言葉は不思議な力があり、
いのちがあり、生きていてから、人に命
を与え、人を生かす。

悲しみのどん底の中で、祈って祈って主
を求めていた時に、一つの御言葉を下さ
った。

「主は与え、主は取られる。主の御名は
ほむべきかな。」ヨブ1:21

その御言葉を心に受け取った時、不思議
なことが起こった。
主が子供を与えられた。そして、主が子
供を取られた。そのことが心の底で、そう
だと思えて、受け入れることができて、
納得できて、そして、心の整理がついたと。

その御言葉で、心の整理がつきましたと。
そして、自分は牧師になるように、神様
に導かれているのがわかっていたのに、
従うことができなかった。
ぐずぐずしていて、どうしてもできなか
った。

子供の死によって、決断ができた。それで、
私は牧師として立とうと決心したんですと。
あれがなかったら、きっとできていなかっ
たと思いますと。

もう、子供の死を通して、それは測り知れ
ない沢山のことを教えられましたと。

★「神のことばは生きていて、力があり、
両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節
と骨髄の分かれ目さえも刺し通し・・」
ヘブル4:12

私も神が語って下さる、ことばによって、
今まで生きて来た。
御言葉によって、救われ、進路を示され、
絶えず指針を与えられ、心の中を照らされ、
間違いを矯正され、正しい歩みへと、みこ
ころにそった歩みへと導かれて来た。

御言葉によって、試練、苦しみ、悲しみを
乗り越えられた。
御言葉は無かったら、今頃どうなっていた
だろう。

「わたしがあなたがたに話したことばは、
霊であり、いのちです」ヨハネ6:53
by  多恵子

2003年08月20日(水)
  砕かせない自我

一人の婦人と話す。
大変な試練の中にある。次から次へと、考え
られない厳しい試練が臨んでいる。

「自分の姿が見えました。神様は、試練を通
して、頑固な、頑なな私の自我を砕きたい
のに、自分は砕かせない。身を固くして、ただ、
うずくまるばかり。

試練を通して、神様に叫ばせたいのに、叫ば
ない。神様に求めることをしない。ただ、
うずくまっている。

痛いゆえに、受け入れて、受け止めること
をせず、神様にあがき、求めて、向かって行く
こともせず、自分の殻にうずくまっている。

そんな自分の姿が、はっきり見えました。
神様は、私を砕きたいと思っておられるのが、
よくわかった。砕かれるよう、祈って下さ
い」と。

自分の姿がわかることが、素晴らしい。
聖霊様の働き。

試練って、正面から受け止めても、逃げて
も、痛いのは同じ。結局、逃げても、何も
学ばず、何の益もなく、痛いだけ。

うずくまっていても、痛いのは一緒。

同じ痛いなら、神様の御手をしっかり受け
止められたら、痛いけれど、自分は変えら
れて行く。
御子のかたちに・・。
by 多恵子

2003年08月17日(日)
  礼拝の感謝

しばらく留守にしていたので、今日は久しぶりの礼拝。
Uコリント4章から「うちなる人が強められる歩み」
というテーマでのメッセージだった。

私達は日々、歳を重ね体力もまた外見も衰えて行くが、クリ
スチャンには日々新しくされるものがある。うちなる人だ。

見えるものにのみ目を留めて行くなら、それのみに心は捉え
られ、左右され、そこに満足を追い求め、思い通りにならな
ければがっかりしてしまう。

しかし、いつも信仰によって歩むなら
・日々の歩みの中で聖霊様によって神様を身近に感じる事が
 あるならその時ごとに確実に天への確信をもてる。
 蜃気楼のようなこの地上に望みを置くのではなく、天にお
 られるイエス・キリストに目を向けていける。

そして、キリストの愛を受けて歩むとき、
イエス様の喜ばれる事を第一に考え、
使徒パウロのように私達も神様のご用のために働く事ができ
る。
また、恵みを分かち合えるキリストの使節として生きる事が
できる・・・このようなお話しだった。

メッセージの中で伊豆先生が読み上げられるUコリント4章
5章が耳に入るとすぐに心へ落ちる。

*私達はキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通
して懇願しておられるようです。…神の和解を受け入れなさ
い。         Uコリント5:20

私を含め、どれだけのクリスチャンがこの神様の懇願される
御心を自分のものとして受け止めているのだろう。
天国への約束だけを頂いて、真理を知っているというおごり
と怠慢の日々には、内も外も老いさらばえて行くしかない。

恵みを受けるだけ受けて分かち合わないクリスチャンを死海
に例えて話された。入り込むだけで何処へも流れない死海は、
濃い塩分で魚もすめないと。

日々衰える身体と一緒にしぼんで行く信仰生活にならぬよう、
神様に託された和解のメッセージをもう一度しっかり受けと
めた礼拝だった。   
                by 富士子
 








2003年08月14日(木)
  切迫した祈り

近所が気にならなくなると、とたんにあつかましく
なるのも、どうかと思うがで、社宅のゴミ置き場の
粗大ゴミの中からまだ使える電燈を発見。

実はこの社宅、部屋の電燈は自分もちだ。
ガスコンロ、湯沸し期は、ついてなくても電燈まで
なかった社宅は珍しい。
夫は「どうせ一部屋しか使わんから、一つだけ買っ
たらいい」というので一つしかない。

ふだんは、ひと一部屋で十分なのに捨ててあるのを
見たら、きゅうにひと部屋だけではさみしかろうと
思えてきた。

8月に入ってからも結構引っ越していかれる方が多
いとのこと。
さっそく、まだ使える電燈を持って帰ろうとするが
そこはやはり今まで大切に?育んできた見栄や外聞
が邪魔をして、なかなか手が出ない。社宅すべての
窓から見られているようだ。

いちど、出直そうと思って部屋に帰りかけると、
(買い物帰り発見したのだ)同じ階段の方が引っ越
し準備中だとわかった。
そこで思いきって「すいません、あれ捨てるなら…」
と言ってみると、「古いけど、どうぞ!」と快く言っ
てくださった。

ところが、やはりゴミ捨て場に取りにいけない。

声かけたことは、誰も知らないから、人から見たら、
だまって取ってると同でしょうそれは・・とか、
でも、いったん声かけたのに取りに行かんのもなぁ…。
やはり古いから、いらんかったんか!と思われるか
なぁ…とか。

もともと部屋の電気なんて一つで良いと夫は言ったの
にと激しく後悔。
「いま持っているもので満足しなさい」…じゃった。

ぐずぐずしていると、夕方の井戸端会議で、みんなが
出てくるぞ、と迫られるように祈って粗大ゴミ置き場
へ向かった。こんなことで迫られるのもなんだけど。

すると不思議に「あつかましく頂きま〜す!」とびっ
くりするような大声が自然に出た。
「どう〜ぞ!!」と大きい返事もあった。神様!感謝!
ピンチにはきっちり答えてくださる神様じゃ。
恥ずかしながら、しっかりもらって帰った。

        by 富士子





2003年08月13日(水)
  正しいことだけで精一杯なんて

夏休みになると、時間のたっぷりある娘とビデオ
を観る機会がふえる。
最近観た何本かのなかでとても心に残った映画が
あった。

「アイ・アム・サム」という映画。
7歳くらいの子供の知能しか持たない父親とその
娘の物語だ。
知的障害を持っている父親は、その障害ゆえ子供
から引き離され、子供は里子へ出されてしまう。
なぜ自分達が引き離されなければならないのか、
私たちが常識だと受け入れていることは父親には
理解できない。
父親は裁判に訴えて里親から自分の娘を取り返そ
うとすったもんだの戦いをはじめる。
そのなかで、いつのまにやら周囲の人々は、純真
無垢な心を持つこの父親に癒されて行くという、
単純な癒し系のストーリーだが、観ていて心に深
く残る場面があった。

里子に出された娘に会いたくて、この父親、里親
の近所に引っ越してきてしまった。
娘は毎夜、里親の家を抜け出して父のアパートへ
会いに行く。
そこで娘は安心してすやすや眠ってしまうのだ。
これが毎夜、毎晩。

ところが父はこの娘が来るたびに、ちゃんと里親
の所につれて帰るのだ。不当に引き裂かれている
親子なんだから会いたいのが当たり前、だから近
くに越してきたのに、必ず毎夜娘をつれて里親の
もとに娘を返しに行く。

いつも正しいことで精一杯、1+1=2で精一杯
で、うまくいけば1+1=3にも4にもしてしま
いかねない自分を重ね合わせて、ちくりと胸が痛
んでしまった。
毎夜、毎夜のこの繰り返しに「絶対子供は返さな
い」とこの父親を敵視していた里親の心は変化し
ていく。

イエス様は
「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、
それを失う者はいのちを保ちます」といわれた。

正しく生きていくことが、最終目標なのではない。
正しい自分を捨てて、はじめて人の心は動く。
そこに、いつも行き詰まるから、難なくそこを越
えて行ける人をみると作り物の映画にさえ感動し
てしまう。

生きにくい障害を持つこの父は、一見気の毒な人
に見える。
しかし、建て前や見栄とは無関係にまっすぐに生
きていけることは、間違いなく神様からの賜物だ。

硬く強固な砦を自分のまわりに築くことを成長と
思い、正しい正しくない、勝ったり負けたり、そ
んな価値基準から開放されて生きるのは、素直に
聖霊様を選択して生きて行けばいいだけだと、
もう一度、胸に迫って来た。
              by 富士子

2003年08月12日(火)
  大阪での夏休み



夫の転勤に伴って、この夏は大阪で過ごしている。
久々の社宅暮らしに懐かしさもあって、はじめは、
夕方に一つ、二つとともる部屋の明かりを見てい
るとだれも知らない都会にいながらも、至近距離
に人がいるぞ!という安心感は、いいもんだと、
余裕だった。
が、そのうちだんだん嫌な気持ちになってきた。

壁隣のベランダから洗濯物を干す気配が、すごく
近くに聞こえてくると、だんだん息を殺している
自分に気づく。知らない他人の存在がどんどん自
分の中で大きくなって来る。

知らず知らずに耳を凝らしたり、声をひそめたり。
だんだん嫌になってきた。

三日目になり「もう、なにこれ!」という感じで、
「神様、朝からうっとうしくなってきてます。
最初の新鮮な思い戻してください」と祈った。

すると即効で、胸のなかにつかえてた硬いものが
取れた。
同時に、罪が見えた。
昔々の社宅生活のわずらわしさは、自分のなかの
罪だったんだと気が付いた。
顔も知らない人さえ疎ましく思う…恐ろしい罪。

そしてまた、最初の軽い心が戻ってきていた。

 「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で
私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物
を賜り・・・・」    創世記28:21

神様と共にいる限り何処に行っても平安がついて
くる。

朝起きたら、隣の部屋の水の音が聞こる。
ああ隣も起きてるんだと思える。不自由な思いに
なりそうな時はいつも自分の内にある罪を思い出
そう。         by 富士子


ーーーーーーーーーーーーーー

2003年08月11日(月)
  正直な自分

C子ちゃんが言った。
「心の中では、気がきかないDさんに、思い
きり腹を立てているのに、顔はいい顔をして
る。ここまではまだいいが、次から平安無く
なるのがよくわかった。

それは、Fさんが、そんなDさんの悪口を言
う時だ。

もうDさんはー!と言った時に、心の中では、
その悪口にしっかり同意して、してやった
り!!と、もう快感ー!なのに、口では、まあ
まあ、そんな事言わないでと、クリスチャン
面をする自分。

その自分の嫌らしさに、向き合いたくないか
ら、その思いを見て見ぬ振りをする。
その時はいつも、心の中が、もやもや、もや
もや、平安がない。

偽善をして、人を欺いていると、それが自分
にきっちり返り、今度は自分が自分に欺かれ
て、闇の中に陥ると知った。

自分にきっちり向き合わないで、偽善のまま
に歩む恐ろしさを感じた。
顔はいい顔をしているが、心はそうでない時、
神様に自分の正直な心を、きちんと言うよう
にした。

まず、神様に、「今、あの人にむかついてま
す」「神様、ほんとに、むかつくー!!」
「もう、嫌いだー」「あの態度が気に障る」
と、気持ちを、告げていると、思いが、すう
ーっと消されて行くことを経験した。

そして、自分がはっきりと見えて来た。
今まで、全然神様のもとへなど行っていない。

自分は、「古い自分」を、「新しい自分」が
対処しないといけないと思っていて、ずっと
そうしていたと。
だから、神様抜きの、自分の力でやっていた
ことが、わかった。だから、心のもやもやが
晴れなかった。

今まで「愛せません」と祈っていたが、それ
は抽象的で、観念的で、そして、何か高尚に
聞こえて、だまされてしまう。

本当の気持ち「むかつきます!」と祈ると、
全然違ってくる。だまされようがなく、自分
の姿があらわになる。

四六時中、神様のもとへ行けばいいわけで、
ものすごく心が楽になった!解き放たれた。
嬉しい。」

自分の力と神の力の、この相違!!!
一つ一つの正直な気持ちを神様に告げるっ
て、それを自ら認めているわけで、そこか
ら来る祝福!!

by 多恵子

2003年08月10日(日)
  子供に謝罪

愛する姉妹から電話。

・・・ずうっと電話したかったが、時差の加減で、
時とタイミングが必要で、なかなか電話できなか
った、と。

その間に色々あった。人生最大の試練に会った。
子供が不登校になり、段々生活が荒んで来て、何
より心が荒みきっていた。
やがて、薬物に手を出してしまって、考えに考え
祈った結果、決心をして国境近くの矯正施設へ
入れた。

出すのは、ものすごく辛かったし、悲しく寂しか
ったが、このままだと、この子の人生本当にダメ
になると、心底思ったから。

ものすごく厳しい規律とプログラム。最初は寂
しくて、寂しくて、帰りたいの一点張りだった
が、少し落ち着くと、なぜここにとの怒りが沸
き上がる。

母親であるBちゃんは、心から悔いた。子供を
支配し、上から抑えつけていた自分の罪を示さ
れた。
痛かったけれど、こんなに辛かった事はないけ
れど、自分も通らなければならなかった。

手紙を毎週、毎週、どんなに忙しくても、絶対
に欠かさず、書き続けた。そして、手紙を書く
度に、今までの自分の間違いを謝った。小さい
頃からの一つ一つを思い起こして、あの時のあ
のことを覚えてる?と、具体的に謝って、謝っ
て、謝り続けた。

子供が変わった。ただの一度も、決して間違い
を認めたことのない子だった。
厳しく叱られて、怒られて、責められて、責め
られて、いつも責められて育ったから、固く自
分を守り、固い自己防衛の殻が築き上げられて
しまい、謝ることが出来なかったのだ。

その子が、「ごめんなさい。僕が悪かった」と、
初めて書いて来た。親からの抑えつけを、妹を
攻撃することで、発散させていた。妹をいじめ
て、傷めつけていた。

その妹に、毎週手紙が来た。自分の今までした
事の、心からの謝罪が記されていた。本当に
赦して欲しいと。
心から悔いていると。妹には、絶対にこんな
間違った道を歩むなと。

まだまだ時間はかかるけれど、神様の光が射し
て、確実に良い方向に向かっている。感謝で、
感謝でならないと。・・・・

聞いていて、涙が出た。
Bちゃんが変わったから、Bちゃんが自分の
罪を示され、子供に心から謝罪したから、
子供は癒された。

子供は心溶かされて、神様の光の中で、自分
の罪が初めてはっきりと見えた。

Bちゃんが心砕かれて、自分の非を認めた
ことが、子供を変えた。岩をも打ち砕く、
神様の力。

<自分の非を認めること><謝ること>本当
にこれは、素晴らしい大きな祝福への扉だ。
by 多恵子

2003年08月09日(土)
  原点

昨日、大型台風広島直撃との、予報があったに関
わらず、台風など、ものともせず、B教会の方々
が会堂見学に来られた。(B教会の方々の信仰に
おされ、結局、台風は完全にそれてしまった)

会堂が建つプロセスを話している内に、もう一度
神様の奇跡、慈しみ、ご愛、あわれみをが胸に
沸き立った。

「無いものを有るもののように、お呼びになる方」
(ローマ4:17)
「奇跡」が起こるには、「不可能」の土壌が必要。
1億1千万会堂建設は、私達には「不可能」だった。
だから、そこに、神の「奇跡」を見た。

これ以上祈れないというほど、皆で祈ったこと、
朝のデボーションで祈り、小グループで祈り、地区
集会で祈り、祈り会、礼拝で祈り、午後10時に
一斉祈祷、時間に分けて24時間連鎖祈祷、道を
歩きながら、家事をしながら、運転しながら、皆
がありとあらゆる時を捕らえ、祈り続けた。

断崖絶壁だった。人生で来れほど祈った経験は
無いほどに。経済的に「不可能」であったゆえに
「祈り」が生まれた。手元にあれば、祈りは必要
無い。

献げに献げた。持てるもの、全部献げた。
献げるために節約し、痛みと犠牲を伴った献げ
物をと、お菓子を、ジュースを我慢し献げた。
雑誌代を献げた。タクシーを電車にし、歩いて
バス代を献げた。

あれほど献げた経験も初めてだった。
教会がまさに一丸となり、完全に「ひとつ」だった。

祈り、信仰、一致、見えるところによらず、御言
葉に立つこと、サタンとの戦い、これらの事を実地
訓練として教え込まれた。

身体に染みついていて、織り込まれていて、原点
に立ち返るように、よみがえってくることを知った。
これから、天に帰るまで、何度も何度も、原点に
立ち返らされて、大きな励ましとされるに違いない。

素晴らしい、綺麗な、快適な会堂が建ち、今その
恵みに十二分に浴しているが、実は、目に見えな
い霊的な部分こそ、最大の恵みと祝福であったと、
改めて、思い至ったのであった。

それは決して風化するのでなく、何度もよみがえ
っては、新たな霊的な力とされることを知った。

感謝な会堂見学であった。
良きお交わりと、自分自身も、もう一度、不可能
が一つもない神の力と、私達の教会が深く深く愛
されていることを、確認し、大いに恵まれた。
by 多恵子


2003年08月08日(金)
  寂しいところへ行って

「さあ・・寂しい所へ行って、しばらく
休みなさい」(マルコ6:31)

遠方の友人からのメール。
「ばたばたしている自分が透けて見えて、
そのような時は何が必要か、何でもない
ことですよね、ちょっと今の生活から、
ほんの少し距離をおき、ほんの少しの間
でも、”寂しい”ところに行ってみる。
寂しいところに自分をおいて、見えてく
るものがあるというのはつくづく真実だ
と思いました。」

主が「“寂しい”ところへ行って」と言
われる。行くことが必要だ。
主の御声は、小さな小さな、細い声。
静かでないと聞こえない。

一人の姉妹が「いつもテレビをつけっ放し
にしているんですよぉ。別に見てるわけじゃ
なくて、何か、もの寂しくて、つけておく。
でも、つけていると、何となく見てしまった
りして、何時間も無駄になってしまうんですよ
ねえ。

そのテレビが壊れて、修理に出さないと
いけないんですが、まあ、いいかと放って
いたら、何だか感謝で、それが、テレビが
ないと、聖書を開くんですよ!御言葉に
心恵まれて、感謝でした!!」

街の中も、店々も、家も、常に大きな音で溢
れている。テレビ、ラジオ、CD、BGM・・

そして、心の中も、自分の思いがやかましい。
自己主張、自己顕示、自己防御、自己憐憫・・

それらを降ろして、主の御声に耳を傾ける時、
主のお心が見えて来る。そして、自分の姿が
見えて来る。主の指針が見えて来る。

主と一対一の「寂しい所」がどうしても必要。

目まぐるしい日々、時間に追われ、目の前の事
をこなすのに精一杯、そして、これでもか、
これでもかと攻撃してくる、世の価値観、肉の
欲望にさらされている。サタンの凄まじい勢力だ。

これらに抵抗し、対抗し、戦うには、どうして
も主との交わりが必要。そうしなければ、人生、
どこまでも上っ面で、流されて行ってしまう。
by 多恵子


2003年08月07日(木)
  今日も集会の真ん中に

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、
イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩
いておられた」ルカ24:15

★二人の弟子が、主が十字架にかかって死んで
しまわれたので、なすすべもなく、失望と絶望
で、とぼとぼと郷里に引き揚げていた。

そのエマオ村への途上に、何と、よみがえられ
た主が現われ、共に歩まれ、二人の弟子に語り
かけられた。

面白い光景。イエス様のことを二人が話題にし
ているところへ、その本人が現われ、何を話し
ているのかと聞き、二人は、イエス様に向かっ
て、え?あなたはイエスの事を知らないのかと、
不思議がるという・・。

そして、エルサレムで起こっている出来事を話
す。イエスに望みをかけていたが、だめだったと。

主は彼らの不信仰な心に、御言葉を語り、心が
熱く燃えるようにして下さった。そして、彼ら
の目を開かれた、その時、彼らには主がわかった。

失望と落胆を、信仰と希望に変えられた二人は、
非常な喜びで、方向転換、エルサレムに引き返
して行った。

★二人の弟子が語り合っている、その時に、主が
そこに加わられ、共に歩かれた。

これがいつも集会の中で、起こっていること。
私は、題材を準備するが、それを語り、一緒に学
ぶその真ん中に、イエス様がおられる。

皆で、学んだことを語り合う、その中で、更に深
く霊のことが、どんどん解き明かされて行く。
これはイエス様ご自身だ。

いろんな姉妹達が、それぞれ自分の立場、状況で、
違う角度から教えられたことを語る。次々と光が
射し込む。ああ、なるほど・・。

同じ学びをしても、一人一人が全く違う面で教え
られる。そして、教える私は、必ず一人一人の姉妹
達から教えられる。
真ん中におられる、イエス様の解き明かしのゆえに。

エマオ途上を歩まれた主は、今、集会の中に共に
おられ、歩んで下さっている。そして、御言葉を、
霊のことを解き明かし、更にわからせ、心を燃え
させて下さっている。

集会が楽しい。この解き明かしの主ご自身に、出会
える楽しみと喜びと期待のゆえに!!

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集ま
る所には、わたしもその中にいるからです」
マタイ18:20
by 多恵子


2003年08月06日(水)
  会いたくて

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます・・
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、
決して渇くことがありません」(ヨハネ4:13)

今日、サマリヤの女の箇所の学びをした。
人は皆、心の満たしを求めてさまよう。ある人
は仕事に充足感を求め、ある人は趣味に、スポ
ーツ、旅行に、ある人は富や名誉や地位に。

このサマリヤの女性は、男性に心の満たしを求めた。
男性が、結婚が、自分を幸福にしてくれると信じた。
だから、結婚しては離婚を、5回も繰り返した。
今は別の男性と同棲中。しかし、心満たされること
はなかった・・。

私の友人は若い頃、心の満たしを求めて、ありとあ
らゆることを試みた。色々な仕事をし、関心のある
学びも次々とやってみるが、満たされない。

遠くへ行けば、<何か>あるのでは、新しい出会い
があるのではと、お金を貯めては旅行を繰り返した。
しかし、心満たされることはなかった。

ある時、旅行先の最果ての地で、障害者の施設でバ
イトをした。初めて、人との触れ合いに、充足感を
得た。
これが自分を満たしてくれるのでは、その方面の仕事
に就く事を考え出すが、しかし、それを進めて行く内
に、自分の高慢に気づき愕然とした。

挫折感の中で、神との出会いを経験した。
今まで、長い間、求め続けていたものが、実は神で
あったとわかった。
神のもとに帰った時に、包み込まれるような、真の心
の安らぎ、安堵、満足を得た。欲しかったものは、
これだった。

様々な人々が、<何か>を求めて、さまよい続け、
色々なことをやってみる。

実は、心が、神に渇いていることに、気づかずに。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」
詩篇42:1

ある詩人の、こんな詩の一節があった。

「誰かに 会いたくて 何かに 会いたくて 
生まれてきたー そんな気がするのだけれど 
それが 誰なのか 何なのか 会えるのは 
いつなのかー
お使いの 途中で 迷ってしまった 子ども
みたい途方に くれている・・」

私も、会いたかったんだ、イエス様に会いたく
て、生まれて来た!!
by 多恵子


2003年08月05日(火)
  傷ついた心が受け止められて

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって
求めたことはありません。求めなさい。そうすれ
ば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち
満ちたものとなるためです」(ヨハネ16:24)

祈るのは、喜びが満ち満ちるためと、神は言われる。

k子ちゃんが、お母さんに、皮膚炎がひどくなって
きたねと言われ、鏡を見ると、顔も首も、腕も発疹
が出ていた。心が暗〜くなった。

ずっと以前からだが、そう言えば最近、少しひどく
なってきていた。
若くて、とても感じやすい年頃のk子ちゃん、顔に
も出ているのが、嫌で、とても悲しかった。

気が重くなって、ものすごく悲しくなって、落ち込
んで、神様のところへ行った。
実際の皮膚炎もだが、皮膚炎によって、気持ちが傷
ついていて、悲しい、その心をありのまま神様に打
ち明けた。

すると、何も言わないのに、お母さんが薬を買って
来てくれた。何だか、気になって・・と。

お母さんの優しい気持ちが嬉しくて、その背後にお
られる神様の答えだとわかって、それが一番に嬉し
かった!!
傷ついた、悲しい気持ちをわかって下さったこと、
受け止めて下さったこと、ああ、そういう神様なん
だと、どんなに嬉しかったか。心にしみた。

感謝なことに、その薬がよく効いて、皮膚炎もおさ
まって来た。
もし、あの時、傷ついた悲しい気持ちを、神様に持
って行かなかったら、こんな神様のご愛や優しさ、
配慮を知れなかったと思う。神様の優しさに触れる
ことができて、嬉しくて、嬉しくてならない。

祈りは、ほんとに、私達の喜びが満ち満ちるため!!

心の中は複雑、もし、うまく言葉に出せなくても、
神様はその気持ちをわかって下さり、汲み取って
下さる。心配いらない。神様のもとへ、様々な気
持ちを持って行きたい。

「私たちは、どのように祈ったらよいかわからない
のですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめ
きによって、私たちのためにとりなしてください
ます」ローマ8:26
by 多恵子

2003年08月04日(月)
  泥棒が入った

教会に泥棒が入った。
たまたま締め忘れていた、事務所の窓から侵入。
物色され荒らされていたが、幸い被害は無かった
よう。

警察に連絡。3時間も指紋を取ったりの調査。
最近、開いている窓から侵入の被害が、相次い
でいたそう。それで、近隣に気をつけるようと
の連絡をしていたと。

しかし、まさか教会には入らないだろうと、教会
には連絡しなかったんです、と。

おまわりさんが、このため、毎日巡回を続けて
いると。
いつも教会の前を通る時、案内板の「すべて、
疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの
ところに来なさい。わたしが休ませてあげま
す」を必ず見るんです、と。

「いいですねえ〜。心慰められます。ほっと
します。毎日見てます。」「教会へはこんな服
でなく、来たかったですわ。」と。

何だか、ほのぼのと心温まってしまった。
by 多恵子


2003年08月04日(月)
  芳しい香り&悪臭

F子ちゃん「職場で証し人として、キリスト
の芳しい香りを漂わせる者として、用いられ
たいと祈っている。

仕事中、折々に、キリストの香りを現わす、
機会が与えられる。今だ!とわかる。
周囲の人が、自己チュウな態度を取る時、
今、へりくだって、柔和に対応すれば、神様
の栄光が現われる。

しかし、肉が強くなっていて、心がついて行か
ない。腹が立って、腹が立って、怒りながら、
何とその<香り>の行ないをしようとする。

すると、神様はそれをさせられない。与えられ
ない。怒りながら、香りを表わそうなどと、と
んでもない。不純な醜い臭い匂いを発し、余計に
神様を汚す。

怒りが起こって来ると、抑えられない。自制が
効かない。その時、御霊に支配されているか、
自我が勝っているかだ。
朝のデボーションが大きいなあと、つくづく日々
感じる。
朝、しっかり交わると、心に潤いがあり、余裕が
ある。しかし、朝が忙しくて、バタバタと形だけ
になると、てき面、その日に表れる。

ちょうど今週の礼拝メッセージにあったが、朝の
チューニングがほんとに大切だ。」

『御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して
肉の欲望を満足させるようなことはありません。

しかし、御霊に導かれるなら、律法の下にはいま
せん』ガラテヤ5:16

神様と親しく交わり、御霊に導かれて歩めるように。
by 多恵子




2003年08月02日(土)
  御父の心

学びで、放蕩息子の箇所から、神様の無条件の愛を
学んでいた。

弟息子は、父親のもとが窮屈で、好き放題をしたい
と思っていた。父親が死んだら貰う財産を、今くれ
と申し出た。生きている父親に、失礼な話だ。

父親は何もかもわかっていて、あえてしたいように
させてやる。

よく親子の確執を聞く。親が子供に失敗をさせない
ため、子供の人生に道をつけ、転ばせない。安全な
道を行かせる。
子供にどうしても行きたい道があった場合、そちら
へ行ったからと言って、成功したかどうかもわから
ないが、それは一生引きずる事になる。
子供は納得が行かず、反発心を人生の最後まで親に
向ける。
しかし、これは親の愛情というより過保護、愛情の
形をとった支配では。子供自身の人生であり、親の
ものではない。

息子は喜び勇んで、遠国へ行き、放蕩三昧。
どん底になって、何もかも失って初めて、本当のも
のが見えてくる。父のもとへ帰りたいと思う。
父に謝ろう、子の資格は無いから、雇い人にして
もらおうと、立ちあがって、父のもとへ向かう。

ヨレヨレで、ボロボロになった息子を責めずとがめ
ず抱きしめた。すると、いっさい責められず、抱き
しめられた息子は、すでに悔い改めていたが、心の
底から悔いた。

私達の肉の性質には、この世で培われた「神様に喜
ばれることをしなければ、愛されない」との根強い
価値観がある。ゆえに、頑張って、頑張って、受け
入れて貰おうと頑張り続けて、力尽きる。
しんどいばかりで、そこには喜びも安らぎもない。

しかし、神様の愛は無条件、今のままで受け入れ、愛
して抱いて下さっている。だから、愛されているから、
神様に喜ばれることをしたいと思う。

この学びの時に、Y子ちゃんが「ダメ!主人にも子供
にも言いたい!!家に入る前に、一言あるだろ!言って
入れよ。一言断りを入れろ。よう、入れるな!」
はー!(大笑)「ダメ〜!できん。神様の愛はすご
すぎる。」

S子ちゃん「雇い人にしてくれというなら、『ほいじ
ゃあ、そう言うなら、雇い人から始めてもらおうか。
してきた事考えたら、当然じゃろ。』と、思いますよ
ねえ。」(笑)

肉の思いは、自業自得。あんたが自分で招いた結果。
そうすりゃあ、こうなるだろう。
でも、神様はそうじゃなくて、まず「かわいそうに
思い」ルカ15:20 だ。何という慈しみ。憐れみ。

待っていないで、自分から「走り寄って彼を抱き、
口づけした」15:20

Y子ちゃん、S子ちゃん「ああん〜〜!!もう神様の
愛は大きくて、深くて、測り知れない。なんていう
愛だ〜!!」

弟息子と兄息子の事は、聖書に出てくるけれど、
私は父のことを思うんだけど。息子は好き放題して、
立ち返っていいけれど、父の心はどんなだったんだ
ろう。

どんなに傷ついた事だろう。息子に裏切られて、
勝手に出て行かれて、心を踏みにじられ、踏み荒ら
され、ズタズタに傷ついたに違いない。
愛しているゆえに、尚さら。
それでも、尚且つ、帰って来た息子を、大喜びで
抱きしめる、これが<愛>ということ。

この愛で、今、このままで抱きしめられて、愛され
ている〜!!!
by 多恵子

2003年08月01日(金)
  認めたくない古い自分

D子ちゃんが話してくれた。「私、心をごまかしている。
その人が<嫌い>なのに、神様の前で、その人が<苦手>
ですと祈る。うま〜く自分の心を痛くないように守ってる。
人を嫌う自分を、自分が認めたくない。自分はそんな人間
だと思いたくない。

根は<嫌い>なのに、でも、その人のこんな良いところも
あるしい、と思っている自分がいると、自らを慰め、心で
うやむやにし、ごまかして安堵する。それを神様の前でやる。

醜いまま、汚れたまま、何もかも受け入れて下さっている
ことが、頭ではわかっているのに、神様の前で良い子であ
ろうとしている。

それに、認めてしまえば、終わりで、次にどうなるかがわ
かってる。自我を捨てて前進して行かねばならないことが
わかってる。神様は愛を与えて行って下さるのはわかる。
しかし、そうしたくない自分がいる。つまり愛したくない
のだ。<嫌い>なのだ。本当にごまかしている。


ある人が話してくれた。昔、クリスチャンだから、勿論、
将来は結婚ということを踏まえて、異性と交際をしていた。
主に在って、交際が互いを高め合うものであるようにとの
思いで、良いお付き合いをしていた。・・つもりだった。

ところが、長期休暇で、しばらく離れる時間を経た時に、
相手への思いが失せて、全く無くなってしまっていた。
自分でどうする事も出来ない。何がどうなったのかもわ
からない。
気持ちを自分でどうしようとしても、もう、どうにもな
らないので、その気持ちを正直に相手に告げた。
相手は受け止めてくれて、その交際は終わった。

自分も苦しみに苦しんで、自分の内で出口がなく、解決
がなかった。
冷静な時間を経てみると、本当の思いでなく、一時的な
感情の高まりであったことがわかった。本当に好きとい
うのではなかったことがわかった。

その時に、解決が無く、出口が無く苦しんだのは、自分
がそのような不誠実な人間であると、信じたくない、
絶対に認めたくなかったことにあった。

自分は男女交際に際しては、絶対に誠実で真実でありた
いと思っていたし、自分はそうだと信じていた。
しかし、結果的に不誠実、それが紛れもなく、自分であ
った。愕然とした。余りのショックで信じられなかった。
それを認めた時、問題が解けて、何もかもがわかった。

しばしば、問題の解決が無い、光が見えないのは、本当
の自分を認めようとしないから。何か薄々わかっていて
も、そうでない振りをしている。認めたくないから、突
きつめない。

自分がこんなだと、信じたくない、思いたくもない、本
当の自分がいる。
自分の弱さは見たくない。直視したくない。<出来ない>
でなく、そう<したくない>強情な自我。
自分はもっと良い人間のはず・・。こんなじゃない・・。

しかし、現実をしっかり直視し、向き合わない限り、
うやむやに、ごまかしている限り、何の解決も信仰
の進歩もない。そこで止まったまま・・。
by 多恵子